来たら広い部屋にグレードアップになってました。

今から食事に行きます。
来たら広い部屋にグレードアップになってました。
全国旅行支援が始まってすぐ予約した宿。
元々が安いのにさらに40%の割引、楽天トラベルではすぐに満室に。でも行ってみると空いていた。
どうやら直接宿に申し込んでもいいようです。旅行支援は来月20日まで(延長という話もあるけど都道府県によってまちまち?)らしいので、またどこかへ行ってみたいものです。
土曜日午後1時過ぎ自宅発。16時半ころ、ダム湖に面した宿に着きました。
部屋、広いです。
大勢で泊まらないときは、和洋室の和室って荷物置き場に便利。
翌朝早く起きたので、この部屋で本読んでました。
農業用水用のダム湖です。小学校の遠足で来たことがあります。
向かいも温泉宿らしい。
20年くらい前、実母と泊まったのはあの宿だったかな。部屋にいる母を残して散歩して帰ってみたら鍵も掛けずに部屋はもぬけの殻。宿の中を必死で探したら本人はのんびり湯船に浸かっていた。
不用心じゃないの
待っとる時間がもったいない思うて。
翌朝は早朝5時半にカジカ(かえる?)が啼いていると起こされた。
なんで起こすのよ怒
私もよっぽど起こすまいかと迷ったんやけど。
常に我が道を行く母。爾来、母との旅行ではなるだけ同室を避けるようになりました。あるいは和洋室など、複数の部屋のあるプランで。
旅行の大好きだった母、そんなに遠くへは行けなかったけど、父の死後、20年間、年に二回くらいは一緒に旅行したので楽しんでもらえたかもしれない。
宿の周りを歩きます。
宿を振り返ります。隣にもう一軒宿があります。
遊歩道の先にはバーベキュー広場などいろいろあります。
夏は賑わうことでしょう。
翌朝。
食事はとてもおいしく量もたくさん。お買い得です。高松市内から路線バスだと一時間くらい。あとはタクシーか巡回バスもあるようです。
静かな宿でした。
翌朝は道の駅で野菜と果物を買い、県境を越えて徳島県の脇町へ行きます。
道の駅に車を停めて町並みを散策します。
吉野川の水運を利用して、藍の集積、取り引きで栄えた街の面影が残っています。
屋根の上の袖壁がうだつ。立派な家の象徴で、うだつが上がるという言い方のもとになったそうです。
立派な家が続きます。
きょうはイベントもなくひっそりしています。
玄関だけ公開したお宅も。
再び香川県へ。
県境の山もそう高くなく、道もいろは坂みたいなことは全然なくて、楽なドライブです。
道がよくなって、あっという間に子供の頃の懐かしい場所に着きました。
山ばかりだったところに空港やゴルフ場が。もっと奥の枌所(しょぎしょ)にもゴルフ場が。そこは母の叔母がいた。子供のころはその話から、ものすごく田舎と思っていた。
母の実家は写真省略するとして・・・
敷地へ行くまではあぜ道通って最後は急な坂道を上がっていた。
法面にヤマザクラやムクノキがあった。
私が小学校一年までランプの生活。新聞はずっと下の家の軒下に新聞受けがあって学校帰りに従兄が持って帰っていた。井戸水に燃料は薪とこっくわ。こっくわとは松林の落ち葉。松葉に樫の枯葉などが混ざり、よく燃えた。いくらでもあったので、燃料も自給していた。
あれから半世紀以上。昔はバスの終点からの登りの山道がきつかったけど、今は車で何と言うこともなく。
「どんな田舎かと思っていたのに」と夫が言います。結婚して一度だけ行ったけど、もう忘れているらしい。
うどんは絶対に2杯は食べる。
夫がそういうので付き合います。香南楽湯近くの地元の方御用達の店で。
12時前、あっという間に店はお客さんで満杯。
こちら掛けうどん350円。安い。
坂出イオンで買い物して帰ります。
駅前でイベントしています。
郷土の実業家鎌田勝太郎が明治年間に作った別邸の庭。
今は当時の姿に復元されて無料で公開されている。
鎌田共済会、郷土博物館。大正11年建築の建物は初め私設の図書館、今は郷土史の資料を展示。
四谷シモン人形館。淡翁荘。
元は賓客をもてなすための迎賓館として建てられたとのこと。
人形の展示多数。見ごたえあり。
庭。
今の本業は醤油醸造業。
工場と製品の販売所。
讃岐うどん2杯目。坂出イオン北側で。400円。安い。
それにしても子供の頃よりうんとうどんが硬くなっている。
うどんに腰があるってよく言われるけど、昔はもっと食べやすかった気がする。
讃岐うどんと名乗るようになってから硬くなったように思う。
好みはいろいろですが、私はあまり硬いのは苦手です。
瀬戸大橋通って帰ります。
橋はデザインいろいろ。下はJRが通る。
紅葉らしい紅葉に出会わない旅でした。
やっと帰りのSAで。
クヌギ?
アラカシ?
秋深し。
庶民の旅は食べ物の買い出しいろいろ。
塩江の道の駅、野菜がどれもおいしかった。土がよくて夜間は寒くなるのでおいしいのでしょうか。
結局、宿泊料は二食付きで一人一万円もしなかった。ブームの去ったような温泉地でしたが、スタッフの皆さんはとても親切で、料理もよかったので山の中の宿で - 日記 (goo.ne.jp)、いい旅行になりました。
京セラ美術館から歩いて数分、みやこめっせに行きます。こちらは催し物のホールいろいろのほかに京都の伝統工芸の数々を展示しています。
たまに染色などのワークショップも。
建具などに使う竹のいろいろ。
機織り機。着物の幅なので狭いです。
途中で糸を継いでいるようにも見えます。
同じものを織る場合、新たに糸を立てず、それまでの糸に継ぎ足すと聞きました。
専門の人がいて、二人一組で織屋を廻って作業するそうです。
伝統産業は高度に分業が進んでもいる産業のようです。
筬目は並幅40㎝くらいに440。ということは1㎝で10本以上、一本の糸は1ミリ以下で織るようです。どうやって通すんでしょうか。
西陣の綴れ織りらしい。
帯に使う技法。柄だけ別の糸で織る。細かな作業です。
櫛で糸を寄せず、織る人の爪を櫛状に削ってその爪で糸を寄せるのが爪綴れ。
糸端は上に出し、常に裏を見ながら織ることになります。
字とか柄とか。
緯糸を通す道具。イギリス産業革命のとき、ケイと言う人が考案した飛び杼と同じ形。それが伝わったのか、あるいは世界各地で自然発生的に考案されたのかは知らないけど、たぶん伝わったのかな。
中学の社会科で「ケイのトビヒ」って習ったけど、先生もおそらく実物は知らなかったのでは。トビヒなら皮膚科担当。
染色の道具いろいろ
組みひも
帯締め
帯
帯地でインテリアに。
間仕切りの几帳。
漆器。棗らしい。向こうは何?
清水焼
和ろうそく
京仏壇
雅楽用の火炎太鼓に衣装
鎧はミニチュア
櫛くし、簪かんざし、笄こうがい、足袋
京人形。歌会の場面だそうです。
ひなにんぎょうのように結い上げて髪飾りつけない垂れ髪。
後ろの慳貪けんどん、硯箱に短冊入れと、人形は小物が大切。
料紙入れも漆に蒔絵。短冊持って、歌を考えている場面。
織物尽くしの屏風。
貝合わせとそれを納める貝桶。ハマグリの殻の二枚を別の容器に納めるので、貝桶は二個セットだそうです。
ひな人形の道具にもあります。こちらはうんと豪華。
いいものたくさん見せていただきました。見学は他に着物もいろいろあって、無料です。
昼ご飯は一階のレストランで。観光客が多くて気軽に入れる店でした。
何はともあれ座って一休み。
外の席もあります。
歩いて平安神宮へ。
こちらは明治時代に作られた神社。桓武天皇が祭神だったかな。
首都が東京に移り、京都の再開発として整備される。それまでは農村。
ここまで来るのは中学校の修学旅行以来。59年の月日が経っています。
京都近代日本庭園の創始者、七代目小川治兵衛作庭の庭も見るつもりでしたが、この裏全体に広がっているらしくて次の機会にしました。
再び歩いて地下鉄東山まで。
白川
路地を歩く。京都の人は道に要らんもの置かない。すっきりときれい。
川は確か北の松ヶ崎上水場へ向かって流れているんでしたったけ?いや逆だったかな。
三男が二年ほどその近くに住んでいた。地下鉄の松ヶ崎降りて上水場のフェンス沿いに歩いて尋ねて行った記憶が。
その部屋も自動車雑誌の取材を受けてDVDに登場していた。ものすごく散らかっていたけど、あれは演出と本人が言い訳。ホントかな。とってもリアルな散らかり方だったけど。
今は几帳面な嫁ちゃんにしつけられてとても几帳面な男となりました。めでたし、めでたし。
夫の土産に、和菓子を買うつもりで市役所前で降りる。
和菓子屋はないけど、本能寺にたどり着く。
本能寺の変の時は別の場所、秀吉が京都の大改造して今の場所に移る。
元はもっと大きな砦のような寺だったとのこと。
信長廟所
表門から寺町通へ。
鳩居堂。銀座にあるのは明治維新後の店。元はこちら。紙類いろいろ。
このあと季節の京野菜とり市老舗 という店で赤柴と半割大根の漬物を買う。
京都駅で買う土産物に比べて味が濃く、とてもおいしかった。
和菓子は残念でした。夕方だと売り切れている店も多いし、また今度。
朝、このあたり歩いたはず。
洋服屋さんが入っているらしい。あるいはレストラン?
疲れつつ、楽しい二日間でした。広島までは100分くらい。京都も昔に比べて近くなりました。
京都、京セラ美術館。平安神宮鳥居入って右側。大人1,700円。ペイペイで払う。
地下が入口。
天井は強化ガラスか何かにして光がいる。
ルーブルもピラミッド型の天窓があった記憶が。
解放感あり。展示はすべて撮影自由。といってもプロのような写真が撮れるわけではありません。
ルーブルも撮影は自由だった。とさりげなく旅行自慢深謝。
大きなパネル。期待が高まります。
ボテロはコロンビア人。現在90歳。
時代順、テーマ別に作品が並びます。
馬に乗る少女
バリエーカスの少年(ベラスケスにならって)
パイナップル
楽器
洋梨
果物のある静物
黄色の花 青の花
赤の花 (↑の二点とセット)
コロンビの聖母
ヴァチカンのバスルーム
キリスト
枢機卿
横顔の女
結婚したて
ピエロ・デラ・フランチェスカにならって(2点組)
モナ・リザの横顔。
作品はもっとたくさんありましたが、きれいに写せたのはこのくらいでした。
変容する名画のコーナー、ラテンアメリカの世界のいろいろな絵はふくよかに描くことで風刺が効いているように思いました。
私は、着衣のままバスタブに横たわるヴァチカンの偉いお坊様、信者の皆様には例が悪いのですが、オウムの故浅原のようなキリストにインパクトを受けました。
来月初めまでで、次は九州へ行くんでしょうか。未確認。
これからは慌てて京都へ行かずとも、九州が近い。
京都駅地下、千總の広告。
10年くらい前、千總のお茶会というのに参加した。着物着せてもらい、小さな博物館を見てお茶会。優美な催しでした。
着物は殆ど柄からのオーダーメイド、お店の人と相談しながら柄から決めるらしい。
今もそのお茶会があるかどうかは不明。コロナだからもうないかも。
烏丸御池で降りて三条通りを歩きます。
店のようですが、昔の店を再現した精巧な模型をショーウインドーの中に置いています。そしてその店には同じような模型が。遊び心ここにあり。
これは文化会館近くのカフェか何か。古い家をそのまま使っています。
こちら渡辺時計店の玄関周り。
朝家を出るとき寒かったので薄いダウンのジャケットで行ったら、昼間は死ぬほど暑かった。夜もそう寒くなかった。
ぶら下がっているのはカメラケース。
柚子味噌製造販売。
和菓子屋。
寿恵飛ろというのは店の名前らしい。
烏丸御池につながる商業施設で。
まだまだ青い。
バスには乗らないと堅く心に誓って、地下鉄東山から京セラ美術館を目指します。
途中に精麦所跡が。白川の水を工場の中に引いて水車で動かしていたそうです。
大鳥居が見えてきました。地下鉄降りて川沿いに行くと近道のようです。
京セラ美術館は改修して地下が入口。広いスロープで大勢の人を捌く工夫が。この日は人は少なめ。
ここではボテロ展を見ましたが、それはいずれまた。
いいお天気でいい旅行になりましたが、よく歩いて疲れました。
脱いだ服はリュックに入れて担ぐ。歩きの旅では荷物少なく、大きめのリュックで。
そして転ばないように気を付ける。歩いていると、ほんとに暑い京都でした。
最近は出歩いてばかりいるので、写真整理が追い付かず、話しがあちこち飛びますが、どうかお許しを。
11/20日曜日、雨の予報が見事に外れ、暑いほどの秋晴れです。
旅行支援で泊まった宿は、地図でよく見ると母の実家に近いので行くことにしました。
空港の南から高松方面へ向かいます。
懐かしの池が見えてきました。
向こうの堤の上を、いとこたち、弟たちと歩いて左方向にある別の親戚へよく遊びに行きました。ここはもう別の郡でした。今は郡ってあるのかしら?
堤は記憶では500mくらいもあったのですが、今見ると小さな池。
池の奥、今私が立つところは山で、その奥は未知の世界でしたが、今は道路が縦横に走り開けた場所になっています。
別の親戚は、空港の用地として山を売り、代金は現金で自宅へ銀行員が持って来たそうで。その頃は振り込みってなかったのでしょうか。40年以上前かな・・・うろ覚え。
家にお金がたくさんあるけん、先生見に来いって、孫が学校で自慢したと、母の姉(伯母)が笑っていた。
面白い伯母だった。法事で話を聞くのが楽しかった。私の性格はこの叔母に似ているかも。
笑うと細い目がますます細くなり、顔全体が平らに。邪心の全くない子供のような人だった。
さらに高松方面へ。
この道は昔はなかったので、ちょっとわかりにくかったけど・・・
向こうの池は昔のまま。昨夜、またまた腰が痛くなった夫は下の道で待っています。
石垣の上が母の実家です。
45年ぶりくらいでしょうか。すっかり変わってしまいました。
私をかわいがってくれた伯父夫婦はもういないので、この日は訪ねるのは遠慮しました。
でも家が見られてよかったです。
鶏小屋、藁ぶき屋根の母屋、納屋に牛小屋はなくなり、家が何棟も建っています。
亡くなった従兄が、会社を興し、議員もしていたので、その頃がいちばん人の出入りも多かったことでしょう。
その従兄もずいぶん前に亡くなりました。
裏山もとても深いと思っていたのに、あんなに低かったかしら?
とにかくこの付近は歩いて歩いて、みんなで遊んで遊んで、池でも泳いで、とっても楽しかった。
付近はみんな同じ苗字の家。
あの家の3つくらい年下のあけみちゃんとよく遊んだ。ツクシ取ったり、山を越えて遠くへ行ったり。
今はどこかでいいおばあちゃんになっていることでしょう。
高松市内からだと電車とバスを乗り継いで1時間、そこから山道を40分くらい歩いて行くのが母の実家。
先日は車であっという間に通りすぎるのでびっくり。
途中で休んだ大きなムクノキも消滅。
冬の夜、母と私達きょうだいを伯父がバス停まで自転車で迎えに来てくれたことがある。5人で暗い夜道を母の実家まで行きながら、伯父が自転車の灯がちょっとだけついているから道が分かると話していた。
我が実家へ来るときは背広に、足袋、下駄ばき、自転車で。豪放磊落な人だった。
祖父母が早くに亡くなっていたので、この伯父にはとてもよくしてもらった。
数年前まで、延々、秋にはカキが届いていた。
いろんなことを一度に思い出し、しみじみとする私。
それを見た夫が、自分も母親の実家を見に行きたいというので、今日はホテルを予約した。来年になりそうですが。
いよいよ、私たちも人生の終盤なんでしょうか。
11/15 11時前に修学院離宮へ着くも当日分の受付は終了。残念でした。
見るなと言われればよけい見たくなるけど、いずれまた。
以前行きそびれた圓光寺へ行くことにしました。詩仙堂方向です。
こちらは手前の西圓寺。こちらも紅葉がきれい。非公開のようです。
着きました。山すそにあります。紅葉期間は拝観料は千円。
玄関。
庭へ回ります。
本堂に上がります。
上げていただけるお寺が好きです。
靴を脱いで畳の上に座るとじっくり鑑賞できます。
秋。
モミジ、色づき始め。
燃える秋。
池
庭から本堂を見る。
燃える秋2
平日で人は少なめ。
圓光寺の寺宝としてパンフにあるのは
千手観音菩薩坐像 伝運慶作
圓光寺版木活字 重文 日本最古の木活字
紙本六曲一双屏風 雨竹風竹 重文 丸山応挙筆など。
観音像が未指定なのは鑑定していないからでしょうか。
圓光寺は隠れた名刹、古刹でした。
さらに詩仙堂方面へ。
金福寺は18歳の夏休み、毎日50円支払い、油絵の道具持ち込んで絵を描いていた。
花の生涯は第一回大河ドラマ。井伊直弼の愛人といわれる村山たかを描き、たかを淡島千景が演じていた。淡島は東京物語に原節子の友人として出演している。
村山たかと、広島で被爆し京都まで逃れて亡くなったマレーシア王族の墓も圓光寺にあるとのこと。
残念、見逃しました。また次の機会に。
いずれにせよ昔の話です。
白川通へ降りていきます。
叡電、修学院近くのカフェで遅い昼ご飯を。
野菜が農家直送らしくおいしかった。ずっと歩いてヘロヘロです。
コーヒーにスープもついて千円くらいだったと思う。
ここで嫁ちゃんからラインが。来春の家族合同旅行のあれこれを話し合う。
京都を旅行しているとつい言ってしまったのが家族ラインだったので、息子たちにも私が遊んでいるのがばれてしまった。
もう一歩も歩きたくないけど、再び桂離宮へと。
苛酷な京都旅でありました。
いつも拝見する方のブログで、桂離宮は当日見学もできると知り、京都に用事のあるついでに見ることにしました。
広島発6:26ののぞみに乗り、8:10頃京都着。八条口からタクシーに乗ったら線路くぐって七条通に出たので、次からは烏丸口へ出た方がいいのかも。
渋滞なく着いたのが8:40頃。
予約のある人の受付が始まっています。そうでない人はテントの所で受け付けてもらいます。すでに15人くらい並んでいます。
私は最終回15時からにしてとりあえず修学院離宮へ行くことに。これは新幹線の中で思いついたので、期待しない方がよさそうですが。
桂川沿いにバス停に回ります。歩いて数分程度。便数は多いです。京都駅までは20分くらい。
付近の案内図。阪急線は桂駅が最寄り。駅からバス路線もあるはずですが未確認。
市バス、地下鉄、烏丸今出川から出町柳まで再び市バス、続いて叡山電鉄で修学院まで。あとは歩いて修学院離宮まで。着いたのは11時前。11時から見学ですが本日分は既に終了。
残念。期待してなかったけど、行き方が分かったのでまたいつの日か。今度は予約していきましょう。
記憶を辿れば赤山禅院へ行った同じ道。あの時は東大路を通るバスに乗り、ものすごく混んでいて大変だった。紅葉のライトアップ期間で、人が多かった。
今回はそれに懲りて地下鉄に乗ったけど、階段が多くてこちらも大変。
都会の旅行は脚力必須。いつまで行けることやら。
午後、京都駅に戻り、再び桂離宮へ。
京セラ美術館で開催中。
と、ここまでは順調でしたが、気が付くとスマホがありません。
リュックや上着のポケット、いくら探しても見当たりません。
忘れた・・・!!!????
そのはずはないのですが、ないのは確か。
地下鉄の窓口へは直接、市バスの車庫、叡山電鉄には公衆電話から問い合わせても届いてないという。
いゃあ困った。スマホケースにはしっかり自宅番号、夫の仕事場の番号も書いているのでもしや連絡があったかもと電話すると、昼休み中のスタッフが出て、夫はバイトで不在。連絡もない模様。
いゃあ、ほんとにどこでどうなったのか・・・・と泣きそうで、もう何度も探ったリュッにもう一度手を入れてあちこちつまんでみると、ありました。
違うポケットの底の底に潜り込んでいて見えなかったのです。入れたのはこの私。
最近、注意力、記憶力が落ちているのは自覚していたけどこんな失敗するとは。
ほんとに情けない。でもまあ出てきたし、気を取り直して桂離宮へ。
15時スタートに何とか間に合いました。8人が前後を係の方に案内されての一時間のツアーでした。
正門を内側から見る。
皇族や外国の賓客専用の門だそうです。向こうを狭くして遠近感を出しているそうです。
この門をくぐって園内に。
柱はアベマキの皮つき。自然らしさを表現しているそうです。
向こうは工事中の建物。
木を植え、池を作り、自然の景色を造形しています。
好天でいい写真が取れました。
どこから見ても景色になっている。
手すりがないので、橋の上で写真撮らないようにと注意されます。
庭を見る。
茶室はいろいろあってその一つ。襖があまりに有名。東京オリンピックのマークもこちらのイメージだそうで。
西側から。
建物は毎日開けると傷まない。
風通しのいい日本家屋。
反対側の池。
歩くところは狭くて一人ずつ。
敷石は造営した何とかの宮(八条の宮?)自らが選び、配置も考えたそうで。石の種類いろいろ、摩擦係数も各種。足を置くのに気を使う。苔も踏むのは禁止。厳しい掟の桂離宮です。文化財を守るための気迫がひしひしと。
11/15 紅葉は半分くらい。今はもっときれいでしょう。
壁の芯になる竹をわざと残した窓。風流。
障子戸の下には南蛮渡来のビロードが貼ってるそうで。豊臣氏の献上品だとか。
秀頼?
秀頼は豊臣家の生き残りのため、あちこちへ献上したり、幕府に言われて大きな寺社の再建したりとお金をたくさん使っています。でも、家はついに断絶。秀吉正妻ねねの兄が九州の大名になって、それが唯一の豊臣の系統となっているらしい。
さっきの茶室を振り返る。
だいぶ歩いてきました。
だいぶ日も傾いてきました。
この付近はマツが多い。
素朴な造り。
今風の数寄屋造りではなく、もっと質素。
子供のころ、我が近所や我が家含めて、こんな作りだった。夜は雨戸を閉めるけど、面倒で締めないこともあった。鍵もなし。
そういえば、私の子供のころ、実家は玄関のかぎを掛けたことがなかった。
納屋と母屋が奥で繋がっていたので、玄関だけ掛けても意味ないし。どこの家も戸締りはしてなかったと思う。
日本の原風景。漆や金彩などが一切ないのも目に優しくよかった。
一時間ほどの見学で京都駅に戻り、送迎バスでホテルまで。
京都駅南。地下鉄では十条最寄り。
京都タワーが見えます。作った時はデザインがどうこうと賛否いろいろありましたが、今では立派なランドマークに。
翌朝。比叡山と京都タワー。
愛宕山と京都タワー。
久しぶりの京都一人旅でした。
体力、記憶力、判断力、いずれも落ちていることを実感。
でもまあ、歩けるうちはまた行きたいものです。
部屋は広く料理は充分。
さて11/16、待ち合わせの時間まで京都の三条通りを歩きます。
旧東海道。烏丸通と交差する場所に道路元標があります。ここが昔の京都の中心。
向かいにみずほ銀行京都支店が。
これは元の形に似せて再建されたと聞きましたが。
以前は後ろにあんなビルなかった気がします。みずほ銀行にデザインを合わせています。
中京郵便局は外側はそのまま残し、中を工事し直したそうで、建築当時の面影が残っているのではないでしょうか。
ファサード。おしゃれな仕上げ。
京都市文化博物館。元は確か日銀京都支店。東京駅を設計した辰野金吾の作だったと思います。(未確認)
重厚です。
重厚ですが、建物の高さや手前の空間と、玄関とのバランスがよくないように思います。
日本が、頑張って西欧諸国に追いつこうとした時代の名残をとどめています。
三条通は元の街道なので道幅が狭い。引いて写真撮るのが難しいです。
赤はレンガ、白は花崗岩? 躯体は何でしょうか。
こちらは少し時代が下がるのでしょうか。
お洒落で軽快。
おっと傾いてしまった。
個人所有の建物のようです。今は貸しビル?
ショーウィンドウ、明り取りの窓のデザインが和風。
西洋建築の日本的解釈とみられなくもありません。
頑張って近代化していたころの面影があるようです。
こちら烏丸御池角の建物。分離派風。昭和時代?元は何だったかな・・・・後で調べます。
今は複合商業施設、地下鉄駅ともつながっています。
そろそろ約束の時間なので、待ち合わせの場所へ行くことにしました。
戦災に合わなかった京都市の中心部は、近代建築がよく残っているそうです。むしろそれが京都的かも。
京都で「先の戦争」と言えば蛤御門の変だそうで、市街地の大半が焼け、今、京都的と思われているのは戦後の観光ブーム以後のアイテムだそうです。
息子が京都に遊学していた20年くらい前はよくこの付近も歩きましたが、今は体力の衰え、いかんともしがたし。
昔感動した御幸町通の田中屋旅館もすでに廃業。街にも自分にも、時間は過ぎに過ぎていくのでありました。