先月、広島アンデルセンで。
昨日、旧友と偶然出会ったのは、旧友の仕事場に来る業者さんの手違いで会場に来るのが遅れたことが原因。それともう一つの手違いも幸いしました。
それは、作品のキャプションに書かれた私の名前が間違っていたこと。友達は私の名前がないので受付で聞いていて、そこへ偶然私が居合わせたのです。もし何事もなかったら、お互いのあまりの変わりように、すぐそばでも気が付かなかったと思う。
もし二つの間違いがなければ、もう70代ですからこの世で会うこともなかったかも。神様か、仏様か、何か人智を越えた大きな力に導かれたのかなあと、不思議な気がします。
もちろん連絡とればいいのですが、今の絶妙な距離感が心地いいのです。親しいけれど親しくない。親しくないけど、会えば昔に戻れる。そんな関係。
昨日のことをきっかけに旧友についてはいろいろなことを思い出すのですが、記憶もあいまいなので間違っていることもあるかもしれません。迷惑にならない程度に書いてみます。
2学期の終業式を終えると、どのクラスもクリスマス会を開いていた。
会費集めてお菓子とジュース買い、教室で余興するというたわいもないものですが、気配りと仕切りの達人が我がクラスにはいて、それは見事な采配ぶりでした。一緒に旅行栞つくったもう一人の男の子です。
全員にほぼ均等に役割分担、全員に余興をしてもらう。準備に1時間くらい、会は2時間くらいかけたでしょうか。
あーーーん、私ったら、なんでこんな地味なクリスマス会、憶えているんでしょう。
それはその後の人生が地味で質素なことと対応しているのかもしれません。ほぼ専業主婦、夫の仕事を支えて、決して主役になることはなくこの年まで来ました。平穏だったことに感謝しないといけないのですが、子供たちの小さなころは夫もまた仕事が忙しく、家に全然いない人でしたので、都会に出た友達、地方にいても仕事をしている人がとても輝いて見えたのです。
話がそれました。
みんなでせっせと準備しているのに、昨日の友達、なぜかよそのクラスで手伝っています。見とがめたのは私だったかも。
彼曰く「働かされている」って・・・・????
何か品物を貰うか借りるかして、その代償にただ働きさせられていた模様。うーーーん、違っていたかもしれないけど、記憶はあいまい。
淡々とよそのクラスで準備しているのが、今考えてもおかしい。
クリスマス会に必須のクリスマスツリーは、クラスメイトの一人が「家の山で切って来た」という木で。
もちろんモミの木ならいいのですが、南国四国にはそんな気の利いたものは自生していないのでモドラの木で。
モドラ、モドラって何?
それはこちらです。
モドラの自生する様子が分かります。乾燥気味の日当たりのいい場所に生えます。ネズ、ネズミサシとも言います。葉先が鋭く尖っていてとても痛い。でも樹形はモミの木に似てなくもない。それで我が実家地方ではクリスマスツリーによくしていました。
木は2本あって、余ったのは持参した男の子が廊下を引いて歩き、行商していた。多分よそのクラスに売れたのではないかと思う。
教室に備え付けた1本には、男の子が「お母さんに貰った」脱脂綿を薄く剥いで載せていましたが、その矩形の綿を顔色変えて取っていたのは女の子。男の子はきょとんとしていました。
私たち世代から上の女性なら、それが何に使うものか思い出せるのではないでしょうか。昔の生理用品の脱脂綿は、紙で包装して薬局で売っていました。その形のままだったので、さらにちぎってモドラの木に載せる私たち。
三学期には、担任の先生が「学級活動」の内容を毎週考えたくなかったのか、クラスをいくつかの班に分けて個別に活動させる・・・要するに遊ばせいてました。何していたのかなあ。私が持って行った百人一首をした記憶はある。
それと廻しノート。毎日順番で持ち帰り、思うことを書き連ねる。今ならラインのグルーブといったところでしょうか。
ずっと後、4年くらい経って、京都の、昨日再会した旧友の下宿へ遊びに行くとその時のノートを2冊くらい大切に持っていた。友情を大切にする人でした。さすがに今はもう持ってないと思いますが。
その頃になると、お互いの恋愛の相談もして、まあ聞いてあげる、聞いてもらうだけですが、高校生も少しずつ大人になって行くのでした。
私はかの学校で、容姿も学力も並みだったので華やかなことは何もなかったのですが、放課後もよく教室に残って、勉強と称して遊んでいた。同好の士が、男女ともに自然に集まり、たまには若い担任の先生も通り掛かって話に加わったりして、毎日楽しく過ごしました。
楽しさのあとには苦しみが待っている。3年生になってからの受験勉強には苦労しましたが、でもその都度、人生は楽しいこともしないとね。