「幸せになるには必ずなにかがな
くてはいけなくて、それがあるか
ら幸せなのだ。つまり、外界から
に依存した感情だ。
喜びにはそんなものはいらない。
目に見える理由がなにひとつなく
てもわたしたちをつつみ、まるで
太陽みたいに、自分自身の核を燃
やしながら燃えつづける」
幸せと喜びとの違い。幸せには
「○○だから」というような、
ある程度客観的な理由が存在し、
他人もそういうものさしで人の
幸せを見ている。
が、喜びというのは、人それぞれ
で、何をもって喜びとするか、ど
ういうときに喜びを感じるか、に
客観的な理由というのは存在しな
い。
せつなさと淋しさとの違い。これも
また、幸せと喜びとの違いに似てい
るような気がする。
淋しさには、客観的な理由がある。
この人は淋しそうだなあと、他人
でも想像がつく。でも、せつなさ
は人はそれぞれだ。
そして幸せよりも喜びを――
と同じように考えると、淋しさ
よりせつなさを、たくさん感じる
ことのできる恋愛のほうが、より
素敵かもしれない。
たとえばクリスマスイブに、何ら
かの理由で恋人に会えない場合。
淋しさではなく、せつなさ感じる
恋を、私はしたいと思う。
淋しさというのは、他人の目を
気にしたり、自分を中心にして
生まれる感情だろう。みんなは
デートしているのに、とか。
でも、せつなさは、違う。会え
なくても、相手のことを思うから
こそ、生まれる感情だ。
“せつなさと淋しさの違い問う
きみに口づけをせり これはせつなさ“
人間は誰でも、いくつも欠点
を持っているし、コンプレッ
クスも悩みもある。
自分には才能や感受性がない
からとあきらめるのではなく、
心をきちんと持って肥料をや
って育てていければどんどん
成長していくものである。
生まれつきの才能はもちろん
あるだろうけれども、そういう
ものは放っておけばなくなる。
才能ある人でも、心をかけて
自分を一生懸命に磨き上げる
からこそ、いい仕事を残す
のである。
さして才能がないから自分は
駄目だと放り出すよりも、自
分を大事にして心を持ち続け
ることが大切であると作家の
辻邦生さんは語る。
本を書くにしても、人はたい
へんなことと思うかかもしれ
ませんが、人より少し早く
起きて、
出かけるまでに五ページなり
十ページを書くだけでいい。
ただ毎日続けていると、ある
日気がつくと何百ページに
なっているだけのことです。
毎日やることだけきちんと
やっていれば、自然と仕事
はでき上がっていきます。
これは何でも同じで、「~
がない」と嘆いたりする
ことなく、毎日きちんと
心に決めたことをじっと
やり続ければ成果は自然
とついてきます。
常識にはない斬新な発想や
アイデアで行動する人や、
脇目をふらずにひとつのこ
とに打ち込んでいる人。
彼らは学校や仕事場でも
周囲から浮き上がっている
ため、
ときに奇異な目で見られた
り、仲間はずれにされたり
することもあるようです。
しかしたとえば、地球は回
っていると主張したガリレオ
・ガリレイも、人間初の動力
飛行機を飛ばしたライト兄弟
も、
当時は周囲の人々の多くから
“変人”だと思われながらも、
自分を信じ続けることで偉業
を達成しました。
SONYのウオークマン一号機
は再生のみで録音はできません。
社内の猛反対の中、井深会長の
判断で世に出ました。
人とは違う自分の持ち味を知り、
それを伸ばして、能力や魅力へ
と転換する。
さらには周囲の人たちもその
人の個性を尊重し、応援する。
あらゆる分野で行き詰まった
ように見える現代の日本社会。
この現状を考えることができ
るのは、
才能豊かな実行力のある変
わり者たちかもしれません。
その声は、穏やかな
やさしい声だった
あなたの部屋へ電話したら、
その人がでたわ
その人は、一瞬声を
詰まらせた後、
落ち着いて あなたの
名字を告げた。
わたしは、間違えたフリをして
受話器を悲しく置いたの・・・
あなたの部屋に、あなたの名を
かわりに答える人がいた。
BGMのシャワーの音が、
悲しかった。
◆マンネリの到来
「マンネリかな?」と思った
ときが、マンネリの始まりで
ある。
◆必死の抵抗
1、なにをしても退屈。
2、なにもしなければもっと
退屈。
◆優先順位の力学
デート中、相手が携帯電話に
出るようになったり、ゲーム
をし始めたら、別れが近い。
◆聞きもしないのに、「友だ
ちからだよ」などと言い訳を
するときは、相手は新しい
カレか彼女である。
◆マンネリの保険
イベントが終わるまで、相手か
ら電話がかかってきたら、とり
あえず「今電話しようと思って
たんだ」と言っておく。
ブログ:活字ばなれは
起きていない】
新聞社の世論調査の数字や全国
の調査結果をあげるなら「読書
ばなれ」は、起きていない、
読書率のグラフを見る限り、確か
にここ30年、書籍は減っていな
いし、小中学生の平均読書冊数は
ここ20年間、上昇カーブを描い
ている。
読者が以前より新刊書店で本を
買わなくなったからだ。
本に接している場所は、古本
を大量にそろえる「ブックオフ」
であり、インターネットで本を
注文する「アマゾン」だ。
本は、所有するものから「情報
を消費する」価値観に変わった
のだ。
ビジネスの本質は(他社と)同
質化すれば死んでいく、異質化
すれば、失敗する、というジレン
マの中でいかに異質化しつつ成功
する例外的出口を見出すかだ。
他人と比較することによって、
恋を浮かびあがらせることも
できる
ラブレターで大切なことは、人
真似をしないことだ。
下手でもいいから、自分だけの
オリジナル作品を作るよにしな
ければならない。
けれども、恋する人に自分を
見てしまうことはある。
『友達のサチコに好きな人が
できました。彼の話ばかりして
います。興奮して話す彼女を見て
いるとき、「だれかに似ている」と、
思いました。
だれかなと考えているうちに、
あなたの話をしているときの
自分だと気がつきました』。
【人を批評すれば自分も批評され、
人を裁けば自分も
裁か れる】
もしかしたらあなたは家族
や友人、知人、同僚や上司
を批評し、なされるべきここ
ととなされてはならないこと
とを断罪しているかもしれな
い。
もしそれであなたが苛立ちや
不満を発散し笑顔になるのな
ら、それはそれで良いと思う。
でも、ひとつ忘れてはならない
のは、
私たちの五感を通して見ている
それらは、すべて自分の存在の
奥深くに隠されている別の
私たちが映し出されているのだ
ということを。
私たちの誰かに対する苛立ちは、
あなたのなかで統合を持っている
別のあなた自身の悲鳴ではない
だろうか。
『人生は、スイカと同じ。
涙のひと粒が、人生を
甘くする』
スイカに塩をちゃっと
かけることで、スイカの甘さ
が倍増します。
おしること一緒に塩コンブ
をつまむことで、ますます
おいしくなる。
人生の甘さを味わうために
も、ちょっとした人生の塩味
が必要なのです。
ほんとよ。
「一度もないの?
奥さんのいる人を好きに
なったことは」
うん、一度もないの。
と、わたしは嘘をつく。あまり
上等とは言えないかもしれない
嘘を。
彼女に対して?自分に対して?
いいえ、その両方に対して。
シーツとシーツのあいだに、
とどめておかなくてはなら
ない。
そこで見た夢、聞いた話、
そこで感じた幸福、そこで得た
すべてのことは、それ以外では
色を失い、命を失う。
【女性の視線】
女性のほうが話し相手と
視線を合わせることが多い
のは、女性は他の人を求め、
いっしょにいたいと思う欲求
(親和欲求)が高く、支配欲求
が高く、支配欲求が低いためだ
といわれている。
『間違った結婚』
現代の結婚には二つの重大な誤り
がある。一つは似た者どうしの
結婚であり、
そして他方は、自分のパーソナリ
ティを埋め合わせる配偶者との
結婚である』。
―イギリスの心理学者 ―
アイゼンク
「不透明なこれからの時代を
力強く生きていくには、五感
が敏感で、それでいて
コンピューターもジェット機
も自ら操れる、いわば知的
な野蛮人であることが必要
だ」とある人物が語っていま
した。
さて、「百聞は一見にしかず」
と昔から言いますが、ルソー
はこんな言葉を残しています。
「視覚は、五感のうちでいち
ばん当てにならず、間違い
やすいものだ。
たとえば、人間は一目で
地平線の半分を見渡せる。
このように、視覚の作用は
あまりにも早くかつ広大で、
他の感覚によって修正する
ことができない。だから、目
だけで事物を判断すると
必ず間違う」と。
視覚による早とちりな判断
を正すには、五感のうち
最も鈍感だが、最も判断
が正確で確実な触覚と
組み合わせるのがよい
そうです。
技師や測量士、建築家、
大工、画家など手を使う
人が、一般の人よりは
るかに的確に一目で
空間の大きさを見積もる
ことができるのは、その
ためだと言います。
視覚や聴覚だけでなく、
味覚、聴覚、触覚も
働かせて正しい判断を
したいものです。
エリザベステイラーは、八回
結婚しているが、男にこり
たというような発言はしない。
相手が十歳も年下であろう
と、たとえ結婚している男で
あろうと、
好きよとなったら、たとえ奪い
とっても、自分のものにした。
彼女ほど美人ではないけれど、
そして彼女ほどにお金持ちで
はなかったかもしれないが、
ココ・シャネルという女性は
八十幾つまで生きて、直前まで
男に恋をしていた。
エリザベス・テイラーは、恋をす
ると、結婚というかたちでそれを
成就し、結婚生活の中でそれを
燃え尽くし、すりへらしてしまった
が、ココ・シャネルは生涯一度も
結婚しなかった。
恋だけをしてきたのである。
70を過ぎた女が、と世間の
ひんしゅくをかうかもしれないが、
たとえ80になろうと90になろう
と、女はオンナなのである。
暮れも押し迫ってきた。
12月13日は“事始め”、
老舗旅館俵屋では餅をつき、
桃色と白の餅花を、50本の
柳につける。
これを従業員全員で行う。
無病息災を願いながら、一見
古めかしい心の結晶が、やがて
氷の結晶という幻想的な花傘と
して開花する・・・・・
やがて玄関に餅花が飾られる。
私は、紅白の餅を飾るのはいか
にも京都らしい習慣だと思った
が、京都にはもともとこんな習
慣はなかったそうだ。
商社勤務の頃、染め依頼で長年
京都に通っていたが、俵屋オリ
ジナルの発想だそうだ。
約三十年前、東北地方で一月
十五日に行われる、農耕の栄を
祝う花正月という風習からヒン
トを得て発案し、それを「俵屋」
の正月に取り入れた。
独自のアイデアだったのだ。
いまや、京都の料亭の初春を
飾るしつらいとして定着してい
る観のある餅花は、それまでの
京都には影もかたちもなかった
といいうのである。
つまり、「俵屋」が京都における
餅花飾りの元祖というわけだ。
おそらく、餅花飾りにごく自然
に京の正月らしい雰囲気を感じ
るのは、私だけではあるまい。
その当たり前と感じるほどに
普及している“京の美”が、
実は「俵屋」さんの独創性に
よる産物だ。
伝統と新しさを柔軟に取り入
れる魅力を京都に感じた。