とうやのひとり言

佐藤とうや ブログ

沖永良部島に南洲翁を訪ねて

2013年12月27日 | インポート

Dsc00145 南洲神社は酒田市の飯盛山にもある。南洲遺訓を勉強する南洲会が活発な活動今も続けている。山形県と鹿児島県は南洲翁を縁として交流活動が始まって3年になる。4年前、当時議長だった佐貝全健県会議員が、庄内松ヶ岡で勉強されたこともあり鹿児島県議会に働きかけた事に由来する。今回の県議団の鹿児島訪問でその輪は一段と広がった。
 そもそも庄内藩は明治維新の当時まで会津藩と共に熱烈な佐幕藩で、徳川のために最後まで忠義立てした藩である。越後から東北、北海道を平定しようとした明治元年の戊辰戦争で、官軍の総大将は西郷隆盛であった。その西郷が庄内藩に寛大なる措置をとり、誠意溢れる人柄に庄内藩士に深い感動を与えた。
 明治3年、庄内の藩公酒井忠篤と藩士70人は、鹿児島に西郷隆盛を訪ねて百日余りの間、南洲翁の教訓と兵学を修め、明治8年には藩の重臣菅実秀が8人の青年を引き連れて南洲翁に21日間にわたり教え受けた。南洲翁が私学を開校するや、入学を熱望する二人に、「他県の人には応じ難いが貴県は特別である」とし、許可された。
 南洲翁の教えを受けた庄内藩士や青年たちの手記を集めて出版されたのが「南洲翁遺訓」として後世に受け継ぐことになる。
 幕府の追及を恐れた島津藩は、西郷を幕府の目から隠すため役職を免じ奄美大島に潜居させ、島の子供3人の教育を依頼した。その後役職に復帰するも、藩主久光の命に背き徳之島に流され家財没収となり、間もなく沖永良部島に送られ牢獄に入れられることになる。
 挫折を味わった西郷は、次第に悟りの境地に入り、島民からも慕われ、有名な「敬天愛人」の言葉を残すことになる。南洲遺訓の原点である。西郷の活躍が庄内にも色濃く投影することになる。

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