木曜日 燃えている
もく もく もく もく 燃えている
火事だ 火事だ 山火事だ
火事だ 火事だ 山火事だ
この頃、精神面でも上向きになれなくって、一段と堀り下げてしまっていて・・でも、そういう時を活用して、静かに調べ物をしています。
今の研究課題は「ふだらく」です。
この「ふだらく」というものは、全国的にはご詠歌(ごえいか)という名称で、仏教の教えを五・七・五・七・七の和歌と成し、旋律=曲に乗せて唱えるものなのだそうです。
日本仏教において平安時代より伝わる宗教的伝統芸能の一つで、五七調あるいは七五調の詞に曲をつけたものを『和讃』(わさん)と呼び、広い意味では両者を併せて『ご詠歌』として扱うらしいのですが、学術的見地がない私としては、生まれ育った地域での昔からの習慣・・としか思うことができません。
起源としては、花山法皇の西国巡礼時に始まったとされているのが一般的なようですが、観音三十三所諺中(?)が最初とするのも有力な説だそうです。
一般的には「御詠歌」とよばれているそうなのですが、地域ごとに言葉尻に微妙な違いがあって、その節回しも、ちょっとずつ違いがあります。口伝ものなのですから、方言と同じで、これは、致し方無いものなのでしょう。
しかし、現代では、印刷物が葬祭業者から出回り、その内容=文体は全国統一が進みつつあるようです。
この写し本は、昔から亡くなった方をおもい、手書きで、物故者のために一冊を写し、そのまとめてある箱に足して戻します。
一晩で仕上げる方もいらして、美しい文字で仕上げられていると、つぎの日の目を見た時に、引っ張りだこになります。
その文字がいくら達筆でも、読みにくいものは除外されて、元の箱に戻され、誰にも使ってもらえない物になる危険性があるので、みんな、ていねいに書いたものでした。
ただし、そういう美しくて、読みやすいものほど、みんなに使われるので、消耗が激しくって、いたみやすく、廃棄処分になりやすいという欠点があります。
私の時には、一冊を毛筆で仕上げようとすると、集中力がもたなくって、数日にわたってしまいました。
また、その文字がいくら達筆でも、読みにくいものは除外されて、元の箱に戻され、誰にも使ってもらえない物になる危険性があるので、みんな、ていねいに書いたものでした。
ただし、そういう美しくて、読みやすいものほど、みんなに使われるので、消耗が激しくって、いたみやすく、廃棄処分になりやすいという欠点があります。
年々、手抜きの業者版は、髪質や閉じ方が昔とは異なるので、使いにくい気がするのは・・・私の偏見でしょうか?
西国三十三箇所 御詠歌・・・うちの地域での習慣としては、番号と、お寺の名の間に「○○の国」というセリフが入っているはずなので、確認しようと思ったのですが・・自分が写した時の版下みたいに自分で練習したもの=控えの和綴本が、これも、私の手元に一冊・残っているはずなのですが・・「探している時」には見えない・みつからないものなんですね。
第1番 青岸渡寺(那智山 青岸渡寺)
補陀落や 岸打つ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬
ふだらくや きしうつなみは みくまのの なちのおやまに ひびくたきつせ
第2番 紀三井寺(紀三井山 金剛宝寺)
ふるさとを はるばるここに 紀三井寺 花の都も 近くなるらん
ふるさとを はるばるここに きみいでら はなのみやこも ちかくなるらん
第3番 粉河寺(風猛山 粉河寺)
父母の 恵みも深き 粉河寺 ほとけの誓い たのもしの身や
ちちははの めぐみもふかき こかわでら ほとけのちかい たのもしのみや
第4番 施福寺(槇尾山 施福山)
深山路や 檜原松原 わけ行けば 槇の尾寺に 駒ぞいさめる
みやまじや ひばらまつばら わけゆけば まきのおてらに こまぞいさめる
第5番 葛井寺(紫雲山 葛井寺)
参るより 頼みをかくる 葛井寺 花の台に 紫の雲
まいるより たのみをかくる ふじいでら はなのうてなに むらさきのくも
第6番 壺坂寺(壺坂山 南法華寺)
岩をたて 水をたたえて 壺坂の 庭の苔も 浄土なるらん
いわをたて みずをたたえて つぼさかの にわのいさごも じょうどなるらん
第7番 岡寺(東光山 竜蓋寺 岡寺)
けさ見れば 露おか寺の 庭の苔 さながら瑠璃の 光なりけり
けさみれば つゆおかでらの にわのこけ さながらるりの ひかりなりけり
第8番 長谷寺(豊山 長谷寺)
いくたびも 参る心は 初瀬寺 山も誓いも 深き谷川
いくたびも まいるこころは はつせでら やまもちかいも ふかきたにがわ
第9番 南円寺(興福寺 南円堂)
春の日は 南円堂に かかやきて 三笠の山に 晴るるうす雲
はるのひは なんえんどうに かかやきて みかさのやまに はるるうすぐも
第10番 三室寺(明星山 三室戸寺)
夜もすがら 月を三室戸 わけゆけば 宇治の川瀬に 立つは白波
よもすがら つきをみむろど わけゆけば うじのかわせに たつはしらなみ
第11番 上醍醐寺(深雪山 上醍醐寺)
逆縁も もらさで救う 願慣れば 巡礼(推胝)堂は たのもしきかな
ぎゃくゑんも もらさですくう がんなれば じゅんれいどうは たのもしきかな
第12番 岩間寺(岩間山 正法寺)
みなかみは いずくなるらん 岩間寺 岸うつ波は 松風の音
みなかみは いずくなるらん いわまでら きしうつなみは まつかぜのおと
第13番 石山寺(石光山 石山寺)
後の世を 願う心は かろくとも 仏のちかい おもき石山
のちのよを ねがうこころは かろくとも ほとけのちかい おもきいしやま
第14番 三井寺(長等山 三井寺)
いでいるや 波間の月を 三井寺の 鐘のひびきに あくる湖
いでいるや なみまのつきを みいでらの かねのひびきに あくるみずうみ
第15番 今熊野観音寺(新那智山 観音寺)
昔より 立つとも知らぬ 今熊野 仏の誓い あらたりけり
むかしより たつともしらぬ いまぐまの ほとけのちかい あらたりけり
第16番 清水寺(音羽山 清水寺)
松風や 音羽の滝の 清水を むすぶ心は 涼しかるらん
まつかぜや おとはのたきの きよみづを むすぶこころは すずしかるらん
第17番 六波羅蜜寺(補陀落山 六波羅蜜寺)
重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅道へ 参る身なれば
おもくとも いつつのつみは よもあらじ ろくはらどうへ まいるみなれば
第18番 六角堂(紫雲山 六角堂頂法寺)
わが思う 心のうちは 六つの角 ただ円かれと 祈るなりけり
わがおもう こころのうちは むつのかど ただまろかれと いのるなりけり
第19番 革堂(麗麓山 一條革堂行願寺)
花を見て いまは望みも 香(革)堂の 庭の千草も 盛りなるらん
はなをみて いまはのぞみも かうどうの にはのちぐさも さかりなるらん
第20番 善峰寺(西山 善峰寺)
野をもすぎ 山路に向かう 雨の空 吉峰よりも 晴るる夕立
のをもすぎ やまぢにむかう あめのくも よしみねよりも はるるゆうだち
第21番 穴太寺(菩提山 穴太寺)
かかる世に 生まれあう身の あな憂やと 思わで頼め 十声一声
かかるよに うまれあうみの あなうやと おもわでたのめ とこゑひとこゑ
第22番 総持寺(補陀落山 総持寺)
おしなべて 老いも若きも 総持寺の 仏の誓ひ 頼まぬはなし
おしなべて おいもわかきも そうじじの ほとけのちかひ たのまぬはなし
第23番 勝尾寺(応頂山 勝尾寺)
重くとも 罪には法の 勝尾寺 仏を頼む 身こそやすけれ
おもくとも つみにはのりの かちおでら ほとけをたのむ みこそやすけれ
第24番 中山寺(紫雲山 中山寺)
野をも過ぎ 里をも行きて 中山の 寺へ参るは 後の世のため
のをもすぎ さとをもゆきて なかやまの てらへまいるは のちのよのため
第25番 清水寺(御嶽山 清水寺)
あわれみや 普き門の 品々に なにおか波の ここに清水
あわれみや あまねきかどの しなじなに なにおかなみの ここにきよみづ
第26番 一乗寺(法華山 一乗寺)
春は花 夏は立花(橘) 秋は菊 いつも妙なる 法の華山
はるははな なつはたちばな あきはきく いつもたえなる のりのはなやま
第27番 円教寺(書写山 円教寺)
はるばると 登れば書写の 山おろし 松のひびきも 御法なるらん
はるばると のぼればしょしゃの やまおろし まつのひびきも みのりなるらん
第28番 成相寺(成相山 成相寺)
松の音 松のひびきも 成相の 風吹きわたす 天の橋立
まつのおと まつのひびきも なりあいの かぜふきわたす あまのはしだて
第29番 松尾寺(青葉山 松尾寺)
そのかみは 幾世へぬらん 便りをば 千歳もここに 松の尾の寺
そのかみは いくよへぬらん たよりをば ちとせもここに まつのをのてら
第30番 宝厳寺(厳金山 宝厳寺)
月も日も 波間に浮かぶ 竹生島 船に宝を 積むここちして
つきもひも なみまにうかぶ ちくぶじま ふねにたからを つむここちして
第31番 長命寺(姨綺耶山 長命寺)
八千年や 柳に長き 命寺 運ぶ歩みの かざしなるらん
やちとせや やなぎにながき いのちでら はこぶあゆみの かざしなるらん
第32番 観音正寺(織山 観音正寺)
あなとうと 導きたまえ 観音寺 遠き国より 運ぶ歩みを
あなとうと みちびきたまえ かんのんじ とおきくにより はこぶあゆみを
第33番 谷汲山(1 谷汲山 華厳寺 満願堂)過去をあらわす
よろず世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出づる谷汲
よろずよの ねがいをここに おさめおく みずはこけより いづるたにぐみ
第33番 谷汲山(2 谷汲山 華厳寺 大悲堂)現在をあらわす
世を照らす 仏のしるし ありければ まだともし火は 消えぬなりけり
よをてらす ほとけのしるし ありければ まだともしびは きえぬなりけり
第33番 谷汲山(3 谷汲山 華厳寺 笈摺堂)未来をあらわす
今までは 親とたのみし 笈摺を 脱ぎて納むる 美濃の谷汲
いままでは おやとたのみし おひづるを ぬぎておさむる みののたにぐみ
(三回繰り返す)
身はここに 心は信濃の 善光寺 導きたまえ 弥陀の浄土に(へ)
みはここに こころはしなのの ぜんこうじ みちびきたまえ みだのじょうどへ
番外 花山院(東光山 花山院)
有馬富士 ふもとの霧は 海に似て 波かときけば 小野の松風
ありまふじ ふもとのきりは うみににて なみかときけば おののまつかぜ
番外 法起院(豊山 法起院)
極楽は よそにはあらじ 我が心 おなじはちすの へだてやはある
ごくらくは よそにはあらじ わがこころ おなじはちすの へだてやはある
番外 元慶寺(華頂山 元慶寺)
待てといわば いともかしこし 花山に しばしとなかん 鳥の音もがな
まてといわば いともかしこし はなやまに しばしとなかん とりのねもがな
こういう内容を、意味なんて分からない小さい時から聞かされていて(身近に、死がある環境で育っていたんですね・・私っていうのンは。)大きくなって漢字が読めるようになってから、その意味を少しずつ知りました。
古典の勉強に少しは役立っていたのか、高校の古典の授業では、勉強がそんなに苦ではありませんでしたから、無駄・・というわけではなかったのかもしれません。
でも、どうせ・・だったなら、外国語の習得のほうが、現代に活きていく上では役に立っていた事なのでしょう。
まぁ、高齢者との会話で、方言の単語の意味が理解できる・・という事では、役立っているようですが・・・これって、華やかではない特技になるので、すこ~~しばかりでなく、さみしい気がしています。
本人は燃え尽きてしまっていても、太陽は今日もまっかっか・・です。
反射した光が目の中に入って、真黒な点が・・・のこって、見えない部分が数個、できてしまいました。
カメラは、これを、どのように処理して、しのいでいるのでしょうか・・不思議です。


もく もく もく もく 燃えている
火事だ 火事だ 山火事だ
火事だ 火事だ 山火事だ
この頃、精神面でも上向きになれなくって、一段と堀り下げてしまっていて・・でも、そういう時を活用して、静かに調べ物をしています。
今の研究課題は「ふだらく」です。
この「ふだらく」というものは、全国的にはご詠歌(ごえいか)という名称で、仏教の教えを五・七・五・七・七の和歌と成し、旋律=曲に乗せて唱えるものなのだそうです。
日本仏教において平安時代より伝わる宗教的伝統芸能の一つで、五七調あるいは七五調の詞に曲をつけたものを『和讃』(わさん)と呼び、広い意味では両者を併せて『ご詠歌』として扱うらしいのですが、学術的見地がない私としては、生まれ育った地域での昔からの習慣・・としか思うことができません。
起源としては、花山法皇の西国巡礼時に始まったとされているのが一般的なようですが、観音三十三所諺中(?)が最初とするのも有力な説だそうです。
一般的には「御詠歌」とよばれているそうなのですが、地域ごとに言葉尻に微妙な違いがあって、その節回しも、ちょっとずつ違いがあります。口伝ものなのですから、方言と同じで、これは、致し方無いものなのでしょう。
しかし、現代では、印刷物が葬祭業者から出回り、その内容=文体は全国統一が進みつつあるようです。
この写し本は、昔から亡くなった方をおもい、手書きで、物故者のために一冊を写し、そのまとめてある箱に足して戻します。
一晩で仕上げる方もいらして、美しい文字で仕上げられていると、つぎの日の目を見た時に、引っ張りだこになります。
その文字がいくら達筆でも、読みにくいものは除外されて、元の箱に戻され、誰にも使ってもらえない物になる危険性があるので、みんな、ていねいに書いたものでした。
ただし、そういう美しくて、読みやすいものほど、みんなに使われるので、消耗が激しくって、いたみやすく、廃棄処分になりやすいという欠点があります。
私の時には、一冊を毛筆で仕上げようとすると、集中力がもたなくって、数日にわたってしまいました。
また、その文字がいくら達筆でも、読みにくいものは除外されて、元の箱に戻され、誰にも使ってもらえない物になる危険性があるので、みんな、ていねいに書いたものでした。
ただし、そういう美しくて、読みやすいものほど、みんなに使われるので、消耗が激しくって、いたみやすく、廃棄処分になりやすいという欠点があります。
年々、手抜きの業者版は、髪質や閉じ方が昔とは異なるので、使いにくい気がするのは・・・私の偏見でしょうか?
西国三十三箇所 御詠歌・・・うちの地域での習慣としては、番号と、お寺の名の間に「○○の国」というセリフが入っているはずなので、確認しようと思ったのですが・・自分が写した時の版下みたいに自分で練習したもの=控えの和綴本が、これも、私の手元に一冊・残っているはずなのですが・・「探している時」には見えない・みつからないものなんですね。
第1番 青岸渡寺(那智山 青岸渡寺)
補陀落や 岸打つ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬
ふだらくや きしうつなみは みくまのの なちのおやまに ひびくたきつせ
第2番 紀三井寺(紀三井山 金剛宝寺)
ふるさとを はるばるここに 紀三井寺 花の都も 近くなるらん
ふるさとを はるばるここに きみいでら はなのみやこも ちかくなるらん
第3番 粉河寺(風猛山 粉河寺)
父母の 恵みも深き 粉河寺 ほとけの誓い たのもしの身や
ちちははの めぐみもふかき こかわでら ほとけのちかい たのもしのみや
第4番 施福寺(槇尾山 施福山)
深山路や 檜原松原 わけ行けば 槇の尾寺に 駒ぞいさめる
みやまじや ひばらまつばら わけゆけば まきのおてらに こまぞいさめる
第5番 葛井寺(紫雲山 葛井寺)
参るより 頼みをかくる 葛井寺 花の台に 紫の雲
まいるより たのみをかくる ふじいでら はなのうてなに むらさきのくも
第6番 壺坂寺(壺坂山 南法華寺)
岩をたて 水をたたえて 壺坂の 庭の苔も 浄土なるらん
いわをたて みずをたたえて つぼさかの にわのいさごも じょうどなるらん
第7番 岡寺(東光山 竜蓋寺 岡寺)
けさ見れば 露おか寺の 庭の苔 さながら瑠璃の 光なりけり
けさみれば つゆおかでらの にわのこけ さながらるりの ひかりなりけり
第8番 長谷寺(豊山 長谷寺)
いくたびも 参る心は 初瀬寺 山も誓いも 深き谷川
いくたびも まいるこころは はつせでら やまもちかいも ふかきたにがわ
第9番 南円寺(興福寺 南円堂)
春の日は 南円堂に かかやきて 三笠の山に 晴るるうす雲
はるのひは なんえんどうに かかやきて みかさのやまに はるるうすぐも
第10番 三室寺(明星山 三室戸寺)
夜もすがら 月を三室戸 わけゆけば 宇治の川瀬に 立つは白波
よもすがら つきをみむろど わけゆけば うじのかわせに たつはしらなみ
第11番 上醍醐寺(深雪山 上醍醐寺)
逆縁も もらさで救う 願慣れば 巡礼(推胝)堂は たのもしきかな
ぎゃくゑんも もらさですくう がんなれば じゅんれいどうは たのもしきかな
第12番 岩間寺(岩間山 正法寺)
みなかみは いずくなるらん 岩間寺 岸うつ波は 松風の音
みなかみは いずくなるらん いわまでら きしうつなみは まつかぜのおと
第13番 石山寺(石光山 石山寺)
後の世を 願う心は かろくとも 仏のちかい おもき石山
のちのよを ねがうこころは かろくとも ほとけのちかい おもきいしやま
第14番 三井寺(長等山 三井寺)
いでいるや 波間の月を 三井寺の 鐘のひびきに あくる湖
いでいるや なみまのつきを みいでらの かねのひびきに あくるみずうみ
第15番 今熊野観音寺(新那智山 観音寺)
昔より 立つとも知らぬ 今熊野 仏の誓い あらたりけり
むかしより たつともしらぬ いまぐまの ほとけのちかい あらたりけり
第16番 清水寺(音羽山 清水寺)
松風や 音羽の滝の 清水を むすぶ心は 涼しかるらん
まつかぜや おとはのたきの きよみづを むすぶこころは すずしかるらん
第17番 六波羅蜜寺(補陀落山 六波羅蜜寺)
重くとも 五つの罪は よもあらじ 六波羅道へ 参る身なれば
おもくとも いつつのつみは よもあらじ ろくはらどうへ まいるみなれば
第18番 六角堂(紫雲山 六角堂頂法寺)
わが思う 心のうちは 六つの角 ただ円かれと 祈るなりけり
わがおもう こころのうちは むつのかど ただまろかれと いのるなりけり
第19番 革堂(麗麓山 一條革堂行願寺)
花を見て いまは望みも 香(革)堂の 庭の千草も 盛りなるらん
はなをみて いまはのぞみも かうどうの にはのちぐさも さかりなるらん
第20番 善峰寺(西山 善峰寺)
野をもすぎ 山路に向かう 雨の空 吉峰よりも 晴るる夕立
のをもすぎ やまぢにむかう あめのくも よしみねよりも はるるゆうだち
第21番 穴太寺(菩提山 穴太寺)
かかる世に 生まれあう身の あな憂やと 思わで頼め 十声一声
かかるよに うまれあうみの あなうやと おもわでたのめ とこゑひとこゑ
第22番 総持寺(補陀落山 総持寺)
おしなべて 老いも若きも 総持寺の 仏の誓ひ 頼まぬはなし
おしなべて おいもわかきも そうじじの ほとけのちかひ たのまぬはなし
第23番 勝尾寺(応頂山 勝尾寺)
重くとも 罪には法の 勝尾寺 仏を頼む 身こそやすけれ
おもくとも つみにはのりの かちおでら ほとけをたのむ みこそやすけれ
第24番 中山寺(紫雲山 中山寺)
野をも過ぎ 里をも行きて 中山の 寺へ参るは 後の世のため
のをもすぎ さとをもゆきて なかやまの てらへまいるは のちのよのため
第25番 清水寺(御嶽山 清水寺)
あわれみや 普き門の 品々に なにおか波の ここに清水
あわれみや あまねきかどの しなじなに なにおかなみの ここにきよみづ
第26番 一乗寺(法華山 一乗寺)
春は花 夏は立花(橘) 秋は菊 いつも妙なる 法の華山
はるははな なつはたちばな あきはきく いつもたえなる のりのはなやま
第27番 円教寺(書写山 円教寺)
はるばると 登れば書写の 山おろし 松のひびきも 御法なるらん
はるばると のぼればしょしゃの やまおろし まつのひびきも みのりなるらん
第28番 成相寺(成相山 成相寺)
松の音 松のひびきも 成相の 風吹きわたす 天の橋立
まつのおと まつのひびきも なりあいの かぜふきわたす あまのはしだて
第29番 松尾寺(青葉山 松尾寺)
そのかみは 幾世へぬらん 便りをば 千歳もここに 松の尾の寺
そのかみは いくよへぬらん たよりをば ちとせもここに まつのをのてら
第30番 宝厳寺(厳金山 宝厳寺)
月も日も 波間に浮かぶ 竹生島 船に宝を 積むここちして
つきもひも なみまにうかぶ ちくぶじま ふねにたからを つむここちして
第31番 長命寺(姨綺耶山 長命寺)
八千年や 柳に長き 命寺 運ぶ歩みの かざしなるらん
やちとせや やなぎにながき いのちでら はこぶあゆみの かざしなるらん
第32番 観音正寺(織山 観音正寺)
あなとうと 導きたまえ 観音寺 遠き国より 運ぶ歩みを
あなとうと みちびきたまえ かんのんじ とおきくにより はこぶあゆみを
第33番 谷汲山(1 谷汲山 華厳寺 満願堂)過去をあらわす
よろず世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出づる谷汲
よろずよの ねがいをここに おさめおく みずはこけより いづるたにぐみ
第33番 谷汲山(2 谷汲山 華厳寺 大悲堂)現在をあらわす
世を照らす 仏のしるし ありければ まだともし火は 消えぬなりけり
よをてらす ほとけのしるし ありければ まだともしびは きえぬなりけり
第33番 谷汲山(3 谷汲山 華厳寺 笈摺堂)未来をあらわす
今までは 親とたのみし 笈摺を 脱ぎて納むる 美濃の谷汲
いままでは おやとたのみし おひづるを ぬぎておさむる みののたにぐみ
(三回繰り返す)
身はここに 心は信濃の 善光寺 導きたまえ 弥陀の浄土に(へ)
みはここに こころはしなのの ぜんこうじ みちびきたまえ みだのじょうどへ
番外 花山院(東光山 花山院)
有馬富士 ふもとの霧は 海に似て 波かときけば 小野の松風
ありまふじ ふもとのきりは うみににて なみかときけば おののまつかぜ
番外 法起院(豊山 法起院)
極楽は よそにはあらじ 我が心 おなじはちすの へだてやはある
ごくらくは よそにはあらじ わがこころ おなじはちすの へだてやはある
番外 元慶寺(華頂山 元慶寺)
待てといわば いともかしこし 花山に しばしとなかん 鳥の音もがな
まてといわば いともかしこし はなやまに しばしとなかん とりのねもがな
こういう内容を、意味なんて分からない小さい時から聞かされていて(身近に、死がある環境で育っていたんですね・・私っていうのンは。)大きくなって漢字が読めるようになってから、その意味を少しずつ知りました。
古典の勉強に少しは役立っていたのか、高校の古典の授業では、勉強がそんなに苦ではありませんでしたから、無駄・・というわけではなかったのかもしれません。
でも、どうせ・・だったなら、外国語の習得のほうが、現代に活きていく上では役に立っていた事なのでしょう。
まぁ、高齢者との会話で、方言の単語の意味が理解できる・・という事では、役立っているようですが・・・これって、華やかではない特技になるので、すこ~~しばかりでなく、さみしい気がしています。
本人は燃え尽きてしまっていても、太陽は今日もまっかっか・・です。
反射した光が目の中に入って、真黒な点が・・・のこって、見えない部分が数個、できてしまいました。
カメラは、これを、どのように処理して、しのいでいるのでしょうか・・不思議です。

