Nonsection Radical

撮影と本の空間

サッカーは日本の姿 なのか

2010年06月13日 | Weblog
某月某日
サッカーの世界選手権が始まったようだが(詳しくは知らない)、ほとんど誰も日本が活躍するとは思っていない。
前情報や実績で、どうやっても点が取れそうもない事がわかっているからだ。
ゴールに向かってガツガツと突き進んで行く事がないのは草食系ダンシだからか(昨日言った事を忘れたか)。
また、ダメだダメだと減点法で評価するのも南伸介以来の伝統か?
つまり一人ガツガツと突き進む者がいれば協調性がないと非難して芽をつぶし、団体行動をすれば責任の所在が曖昧になって誰もリーダーになりたがらず、周りは犯人探しに躍起になって非難を繰り返すだけ。
これを今の日本の社会の姿と重ねあわせるべきなのだろうか。
ガラパゴス化日本人なのか。

自身も含めて、まあどうしてこんなに細かい事までいちいち文句をつけるんだと思う事が多い世の中だけど、やはり自身も含めて、その割には自身の事には寛容であるなぁと思うのだ。
これまでは居酒屋談義といえば、プロ野球が中心で、あたかも「俺が監督なら」と、ろくに野球などセンスもないのに、あるいは社会生活において「俺が社長なら」と、ろくに経営センスもないのに、あの時はこうだった、俺ならこうしたと、お呼びでない事で話を弾ませていたのだが、今はそれがサッカーに取って代わり、「俺が監督なら」、「俺がチェアマンなら」と、ろくにセンスもないくせに話を弾ませる事となった。
「俺が~なら」というのなら、「~」になればイイのだけれど、そうはならずに口先だけで結局誰かを非難して溜飲を下げるだけになっている。
サッカー選手の中でも「俺ならゴールした」と言いながら、結局誰もゴールキックをしないでいるのだろうか。
それは当人でないからわからない。

サッカーという「スポーツ」に社会を重ねあわせて考える事が適切かはわからないけど、やはり当時も個人を非難していた創成期のJリーグでの、カズやラモスなど(シロートだから他の名は思い浮かばない)が今となっては「肉食系(笑)」と思えるのが、今の社会から振り返った世の中の移り変わりなのだろうかと考えてしまう。

まあサッカーはサッカーとして楽しんで見る事が本来の姿なのだけどね。
satoboは手癖は悪いが、足は器用ではないのでサッカーはやった事がない。
コメント
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