Nonsection Radical

撮影と本の空間

オリンピックってまだやってたのか

2014年02月23日 | Weblog
今朝のラジオで”討論”を放送していて、オリンピックの”課題”を話し合っていたのだけれど、出席者が文科大臣だったりしたからか金にまつわるエトセトラが話題になったりして、やっぱりオリンピックを始めとしてスポーツは政治的、経済的、そして教育的要素でしか話されないのだなぁと感じた次第。
むしろスポーツではなく、体育で、教育の一環、教育するもの、他の意図を含めた運動であるという認識が中心になっている事をあらわしている。
心身を”鍛える”ことが目的で、楽しむレクレーションなどという負け犬根性を持って行うものではないと思っていることに加え、勝利至上主義でメダルを何個取るかの国威をかけた国家事業であることが話の端々から感じられる。
だから委員会の委員長に政治家がなったりするんだろうな。わけわかんないよ。
結果だけを問題にして、競技を見て楽しむことができない人々・・・
と、ここまで書いてきて、同じようなことをすでに過去に書いていたのを思い出したので、話は終わり(苦笑)。
スポーツは出場した選手のためだけにあるもの。
まわりをそれを楽しんで見るだけでイイ。
むしろ自分たちがそれぞれでスポーツをすることこそ大切な時間の過ごし方だろう。

で、今日は出稼ぎに来ているムスメの夫と京都を散策。
実は昨日も京都を歩いて撮影したり、古本を買ったりしたので結構クタクタ。
夫も風邪で体調不良の弥次喜多珍道中。
オヤジ一人では決して入らないファンシーなレストランで食事したりして、それなりに成果のある時間を過ごした。
ただし腰痛がずっと続き、老体もすでに限界かと内心ウツな気持ちもチラホラ。
中高時代にずっと陸上競技をしたからカラダの関節がどこも不具合だらけ。
競技スポーツはカラダを酷使して行なう部分があるのを身をもって知っているので、競技スポーツの頂点のひとつであるオリンピックも気楽な気持ちで見ることが出来ないんだよねぇ。
長い人生をカラダの故障を抱えていかなければならない事を思うと、どうか無理せず怪我をせずにいてほしいと思うんだよ。
だから、故障を隠してとか、そういう”美談”に対しては敏感に拒否反応を示すんだよね。
同様に”根性”とか”誰々のために”とかの言葉もキライなんだな。
カラダは自分のものだから、自分のためだけにスポーツをして欲しいよ。
オリンピックだって長い人生の一コマでしかないんだから。
みんながそう思う時代が来てこそ、裾野の拡がったスポーツ環境が整うのだと思うんだけどね。




ヴォーリズ通り
滋賀県高島市今津町今津
撮影 2013年12月28日 土曜日 13時30分
コメント
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