Nonsection Radical

撮影と本の空間

何を思っていたのか

2014年02月03日 | Weblog
バブル期の事を書いた本を最近読んでいるのは、あの時人々は何を考えていたのかを知りたいからだ。
当事者として自分の事は記憶しているが、どうもテレビや新聞雑誌で垣間みる世間とは違う生活をしている気分だった。
では”表面”に登場してくる人々は何を考えて”先頭”を走っていたのだろう。
それを知りたくて色々な本をあさっているのだけれど、出来事は書いてあっても、気持ちを書いているものがあまり見つからない。
70年代の高度成長期終了後の10年で傷は癒されたのだろうが、そこから何を学び、新しい時代に向かって行ったのかがわからない。
時代が進んだと言っても、社会の中心は戦中戦前世代のままだから、働けば働くほど報われるという気持ちのままで突き進み、やっと社会に出始めた若い世代は「そんな事ないんじゃない?」という気持ちを持ちつつも、上の世代の作り上げた世界を踏みしめて歩いていた。
「会長はなぜ自殺したか」読売新聞社会部著 新潮文庫 は、2000年に発刊されたものだが、単行本は1998年発行だ。
バブル崩壊後にあぶり出された金融腐敗を読売新聞社会部がルポしたもの。
ちなみにこの時の社会部次長は清武英利。
第一勧銀を始めとした金融機関が政官および「総会屋」と癒着し、証券会社の「損失補填」、「ノーパンしゃぶしゃぶ接待」などが話題になった。
時代は90年代の話だが、登場人物は中心が戦中戦前世代だ。
それぞれの役職のトップらが関わった”犯罪”なのだが、なぜか悪びれる様子も感じらない。
必要であったから、当然だったという思いが誰の胸の中にもある。
悪い事でもいとわない、という考えがこの時代のこの世代にはあったのか。
自殺した第一勧銀会長の場合も、組織に対して上司に対して詫びても、社会的責任という気持ちは感じられない。
同じ釜の飯を食った皆んなに申しわけない、という気持ちか。
そういう”会社人間”が社会の中心に陣取り、80年90年代を引っ張っていたのだ。
21世紀になって世代交代し、長い不況が続く中で、いまだ生きている会社人間世代からは「俺らのようにもっと働かないからダメなんだ」という声が聞こえてくる。
彼らの価値観は働く事で、そうすれば結果はついてくると思っているようだ。
はたしてそうだったのだろうか?
自分の労働に価値を認め、その成功物語の結果が繁栄であったと思っているようだが、そうなのか?
単に時期が良かっただけのラッキーじゃないのか?
だって何も考えずにがむしゃらだっただけじゃないか。
何を考えて社会をどうしよう思って働いたのか、その世代から発する言葉はないじゃないか。
単に生活状況を良くしたい、金を儲けたい、そして生きながらえたいという思いの他にどんな事を考えていたのか。
それがわからないのだ。
エリートと呼ばれた人達でさえ、接待で不正情報をやり取りし、総会屋や暴力団をつながりを持ってある種共生を保ち、政治家の地位を利用して金を巻き上げ、けっして自分の子供に言えないような事をしてさえも生きてきたのは、どういう思いがあっての事なのか。
それが知りたいんだよねぇ。



今津町今津の街並み 3
滋賀県高島市今津町今津
撮影 2013年12月28日 土曜日 12時55分
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ここ最近読み終えた本

2014年02月02日 | Weblog
のんびりしています。
本を読む時間があるほどに。
で、最近読み終えた本は
チャイナ・ナイン 遠藤誉著 朝日新聞出版
絆回廊 大沢在昌著 光文社
首相官邸で働いて初めてわかったこと 下村健一著 朝日選書
なんとなく、クリスタル 田中康夫著 新潮文庫
狼がやってきた日 柳田邦男著 文春文庫
長銀破綻 須田慎一郎著 講談社文庫
キネマの神様 原田マハ著 文春文庫
どれも良い本、あるいは役に立つ本でした。

家人からは悲鳴のメールが。
送った本が読み止まらなくて連日午前様にまでなって読み終えたとのこと。
さて次はどんな本を送ろうかと・・・




放出駅前
大阪府大阪市鶴見区放出東3丁目
撮影 2014年1月25日 土曜日 11時45分
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

僕らは時代を生きている

2014年02月01日 | Weblog
「なんとなく、クリスタル」田中康夫著 を読み終えた。
なんとなく連想したのは石原慎太郎著「太陽の季節」だった。
似ているというわけではなく、アンチというわけではなく、時代の違いがその時代に生きる人の考え方の違い、行動、つまりライフスタイルに現われているんだなぁと思ったのだ。
当然ながら、両作品の登場人物のような生活を全ての人がしていたわけではない。
でも、そこにはその当時の人々の価値観、憧れ、拒絶、目指すものなど感情、心理のエッセンスが含まれていると思う。
だからこそ当時話題になったのだろう。
奇想天外な事だけ書いてあれば無視されただろう。
そうではなくて、人々の心理に潜む時代の認識をあぶり出したから火がついたのだと思う。
だからそれぞれの物語りの後、実際に社会は、人は、がむしゃらに邁進し、あるいは物質の中にいながら心のバランスを求めさまよう姿を見せた。

好き嫌いかかわらず誰もがその時代の流れの中にいる。
ある人はその流れに流され、あるいは逆らい、ある人は流れに乗る。
そうしてひとつの時代を同時に生きている。
その自覚の有無さえわからない人々のもとに、時折「怪書」が現われて時代の区切りを示してくれるのだ。
そういう「時代の”賜物”」がそれ以降現われていない。
ひとつの事であらわす事が出来ない時代になったのか。
あるいはまだ現在は時代に区切りが来ていないのか。
そのあたりは普通の人には当事者であるからわからない。
それでもみんないつの時代でも渦中の人であることにはかわりないのだ。



倉敷センター街 3
岡山県倉敷市阿知2丁目
撮影 2014年1月11日 土曜日 10時40分
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする