2020年11月4日(水) 祈り会
聖書:詩編 144:3〜4(新共同訳)
この詩編は、1~2節で神を讃えます。そして3~4節で、神が顧み、愛してくださる人間について語ります。
単なる独り言(モノローグ)ではなく、神の御前で、神を思い、神と比べながら語ります。神の確かさに対して、人間のはかなさを語ります。
1~2節で神を喩えます。「岩、支え、砦、砦の塔、逃れ場、盾、避けどころ」。神の確かさを喩える言葉です。一方人間は、「息、影」というはかなさを表す喩えです。
3節「主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。/人の子とは何ものなのでしょう/あなたが思いやってくださるとは。」
「人間とは何ものなのでしょう」。色々な人が語るこの哲学的表現の中で、一番有名なのが「人間は考える葦である」(パスカル)という言葉でしょう。
ですが詩編は「人間は考える葦である」のような積極的な答えを出しません。4節「人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影」。
詩人の人間観、人間理解の核としてあるのは「神との関係、神とのつながりがあってこその人間」という理解です。旧約の中で語られ、理解されてきた人間です。
神にかたどって造られた人間。創世記 1:27「神は御自分にかたどって人を創造された。/神にかたどって創造された。/男と女に創造された。」神の息が吹き入れられて生きるようになった人間。創世記 2:7「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
「神との関係、つながりがあってこその人間」なのです。詩編 94:17「主がわたしの助けとなってくださらなければ/わたしの魂は沈黙の中に伏していたでしょう。」
この旧約の人間理解に立って詩人は語ります。3節「主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。」
「親しまれる」とありますが、元の言葉は「ヤダー」という言葉で、普通「知る」と訳すので、多くの訳は「知るとは」(聖書協会共同訳)「知っておられる」(新改訳2017)「み心に留められる」(フランシスコ会訳)「知り」(岩波書店版)「知ってくださる」(月本昭男)と訳しています。聖書で使われる「知る ヤダー」という言葉は、自分のこととして深い関心を抱く(岩波書店版 注)という意味合いを持っています。新共同訳はその意を汲んで「親しまれる」と訳したのでしょう。
人は神にかたどって造られています。けれど4節「人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影。」息も影もはかなく実態のないものを表します。現在では、科学的に息には酸素や二酸化炭素という実態があり、その分子が存在しますが、二千数百年前に生きた詩人には、息は実態のないはかないものでした。
しかし神は存在の源。すべてのものは神が造られました。目に見えるもの、形あるものだけでなく、愛や真実、契約の源。永遠から永遠まで存在する方。まるで人間とは真逆な存在。それなのに、人に深い関心を抱かれ、愛を注ぎ、契約を結び、共に歩んでくださる。詩人は「人間とは何ものなのでしょう/人の子とは何ものなのでしょう」と問いかけながら、実は「神とは一体何ものなのか。神とは真逆のような人間を顧み、深い関心を持って知っていてくださる、愛してくださる神とは何ものなのか」と神について問いかけているようです。
先に、詩人の人間観、人間理解の核としてあるのは「神との関係、神とのつながりがあってこその人間」という理解だと申し上げました。詩人は、神が確かであることを知っており、神が自分の味方でいてくださることを知っています。だから詩人は、人間のはかなさと向かい合いことができます。認めることができます。だから、自分が罪人であることも受け入れることができます。神が人間の存在の基、根源であり、どんな時にも支えてくださるからです。
それだけでなく、詩人の信仰、詩人の祈りの基でもあります。神がいてくださるので、未来が見えない世界で、はかなく弱い自分であっても、生きる希望が持てるのです。聖書は告げます。申命記 33:27「いにしえの神は難を避ける場所/とこしえの御腕がそれを支える。」
だからでしょうか。人のはかなさを語っているのに、この詩篇の言葉には、未来への光が感じられます。神ご自身が光であってくださるからです。
実に、神はわたしたちのすべてとなって、わたしたちを支えていてくださるのです。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたがわたしたちの主であってくださることは、大きな驚きです。わたしたちがどのようなときも、あなたがわたしたちの基であってくださり、わたしたちのすべてを根底から支えていてくださることに気づかせてください。どうかあなたの許で未来を、神の国を仰ぎ見させてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:詩編 144:3〜4(新共同訳)
この詩編は、1~2節で神を讃えます。そして3~4節で、神が顧み、愛してくださる人間について語ります。
単なる独り言(モノローグ)ではなく、神の御前で、神を思い、神と比べながら語ります。神の確かさに対して、人間のはかなさを語ります。
1~2節で神を喩えます。「岩、支え、砦、砦の塔、逃れ場、盾、避けどころ」。神の確かさを喩える言葉です。一方人間は、「息、影」というはかなさを表す喩えです。
3節「主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。/人の子とは何ものなのでしょう/あなたが思いやってくださるとは。」
「人間とは何ものなのでしょう」。色々な人が語るこの哲学的表現の中で、一番有名なのが「人間は考える葦である」(パスカル)という言葉でしょう。
ですが詩編は「人間は考える葦である」のような積極的な答えを出しません。4節「人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影」。
詩人の人間観、人間理解の核としてあるのは「神との関係、神とのつながりがあってこその人間」という理解です。旧約の中で語られ、理解されてきた人間です。
神にかたどって造られた人間。創世記 1:27「神は御自分にかたどって人を創造された。/神にかたどって創造された。/男と女に創造された。」神の息が吹き入れられて生きるようになった人間。創世記 2:7「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
「神との関係、つながりがあってこその人間」なのです。詩編 94:17「主がわたしの助けとなってくださらなければ/わたしの魂は沈黙の中に伏していたでしょう。」
この旧約の人間理解に立って詩人は語ります。3節「主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。」
「親しまれる」とありますが、元の言葉は「ヤダー」という言葉で、普通「知る」と訳すので、多くの訳は「知るとは」(聖書協会共同訳)「知っておられる」(新改訳2017)「み心に留められる」(フランシスコ会訳)「知り」(岩波書店版)「知ってくださる」(月本昭男)と訳しています。聖書で使われる「知る ヤダー」という言葉は、自分のこととして深い関心を抱く(岩波書店版 注)という意味合いを持っています。新共同訳はその意を汲んで「親しまれる」と訳したのでしょう。
人は神にかたどって造られています。けれど4節「人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影。」息も影もはかなく実態のないものを表します。現在では、科学的に息には酸素や二酸化炭素という実態があり、その分子が存在しますが、二千数百年前に生きた詩人には、息は実態のないはかないものでした。
しかし神は存在の源。すべてのものは神が造られました。目に見えるもの、形あるものだけでなく、愛や真実、契約の源。永遠から永遠まで存在する方。まるで人間とは真逆な存在。それなのに、人に深い関心を抱かれ、愛を注ぎ、契約を結び、共に歩んでくださる。詩人は「人間とは何ものなのでしょう/人の子とは何ものなのでしょう」と問いかけながら、実は「神とは一体何ものなのか。神とは真逆のような人間を顧み、深い関心を持って知っていてくださる、愛してくださる神とは何ものなのか」と神について問いかけているようです。
先に、詩人の人間観、人間理解の核としてあるのは「神との関係、神とのつながりがあってこその人間」という理解だと申し上げました。詩人は、神が確かであることを知っており、神が自分の味方でいてくださることを知っています。だから詩人は、人間のはかなさと向かい合いことができます。認めることができます。だから、自分が罪人であることも受け入れることができます。神が人間の存在の基、根源であり、どんな時にも支えてくださるからです。
それだけでなく、詩人の信仰、詩人の祈りの基でもあります。神がいてくださるので、未来が見えない世界で、はかなく弱い自分であっても、生きる希望が持てるのです。聖書は告げます。申命記 33:27「いにしえの神は難を避ける場所/とこしえの御腕がそれを支える。」
だからでしょうか。人のはかなさを語っているのに、この詩篇の言葉には、未来への光が感じられます。神ご自身が光であってくださるからです。
実に、神はわたしたちのすべてとなって、わたしたちを支えていてくださるのです。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたがわたしたちの主であってくださることは、大きな驚きです。わたしたちがどのようなときも、あなたがわたしたちの基であってくださり、わたしたちのすべてを根底から支えていてくださることに気づかせてください。どうかあなたの許で未来を、神の国を仰ぎ見させてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン