2020年11月25日(水) 祈り会
聖書:詩編 144:12〜15(新共同訳)
きょうは12〜15節です。ここでは、主語が「わたし」から「わたしたち」に変わっています。
144篇は「王の詩篇」と呼ばれるものですから、12節からは、王が神の民を代表して祈るという形になっているように思います。
そして内容はと言うと、神が与えてくださる未来、神の国の幻を仰ぎ見て、その到来を待ち望む祈り、神の国へと導いてくださる神と共に歩む幸いを讃美する祈りになっています。
この詩篇は、既存の詩篇から詩句を採用していること、用語にアラム語からの借用があることなどから、バビロン捕囚で破壊された神殿が再建された(第二神殿)後に最終的にまとまったと考えられています。
これは、ダビデ王朝がなくなった後、神の国の到来を待望する思いが満ちていく中で、詠い紡がれていったのではないかと思われます。軍事的に敵に勝利するというモチーフがないのも、その時代の思いを表しているのではないかと考えられます。(参照:月本昭男『詩篇の思想と信仰 VI』)
12節「わたしたちの息子は皆/幼いときから大事に育てられた苗木。/娘は皆、宮殿の飾りにも似た/色とりどりの彫り物。」
子どもたちについて語るのは、未来について語ることです。苗木は、成長を指し示し、神の守りと導きのある未来を語ります。娘の方の表現は、美しい女性の施しがなされた女人像の柱を喩えに用いたものでしょう。
13節a「わたしたちの倉は/さまざまな穀物で満たされている。」13節b〜14節a「羊の群れは野に、幾千幾万を数え/牛はすべて、肥えている。」
飢える心配のない豊かさが与えられている未来を描いています。これは神の恵みと祝福に満たされているしるしです。
14節b「わたしたちの都の広場には/破れも捕囚も叫び声もない。」
人々を不安や悲しみへと引きずり込む戦争のかけらもありません。神の平和 シャロームが民を包みます。
15節「いかに幸いなことか、このような民は。/いかに幸いなことか/主を神といただく民は。」
12〜14節で描かれた姿は、神が与えてくださるものです。神と共に歩む未来に与えられるものです。バビロン捕囚を経て、神に裁かれるのではなく、神に祝福されることを切に求めるようになっていた民の信仰を反映しているのでしょう。バビロン捕囚の経験があって、そもそも神は民をどこへ導こうとされていたのか、アブラハムを召し出されたとき、モーセを用いてイスラエルをエジプトから導き出されたとき、十戒や様々な戒めを与えられたとき、神はどこへ導こうとされていたのか、ということを思うようになったのでしょう。
「いかに幸いなことか」は、神と共に歩む者の幸いを表す表現です。イエスの教えでも「幸いである」という言葉が繰り返されています(マタイ 5章、ルカ 6章)。
今、ここにないものを仰ぎ見ることは、信仰にとって大切なことです。「幻がなければ民は堕落する」(箴言 29:18)と聖書は語ります。わたしたちは、まだ成就していない神の国の完成・到来を仰ぎ見ながら歩みます。今は感染症のために配餐をひかえていますが、聖晩餐は終わりの日に代々の聖徒たちと共に囲む主の食卓を指し示しています。
神学の表現に「前味を味わう」という言い方があります。本当に味わうのは神の国に入れられてからですが、その時が必ず来ることを信じて味わうことを言います。洗礼や聖晩餐、そして礼拝において神の国を味わうのです。神の平和 シャロームを味わうのです。神の国の完成に先立って、味わうのです。教会は今この時、終末の前味を味わう先駆的な存在として建てられています。そして繰り返し主の祈りの(マタイ 6章、ルカ 11章)「御国が来ますように」と祈り続けていくのです。
わたしたちも今、代々の聖徒たちと共に、神の国を仰ぎ見て「いかに幸いなことか、このような民は。/いかに幸いなことか/主を神といただく民は」と告白し、祈って参りましょう。
ハレルヤ
父なる神さま
いつもわたしたちを未来へと、神の国へと導いていてくださることを感謝します。あなたが与えてくださる幻が、わたしたちに未来への希望を与えます。あなたは「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」(1コリント 13:13)と言われました。あなたが与えてくださる希望が失われないことを信じます。どうかあなたの希望により、あなたと共に歩む力を増し加えてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:詩編 144:12〜15(新共同訳)
きょうは12〜15節です。ここでは、主語が「わたし」から「わたしたち」に変わっています。
144篇は「王の詩篇」と呼ばれるものですから、12節からは、王が神の民を代表して祈るという形になっているように思います。
そして内容はと言うと、神が与えてくださる未来、神の国の幻を仰ぎ見て、その到来を待ち望む祈り、神の国へと導いてくださる神と共に歩む幸いを讃美する祈りになっています。
この詩篇は、既存の詩篇から詩句を採用していること、用語にアラム語からの借用があることなどから、バビロン捕囚で破壊された神殿が再建された(第二神殿)後に最終的にまとまったと考えられています。
これは、ダビデ王朝がなくなった後、神の国の到来を待望する思いが満ちていく中で、詠い紡がれていったのではないかと思われます。軍事的に敵に勝利するというモチーフがないのも、その時代の思いを表しているのではないかと考えられます。(参照:月本昭男『詩篇の思想と信仰 VI』)
12節「わたしたちの息子は皆/幼いときから大事に育てられた苗木。/娘は皆、宮殿の飾りにも似た/色とりどりの彫り物。」
子どもたちについて語るのは、未来について語ることです。苗木は、成長を指し示し、神の守りと導きのある未来を語ります。娘の方の表現は、美しい女性の施しがなされた女人像の柱を喩えに用いたものでしょう。
13節a「わたしたちの倉は/さまざまな穀物で満たされている。」13節b〜14節a「羊の群れは野に、幾千幾万を数え/牛はすべて、肥えている。」
飢える心配のない豊かさが与えられている未来を描いています。これは神の恵みと祝福に満たされているしるしです。
14節b「わたしたちの都の広場には/破れも捕囚も叫び声もない。」
人々を不安や悲しみへと引きずり込む戦争のかけらもありません。神の平和 シャロームが民を包みます。
15節「いかに幸いなことか、このような民は。/いかに幸いなことか/主を神といただく民は。」
12〜14節で描かれた姿は、神が与えてくださるものです。神と共に歩む未来に与えられるものです。バビロン捕囚を経て、神に裁かれるのではなく、神に祝福されることを切に求めるようになっていた民の信仰を反映しているのでしょう。バビロン捕囚の経験があって、そもそも神は民をどこへ導こうとされていたのか、アブラハムを召し出されたとき、モーセを用いてイスラエルをエジプトから導き出されたとき、十戒や様々な戒めを与えられたとき、神はどこへ導こうとされていたのか、ということを思うようになったのでしょう。
「いかに幸いなことか」は、神と共に歩む者の幸いを表す表現です。イエスの教えでも「幸いである」という言葉が繰り返されています(マタイ 5章、ルカ 6章)。
今、ここにないものを仰ぎ見ることは、信仰にとって大切なことです。「幻がなければ民は堕落する」(箴言 29:18)と聖書は語ります。わたしたちは、まだ成就していない神の国の完成・到来を仰ぎ見ながら歩みます。今は感染症のために配餐をひかえていますが、聖晩餐は終わりの日に代々の聖徒たちと共に囲む主の食卓を指し示しています。
神学の表現に「前味を味わう」という言い方があります。本当に味わうのは神の国に入れられてからですが、その時が必ず来ることを信じて味わうことを言います。洗礼や聖晩餐、そして礼拝において神の国を味わうのです。神の平和 シャロームを味わうのです。神の国の完成に先立って、味わうのです。教会は今この時、終末の前味を味わう先駆的な存在として建てられています。そして繰り返し主の祈りの(マタイ 6章、ルカ 11章)「御国が来ますように」と祈り続けていくのです。
わたしたちも今、代々の聖徒たちと共に、神の国を仰ぎ見て「いかに幸いなことか、このような民は。/いかに幸いなことか/主を神といただく民は」と告白し、祈って参りましょう。
ハレルヤ
父なる神さま
いつもわたしたちを未来へと、神の国へと導いていてくださることを感謝します。あなたが与えてくださる幻が、わたしたちに未来への希望を与えます。あなたは「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る」(1コリント 13:13)と言われました。あなたが与えてくださる希望が失われないことを信じます。どうかあなたの希望により、あなたと共に歩む力を増し加えてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン