2020年11月15日(日) 主日礼拝
聖書:ヨハネによる福音書 6:30〜35(新共同訳)
イエスは自分を探してやってきた人たちに言われます。「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(6:27)
そこで人々は尋ねます。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」。永遠の命を得るための業は何かを尋ねます。
イエスは答えて言われます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」イエスは「自分を信じることが神の業である」と言われます。
人々はさらに尋ねます。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
人々は信じて大丈夫な保証を求めます。「ユダヤ人はしるしを求め」(1コリント 1:22)と聖書は言います。マンナというのは、出エジプトの際、荒れ野を旅したとき、神が与えてくださった食べ物のことです。出エジプト記 16章に出てきます。そこでは、神は「天からパンを降らせる」(16:4)と言われ、人々はそれを「マナ」(16:30)と名付けました。マンナというのは、イエスがおられた当時話されていたアラム語の発音のようです。
イエスは答えられます。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
イエスは「はっきり」、これは「アーメンアーメン」という言葉を訳したものですが、二度アーメン 真実、まことにという言葉を使って、大切なことを明らかにされます。それは、天からパンを与えたのは、モーセではなく父なる神であるということです。そして神が与えてくださるパンは、世に命を与えるパンであるということです。
人は、自分に都合のいい指導者が立って、引っ張っていってくれれば問題は解決すると思いがちです。そして今まさに、そういう時代になってきています。まるで民主主義を諦めて近代へと戻ろうとしているかのような状況が世界的に現れつつあります。わたしたちの国もそうです。
誰を主と仰ぎ、誰に依り頼むのか。誰に望みを置くのか。それによって社会が大きく変わる時代を迎えています。
人々が「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
イエスはご自分を「命のパン」であると言われます。イエス キリストこそが命であることを明言されました。それはここだけでなく、11:25では「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われました。14:6では「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われます。イエス キリストこそ命です。死へと行き着く他はない罪を負っている命ではなく、父なる神の許へと至る永遠の命です。
そしてイエス キリストは、永遠の命に至るのに欠けるところのない命のパンなのです。だから「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われたのです。イエス キリストに不足はありません。キリストだけでは残念だけど救いには少し足りない、といことはないのです。救いには、永遠の命には、まだ足りないといった飢えや渇きは決してないのです。イエス キリストこそ、わたしたちの永遠の命なのです。
この命のパンであるイエス キリストは、「イエス キリストこそわたしの救い主である」と信じて受け入れることを通して受け取ることができ、与ることができるものです。だからイエスは 6:29で「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言われたのです。
人々はイエスを信じる保証となるしるしを求めましたが、イエス キリストが神が救いの御業をなしておられる「しるし」であり、神の御心を知る「しるし」なのです。
イエスがお生まれになったとき、天使が羊飼いたちに現れてこう言いました。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ 2:12)そしてイエスご自身こう言われました。「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。・・人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。』(マタイ 12:39~40)つまりイエスの十字架、その死こそ「しるし」なのです。
救い主として人となり、罪人の救いのためにその命を献げてくださる。その救いの御業は死で終わることなく、復活に至る。これこそ、わたしたちが信じて救いに与るために与えられた「しるし」です。イエスが命のパンである証しです。
だから教会は、自らのしるしとして十字架を掲げます。ここにイエス キリストが臨んでくださるしるしとして十字架を掲げます。そして、キリストが復活された日曜日ごとに礼拝を献げます。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ 1:29)「見よ、この人だ」(参照 ヨハネ 19:4, 5, 14)とイエス キリストを指し示すのです。
教会は、人々がイエス キリストを知ることができるように、イエス キリストをはっきりと指し示し、証しをする務めを与えられています。そして今、今まで以上にキリストを明らかに指し示すことを、神はお求めになっておられます。
神はキリスト以外にも様々なものを「しるし」として用いてこられました。先ほども言いましたが、この「しるし」というものは、神が救いの御業をなしていてくださることを知るためのものであり、神の御心に気づくために与えられたものです。ただ単に奇跡に留まらず、神を指し示すものをしるしとして神はお用いになります。例えば、神は安息日についてこう言われました。「それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのもの」(出エジプト 31:13)であると。また、預言者自身の行動・行為がしるしとして用いられます。神は預言者エゼキエルに言われました。「わたしはあなたを、イスラエルの家に対するしるしとする。」(エゼキエル 12:6)
そして今、神は新型コロナウィルスを神の御心を知るしるしとして教会に示されていると、わたしは考えます。
このウィルスのために、教会の営みは変化を余儀なくなされました。礼拝を休みにする、来るのをひかえてもらうという1年前にはほぼ考えもしなかったことが起こりました。このことについては、ヤスクニ通信や福音時報において意見が交わされています。感染の危険性を抑えるため、礼拝を短縮する、聖晩餐の配餐をひかえる、距離を取る、集会を減らすといったことがなされています。インターネットを用いた礼拝の Live配信も行われるようになりました。中会や大会は集まらずに書面で行われたりしています。委員会や理事会もネット環境でのオンライン会議になっています。多くのことが変化しました。
その中で、神とのつながり、神との交わりを求める思い、信仰が問い直されたように思います。なぜ神が世界に新型コロナウィルスを与えられたのか、それに十分に答えることはとても難しいと思います。それでも神学者や牧師の中には示されたことをネットで世界に向けて発信している人もいます。わたしは、神が与え給うものをきちんと受け止めて、神が示そうとしておられることを受け止めていくことが必要だと思います。
今、教会はこうしたら大丈夫とうまくやるのではなく、手放せるものを手放し、収束したら以前と同じようにではなく、もっとキリストと出会い、神との交わりに憩う教会であることを求めていくことが、神の御心ではないかと思います。教会が今まで以上にイエス キリストに満たされていくようになることが求められているように思います。聖晩餐において配餐をひかえている今、キリストに与ることを切望する時を過ごすよう求められていると思います。わたしたちは既に二千年キリストの再臨を待ち望んでいます。配餐できるようになるのにどれくらいかかるか分かりませんが、今までよりもさらに深く「マラナ・タ 主よ、来たりませ」と祈ることが求められているように思います。
わたしたちにはイエス キリストが必要です。永遠の命に至る命のパンであるイエス キリストが必要です。わたしたちの教会がイエス キリストに出会い、神との交わりに生き、憩える教会となりますように。キリストの命が満ち満ちる教会となりますように。神の祝福が絶えず注がれ、集う一人ひとりが主にある喜びと平安に満たされる教会となりますように。
ハレルヤ
父なる神さま
どうかこの教会においてイエス キリストに出会い、あなたが御子を遣わしてくださった御心を深く知ることができますように。わたしたち一人ひとりの命をお与えくださったあなたから、救いを受け取り、永遠の命を受け取り、あなたと共に生きることができますように。いつも共にいてくださるあなたと共に救いの道を歩ませてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:ヨハネによる福音書 6:30〜35(新共同訳)
イエスは自分を探してやってきた人たちに言われます。「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(6:27)
そこで人々は尋ねます。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」。永遠の命を得るための業は何かを尋ねます。
イエスは答えて言われます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」イエスは「自分を信じることが神の業である」と言われます。
人々はさらに尋ねます。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
人々は信じて大丈夫な保証を求めます。「ユダヤ人はしるしを求め」(1コリント 1:22)と聖書は言います。マンナというのは、出エジプトの際、荒れ野を旅したとき、神が与えてくださった食べ物のことです。出エジプト記 16章に出てきます。そこでは、神は「天からパンを降らせる」(16:4)と言われ、人々はそれを「マナ」(16:30)と名付けました。マンナというのは、イエスがおられた当時話されていたアラム語の発音のようです。
イエスは答えられます。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
イエスは「はっきり」、これは「アーメンアーメン」という言葉を訳したものですが、二度アーメン 真実、まことにという言葉を使って、大切なことを明らかにされます。それは、天からパンを与えたのは、モーセではなく父なる神であるということです。そして神が与えてくださるパンは、世に命を与えるパンであるということです。
人は、自分に都合のいい指導者が立って、引っ張っていってくれれば問題は解決すると思いがちです。そして今まさに、そういう時代になってきています。まるで民主主義を諦めて近代へと戻ろうとしているかのような状況が世界的に現れつつあります。わたしたちの国もそうです。
誰を主と仰ぎ、誰に依り頼むのか。誰に望みを置くのか。それによって社会が大きく変わる時代を迎えています。
人々が「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
イエスはご自分を「命のパン」であると言われます。イエス キリストこそが命であることを明言されました。それはここだけでなく、11:25では「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われました。14:6では「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われます。イエス キリストこそ命です。死へと行き着く他はない罪を負っている命ではなく、父なる神の許へと至る永遠の命です。
そしてイエス キリストは、永遠の命に至るのに欠けるところのない命のパンなのです。だから「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われたのです。イエス キリストに不足はありません。キリストだけでは残念だけど救いには少し足りない、といことはないのです。救いには、永遠の命には、まだ足りないといった飢えや渇きは決してないのです。イエス キリストこそ、わたしたちの永遠の命なのです。
この命のパンであるイエス キリストは、「イエス キリストこそわたしの救い主である」と信じて受け入れることを通して受け取ることができ、与ることができるものです。だからイエスは 6:29で「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言われたのです。
人々はイエスを信じる保証となるしるしを求めましたが、イエス キリストが神が救いの御業をなしておられる「しるし」であり、神の御心を知る「しるし」なのです。
イエスがお生まれになったとき、天使が羊飼いたちに現れてこう言いました。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ 2:12)そしてイエスご自身こう言われました。「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。・・人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。』(マタイ 12:39~40)つまりイエスの十字架、その死こそ「しるし」なのです。
救い主として人となり、罪人の救いのためにその命を献げてくださる。その救いの御業は死で終わることなく、復活に至る。これこそ、わたしたちが信じて救いに与るために与えられた「しるし」です。イエスが命のパンである証しです。
だから教会は、自らのしるしとして十字架を掲げます。ここにイエス キリストが臨んでくださるしるしとして十字架を掲げます。そして、キリストが復活された日曜日ごとに礼拝を献げます。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ 1:29)「見よ、この人だ」(参照 ヨハネ 19:4, 5, 14)とイエス キリストを指し示すのです。
教会は、人々がイエス キリストを知ることができるように、イエス キリストをはっきりと指し示し、証しをする務めを与えられています。そして今、今まで以上にキリストを明らかに指し示すことを、神はお求めになっておられます。
神はキリスト以外にも様々なものを「しるし」として用いてこられました。先ほども言いましたが、この「しるし」というものは、神が救いの御業をなしていてくださることを知るためのものであり、神の御心に気づくために与えられたものです。ただ単に奇跡に留まらず、神を指し示すものをしるしとして神はお用いになります。例えば、神は安息日についてこう言われました。「それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのもの」(出エジプト 31:13)であると。また、預言者自身の行動・行為がしるしとして用いられます。神は預言者エゼキエルに言われました。「わたしはあなたを、イスラエルの家に対するしるしとする。」(エゼキエル 12:6)
そして今、神は新型コロナウィルスを神の御心を知るしるしとして教会に示されていると、わたしは考えます。
このウィルスのために、教会の営みは変化を余儀なくなされました。礼拝を休みにする、来るのをひかえてもらうという1年前にはほぼ考えもしなかったことが起こりました。このことについては、ヤスクニ通信や福音時報において意見が交わされています。感染の危険性を抑えるため、礼拝を短縮する、聖晩餐の配餐をひかえる、距離を取る、集会を減らすといったことがなされています。インターネットを用いた礼拝の Live配信も行われるようになりました。中会や大会は集まらずに書面で行われたりしています。委員会や理事会もネット環境でのオンライン会議になっています。多くのことが変化しました。
その中で、神とのつながり、神との交わりを求める思い、信仰が問い直されたように思います。なぜ神が世界に新型コロナウィルスを与えられたのか、それに十分に答えることはとても難しいと思います。それでも神学者や牧師の中には示されたことをネットで世界に向けて発信している人もいます。わたしは、神が与え給うものをきちんと受け止めて、神が示そうとしておられることを受け止めていくことが必要だと思います。
今、教会はこうしたら大丈夫とうまくやるのではなく、手放せるものを手放し、収束したら以前と同じようにではなく、もっとキリストと出会い、神との交わりに憩う教会であることを求めていくことが、神の御心ではないかと思います。教会が今まで以上にイエス キリストに満たされていくようになることが求められているように思います。聖晩餐において配餐をひかえている今、キリストに与ることを切望する時を過ごすよう求められていると思います。わたしたちは既に二千年キリストの再臨を待ち望んでいます。配餐できるようになるのにどれくらいかかるか分かりませんが、今までよりもさらに深く「マラナ・タ 主よ、来たりませ」と祈ることが求められているように思います。
わたしたちにはイエス キリストが必要です。永遠の命に至る命のパンであるイエス キリストが必要です。わたしたちの教会がイエス キリストに出会い、神との交わりに生き、憩える教会となりますように。キリストの命が満ち満ちる教会となりますように。神の祝福が絶えず注がれ、集う一人ひとりが主にある喜びと平安に満たされる教会となりますように。
ハレルヤ
父なる神さま
どうかこの教会においてイエス キリストに出会い、あなたが御子を遣わしてくださった御心を深く知ることができますように。わたしたち一人ひとりの命をお与えくださったあなたから、救いを受け取り、永遠の命を受け取り、あなたと共に生きることができますように。いつも共にいてくださるあなたと共に救いの道を歩ませてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン