聖書の言葉を聴きながら

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創世記 12:1〜9

2020-11-29 18:54:14 | 聖書
2020年11月29日(日)主日礼拝  待降節第1主日
聖書:創世記 12:1〜9(新共同訳)


 きょうから待降節です。教会の暦、教会暦は待降節から始まります。
 待降節は、降誕を待つ時のことです。待つというのは、神が民に与えられる訓練の1つです。旧約の民イスラエルは、救い主の到来を待ち続けました。そして時至って、イエス キリストが遣わされました。今、わたしたちはキリストの再臨、神の国の完成を待ち続けています。降誕節を祝う前に、降誕を待つ待降節の時を過ごし、神の約束は実現することを覚えていくのです。

 今年は待降節をアブラハムの物語を聞いて過ごします。アブラハムは、神の召しを受けた初代のイスラエルです。信仰の父と言われます。アブラハムは元々はアブラムという名前でしたが、神によってアブラハムと改名されました(17:5)。
 きょう聞いた箇所は、アブラハムがまだアブラムだった頃の話、アブラムが神の召しを受けたときの話です。

 主はアブラムに言われました。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。」
 神はアブラムを召し出されます。何故アブラムなのかは語られません。神がアブラムを召されたときの神の言葉が語られます。
 キリスト教では、信仰を持って神に従う時「神に召された。召しを受けた」と言います。信仰は、信じる者が勝手に信じる内容を決めるのではなく、神が語りかけられる声を聴いてその声に従います。信仰は信じる者が主になるのではなく、語りかけ、召し出される神が信仰の主なのです。

 神の召しは「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」というものでした。神は、住み慣れた土地、これまで築き上げてきた周囲の人々との関係を捨てて、神が示す導きに従って歩み出すように命じられます。これは、わたしたちに大きな不安を与えます。わたしたちは目に見えるもの、目に見えないものも含めて豊かであること、備えがあることで安心します。その様々な豊かさによって、自分自身が養われ益を得るように努めています。
 しかし、神は自分に安心を与えてくれる住み慣れた土地、人との繋がりを手放して従うように求められます。きょうの箇所の直前11:31を見ますと、アブラムの父テラはカルデアのウルを出てハランへとやってきました。テラが何もないところからようやく築き上げてきたものがそこにはあったはずです。けれど安心や自分の益となるものを、自分が持っているもの、得たものの中に求めるのではなく、決して自分のものとすることはできない神ご自身の中に、自分の未来を見出し、自分の生きる道を見出すように神はお求めになります。このことは究極的にはイエスのこの言葉へと向かっていきます。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ 8:35)信仰とは、神以外のものに依り頼もうとする思いを捨て、神に支えられ、神が与えてくださるものを受けようとすることです。
 ですから、キリスト者にとっては自分の願いの実現が大事なのではなく、神の御心は何なのか、神はどこへと召しておられるのかが重要であり、それを聴こうとして神の声に心を向けることが大切なのです。

 神の召しには、約束が伴っていました。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。/あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。/地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」
 神の約束は、祝福の約束でした。アブラムから遥かに時を経た時代に生きるわたしたちは、神の召しに応えたアブラムに対する神の約束が真実であったことを知っています。アブラムは確かに大いなる国民となりました。アブラムが従ったことから神の民イスラエルが生まれました。アブラムの信仰に連なる神の民、ユダヤ教、キリスト教、イスラムも含めたら、今や数えることができません。アブラムの名は信仰の父として数千年の時を経た今も忘れられることはありません。
 そして最も大切な約束は、祝福の源となるという約束です。神に従う者と共に神はあってくださり、神に従い生きる者を通して神は祝福を地に注がれるのです。そしてついには、アブラムの子孫、イスラエルの民の中にご自身の御子イエス キリストをお遣わしになり、「地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」という約束を果たされたのです。

 アブラムは神の召しに従い、多くのものを手放しました。しかし、アブラムは神から神と共に生きる祝福、救いに入れられ神の民として生きる祝福、そして永遠の命へと至る祝福を受けたのです。
 アブラムは、主の言葉に従って旅立ちました。アブラムは、ハランを出発したとき75歳でした。アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へと入っていきました。アブラムは何も言わず、黙って神に従いました。行き先が明らかにされないまま神の声を聴いて、それに従いました。
 ところで11:30を見ますと、アブラムの妻サライは不妊の女でアブラムには子どもがいなかったとあります。神が大いなる国民にするなどと言われても、それを信じられるような状況は何もありませんでした。アブラムがカナンを通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来たとき、主はアブラムに現れて、「あなたの子孫にこの土地を与える。」と言われました。しかし、その地方には既にカナン人が住んでいました。「あなたの子孫にこの土地を与える」などと言われても、アブラムに子どもはなく、その土地には既に住んでいる人たちがいます。アブラム自身、既に75歳です。一体、何をどう見たら神の言葉が真実だと思えるのでしょうか。

 アブラムは肉の目に見えるものに依り頼むことをしませんでした。自分の中で将来の計算を立てることをしませんでした。アブラムは自分に語りかけてくださった神を仰ぎ見ていました。未来は自分の手の中にではなく、神の御手の中にあることを信じていました。そしてそれこそ、神がアブラムに、すべての神の民に求めておられることです。
 アブラムは見えるものに振り回されて不安に悩むのではなく、神を呼び求め、礼拝しました。アブラムは彼に現れた主のために、シケムに祭壇を築きました。そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼びました。
 アブラムはひたすら神に依り頼み、神と共に生きることを証ししました。アブラムを通して、神ご自身こそ何物にも替え難い恵みであり、祝福であり、命であることが証しされました。そしてアブラムがなした証しを、神はイエス キリストにおいて成就されたのです。
 イエスは、神の御心により神としての栄光を捨てられました。人となってアブラムの子孫となられました。地上で目に見える報いを受けられることなく、ただひたすらに神と共に歩まれました。命までも失われ、すべてが虚しかったかのように見えましたが、神からすべてを受け、死から甦り、栄光を受け、すべての人の祝福となられました。

 アブラムに語られた神の言葉は真実でした。その召し、その約束に、神はご自身の御子の命をかけられるほどに真実でした。朽ちていく目に見えるものや、変わりいくこの世がわたしたちを救うことはありません。神の真実がわたしたちを救うのです。
 神の言葉に聴き従う者は幸いです。アブラムを支え導いた恵み、イエス キリストにおいて成し遂げられた恵みがその人を包むでしょう。


ハレルヤ


父なる神さま
 救いの御業のために、あなたはアブラムを選び、召し出されました。あなたはアブラム、そしてあなたの民を通して祝福を地に注がれます。今わたしたちもあなたの民とされ、祝福の源とされていることを感謝します。どうか更に多くの人が救いへと導かれ、祝福に与ることができますように。キリストの誕生を仰ぎ見、祝おうとするこの時、多くの人があなたの許へと招かれ導かれますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン