2020年11月11日(水) 祈り会
聖書:詩編 144:5〜11(新共同訳)
きょうは5〜11節です。この箇所の中心となるのは、7, 11節の「異邦人の手から助け出してください」という願いです。
この願いを神に伝えるため、詩人は過去の出来事をモチーフとして祈ります。ここでは出エジプトのイメージが強く出ているように思われますが、おそらく異邦人のイメージを出エジプトの際のエジプト人、ダビデのときのペリシテ人、そしてバビロン捕囚の際のバビロニア人などイスラエルの危機となった異邦人を重ねているのではないかと思います。どれも神が救いの神であることを覚える出来事ですが、特に出エジプトは、神の民イスラエルにとって救いの原体験です。
5〜8節「主よ、天を傾けて降り/山々に触れ、これに煙を上げさせてください。/飛び交う稲妻/うなりを上げる矢を放ってください。/高い天から御手を遣わしてわたしを解き放ち/大水から、異邦人の手から助け出してください。/彼らの口はむなしいことを語り/彼らの右の手は欺きを行う右の手です。」
ここは、紅海を渡り、シナイ山に到着し、十戒を受け取る場面が思い浮かびます。
ここでは出エジプト 19:16~20を見てみましょう。5, 6節のイメージと重なる記述が出てきます。
「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。」
詩人はかつてのように神が現臨してくださることを求めています。
そして 7節「高い天から御手を遣わしてわたしを解き放ち/大水から、異邦人の手から助け出してください。」神がご自身を現してくださるなら、どんな苦難の中からでも救い出してくださると信じています。
そして神に逆らう者には真実はないことを詩人は語ります。8節「彼らの口はむなしいことを語り/彼らの右の手は欺きを行う右の手です。」
依り頼むことのできる真実は、神にこそあると信じているのです。
9~11節「神よ、あなたに向かって新しい歌をうたい/十弦の琴をもってほめ歌をうたいます。/あなたは王たちを救い/僕ダビデを災いの剣から解き放ってくださいます。/わたしを解き放ち/異邦人の手から助け出してください。/彼らの口はむなしいことを語り/彼らの右の手は欺きを行う右の手です。」
「新しい歌」とあります。新しいというのは、古びることのない新しさです。常に新しく自分の前に現れる神の救いの新しさです。昔の出来事ではなく、今この時わたしを救う神の救いの出来事です。そして讃美は、救いの出来事と共にあります。
ここも出エジプトの出来事を見てみましょう。出エジプト 14:31~15:2bです。これは紅海を渡った直後の記事です。聖書で初めて「賛美」という言葉が出てくる箇所です。
出エジプト 14:31~15:2b「イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。/モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。/主に向かってわたしは歌おう。/主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。/主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。/この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。」
神の民イスラエルは、この救いの神の真実に守られて歩んできました。10節「あなたは王たちを救い/僕ダビデを災いの剣から解き放ってくださいます。」
そして 8節の言葉を繰り返します。11節「彼らの口はむなしいことを語り/彼らの右の手は欺きを行う右の手です。」真実は神にこそあります。
実に信じるという行為は、神の真実によって支えられています。神と共に歩む中で、民は神の真実に触れ、信仰を養われてきました。神と共に歩み、神との交わりの中で、神が信じることができるお方であることを示され続けてきました。
わたしたちの生活は、個人も、家庭も、社会も信頼、信じることができるということによって成り立っています。しかし罪がその信じることを壊してしまいました。罪によって信じることが破壊された世にあって、神ご自身が信じられるものとなってくださり、生きるのに不可欠な信じることを与えてくださっているのです。
ですから信じることは、恵みです。わたしたちは「信じたら、救われる」のではありません。「神がわたしの救いの神となってくださった、救いの神でいてくださる」ことを信じるのです。わたしの救いの神であってくださる神の真実を信じるのです。神は、信じて生きる恵みを与えてくださっているのです。神の民は、代々この神の恵みを受けて歩んできたのです。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたは神の民の歩みの中で、あなたが救いの神となってくださったことを示してこられました。そしてあなたは、救いを通してわたしたちの信じることの源となってくださいました。あなたによって、生きること、命が守られ、支えられていることを知ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:詩編 144:5〜11(新共同訳)
きょうは5〜11節です。この箇所の中心となるのは、7, 11節の「異邦人の手から助け出してください」という願いです。
この願いを神に伝えるため、詩人は過去の出来事をモチーフとして祈ります。ここでは出エジプトのイメージが強く出ているように思われますが、おそらく異邦人のイメージを出エジプトの際のエジプト人、ダビデのときのペリシテ人、そしてバビロン捕囚の際のバビロニア人などイスラエルの危機となった異邦人を重ねているのではないかと思います。どれも神が救いの神であることを覚える出来事ですが、特に出エジプトは、神の民イスラエルにとって救いの原体験です。
5〜8節「主よ、天を傾けて降り/山々に触れ、これに煙を上げさせてください。/飛び交う稲妻/うなりを上げる矢を放ってください。/高い天から御手を遣わしてわたしを解き放ち/大水から、異邦人の手から助け出してください。/彼らの口はむなしいことを語り/彼らの右の手は欺きを行う右の手です。」
ここは、紅海を渡り、シナイ山に到着し、十戒を受け取る場面が思い浮かびます。
ここでは出エジプト 19:16~20を見てみましょう。5, 6節のイメージと重なる記述が出てきます。
「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。」
詩人はかつてのように神が現臨してくださることを求めています。
そして 7節「高い天から御手を遣わしてわたしを解き放ち/大水から、異邦人の手から助け出してください。」神がご自身を現してくださるなら、どんな苦難の中からでも救い出してくださると信じています。
そして神に逆らう者には真実はないことを詩人は語ります。8節「彼らの口はむなしいことを語り/彼らの右の手は欺きを行う右の手です。」
依り頼むことのできる真実は、神にこそあると信じているのです。
9~11節「神よ、あなたに向かって新しい歌をうたい/十弦の琴をもってほめ歌をうたいます。/あなたは王たちを救い/僕ダビデを災いの剣から解き放ってくださいます。/わたしを解き放ち/異邦人の手から助け出してください。/彼らの口はむなしいことを語り/彼らの右の手は欺きを行う右の手です。」
「新しい歌」とあります。新しいというのは、古びることのない新しさです。常に新しく自分の前に現れる神の救いの新しさです。昔の出来事ではなく、今この時わたしを救う神の救いの出来事です。そして讃美は、救いの出来事と共にあります。
ここも出エジプトの出来事を見てみましょう。出エジプト 14:31~15:2bです。これは紅海を渡った直後の記事です。聖書で初めて「賛美」という言葉が出てくる箇所です。
出エジプト 14:31~15:2b「イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。/モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。/主に向かってわたしは歌おう。/主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。/主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。/この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。」
神の民イスラエルは、この救いの神の真実に守られて歩んできました。10節「あなたは王たちを救い/僕ダビデを災いの剣から解き放ってくださいます。」
そして 8節の言葉を繰り返します。11節「彼らの口はむなしいことを語り/彼らの右の手は欺きを行う右の手です。」真実は神にこそあります。
実に信じるという行為は、神の真実によって支えられています。神と共に歩む中で、民は神の真実に触れ、信仰を養われてきました。神と共に歩み、神との交わりの中で、神が信じることができるお方であることを示され続けてきました。
わたしたちの生活は、個人も、家庭も、社会も信頼、信じることができるということによって成り立っています。しかし罪がその信じることを壊してしまいました。罪によって信じることが破壊された世にあって、神ご自身が信じられるものとなってくださり、生きるのに不可欠な信じることを与えてくださっているのです。
ですから信じることは、恵みです。わたしたちは「信じたら、救われる」のではありません。「神がわたしの救いの神となってくださった、救いの神でいてくださる」ことを信じるのです。わたしの救いの神であってくださる神の真実を信じるのです。神は、信じて生きる恵みを与えてくださっているのです。神の民は、代々この神の恵みを受けて歩んできたのです。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたは神の民の歩みの中で、あなたが救いの神となってくださったことを示してこられました。そしてあなたは、救いを通してわたしたちの信じることの源となってくださいました。あなたによって、生きること、命が守られ、支えられていることを知ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン