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ローマの信徒への手紙 12:15〜18

2020-11-22 21:08:36 | 聖書
2020年11月22日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 12:15〜18(新共同訳)


 きょうは、読みました所の15, 16, そして18節から聞いて参ります。
 15節「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」
 このローマの信徒への手紙は、書名にもあるとおり手紙です。抽象的な論文ではなく、具体的な相手がいます。パウロはまだローマに行ったことはありませんが、ローマ教会の様子を伝え聞いて、何としてもローマ教会の人たちに伝えたいとこの長い手紙を書きました。パウロの頭には、顔は思い浮かびませんが、キリストを信じ、教会に集い −教会と言ってもまだ信徒の家で礼拝を守る「家の教会」の状態ですが− 主にある兄弟姉妹たちが思い浮かんでいます。ですから「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」というのは一般論ではありません。
 ここでおそらく「泣く人」というのは、13節で「旅人」と言われた人たちではないかと思います。
 13節の所は、原文だと「聖徒の必要のために提供し、よそ者への愛を実践して」となっています。これは、この手紙が書かれた時代状況を考慮すると、まだキリスト者は少数者で、迫害される立場でした。迫害を受けて、住んでいた土地を離れ、同じ信仰のキリスト者を頼りに逃れてきている人たちのことが言われているように思います。今日で言うと「難民」に当たる人たちです。
 信仰故に、困難な状況にある人たちと共に泣くのです。つまり「共感」することが求められています。

 「共感」というのは、信仰に欠かせない感覚です。第一に神に共感し、神の御心に従っていくのです。罪人の救いを願う神の愛に共感し、救いの御業に仕えます。神が愛しておられる人たちを大切にします。
 この共感という感覚は、共に生きるために与えられた恵みです。わたしたちにとって、自分の気持ちが理解してもらえない、分かってもらえないというのはとても辛いことの1つです。罪によって、一人ひとりの善悪が異なってしまったことにより、分かり合える、理解し合えることが傷つけられてしまいました。
 そんなわたしたちに神は、キリストによって神に立ち帰る恵みを与えてくださいました。罪ゆえにバラバラになってしまった者たちが、唯一の神の許に立ち帰り、神の許で出会うのです。唯一の神に共感することを通して、神の御心を共有するのです。

 わたしたちは罪を抱えているので、絶えず神から離れていきます。だから、礼拝へと繰り返し帰ってくるのです。体ごと、丸ごとの自分が神へと帰ってくるのです。そして礼拝で、いつも御言葉を聴くのです。聖書を通して神の御心を聴くのです。わたしたちの教会は、歴史的に「御言葉によって絶えず改革され続ける教会」という言葉を掲げてきました。罪のため繰り返し神から離れて行こうとするこのわたしを、何度でも御言葉によって立ち帰らせて頂くのです。
 そのために、神は教会をお建てくださり、主の日ごとに礼拝を守らせてくださるのです。教会は10人もいれば、合う人合わない人がいます。そういった自分の好みを超えて、神が共におらせてくださるのです。アーメンと共に告白できる信仰を共有させてくださるのです。教会でなければ、一緒にいることはないだろうと思う人と、神が一緒におらせてくださるのです。
 今では、教会に来なくてもキリスト教の学びは出来ます。聖書の学びもいくらでもできます。しかし教会では、合わない人、理解するのが難しい人と、キリストの救いの故に共におらせて頂く、アーメンと共に告白する同じ信仰に与らせて頂くのです。まさに教会では、神の救いの御業が目に見える形で現されているのです。聖書の学びは趣味でもできますが、教会生活は趣味ではできません。教会だからこそ罪が露わになることもあります。光である神に近づくからこそ、影がより濃くはっきりと現れます。一人ひとりが祈りつつ、神と共に歩むのでなければ、教会生活は成り立ちません。

 パウロは、多くの人がやって来る大都市ローマの教会に集うキリスト者が、キリストによってつながれ、喜ぶこと、泣くことを共有し、分かち合い、神と共に歩むことを願っているのです。喜ぶことを共有するとき、イエスが5つのパンと2匹の魚で大勢を満たしたように(ヨハネ 6章)、そこに集うキリスト者が神の恵みに満たされていくでしょう。そして泣くことを共有するとき、泣く者は孤独から導き出され、多くの祈りが自分のためになされ、神が祈りに応えてくださることを知るでしょう。

 16節「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。」
 この節は、訳も解釈も多様で、説明し出すと長くなりますが、要点は「キリストに倣って、高ぶることのないように」という勧めです。
 「互いに思いを一つにし」というのは、「互いのことを同じように心にかけ、同じキリストの愛を心に抱くように」という勧めです。わたしたちの歩みの基準となるのは、イエス キリストです。共にただ一人の救い主であり羊飼いであるイエス キリストに従って歩みます。そのイエス キリストは、あなたの救いもわたしの救いも同じように思ってくださり、あなたのためにもわたしのためにも十字架を負ってくださいました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ 2:6~9)救いは、イエス キリストにあります。だからキリストに倣って「高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」と勧めているのです。
 文法的な説明は省きますが、「低い人々」は「低いこと」と訳し「「低いことに同調し」(田川建三)、つまり「謙遜でありなさい」と訳している人もいます。よく子どもと話すときに、しゃがんで子どもと同じ目線で話すように言われることがありますが、イエスが人となってわたしたちの所まで来てくださった、わたしたちと同じ目線に立ってくださった。それと同じように、その人と同じ目線に立ち、その人の喜び、悲しみに共感して、共に歩むことが勧められています。

 そのようにキリストを仰ぐときに「自分を賢い者とうぬぼれてはなりません」と言われます。この世の知恵・賢さは、キリストの愛は評価しても、十字架は評価できません。十字架の道を歩むキリストに従おうとするとき、世はそれに反対し、それを愚かと判断します。それはうまいやり方ではなく、自分の得になるやり方ではないと考えます。教会であっても、しばしばうまいやり方、こうすれば問題を乗り越えることができるというやり方、経済的に得をするやり方が選ばれます。しかし、この世の知恵・賢さではキリストに従えないことに気づいていなくてはなりません。ただひたすらにキリストを仰ぎ、神の御心を求めていくのです。教会は神の御業であり、神の御心によって建てられていくものだからです。

 神の御心を第一としていくとき、神はわたしたちに平和を与えてくださいます。神が与えてくださる平和は、単に争いがない状態ではなく、共にあることを喜べる状態です。神が共にいてくださることが嬉しい、喜べる、それが神の平和、シャロームです。神の民イスラエルにおいては、シャロームは挨拶の言葉です。朝も昼も夜も使える挨拶だと聞いています。つまり、朝も昼も夜も、いつも神があなたと共にいてくださり、主にある喜びがあなたを満たすように願う、それがシャロームです。
 教会は、できればすべての人がこの神の平和に与り、与えられた命、生涯を喜びのうちに歩めるようにと願って、神の御業に仕えているのです。

 パウロがこれまでこの手紙で語ってきたことは、すべてこの神の平和に至るためです。まだ会ったことのないローマ教会の兄弟姉妹たちが、神の平和に与れることを願ってこの手紙を書きました。その願いは、神の御心でもありました。神はこの手紙をご自身の言葉として聖書に収め、代々に渡ってお語りになりました。だからわたしは、礼拝の最後、神の祝福を告げる際に「神の給う平安 シャロームの内を行きなさい」と言ってから、聖書に記された祝福の言葉を語ります。
 今、神は、わたしたちの救い・幸いを願って、キリストにおいて与えられる神の平安 シャロームへとわたしたちを招いていてくださるのです。きょう共に聞いたこの聖書の言葉、勧めは、わたしたちを神の平安へと、シャロームへと招くための勧めなのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの救いの御業は、わたしたちに共感を与え、共に生きることを与えてくださいます。代々の教会と共に、わたしたちの教会にも喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くことをお与えください。常にイエス キリストを仰ぎ、神の知恵、神の御心を求めていくことができますように。どうかあなたの御心、あなたの愛、あなたご自身に共感し、あなたの平和、シャロームに与ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン