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ヨハネによる福音書 6:30〜35

2020-11-15 19:58:24 | 聖書
2020年11月15日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 6:30〜35(新共同訳)


 イエスは自分を探してやってきた人たちに言われます。「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(6:27)
 そこで人々は尋ねます。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」。永遠の命を得るための業は何かを尋ねます。
 イエスは答えて言われます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」イエスは「自分を信じることが神の業である」と言われます。
 人々はさらに尋ねます。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」

 人々は信じて大丈夫な保証を求めます。「ユダヤ人はしるしを求め」(1コリント 1:22)と聖書は言います。マンナというのは、出エジプトの際、荒れ野を旅したとき、神が与えてくださった食べ物のことです。出エジプト記 16章に出てきます。そこでは、神は「天からパンを降らせる」(16:4)と言われ、人々はそれを「マナ」(16:30)と名付けました。マンナというのは、イエスがおられた当時話されていたアラム語の発音のようです。

 イエスは答えられます。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
 イエスは「はっきり」、これは「アーメンアーメン」という言葉を訳したものですが、二度アーメン 真実、まことにという言葉を使って、大切なことを明らかにされます。それは、天からパンを与えたのは、モーセではなく父なる神であるということです。そして神が与えてくださるパンは、世に命を与えるパンであるということです。

 人は、自分に都合のいい指導者が立って、引っ張っていってくれれば問題は解決すると思いがちです。そして今まさに、そういう時代になってきています。まるで民主主義を諦めて近代へと戻ろうとしているかのような状況が世界的に現れつつあります。わたしたちの国もそうです。
 誰を主と仰ぎ、誰に依り頼むのか。誰に望みを置くのか。それによって社会が大きく変わる時代を迎えています。

 人々が「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われます。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
 イエスはご自分を「命のパン」であると言われます。イエス キリストこそが命であることを明言されました。それはここだけでなく、11:25では「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言われました。14:6では「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われます。イエス キリストこそ命です。死へと行き着く他はない罪を負っている命ではなく、父なる神の許へと至る永遠の命です。
 そしてイエス キリストは、永遠の命に至るのに欠けるところのない命のパンなのです。だから「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われたのです。イエス キリストに不足はありません。キリストだけでは残念だけど救いには少し足りない、といことはないのです。救いには、永遠の命には、まだ足りないといった飢えや渇きは決してないのです。イエス キリストこそ、わたしたちの永遠の命なのです。
 この命のパンであるイエス キリストは、「イエス キリストこそわたしの救い主である」と信じて受け入れることを通して受け取ることができ、与ることができるものです。だからイエスは 6:29で「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言われたのです。

 人々はイエスを信じる保証となるしるしを求めましたが、イエス キリストが神が救いの御業をなしておられる「しるし」であり、神の御心を知る「しるし」なのです。
 イエスがお生まれになったとき、天使が羊飼いたちに現れてこう言いました。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ 2:12)そしてイエスご自身こう言われました。「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。・・人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。』(マタイ 12:39~40)つまりイエスの十字架、その死こそ「しるし」なのです。
 救い主として人となり、罪人の救いのためにその命を献げてくださる。その救いの御業は死で終わることなく、復活に至る。これこそ、わたしたちが信じて救いに与るために与えられた「しるし」です。イエスが命のパンである証しです。
 だから教会は、自らのしるしとして十字架を掲げます。ここにイエス キリストが臨んでくださるしるしとして十字架を掲げます。そして、キリストが復活された日曜日ごとに礼拝を献げます。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ 1:29)「見よ、この人だ」(参照 ヨハネ 19:4, 5, 14)とイエス キリストを指し示すのです。

 教会は、人々がイエス キリストを知ることができるように、イエス キリストをはっきりと指し示し、証しをする務めを与えられています。そして今、今まで以上にキリストを明らかに指し示すことを、神はお求めになっておられます。

 神はキリスト以外にも様々なものを「しるし」として用いてこられました。先ほども言いましたが、この「しるし」というものは、神が救いの御業をなしていてくださることを知るためのものであり、神の御心に気づくために与えられたものです。ただ単に奇跡に留まらず、神を指し示すものをしるしとして神はお用いになります。例えば、神は安息日についてこう言われました。「それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのもの」(出エジプト 31:13)であると。また、預言者自身の行動・行為がしるしとして用いられます。神は預言者エゼキエルに言われました。「わたしはあなたを、イスラエルの家に対するしるしとする。」(エゼキエル 12:6)

 そして今、神は新型コロナウィルスを神の御心を知るしるしとして教会に示されていると、わたしは考えます。
 このウィルスのために、教会の営みは変化を余儀なくなされました。礼拝を休みにする、来るのをひかえてもらうという1年前にはほぼ考えもしなかったことが起こりました。このことについては、ヤスクニ通信や福音時報において意見が交わされています。感染の危険性を抑えるため、礼拝を短縮する、聖晩餐の配餐をひかえる、距離を取る、集会を減らすといったことがなされています。インターネットを用いた礼拝の Live配信も行われるようになりました。中会や大会は集まらずに書面で行われたりしています。委員会や理事会もネット環境でのオンライン会議になっています。多くのことが変化しました。
 その中で、神とのつながり、神との交わりを求める思い、信仰が問い直されたように思います。なぜ神が世界に新型コロナウィルスを与えられたのか、それに十分に答えることはとても難しいと思います。それでも神学者や牧師の中には示されたことをネットで世界に向けて発信している人もいます。わたしは、神が与え給うものをきちんと受け止めて、神が示そうとしておられることを受け止めていくことが必要だと思います。
 今、教会はこうしたら大丈夫とうまくやるのではなく、手放せるものを手放し、収束したら以前と同じようにではなく、もっとキリストと出会い、神との交わりに憩う教会であることを求めていくことが、神の御心ではないかと思います。教会が今まで以上にイエス キリストに満たされていくようになることが求められているように思います。聖晩餐において配餐をひかえている今、キリストに与ることを切望する時を過ごすよう求められていると思います。わたしたちは既に二千年キリストの再臨を待ち望んでいます。配餐できるようになるのにどれくらいかかるか分かりませんが、今までよりもさらに深く「マラナ・タ 主よ、来たりませ」と祈ることが求められているように思います。

 わたしたちにはイエス キリストが必要です。永遠の命に至る命のパンであるイエス キリストが必要です。わたしたちの教会がイエス キリストに出会い、神との交わりに生き、憩える教会となりますように。キリストの命が満ち満ちる教会となりますように。神の祝福が絶えず注がれ、集う一人ひとりが主にある喜びと平安に満たされる教会となりますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうかこの教会においてイエス キリストに出会い、あなたが御子を遣わしてくださった御心を深く知ることができますように。わたしたち一人ひとりの命をお与えくださったあなたから、救いを受け取り、永遠の命を受け取り、あなたと共に生きることができますように。いつも共にいてくださるあなたと共に救いの道を歩ませてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 144:5〜11

2020-11-14 10:21:54 | 聖書
2020年11月11日(水) 祈り会
聖書:詩編 144:5〜11(新共同訳)


 きょうは5〜11節です。この箇所の中心となるのは、7, 11節の「異邦人の手から助け出してください」という願いです。
 この願いを神に伝えるため、詩人は過去の出来事をモチーフとして祈ります。ここでは出エジプトのイメージが強く出ているように思われますが、おそらく異邦人のイメージを出エジプトの際のエジプト人、ダビデのときのペリシテ人、そしてバビロン捕囚の際のバビロニア人などイスラエルの危機となった異邦人を重ねているのではないかと思います。どれも神が救いの神であることを覚える出来事ですが、特に出エジプトは、神の民イスラエルにとって救いの原体験です。

 5〜8節「主よ、天を傾けて降り/山々に触れ、これに煙を上げさせてください。/飛び交う稲妻/うなりを上げる矢を放ってください。/高い天から御手を遣わしてわたしを解き放ち/大水から、異邦人の手から助け出してください。/彼らの口はむなしいことを語り/彼らの右の手は欺きを行う右の手です。」
 ここは、紅海を渡り、シナイ山に到着し、十戒を受け取る場面が思い浮かびます。

 ここでは出エジプト 19:16~20を見てみましょう。5, 6節のイメージと重なる記述が出てきます。
 「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた。しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。」

 詩人はかつてのように神が現臨してくださることを求めています。
 そして 7節「高い天から御手を遣わしてわたしを解き放ち/大水から、異邦人の手から助け出してください。」神がご自身を現してくださるなら、どんな苦難の中からでも救い出してくださると信じています。
 そして神に逆らう者には真実はないことを詩人は語ります。8節「彼らの口はむなしいことを語り/彼らの右の手は欺きを行う右の手です。」
 依り頼むことのできる真実は、神にこそあると信じているのです。

 9~11節「神よ、あなたに向かって新しい歌をうたい/十弦の琴をもってほめ歌をうたいます。/あなたは王たちを救い/僕ダビデを災いの剣から解き放ってくださいます。/わたしを解き放ち/異邦人の手から助け出してください。/彼らの口はむなしいことを語り/彼らの右の手は欺きを行う右の手です。」

 「新しい歌」とあります。新しいというのは、古びることのない新しさです。常に新しく自分の前に現れる神の救いの新しさです。昔の出来事ではなく、今この時わたしを救う神の救いの出来事です。そして讃美は、救いの出来事と共にあります。

 ここも出エジプトの出来事を見てみましょう。出エジプト 14:31~15:2bです。これは紅海を渡った直後の記事です。聖書で初めて「賛美」という言葉が出てくる箇所です。
 出エジプト 14:31~15:2b「イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。/モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。/主に向かってわたしは歌おう。/主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた。/主はわたしの力、わたしの歌/主はわたしの救いとなってくださった。/この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。」

 神の民イスラエルは、この救いの神の真実に守られて歩んできました。10節「あなたは王たちを救い/僕ダビデを災いの剣から解き放ってくださいます。」
 そして 8節の言葉を繰り返します。11節「彼らの口はむなしいことを語り/彼らの右の手は欺きを行う右の手です。」真実は神にこそあります。

 実に信じるという行為は、神の真実によって支えられています。神と共に歩む中で、民は神の真実に触れ、信仰を養われてきました。神と共に歩み、神との交わりの中で、神が信じることができるお方であることを示され続けてきました。
 わたしたちの生活は、個人も、家庭も、社会も信頼、信じることができるということによって成り立っています。しかし罪がその信じることを壊してしまいました。罪によって信じることが破壊された世にあって、神ご自身が信じられるものとなってくださり、生きるのに不可欠な信じることを与えてくださっているのです。

 ですから信じることは、恵みです。わたしたちは「信じたら、救われる」のではありません。「神がわたしの救いの神となってくださった、救いの神でいてくださる」ことを信じるのです。わたしの救いの神であってくださる神の真実を信じるのです。神は、信じて生きる恵みを与えてくださっているのです。神の民は、代々この神の恵みを受けて歩んできたのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたは神の民の歩みの中で、あなたが救いの神となってくださったことを示してこられました。そしてあなたは、救いを通してわたしたちの信じることの源となってくださいました。あなたによって、生きること、命が守られ、支えられていることを知ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネの黙示録 7:9〜17

2020-11-08 19:34:43 | 聖書
2020年11月8日(日)主日礼拝  逝去者記念礼拝
聖書:ヨハネの黙示録 7:9〜17(新共同訳)


 わたしたちは家族を始めとして多くの人々に囲まれ、支えられて生きています。そして、愛する者、親しく交わりを与えられた者たちを神の御許へと送ってきました。
 人はこの世において、必ず死を迎えます。長い人生を終えて死を迎える者、若くして、あるいは幼くして天に召される者、不慮の事故によってこの世の生を終える者、大きな病と戦い安息に入る者、様々な死があります。人生が一人ひとり違っているように、死もまた一人ひとりがそれぞれに与えられた死を受け入れていかねばなりません。
 そして、この世に残される者たちは、死という厳然とした事実の前に立たされます。わたしたちは死を前にして、誰もが厳粛な思いにさせられます。

 聖書は死について何と言っているのでしょうか。聖書は、死は罪の結果起こったことであると言います。そして、聖書が繰り返し語る救いとは、罪からの救いであり、罪の結果である死から永遠の命へと救い出すことです。
 わたしたちは、本来神の姿に似せて造られ、神と共に、神の愛の内に生きることを喜ぶものとして生きていました。しかし、人は神の戒めを自ら破ることにより、命の源である神を離れ、死へと向かって歩みだしました。神の愛の内に生きることを止め、孤独な世界へと踏み込んでしまいました。
 神は、わたしたちを孤独と死から救い出し、永遠の命と神の愛の内に生きることができるようにとイエス キリストによる救いの御業をなしてくださいました。

 神は、キリストを、死を打ち破るものとしてお遣わしくださいました。キリストは人としてこの世にお生まれになり、わたしたちが受けなければならない神の審きをすべてその身に負ってくださいました。そして、十字架の上で命を献げ、葬られ、三日目に死を打ち破り、甦られたのです。キリストは、わたしたちが受けるべき審きはご自身で負われ、ご自身が勝ち取られた復活の命はわたしたちに分け与えようとしておられます。今やわたしたちはキリストを信じ、受け入れることにおいて死から救い出され、永遠の命へと移し換えられているのです。

 さてヨハネは、救いが完成する終わりの日の神の国の幻を見ました。そこでは、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆」がいました。神の救いの業が全世界、全人類を包むものであることが示されました。
 彼らは、「白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って」いました。小羊というのは、キリストのことです。そしてなつめやしは勝利のしるし、神の祝福のしるしです。神の民は、死の先に勝利が待っているのです。死を打ち破る神の救いの勝利を祝うのです。
 彼らは大声でこう叫びました。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」。そして、それに応えて天使たちが神を礼拝してこう言います。「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、/誉れ、力、威力が、/世々限りなくわたしたちの神にありますように、/アーメン。」

 わたしたちは愛の内に生きる、ここに生きる意味を見いだします。誰からも愛されない、誰も愛することができない人は、生きる喜びも、希望も見いだすことができません。救いとは、わたしたちを真実に愛してくださる神と共に生きることです。
 聖書はこう語ります。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(1ヨハネ 4:9~10)
 救いは、神の揺るぎなき愛にかかっています。この神の愛を受け、神を愛し人を愛して生きる、ここにわたしたちの救いがあるのです。

 そして、神の愛の内に生きる人生がどこへ行くのかが明らかにされます。長老の一人がヨハネに問いかけます。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」ヨハネが「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」と答えると、長老はこう言いました。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」
 罪の世で生きることは大変なことです。そこには喜びや楽しみもありますが、様々な苦難があります。傷つき破れることもしばしばあります。その一人ひとりを救い主キリストは、自らの血をもって清められるのです。傷つき、破れ、ついには倒れてしまう人生で終わるのではなく、神の国に入れられ、神の愛の内に生きていくことができるように、キリストが自らの命をもってわたしたちを罪の世から救い出してくださるのです。

 「それゆえ、彼らは神の玉座の前にいて、昼も夜もその神殿で神に仕える。」
 キリストによって神の国に入れられた者は、常に神と共にあり、神と共に生きるのです。
 「玉座に座っておられる方が、この者たちの上に幕屋を張る。」
 神が一人ひとりと共に住んでくださいます。神の家族としてくださり、共にあってくださいます。だから「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない」のです。
 神が共におられるからです。すべての苦難は過ぎ去りました。もはや何の恐れもありません。神のみもとにある者を何ものも傷つけることはできません。
 「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」

 救い主としてこの世に来られたキリストは、最後までわたしたちを導かれます。
 ヨハネは、神の国でキリストの言葉が成就しているその様を見たのです。神の国では、神の愛に満たされ、キリストの恵みに満たされ、渇くことがなくなるのです。そして、神ご自身が涙をことごとくぬぐってくださるのです。わたしたちの痛みも苦しみも神はご存じです。涙を抱えて生きてきたことを神は知っておられます。「わたしの与えた命を全うし、よく帰ってきた。」と言って、神は涙をぬぐってくださるのです。わたしたちのすべてを知り、わたしたちのすべてを受け止めてくださる神が、この世の生の最後にもわたしたちを受け止め、神の国へと迎えてくださるのです。

 初めて日本にキリスト教を伝えたフランシスコ ザビエルが海の見える高台にある寺を訪ねたときのこと、その寺の住職に「あなたは若い日と老いた日といずれを望まれますか」と尋ねました。住職は「それは、活力に満ち、何でもできる若い日に優るものはありません」と答えました。皆さんはいかがでしょうか。
 するとザビエルは、折しも大漁の旗をなびかせながら、黄昏迫る港に戻ってきた漁船を指さして「あの舟の人たちは、荒波にもまれ働いているときと、仕事を終え、愛する者の待つ港にたどり着こうとしているときと、いずれが幸せですか」と尋ねました。皆さんはどちらが幸せだと思われるでしょうか。

 わたしたちは、どうなるか分からない宛てのない旅をしているのではありません。わたしたちの命は、神の祝福によって創られ、キリストが命を懸けて救ってくださいました。そしてキリストは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ 28:20)と言われました。わたしたちの人生はいつもキリストが共にいてくださり、導いてくださいます。
 わたしたちは、わたしたちを愛していてくださる神と共に永遠の命の道を歩みます。そしてこの世の生涯が終わると、神の国に招き入れられるのです。神に喜び迎えられ、涙を拭われるのです。
 既に召された兄弟姉妹たちが、神の国で平安の中にあることを思いつつ、わたしたちも主と共に、命の道を、神の国を目指して歩んで行くのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 今生きるわたしたちに対しても、既に召された者たちに対しても、救いの希望を与えてくださることを感謝します。どうかあなたの御言葉を通して、あなたの愛と真実、神の国と永遠の命を仰ぎ見させてください。どうかわたしたちを、あなたが与えてくださる信仰と希望と愛によって歩ませてください。わたしたちを救いの恵みで満たしてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 144:3〜4

2020-11-05 23:36:26 | 聖書
2020年11月4日(水) 祈り会
聖書:詩編 144:3〜4(新共同訳)


 この詩編は、1~2節で神を讃えます。そして3~4節で、神が顧み、愛してくださる人間について語ります。
 単なる独り言(モノローグ)ではなく、神の御前で、神を思い、神と比べながら語ります。神の確かさに対して、人間のはかなさを語ります。

 1~2節で神を喩えます。「岩、支え、砦、砦の塔、逃れ場、盾、避けどころ」。神の確かさを喩える言葉です。一方人間は、「息、影」というはかなさを表す喩えです。

 3節「主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。/人の子とは何ものなのでしょう/あなたが思いやってくださるとは。」
 「人間とは何ものなのでしょう」。色々な人が語るこの哲学的表現の中で、一番有名なのが「人間は考える葦である」(パスカル)という言葉でしょう。
 ですが詩編は「人間は考える葦である」のような積極的な答えを出しません。4節「人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影」。

 詩人の人間観、人間理解の核としてあるのは「神との関係、神とのつながりがあってこその人間」という理解です。旧約の中で語られ、理解されてきた人間です。
 神にかたどって造られた人間。創世記 1:27「神は御自分にかたどって人を創造された。/神にかたどって創造された。/男と女に創造された。」神の息が吹き入れられて生きるようになった人間。創世記 2:7「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
 「神との関係、つながりがあってこその人間」なのです。詩編 94:17「主がわたしの助けとなってくださらなければ/わたしの魂は沈黙の中に伏していたでしょう。」

 この旧約の人間理解に立って詩人は語ります。3節「主よ、人間とは何ものなのでしょう/あなたがこれに親しまれるとは。」
 「親しまれる」とありますが、元の言葉は「ヤダー」という言葉で、普通「知る」と訳すので、多くの訳は「知るとは」(聖書協会共同訳)「知っておられる」(新改訳2017)「み心に留められる」(フランシスコ会訳)「知り」(岩波書店版)「知ってくださる」(月本昭男)と訳しています。聖書で使われる「知る ヤダー」という言葉は、自分のこととして深い関心を抱く(岩波書店版 注)という意味合いを持っています。新共同訳はその意を汲んで「親しまれる」と訳したのでしょう。

 人は神にかたどって造られています。けれど4節「人間は息にも似たもの/彼の日々は消え去る影。」息も影もはかなく実態のないものを表します。現在では、科学的に息には酸素や二酸化炭素という実態があり、その分子が存在しますが、二千数百年前に生きた詩人には、息は実態のないはかないものでした。
 しかし神は存在の源。すべてのものは神が造られました。目に見えるもの、形あるものだけでなく、愛や真実、契約の源。永遠から永遠まで存在する方。まるで人間とは真逆な存在。それなのに、人に深い関心を抱かれ、愛を注ぎ、契約を結び、共に歩んでくださる。詩人は「人間とは何ものなのでしょう/人の子とは何ものなのでしょう」と問いかけながら、実は「神とは一体何ものなのか。神とは真逆のような人間を顧み、深い関心を持って知っていてくださる、愛してくださる神とは何ものなのか」と神について問いかけているようです。

 先に、詩人の人間観、人間理解の核としてあるのは「神との関係、神とのつながりがあってこその人間」という理解だと申し上げました。詩人は、神が確かであることを知っており、神が自分の味方でいてくださることを知っています。だから詩人は、人間のはかなさと向かい合いことができます。認めることができます。だから、自分が罪人であることも受け入れることができます。神が人間の存在の基、根源であり、どんな時にも支えてくださるからです。
 それだけでなく、詩人の信仰、詩人の祈りの基でもあります。神がいてくださるので、未来が見えない世界で、はかなく弱い自分であっても、生きる希望が持てるのです。聖書は告げます。申命記 33:27「いにしえの神は難を避ける場所/とこしえの御腕がそれを支える。」

 だからでしょうか。人のはかなさを語っているのに、この詩篇の言葉には、未来への光が感じられます。神ご自身が光であってくださるからです。
 実に、神はわたしたちのすべてとなって、わたしたちを支えていてくださるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたがわたしたちの主であってくださることは、大きな驚きです。わたしたちがどのようなときも、あなたがわたしたちの基であってくださり、わたしたちのすべてを根底から支えていてくださることに気づかせてください。どうかあなたの許で未来を、神の国を仰ぎ見させてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 12:14

2020-11-01 15:37:41 | 聖書
2020年11月1日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 12:14(新共同訳)


 「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。」
 原文でこの文章の最初の言葉は「あなたたちは祝福しなさい」です。原文が書かれたギリシャ語では、動詞に「あなたたち」という代名詞が含まれるので、一語で「あなたたちは祝福しなさい」と書かれています。「祈りなさい」という言葉は原文にないので、新しい聖書協会共同訳では「祝福しなさい」と訳されています。

 「祝福する」とは何をすることでしょうか。祝うという漢字が入っていますが、お祝いするとはちょっと違います。祝福するというのは、幸いを祈るということです。(だから新共同訳は「祈りなさい」と加えたのかもしれません。)ギリシャ語の「祝福する」という言葉は、語源的には「良いこと」を「言う」という言葉です。
 ここで相手にとって「幸い」って何?「良いこと」って何?という問いが出てきますが、キリスト者の場合、神の恵みと導きを祈り求めるということになるでしょうか。

 ところで、なぜ神は「祝福しなさい」と命じられるのでしょうか。それは、神が祝福されるからです。神が祝福されるので、神にかたどって造られ、神から地を治めるように務めを託されたわたしたちには、祝福することも務めとして与えられているのです。
 信仰の父祖アブラハムは、神から祝福の源とされ、すべての人を神の祝福に与らせる務めが与えられました。創世記 12:2~3「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。/あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(新しい聖書協会共同訳は「祝福の源」を「祝福の基」(口語訳)に戻しました。)
 祝福は、アブラハム以来、神の民の務めなのです。
 だから新約でもこう言われています。1ペトロ 3:9「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」
 テロの時代と言われて久しく、今も世界の各地で血が流され、憎悪の連鎖が作り出されています。その憎悪の連鎖を断ち切るのは、神の祝福です。わたしたちは祝福を受け継ぎ、すべての人々が祝福に与るために召されたのです。祝福の連鎖を作り出すために召されたのです。礼拝も最後は祝福です。神の御前に集った民を、神はいつも祝福をもって送り出してくださいます。

 ただ「祝福しなさい」と言われているのを忘れてしまうほど強い言葉が「迫害する者のために」という言葉です。重ねて「祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と言われます。この言葉を聞いただけで「無理!」と拒否したくなります。
 ただこれも根拠は神にあります。イエス キリストは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ 5:44)と言われました。そして十字架の上でイエスは祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ 23:34)キリストが命をかけられた救いにふさわしく、キリストに倣って道が示されます。

 ただし「呪ってはならない」を律法的に捉えないように気をつけなくてはなりません。なぜならこのように書いたパウロ自身が呪っているからです。ガラテヤ 1:8「たとえわたしたち自身であれ、天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。」1コリント 16:22「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。」
 ですからここで言われているのは「呪いを避けなさい」という強い勧めです。
 呪いは、陰府へと引きずり込む重しのようなものです。それは神の国へと導く救いにはふさわしくないものです。この呪いを打ち消すのが、祝福なのです。
 この罪の世にあって、理不尽な出来事、危険をもたらすような出来事に対して、怒りを禁じ得ないことがあります。その時には、わたしたちの罪を負ってくださったイエス キリスト、そして神に、怒りや呪いたくなる思いを受け止めて頂くのです。旧約の詩編を見ると、神の裁きを求める祈りがいくつもあります。旧約の民も、神に怒りや呪わずにはいられない思いを受け止めて頂きながら歩みました。

 最初に祝福するというのは、幸いを祈るということですと言いました。元の言葉では「良いこと」を「言う」という意味があると言いました。そうすると、相手にとって「幸い」って何?「良いこと」って何?という判断が出てきます。聖書的に言うならば「それは救いに与ること」であろうと思います。
 そして救いを願うとき、悔い改めも必要になってきます。救いを願うときに、裁きを願うこともあるでしょう。

 かつて矢内原忠雄というキリスト者がいました。矢内原は東京帝国大学の教授でしたが、1937年(昭和12年)盧溝橋事件の直後、『中央公論』に民主主義の理念を先取りした「国家の理想」と題する評論を寄稿します。これが大学の内外で矢内原攻撃の材料となってしまいました。そして同年10月1日、矢内原は「神の国」という題で講演をします。そこで矢内原は南京事件を糾弾し「一先ずこの国を葬ってください」という一言を発します。それを矢内原は個人で出していた『通信』にも掲載します。そして同年12月に、事実上追放される形で東京帝国大学教授を辞職します。
 わたしはこの矢内原の言葉も当時の日本という国に対する祝福の言葉、日本の幸いを願い、神のよき導きを求め、日本に対して良い言葉を語る祝福であったと考えています。

 既に報告しましたように、大会 靖国神社問題特別委員会は総理大臣に対して「日本学術会議会員推薦者6名任命拒否の撤回と謝罪を要求します」という抗議文を出しました。矢内原忠雄が大学を追われたのと同じような状況がもう目の前に来ています。かつての戦争の際には、礼拝に官憲が立ち会い、牧師の説教を一言一句確認し、政府に不都合なことが語られたときには逮捕され取り調べを受けました。それは過去の話ではなく、近い将来の話かもしれなくなってきました。

 「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。」わたしは迫害と言えるようなことを経験したことはありません。けれど、迫害を知らずにすむかどうかは怪しくなってきました。

 神は、迫害に対して呪いではなく、祝福で報いていくことを教えられました。わたしたちは本物の救いに共に与れるように、祝福を祈ります。悔い改めを求め、裁きを求め、神の国の到来を求めながら、祝福を祈ります。
 救いはイエス キリストが歩まれたその跡に現れます。キリストは「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。」(1ペトロ 2:23~24)
 だから神はわたしたちに言われます。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちが祝福を語れるように、わたしたちをあなたの救いで満たし、祝福で満たしてください。あなたは祝福を受け継ぐために、わたしたちを召されましたから、あなたの祝福を豊かにお注ぎください。どうかわたしたちを試みに遭わせず、迫害に遭わせず、悪から呪いから救い出してください。どうかあなたの栄光の光でわたしたちを包み、導いてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン