♫まりあ☆の、ちょっぴりスピリチャル♬

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課題

2010-02-24 16:27:12 | 日記
先週は、友人と2人で【新穂高】に行っていた。

行く前に、様々な兆しがあったので、相当覚悟して行ったのだが、
穂高山頂付近(ロープーエーの終点)、マイナス15度?の吹雪の中での神事となった…。

寒いなんてものでなく、全く、指が凍傷になったかと思うくらい、寒かった…。

そして山のパワーは強く、経験を消化し統合するのに、その後何日かを必要とした。

そして神事とは別に、個人的に、それぞれの課題も示された。

はっきり言って、とても厳しい…。


私に関しては、【すべての現象を神の御業とみなせるか】というのが来た。
前から度々来てはいるのだが、一段と強化されて、来た…。

それは、どんな悲劇に遭遇しても、そこに天の秩序と恩恵、大いなる愛を見出せるかどうかということだ。
感情をそのまま受けとめながらも、至高なるものの采配を信じ、不動でいられるかどうか…。

話しはそれるが、
今までも、私の人生、まるで聖書にある【ヨブ記】のようだと思ったことが多々ある。

【ヨブ記】とは、
神への信仰を試される試練に置かれたヨブが、あらん限りの災難や悲劇に見舞われ、
最終的には持てるものすべてを失ったのだが、
どんな目に遭っても神への信頼を捨てなかったため、最終的にはすべて報われた…みたいな話だ。

ただ、ヨブと違って私は根性無しなので、辛い目に遭うとさっさとすぐに、信仰を捨てる。

(もう至高なるものだの、内なる神だのどうだっていいから、
普通に現世利益で生きるのよ!)
と思って逃げようとする。
なのにどういうわけだか、天は私を見捨ててくれず、いつも【魂の道】に強制送還されてしまうのだ。

感謝するべきなのだろうが、自我はちっとも嬉しくない。

課題を乗り越えれば、それだけ軽く自由になり、【至福】に近づくことは分かっている。
でも、それにしても、あんまりキツ過ぎやしませんか…?というのが、いつもの自我の言い分だ。

でも悔しいことに、ちゃんと耐えられる範囲でしか、負荷が掛からない様になってるんだよね、これが…。

と言うわけで、相変わらず試練に次ぐ試練の波にさらされて、あんまり息つけない毎日ではある。



【課題】は、自分で越える以外、仕方がない。
誰かに代わりにやってもらうことはできない。

偽りの宗教は、何かの神や人を信じることで【救い】がもたらされるというが、
そんなことは有り得ない。

話しはまたまたそれるけど、
何年か前、【30万円を払ったら、あなたのカルマを全部消します】というセッション(有名な人のだよ)のお誘いを受けたことがある。
それこそ、(有り得ないこと!)と私は判断したので、丁重にお断りした。
でも心が弱っている時には、ついフラフラと人の言いなりになってしまうこともあるだろうから、注意しないとね。
やっかいなことに、純粋な人、あるいは疑い深い人ほど、
何かのきっかけで、そういう落とし穴にハマってしまうことが多い気がするので、お気をつけあれ。

【信じる】ことは悪いことではないのだが、【信じるもの】が間違っていると思う。

例えばイエスにしろシャカしろ、
『内なる神を見出し、それと合一すれば、あなたも私のようになれる』と言っているのであり、
それには、
『自分達の伝えた(真理)を信じ、実行することだよ』ということであり、
自分達を【神】として崇め信じ、
祈ってさえいれば、すべての問題が解決し幸せになれるなどとは、ひとことも言っておられない。

だから私が思うに、【信じるものは自分の魂】
【やるべきことはそれに従い、示された課題に逃げずに自分で取り組むこと】

その姿勢で生きていれば、
苦難の中にあっても必ず天は、天使だの何だのを遣わし、
その努力が実り、【より広大な私】になれるようにサポートして下さるのだ。

まあ、何度もそういった恩恵を受けてここまで来てるのに、
未だにジタバタしてばかりの私がいう事でもないけどね…ははは…。