バンクーバーオリンピックの注目の対決であるキム・ヨナと浅田真央の戦いも終わり、何となくクライマックスを過ぎた様な虚脱感が私を包んでいます。
今回の女子フィギュアは二人の天才を中心に、安藤美姫を始めに鈴木明子・長洲未来・ジョアニー・ロシェット・レイチェル・フラットなど独自の表現技術を持つ個性的演技者が多く集結した大会でした。
それというもこの二人の対決の四年間の経過が私の興味をそそり注目した結果、他の選手の情報も蓄積していったからでした。
頂上決戦の二人の技量は高さは周知の事実として、私はこの二人を追いかけた選手達から表現技術の変遷の面白さを見るのです。
このオリンピックという大舞台に立つ為の準備は、選手自身や彼女を取り囲む環境によってそれぞれ違いがあるとは思いますが、観客としてオリンピックに至る大会ごとの結果だけを観ている私にとって選手の演技完成度の推移がきになります。
大まかに言えば、選手は大会の為に曲を決め、振り付けを会得していきます。
初期段階段階の選手達は振り付けを曲に乗せることだけで精一杯といった感じでした。
その演技からはカウントを数える選手の声が聞こえてくるようでした。
やがてその演技が繰返されていくと、選手の関心は振り付けの内容や感情表現へと移行していきます。自分に課された振り付けが何を表現しようとしているのか、その時に自分はどの様な気持ちでいなければならないのか。表現者として階段を一つ上るのです。
それは観客の意識から振り付けを忘れさせ、曲との一体感を生み出していく事に他なりません。
しかし、それはまだ受身な状態なのです。この状態では観客を「安心」させる事はできても心を動かす事はできません。
それから一段上って行く為には、自分はこうしたいという積極的な欲求を持つことが不可欠になって来ます。オリンピックに出場する選手はここまでは行ってます。
そうする事で観客は「感心」を覚えます。
それから上の段階は表現の中でその人でしかないサムシングが必要になってきます。
このサムシングを手に入れた選手は観客に「感動」を与えることができるのです。
この道程。なんと舞台表現とリンクしているのでしょう。
振り付けを台本に置き換えて考えてみると、そうしなければならない事の相似性が見えてきます。
表現の在り方はどこにでも転がっているということです。
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