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変化を受け入れることを学ぶ

2024-04-20 19:18:41 | 日記
変化を受け入れることを学ぶ

「イエス・キリストは、昨日も、今日も、いつまでも同じです。」(ヘブル人への手紙13:8)

あなたは人生において変化に直面している時期を過ごしていますか? 変化を歓迎する人もいますが、変化は他の人にとっては非常に困難なことかもしれません。
新しい仕事を始めたり、新しい友達を作ったり、学校の新学期を始めたりといった変化は、ワクワクするものです。しかし、望まない変化はつらいこともあります。では、人生で直面する変化に私たちはどのように対処すればいいのでしょうか。
伝道の書 3:1 には、「何事にも定まった時期があり、天の下のあらゆる営みには時がある」とあります。このように変化をとらえれば、変化に対処する準備がより整います。クリスチャンとして、私たちはすべての出来事には目的があり、神はどんな状況でも働けるということを知っています。
さらに、困難な変化の真っ只中にいるとき、イエスが地上で苦しみを経験し、それがどのようなものかを知っていることを知ることで、慰めを見出すことができます。結局のところ、イエスは私たちが彼とともに永遠の命を得ることができるように、私たちの罪のために十字架で亡くなられたのです。
試練を受けているとき、私たちはしばしば、それに伴う損失に目を向けます。しかし、私たちは神が、神を信じる人々の益のためにすべてを働かせてくださることを知っています。今経験していることの背後にある目的がわからないとしても、神がより大きな計画をお持ちであることを信じることができます。エレミヤ書 29:11 には、「主は言われる。わたしはあなたがたのために立てている計画を知っている。それは平安を与える計画であり、災いを与える計画ではない。あなたがたに将来と希望を与えるためである」とあります。
結局のところ、変化は難しいかもしれませんが、それを受け入れることを学ぶことで、信仰を深めることができます。神の計画を信頼すると、神は私たち信者を毎日変えてくださいます。ですから、これからの一年で変化を経験するとき、この真実を忘れないでください。

神の慈悲深い御手

2024-04-20 19:08:33 | 日記
神の慈悲深い御手

物事は私たちに起こります。人生の多くは、私たちが置かれている状況の集合体です。たとえば、私たちの両親、遺伝的設計、天気、教育の多く、政府などはすべて、私たちが「私たちに起こっている」と経験するものなのです。
ギリシャ語の文法では、これらは「受動態」と呼ばれるもので表現されます。
しかし、私たちは物事を*起こす*こともできます。私が行動を起こして何かをするとき、これは「能動態」で表現されます。
しかし、ギリシャ語の文法には*第3の声*、つまり*「中動態」*もあります。
これは完全に能動態でも完全に受動態でもありません。中動態を使用するとき、私は行動の結果に参加しています。
キリスト教の祈りは中動態で話されます。神々が私たちの命令に従う儀式的な異教の祈りのように、私がコントロールする行為ではないため、能動態ではあり得ません。祈りは、私が神々や女神の意志に翻弄される受動態でもありません。
ユージン・ピーターソンが言うように、キリスト教の祈りでは、「私は、私を創造し救ってくれる主によって始められた行為に参加し、彼の慈悲深い行為の結果に参加していることに気づきます。」
ある意味では、キリスト教徒の生活のすべてが祈りです。私たちは生活の中で神の恵み深い御手を歓迎し、神がこの世でなさっていることに参加します。
神はあなたを神の計画に関与させます。もちろん、神だけですべてを行うこともできますが、神はあなたを関与させることを選びます。神はあなたに自由を与えますが、それでも神が支配し続けます。

‭詩編 50:1-15 新共同訳‬ [1] 【賛歌。アサフの詩。】 神々の神、主は、御言葉を発し 日の出るところから日の入るところまで 地を呼び集められる。 [2] 麗しさの極みシオンから、神は顕現される。 [3] わたしたちの神は来られる 黙してはおられない。 御前を火が焼き尽くして行き 御もとには嵐が吹き荒れている。 [4] 神は御自分の民を裁くために 上から天に呼びかけ、また、地に呼びかけられる。 [5] 「わたしの前に集めよ わたしの慈しみに生きる者を いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者を。」 [6] 天は神の正しいことを告げ知らせる。 神は御自ら裁きを行われる。〔セラ [7] 「わたしの民よ、聞け、わたしは語る。 イスラエルよ、わたしはお前を告発する。 わたしは神、わたしはお前の神。 [8] 献げ物についてお前を責めはしない。 お前の焼き尽くす献げ物は 常にわたしの前に置かれている。 [9] わたしはお前の家から雄牛を取らず 囲いの中から雄山羊を取ることもしない。 [10] 森の生き物は、すべてわたしのもの 山々に群がる獣も、わたしのもの。 [11] 山々の鳥をわたしはすべて知っている。 獣はわたしの野に、わたしのもとにいる。 [12] たとえ飢えることがあろうとも お前に言いはしない。 世界とそこに満ちているものは すべてわたしのものだ。 [13] わたしが雄牛の肉を食べ 雄山羊の血を飲むとでも言うのか。 [14] 告白を神へのいけにえとしてささげ いと高き神に満願の献げ物をせよ。 [15] それから、わたしを呼ぶがよい。 苦難の日、わたしはお前を救おう。 そのことによって お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」

神はあなたを救うでしょう

世界中の何百万もの人々にとって、COVID-19の流行は「苦難の日」でした。現在は、アフガニスタン、ウクライナ、人道危機、経済的困難など…
あなたはどうですか?人生で問題に直面していますか?自分や愛する人の健康を心配していますか?仕事でストレスの多い状況に陥っていますか?難しい人間関係に悩んでいますか?経済的な問題に悩んでいますか?神は宇宙を完全に支配しています。「主なる神は語り、太陽の昇る所から沈む所まで、地を召される」(1節)
神はすべてのものを所有しています。私たちは自分の小さな場所や所有物のために争い、奮闘するかもしれませんが、最終的には神がすべてを所有します。「森のすべての獣はわたしのものであり、千の山の家畜もわたしのものである」(10節)。
イエスは人間に依存してはおられません。「たといわたしが空腹であったとしても、わたしはあなたにそうは言わないだろう。世界とその中にあるすべてのものはわたしのものだからである」(12節)。
それにもかかわらず、彼は優しくあなたに役割を与えてくれます。
・神に感謝しなさい
「神に感謝の供え物をささげなさい」(14a節)。
・神に呼びかけなさい
「苦難の日にわたしを呼びなさい」(15a節)。
・神を敬いなさい
「わたしはあなたを救い、あなたはわたしを敬うであろう」(15b節)。
私は何度も詩篇50篇15節に戻ってきました。私は「苦難の日」に主に呼びかけました。振り返ってみると、主の慈悲深い御手が私をどれほど頻繁に救ってくれたかがわかり、驚きます。
主よ、祈りに対するすばらしい答えを本当にありがとうございます。主よ、今、私を救ってくださるよう、もう一度あなたに祈ります...

‭ルカによる福音書 22:1-38 新共同訳‬ [1] さて、過越祭と言われている除酵祭が近づいていた。 [2] 祭司長たちや律法学者たちは、イエスを殺すにはどうしたらよいかと考えていた。彼らは民衆を恐れていたのである。 [3] しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。 [4] ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。 [5] 彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。 [6] ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。 [7] 過越の小羊を屠るべき除酵祭の日が来た。 [8] イエスはペトロとヨハネとを使いに出そうとして、「行って過越の食事ができるように準備しなさい」と言われた。 [9] 二人が、「どこに用意いたしましょうか」と言うと、 [10] イエスは言われた。「都に入ると、水がめを運んでいる男に出会う。その人が入る家までついて行き、 [11] 家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をする部屋はどこか」とあなたに言っています。』 [12] すると、席の整った二階の広間を見せてくれるから、そこに準備をしておきなさい。」 [13] 二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。 [14] 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。 [15] イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。 [16] 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」 [17] そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。 [18] 言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」 [19] それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」 [20] 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。 [21] しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。 [22] 人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」 [23] そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。 [24] また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。 [25] そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。 [26] しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。 [27] 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。 [28] あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。 [29] だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。 [30] あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」 [31] 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。 [32] しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 [33] するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。 [34] イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」 [35] それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、 [36] イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。 [37] 言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」 [38] そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。

あなたの祈りは変化をもたらします

自分を他の人と比較したくなるときがありますか?

イエスの弟子たちが、私たちと同じような多くのことに苦闘していたことを知ると、勇気づけられます。弟子たちの間では、誰が最終的に一番偉くなるかをめぐって口論がありました(24節)。自分を他人と比較する誘惑は常につきものです。これは、(自分がよりうまくやっていると思う場合)誇りにつながり、(自分がよりうまくやっていないと思う場合)嫉妬、羨望、不安につながります。
イエスは、王国の価値観はこの世の価値観と正反対であると指摘しています。「王は威厳を振りかざし、権力者は派手な称号を自分に与えたがります。しかし、あなたたちの間ではそうではありません。あなたたちの中で年長者は年少者のようになり、指導者はしもべの役目を果たしなさい。…私はあなたたちの中で仕える者としての立場に就きました。」(25-27節、MSG)。
このドラマで各人が演じた役割を見ると、聖書が予定説(神がすべてを前もって計画していた)と自由意志の両方を教えていることが再びわかります。これは聖書が緊張関係に置いた謎であり、人間のシステムが何らかの方法でそれを説明しようとすると、当然私たちは疑念を抱きます。この節では、この緊張関係が実際にどのように機能するかを示す 3 つの例が示されています。
1.ユダ
ここでは、悪がどのように働くかの恐ろしい描写が見られます。誘惑から逃れられる人は誰もいません。ユダはイエスが選んだ12人のうちの1人ですが、サタンが彼の中に入ります(3節)。
イエスは、これらすべてはあらかじめ知られており、実際に予定されていたと言います。「人の子は、定められたとおりに去るであろう」(22a節)。しかし、それがあらかじめ知られ、予定されていたという事実は、ユダの責任を免除するものではありません。「しかし、彼を裏切るその人は災いである」(22b節)。
矛盾なのは、「それは定められていた」にもかかわらず、ユダは自由意志を持っているということです。ユダの「意志」が関係していました。イエスを裏切るために金銭を提供されたとき、ユダは「同意し、イエスを引き渡す機会をうかがっていた」(6節)。
2. シモン・ペテロ
ユダの中に入った同じ「サタン」(3節)は、ペテロを「麦のようにふるいにかける」(31節)ことを望みました。
ペテロはイエスを失望させないという強い自信がありました。「主よ、わたしは獄にでも、また死に至っても、あなたとご一緒に行く覚悟です」(33節)。イエスはペテロが失敗するであろうことを知っていました。「ペテロよ、あなたに言います。あなたは、きょう鶏が鳴く前に、わたしを知らないことを三度否認するでしょう」(34節)。
しかし、結局、彼の信仰は失われませんでした。イエスはこう言われました。「しかし、シモンよ、私はあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」(32節)。これは、予定説と自由意志というこの驚くべき矛盾の中で、祈りが本当に違いを生むことを示しています。なぜ、どのようにそれが機能するのか、私たちには決して理解できないかもしれません。しかし、イエスの例は、それが本当に重要であることを示しています。あなたの祈りは違いを生みます。
3. イエス
イエスの生と死において、私たちは運命と自由意志の矛盾を最もよく見ることができます。イエスは「人の子は定められたとおりに去る」(22節a)と言います。イエスは「『彼は罪人たちの中に数えられた』と書いてある。私はあなた方に言いますが、このことは必ず私に実現するでしょう。そうです、私について書かれていることは実現しつつあります」(37節)と言います。イエスの死はあらかじめ定められ、計画され、運命づけられていたというこれ以上に強い主張はありません。しかし、イエスは自ら進んで死に赴き、死ぬことを選択しました。イエスは私たちのために体を捧げました(19節)。
私たちは神の役割と私たちの役割のバランスを見ています。聖餐を受けるたびに、そのことを思い出します。イエスはこう言われました。「これはあなたたちのために与えられる私の体です。…この杯はあなたたちのために流される私の血による新しい契約です」(19、20節)。これが難しい部分です。イエスは私たちのために自ら命を犠牲にされました。私たちの役割は比較的簡単です。「私の記念としてこれを行いなさい」(19節)。
主よ、私のためにこれらすべてをしてくださり感謝します。私のためにあなたの体を捧げ、血を流してくださったことに感謝します。私の人生に恵みを与えてくださったことに感謝します。

ヨシュア

3:1-5:12

神は素晴らしいことをする

神があなたと共におられることに気づいていますか? 神があなたと共におられるなら、あなたはこれから起こるあらゆる困難に立ち向かうことができます。神はヨシュアにこう言われます。「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる」(3:7)。
ここでも、私たちの役割と神の役割のバランスが見られます。
1.備えよ
神は民のために奇跡を起こそうとしていました。しかし、民自身にも果たすべき役割がありました。ヨシュアは民に備えよと告げます。「身を清めよ。明日、神はあなたたちの中で奇跡を起こすであろう」(3:5、MSG)。
また、ヨルダン川を渡る準備として、特定の役割を果たす人々を選ぶという任務も与えられました(4:1–4)。
2. 神の備え 私たちは再び神の恵みの御手を見ます。主は「驚くべきこと」をなされました(3:5)。その驚くべきことの一つはヨルダン川を渡ったことです(ヨシュア記 3章)。
神はヨシュアを高めると約束しました(7節)。ヨシュアは自らを高めませんでした。しかし、「その日、主はイスラエル全体の前でヨシュアを高められた」(4:14)。
神は人々の必要をすべて満たしました。「彼らがその土地の食物を食べた翌日から、マナはやんだ。イスラエル人にはもはやマナがなかったが、その年彼らはカナンの地の産物を食べた。」(5:12)神は彼らが必要とするだけのものを与え、それ以上は与えませんでした。
これにより、彼らは物質的な安全と自給自足から遠ざかり、おそらく神への信頼を失うことになりました。あなたの安全と信頼は神のみになければなりません。神は常に十分なものを与えてくださっていますが、それ以上は与えてくださりません。
主よ、あなたの計画に私を驚くべき方法で参加させてくださり、ありがとうございます。今日、私はあなたに自分自身を捧げます。私の中で素晴らしいことをしてくださり、私の必要をすべて満たしてくださると約束してくださったことに感謝します。

ピッパはこう付け加えます
ルカ 22:24
「最も偉大」であることというテーマは繰り返し出てきます。弟子たちは権力をめぐって争っていました。災難が降りかかるときに、それはとても不適切だったように思えます。彼らはイエスから指示を受けるべきでした。

この時点では、彼らのうちの誰も偉大なリーダーになるとは思えませんでしたが、彼らはそうなりました。これは私たち全員に希望を与えてくれます。

祈ることを選択する

2024-04-20 18:14:58 | 日記
‭テサロニケの信徒への手紙一 5:17 新共同訳‬
[17] 絶えず祈りなさい。

祈ることを選択する

テサロニケ人への第一の手紙 5:16-18 は完全な文ですが、力強い命令でいっぱいです。 いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにおいてあなたがたに対する神の御心だからです。 今日は、真ん中の節だけを見てみましょう。絶えず祈りなさい。 あなたを造られた神は、あなたの名前を呼び、神のもとに来て話をするように招いています。そして素晴らしいことに、あなたが何を感じ、何を考えているかに関係なく、いつでも神と話すことができます。あなたの人生のどの部分も神を怖がらせることはありません。 絶えず祈るという考えは、時には威圧的に感じることがありますが、それは意図されたことではありません。祈りは、神との双方向の会話に過ぎません。会話を多くすればするほど、天の父の心をより深く知ることができます。そして、神の心を知るにつれて、神にさらに近づくことができます。 祈りはまた、私たちを聖霊と調和させてくれます。 真剣に祈るとき、聖霊が私たちに語りかける余地が生まれます。神と話し、神に近づくとき、神の聖霊は私たちの生活における神の存在と力をより意識させてくれます。 神の声を聞く余地を作るとき、私たちは神から受け取る余地を作り、神がどのような方であるか、そして神が私たちのためにしてくださったすべてのことを思い出します。私たちが神に自分の問題について語り、積極的に神に懸念を告げるとき、心配や恐れの余地はほとんどありません。 今日、私たちは天の父と常にコミュニケーションをとる姿勢をとろうではありませんか。

神様、今、私はあなたと話をすることができてとても感謝しています。あなたと会話をすることができるようにしてくださってありがとうございます。そして、ありのままの私をあなたの前に招いてくださったことに感謝します。今日、どうか私の思いがあなたに集中しますように。イエス様の御名により、アーメン。