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喜びをもって与えなさい 

2024-04-24 20:54:48 | 日記
喜びをもって与えなさい

神にとって、贈り物よりも与える人の心が大切です。

‭コリントの信徒への手紙二 9:6-8 新共同訳‬ [6] つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。 [7] 各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。 [8] 神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。

与えるという行為は、神の心の中で特別な位置を占めています。今日の聖書箇所の第 7 節は、神が私たちが持っているものを分かち合う方法を気にかけていることを思い出させてくれます。神は、喜びの心と進んで行う精神で喜んで与える人を喜ばれます。
不承不承、あるいは義務感から与えると、神の寛大な性質に心を合わせる喜びを逃してしまいます。他の人と分かち合うことは、重荷ではなく特権として捉えるべきです。それは、神の働きに参加し、周囲の人々の必要を満たすことで神の手足となる機会なのです。
主が私たちの捧げ物をどう見るかは、私たちの心の状態によって決まります。贈り物の額ではありません。喜んで捧げることは、主の祝福に対する感謝と、主の備えに対する信頼の表れです。私たちが持っているものはすべて神のものであり、私たちはただの管理者であることを認めることになります。ですから、神と協力して他の人を祝福しながら、捧げる喜びで心を満たしてください。そして、大切なのは金額ではなく、贈り物の背後にある愛であることを忘れないでください。
今、少し時間を取って、神があなたに惜しみなく与えてくださったように、他の人に惜しみなく与えるよう、あなたを招いているのはどこなのか、神に尋ねてみましょう。誰に与えたのかを神に尋ね、それから忠実に従順にその「何」を実行してください。

喪失

2024-04-24 17:18:18 | 日記
‭ルツ記 1:1-21 新共同訳‬ [1] 士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。 [2] その人は名をエリメレク、妻はナオミ、二人の息子はマフロンとキルヨンといい、ユダのベツレヘム出身のエフラタ族の者であった。彼らはモアブの野に着き、そこに住んだ。 [3] 夫エリメレクは、ナオミと二人の息子を残して死んだ。 [4] 息子たちはその後、モアブの女を妻とした。一人はオルパ、もう一人はルツといった。十年ほどそこに暮らしたが、 [5] マフロンとキルヨンの二人も死に、ナオミは夫と二人の息子に先立たれ、一人残された。 [6] ナオミは、モアブの野を去って国に帰ることにし、嫁たちも従った。主がその民を顧み、食べ物をお与えになったということを彼女はモアブの野で聞いたのである。 [7] ナオミは住み慣れた場所を後にし、二人の嫁もついて行った。 故国ユダに帰る道すがら、 [8] ナオミは二人の嫁に言った。 「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。 [9] どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように。」ナオミが二人に別れの口づけをすると、二人は声をあげて泣いて、 [10] 言った。「いいえ、御一緒にあなたの民のもとへ帰ります。」 [11] ナオミは言った。 「わたしの娘たちよ、帰りなさい。どうしてついて来るのですか。あなたたちの夫になるような子供がわたしの胎内にまだいるとでも思っているのですか。 [12] わたしの娘たちよ、帰りなさい。わたしはもう年をとって、再婚などできはしません。たとえ、まだ望みがあると考えて、今夜にでもだれかのもとに嫁ぎ、子供を産んだとしても、 [13] その子たちが大きくなるまであなたたちは待つつもりですか。それまで嫁がずに過ごすつもりですか。わたしの娘たちよ、それはいけません。あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。主の御手がわたしに下されたのですから。」 [14] 二人はまた声をあげて泣いた。オルパはやがて、しゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツはすがりついて離れなかった。 [15] ナオミは言った。 「あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。」 [16] ルツは言った。 「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。 わたしは、あなたの行かれる所に行き お泊まりになる所に泊まります。 あなたの民はわたしの民 あなたの神はわたしの神。 [17] あなたの亡くなる所でわたしも死に そこに葬られたいのです。 死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」 [18] 同行の決意が固いのを見て、ナオミはルツを説き伏せることをやめた。 [19] 二人は旅を続け、ついにベツレヘムに着いた。 ベツレヘムに着いてみると、町中が二人のことでどよめき、女たちが、ナオミさんではありませんかと声をかけてくると、 [20] ナオミは言った。 「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。 [21] 出て行くときは、満たされていたわたしを 主はうつろにして帰らせたのです。 なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。 主がわたしを悩ませ 全能者がわたしを不幸に落とされたのに。」

‭ルツ記 2:1-23 新共同訳‬ [1] ナオミの夫エリメレクの一族には一人の有力な親戚がいて、その名をボアズといった。 [2] モアブの女ルツがナオミに、「畑に行ってみます。だれか厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」と言うと、ナオミは、「わたしの娘よ、行っておいで」と言った。 [3] ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後について畑で落ち穂を拾ったが、そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。 [4] ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに、「主があなたたちと共におられますように」と言うと、彼らも、「主があなたを祝福してくださいますように」と言った。 [5] ボアズが農夫を監督している召し使いの一人に、そこの若い女は誰の娘かと聞いた。 [6] 召し使いは答えた。 「あの人は、モアブの野からナオミと一緒に戻ったモアブの娘です。 [7] 『刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください』と願い出て、朝から今までずっと立ち通しで働いておりましたが、今、小屋で一息入れているところです。」 [8] ボアズはルツに言った。 「わたしの娘よ、よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾いに行くことはない。ここから離れることなく、わたしのところの女たちと一緒にここにいなさい。 [9] 刈り入れをする畑を確かめておいて、女たちについて行きなさい。若い者には邪魔をしないように命じておこう。喉が渇いたら、水がめの所へ行って、若い者がくんでおいた水を飲みなさい。」 [10] ルツは、顔を地につけ、ひれ伏して言った。「よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。厚意を示してくださるのは、なぜですか。」 [11] ボアズは答えた。「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。 [12] どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分に報いてくださるように。」 [13] ルツは言った。「わたしの主よ。どうぞこれからも厚意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」 [14] 食事のとき、ボアズはルツに声をかけた。「こちらに来て、パンを少し食べなさい、一切れずつ酢に浸して。」 ルツが刈り入れをする農夫たちのそばに腰を下ろすと、ボアズは炒り麦をつかんで与えた。ルツは食べ、飽き足りて残すほどであった。 [15] ルツが腰を上げ、再び落ち穂を拾い始めようとすると、ボアズは若者に命じた。 「麦束の間でもあの娘には拾わせるがよい。止めてはならぬ。 [16] それだけでなく、刈り取った束から穂を抜いて落としておくのだ。あの娘がそれを拾うのをとがめてはならぬ。」 [17] ルツはこうして日が暮れるまで畑で落ち穂を拾い集めた。集めた穂を打って取れた大麦は一エファほどにもなった。 [18] それを背負って町に帰ると、しゅうとめは嫁が拾い集めてきたものに目をみはった。ルツは飽き足りて残した食べ物も差し出した。 [19] しゅうとめがルツに、「今日は一体どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いてきたのですか。あなたに目をかけてくださった方に祝福がありますように」と言うと、ルツは、誰のところで働いたかをしゅうとめに報告して言った。「今日働かせてくださった方は名をボアズと言っておられました。」 [20] ナオミは嫁に言った。 「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。」 ナオミは更に続けた。 「その人はわたしたちと縁続きの人です。わたしたちの家を絶やさないようにする責任のある人の一人です。」 [21] モアブの女ルツは言った。 「その方はわたしに、『うちの刈り入れが全部済むまで、うちの若者から決して離れないでいなさい』と言ってくださいました。」 [22] ナオミは嫁ルツに答えた。「わたしの娘よ、すばらしいことです。あそこで働く女たちと一緒に畑に行けるとは。よその畑で、だれかからひどい目に遭わされることもないし。」 [23] ルツはこうして、大麦と小麦の刈り入れが終わるまで、ボアズのところで働く女たちから離れることなく落ち穂を拾った。 ルツはしゅうとめと一緒に暮らしていたが、

‭ルツ記 3:1-18 新共同訳‬ [1] しゅうとめのナオミが言った。 「わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました。 [2] あなたが一緒に働いてきた女たちの雇い主ボアズはわたしたちの親戚です。あの人は今晩、麦打ち場で大麦をふるい分けるそうです。 [3] 体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい。ただあの人が食事を済ませ、飲み終わるまでは気づかれないようにしなさい。 [4] あの人が休むとき、その場所を見届けておいて、後でそばへ行き、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい。その後すべきことは、あの人が教えてくれるでしょう。」 [5] ルツは、「言われるとおりにいたします」と言い、 [6] 麦打ち場に下って行き、しゅうとめに命じられたとおりにした。 [7] ボアズは食事をし、飲み終わると心地よくなって、山と積まれた麦束の端に身を横たえた。ルツは忍び寄り、彼の衣の裾で身を覆って横になった。 [8] 夜半になってボアズは寒気がし、手探りで覆いを捜した。見ると、一人の女が足もとに寝ていた。 [9] 「お前は誰だ」とボアズが言うと、ルツは答えた。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」 [10] ボアズは言った。 「わたしの娘よ。どうかあなたに主の祝福があるように。あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるというようなことをしなかった。今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています。 [11] わたしの娘よ、心配しなくていい。きっと、あなたが言うとおりにします。この町のおもだった人は皆、あなたが立派な婦人であることをよく知っている。 [12] 確かにわたしも家を絶やさぬ責任のある人間ですが、実はわたし以上にその責任のある人がいる。 [13] 今夜はここで過ごしなさい。明日の朝その人が責任を果たすというのならそうさせよう。しかし、それを好まないなら、主は生きておられる。わたしが責任を果たします。さあ、朝まで休みなさい。」 [14] ルツは、夜が明けるまでボアズの足もとで休んだ。 ルツはまだ人の見分けのつかない暗いうちに起きた。麦打ち場に彼女の来たことが人に知られてはならない、とボアズが考えたからである。 [15] ボアズは言った。 「羽織ってきた肩掛けを出して、しっかりつかんでいなさい。」 ルツがしっかりとつかんだ肩掛けの中に大麦を六杯量ってルツに背負わせると、ボアズは町へ戻って行った。 [16] ルツがしゅうとめのところへ帰ると、ナオミは、「娘よ、どうでしたか」と尋ねた。ルツはボアズがしてくれたことをもれなく伝えてから、 [17] 「この六杯の大麦は、あなたのしゅうとめのところへ手ぶらで帰すわけにはいかないとおっしゃって、あの方がくださったのです」と言うと、 [18] ナオミは言った。 「わたしの娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい。あの人は、今日中に決着がつかなければ、落ち着かないでしょう。」

‭ルツ記 4:1-22 新共同訳‬ [1] ボアズが町の門のところへ上って行って座ると、折よく、ボアズが話していた当の親戚の人が通り過ぎようとした。「引き返してここにお座りください」と言うと、その人は引き返してきて座った。 [2] ボアズは町の長老のうちから十人を選び、ここに座ってくださいと頼んだので、彼らも座った。 [3] ボアズはその親戚の人に言った。 「モアブの野から帰って来たナオミが、わたしたちの一族エリメレクの所有する畑地を手放そうとしています。 [4] それでわたしの考えをお耳に入れたいと思ったのです。もしあなたに責任を果たすおつもりがあるのでしたら、この裁きの座にいる人々と民の長老たちの前で買い取ってください。もし責任を果たせないのでしたら、わたしにそう言ってください。それならわたしが考えます。責任を負っている人はあなたのほかになく、わたしはその次の者ですから。」 「それではわたしがその責任を果たしましょう」と彼が言うと、 [5] ボアズは続けた。 「あなたがナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです。」 [6] すると親戚の人は言った。 「そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。それではわたしの嗣業を損なうことになります。親族としてわたしが果たすべき責任をあなたが果たしてくださいませんか。そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。」 [7] かつてイスラエルでは、親族としての責任の履行や譲渡にあたって、一切の手続きを認証するためには、当事者が自分の履物を脱いで相手に渡すことになっていた。これが、イスラエルにおける認証の手続きであった。 [8] その親戚の人は、「どうぞあなたがその人をお引き取りください」とボアズに言って、履物を脱いだ。 [9] ボアズはそこで、長老とすべての民に言った。 「あなたがたは、今日、わたしがエリメレクとキルヨンとマフロンの遺産をことごとくナオミの手から買い取ったことの証人になったのです。 [10] また、わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。故人の名をその嗣業の土地に再興するため、また故人の名が一族や郷里の門から絶えてしまわないためです。あなたがたは、今日、このことの証人になったのです。」 [11] 門のところにいたすべての民と長老たちは言った。 「そうです、わたしたちは証人です。あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。また、あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。 [12] どうか、主がこの若い婦人によってあなたに子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレツの家のように、御家庭が恵まれるように。」 [13] ボアズはこうしてルツをめとったので、ルツはボアズの妻となり、ボアズは彼女のところに入った。主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ。 [14] 女たちはナオミに言った。 「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。 [15] その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」 [16] ナオミはその乳飲み子をふところに抱き上げ、養い育てた。 [17] 近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。 [18] ペレツの系図は次のとおりである。 ペレツにはヘツロンが生まれた。 [19] ヘツロンにはラムが生まれ、ラムにはアミナダブが生まれた。 [20] アミナダブにはナフションが生まれ、ナフションにはサルマが生まれた。 [21] サルマにはボアズが生まれ、ボアズにはオベドが生まれた。 [22] オベドにはエッサイが生まれ、エッサイにはダビデが生まれた。

‭ローマの信徒への手紙 8:31-33 新共同訳‬ [31] では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。 [32] わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。 [33] だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。

喪失

私たちはみな神について暗い考えを持っています。本能的に神に最善を期待しているわけではありません。神は私たちに愛情深く接するのではなく、残酷に敵対しているという考えを私たちは簡単に抱いてしまいます。
ルツ記には、神が自分に敵対しているという考えを抱いただけでなく、それを確信した女性の話が書かれています。「私をナオミと呼ばないでください」と彼女は町の女性たちに言いました。「快い」という意味のナオミと呼ばれることは、彼女にとって残酷な冗談でした。「その代わりに、私をマラと呼んでください。全能者は私の人生を非常に苦しくされました。私は満ち足りて出かけましたが、主は私を空っぽにして帰らせました。主が私を苦しめ、全能者がこのような悲劇を私に下さったのに、なぜ私をナオミと呼ぶのですか?」(ルツ記 1:20-21)
ナオミは、自分の人生で起きた出来事、つまり家、夫、息子たち、そしてこれまでの人生を失ったことを、神が自分に敵対している証拠だと考えていました。ナオミの理解した世界、神の民に対するやり方は、神は私たちが受けるに値するもの、つまり私たちが善行や悪行によって得たものを与えるというものでした。それはヨブの友人たちが持っていたと思われるのと同じ理解でした。ヨブは苦しみの中で、当然受けるべきものを得ていたのです。ナオミとヨブの友人たちは、神に対する理解と期待を、従順な者には祝福を、不従順な者には呪いを約束するモーセの律法に基づいていたようです。しかし、聖書の初めから終わりまで、神がその民に彼らが受けるに値しないものを何度も与えていることが、何度も何度も見られます。それは恵みと呼ばれています。私たちはこの人生が公平であってほしいと思っていますが、それは本当に私たちが望んでいることではありません。完全に公平な世界には、恵み、つまり私たちが受けるに値しないものを得る余地はありません。 そして、この不当な恩恵、神の恵みこそが、私たちの人生において決定的な要素となるのです。
もしナオミが、彼女の死後ずっと後に書かれたローマ人への手紙第8章31節から32節の言葉を聞いて心に留めることができていたなら、どんなに状況が違っていたか想像してみてください。パウロはこう書いています。「もし神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できましょう。神は、私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡されたのですから、そのほかすべてのものをも賜らないはずがあろうか。」
空虚な場所しか見えないときは、見えないものに確信を持って希望を託してください。あなたの味方である神に希望を託してください。神はあなたに対して拳を振り上げていません。その代わりに、神の手があなたの人生に働いています。人生で最も厳しい摂理でさえ、私たちの救い主の釘の跡のある手を通してもたらされることを理解してください。神はあなたの人生にこの空虚さを許し、あなたが想像できる以上に祝福を与えようとしている場所にあなたを引き戻そうとしています。あなたの人生の物語のこの時点では、それを見ることができないだけです。最後まで神を信頼してください。神はあなたの人生の物語を回復、贖い、復活へと導いています。

考えるべき質問:
人生におけるさまざまな状況のせいで、神とその善良さについて、どのような思い込みや疑問を抱いてきましたか? 神があなたの味方であるということは、何を意味しますか (そして、何を意味しませんか)?
祈り:
主よ、ナオミの人生であなたがしてくださったように、私の人生の空虚さにも働きかけてください。私の空虚さを、あなたの手が私に向けられた証拠としてではなく、むしろあなたに向かわせる招きとして見ることができるように助けてください。あなたに対する私の暗い思いを赦し、私の人生をあなたの救いと支えの恵みで満たしてください。

クリスマスの喜びの精神を受け入れる

2024-04-24 05:18:25 | 日記
クリスマスの喜びの精神を受け入れる

「しかし、天使は彼らに言った。『恐れることはありません。見よ、私はすべての民に与えられる大きな喜びを、あなたたちに伝えました。今日ダビデの町に、あなたたちのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主なるキリストです。』」(ルカ2:10-11)

クリスマスについて考えるとき、私たちはたいてい喜びを思い浮かべます。結局のところ、「Joy to the World」や「O Come, All Ye Faithful」など、最も人気のあるクリスマスソングのいくつかは喜びについて歌っています。しかし、クリスマスシーズンは一時的なものであるため、喜びと幸福の違いを知ることが重要です。
幸福は、変化する状況に基づいて生じる感情であり、現れたり消えたりするものです。人生が順調に進んでいるときは幸せを感じやすいですが、状況が計画通りに進まないと、不幸になったり、落胆したり、怒りを感じたりすることがよくあります。
一方、喜びは選択です。喜びを選ぶと、どんなに困難な状況でも喜びに満ちた心を持つことができます。さらに、キリストに喜びを見出すと、キリストは喜びに満ちた生活に必要な力を与えてくださいます。
では、今年のクリスマスに喜びの精神をどのように受け入れることができるでしょうか?
物質的なものは幸福をもたらすことはできますが、喜びをもたらすことはできません。贈り物を交換することは愛情を示す素晴らしい方法ですが、贈り物だけでは本当の喜びは得られないことを覚えておくことが重要です。ですから、ツリーの下の贈り物に注目するよりも、愛する人たちと過ごす時間を大切にしましょう。
さらに、クリスマスはコミュニティに恩返しをし、困っている人を助ける絶好の機会です。私たちが他の人に奉仕し、愛を示すとき、私たちはキリストを反映します。使徒行伝 20:35 には、「私はすべてのことにおいて、このようにして労苦して弱い人を助け、主イエスご自身が言われた『受けるよりは与える方が幸いである』という言葉を心に留めておくようにと、あなたたちに教えました」とあります。究極的には、他の人に奉仕することは私たちに喜びをもたらします。
このホリデーシーズンには、喜びの精神を受け入れることをお勧めします。すべてのお祝いの中心にキリストを置くことで、真の喜びを体験し、この季節の意味を理解できることを忘れないでください。

勝利の人生を生きる方法

2024-04-24 05:08:41 | 日記
勝利の人生を生きる方法

何年も前、私たちの[HTB](https://www.htb.org/ )会衆の若いメンバーが、大手全国紙の図書館で働いていました。この新聞は、あらゆる有名人の古い切り抜きのファイルを保管していました。ファイルは長い棚に並べられ、「生きている人々」と「亡くなった人々」に分けられていました。ある日、その若者が亡くなった人々のファイルを調べていたところ、「イエス・キリスト」と書かれた大きなファイルを見つけました。彼は肩越しに誰も見ていないか確認し、すぐにそのファイルを「亡くなった人々」のセクションから「生きている人々」のセクションに移動しました。
イエス・キリストは生きておられます。死からよみがえられました。死者の列の中でイエスを探している人に対して、天使たちはこう言うでしょう。「*なぜ、生きている方を死者の中に捜すのか*。彼は、ここにはおられない。よみがえられたのだ。」(ルカ 24:5–6)
勝利は汚い言葉ではありません。イエスは偉大な勝利者です。レスリー・ニュービギン司教はよくこう言っていました。「復活は敗北の逆転ではなく、勝利の現れです。」十字架は敗北ではありませんでした。十字架の上で、イエスは私たちのために罪、死、そして悪の力に対する偉大な勝利を勝ち取りました。

‭詩編 51:12-21 新共同訳‬ [12] 神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。 [13] 御前からわたしを退けず あなたの聖なる霊を取り上げないでください。 [14] 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ 自由の霊によって支えてください。 [15] わたしはあなたの道を教えます あなたに背いている者に 罪人が御もとに立ち帰るように。 [16] 神よ、わたしの救いの神よ 流血の災いからわたしを救い出してください。 恵みの御業をこの舌は喜び歌います。 [17] 主よ、わたしの唇を開いてください この口はあなたの賛美を歌います。 [18] もしいけにえがあなたに喜ばれ 焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら わたしはそれをささげます。 [19] しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。 打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。 [20] 御旨のままにシオンを恵み エルサレムの城壁を築いてください。 [21] そのときには、正しいいけにえも 焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ そのときには、あなたの祭壇に 雄牛がささげられるでしょう。

彼の勝利の恩恵を受ける

私はダビデのこの祈りが好きで、自分でもよく祈っています。ダビデは私たちみんなと同じように失敗しました。彼は赦しを求めて叫び、そして今は勝利を求めて叫んでいます。私たちは罪を犯しても救いを失うことはありませんが、救いの喜びを失うかもしれません(12節a)。ダビデは再び罪に負けたくありません。
これらすべては、「砕かれ、悔いる心」(17節b)から始まります。このようにして神のもとに来るなら、拒絶されることはないと確信できます。「砕かれ、悔いる心を、神よ、あなたは蔑まれません」(17節b)。
ダビデは勝利の人生を送れるように祈ります。ダビデの祈りが単に個人的な祈りではないことは注目に値します。彼は町に影響を与えることができるようにも祈ります(18節)。
主よ、私は清い心(10a節)、忍耐する霊(10b節)、神の臨在(11a節)、聖霊の力(11b節)、そして救いの喜びが私に回復されるよう祈ります(12a節)。私は信頼する霊(12b節)と、あなたの道を教え、人々をあなたに立ち返らせることができるよう祈ります(13a節)。あなたを礼拝する舌を祈ります。「主よ、私の唇を開いてください。そうすれば、私の口はあなたの賛美を告げます」(14b-15節)。私は私たちの社会の変革を祈ります(18節)。

‭ルカによる福音書 24:1-35 新共同訳‬ [1] そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。 [2] 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、 [3] 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。 [4] そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。 [5] 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。 [6] あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。 [7] 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」 [8] そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。 [9] そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。 [10] それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、 [11] 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。 [12] しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。 [13] ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 [14] この一切の出来事について話し合っていた。 [15] 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。 [16] しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。 [17] イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 [18] その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」 [19] イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。 [20] それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。 [21] わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。 [22] ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、 [23] 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。 [24] 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 [25] そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、 [26] メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」 [27] そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。 [28] 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。 [29] 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。 [30] 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 [31] すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 [32] 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。 [33] そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、 [34] 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。 [35] 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

イエスとその勝利を認める

今日、あなたと私はどのようにしてイエス様に出会うことができるでしょうか?
イエスの復活は歴史的な出来事です。それは実際に起こったことです。しかし、それは単なる歴史的な出来事ではありません。当時人々が復活したイエスを経験したように、あなたも今日イエスの存在を経験することができます。この聖句はその方法を教えてくれます。
この日、世界は永遠に変わりました。イエスは「週の初めの日」(1節)に復活しました。それ以来、週の初めの日(日曜日)は休息と礼拝の日となりました。
この箇所には、イエスが死に勝利したことを示す重要な証拠が二つあります。
1.イエスの遺体はなかった
「彼らは墓から石が転がされているのを見つけたが、中に入ってみると主イエスの遺体は見つからなかった」(2-3節)。
天使たちは彼らに言いました。「なぜ、生きておられる方を死人の中に捜すのですか。あの方は、ここにはおられません。よみがえられたのです。」(5-6節)確かに、イエスが預言したとおり、三日目に「よみがえられる」(7節)のです。(新約聖書では、イエスが死から「よみがえられた」と述べることがありますが、多くの場合、受動態で「よみがえられた」と書かれています。)
弟子たちは女性たちから「信じなかった」と告げられます(11節)。しかし、ペテロの興奮ぶりは想像できます。彼は「立ち上がって墓に走って行きました」(12節)。彼もまた、イエスの遺体がなくなっているのを見ました。彼は「亜麻布がただ置いてあるのを見ました」(12節b) – 墓自体は空ではありませんでしたが、イエスの遺体はなかったのです。
ペテロはその時、イエスが偉大な勝利を収めたことに気づき始めたに違いありません。イエスは亡くなりましたが、死は終わりではありませんでした。死は取り消されたのではなく、完全に征服されたのです。
2. イエス自身がそこにいた イエス自身が見られました。これは単に「霊的な」存在ではありませんでした。イエスの肉体、復活した、変容した体が弟子たちとともにいました。ルカによる福音書で最初にイエスが現れたのは、エマオへの道の途中です。イエスは2つの方法で2人の弟子に姿を現しました。
まず、イエスは聖書を通してご自身を明らかにされました。「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたってご自身について書いてあることを彼らに説明された。」(27節)。これは世界史上最も驚くべき聖書研究だったに違いありません。イエスは聖書を詳しく読み、それがすべてご自身についてであることを説明しました。
聖書の説明を聞いているとき、あるいは自分で読んでいるときに、心が「内に燃える」(32節)という感覚を味わったことがありますか。聖書を読んでいるとき、あるいは聖書の説明を聞いているとき、突然、その言葉が自分や自分の人生にとても関連しているように思え、まるで神が直接私に話しかけておられるように感じることがあります。その瞬間、私の心が「内に燃える」ように感じます。私たちのアルファ小グループにいた若い女性は、最近、人生で初めて聖書を読み始めたばかりでした。彼女は、言葉がページから飛び出して自分のほうにやってくるかのようだったと言いました。 弟子たちは言いました。「イエスが道で私たちと話をし、聖書を解き明かしてくださったとき、私たちの心は内に燃えていなかったか」(32節)。私たちは、聖書がイエスを明らかにするような方法で説明されるのを聞くたびに、これを味わうことができます。
第二に、イエスはパンを通してご自身を現されます。「彼らと食卓に着いたとき、イエスはパンを取り、感謝をささげてからそれを裂き、彼らに与え始めた。すると、彼らの目が開け、イエスだと分かった」(30-31節)。後に彼らは、「イエスがパンを裂いたとき、彼らはイエスだと分かった」と説明しています(35節)。
ルカによるこの出会いの記述は、おそらくイエスと弟子たちの最後の晩餐の記述を意図的に反映した形で語られているのでしょう。それは、私たちも聖餐式を共に祝うときに「パンを割く」ことでイエスに出会うことができると励ますためのものと思われます。
聖書と聖餐は、今日私たちがイエスに出会うことができる 2 つの方法です。私たちが聖書を学び、一緒にパンを割くとき、イエスは私たちにご自身を明かし続けます。イエスの存在を体験したいなら、これらのことを定期的に行うようにしてください。
父なる神よ、イエス様が今生きておられることに感謝します。聖書を学ぶとき、聖書を通してイエス様に出会い、私の心が燃えますように。パンとワインを受け取るとき、私の目が開かれ、イエス様を認識できますように。

ヨシュア

11:1-12:24

イエスの勝利を反映する

イエスが聖書全体を読み、そこに「ご自身について」書かれていることを説明していたとき(ルカ24:27)、この一節について何と言ったのか、ぜひ知りたいです。
この節は、ヨシュアの勝利(「大勝利」、ヨシュア記 10:10)のテーマを引き継いでいます。ここでは、王たちがイスラエルと戦うために力を合わせた様子が書かれています(11:5)。しかし、主は「彼らを恐れてはならない」と言われます(6節)。主は「彼らをイスラエルの手に渡された」のです(8節)。神は彼らが行くところすべてに勝利を与えます。「それでヨシュアは主がモーセに命じられたとおりに、その地をことごとく占領し、イスラエルに相続地として与えた」(23節)。
イエスは、ヨシュアの軍事戦術は現代の誰にとっても模範となるものではないと説明しただろうと私は想像します。しかし、一つの側面、つまり勝利そのものは、イエスの死と復活を通して神がもたらすことになる偉大で全く異なるタイプの勝利を予示し、予兆していました。ヨシュアはキリストの「型」でした。実際、イエスは実際には「主は救う」という意味のヨシュアという名前のギリシャ語形です。
明日読むように、ヨシュアの勝利は決して完全なものではありませんでした。主はヨシュアにこう言われました。「あなたは非常に年老いており、占領すべき土地はまだ非常に広いのです」(13:1)。完全な勝利をもたらすのはイエスだけです。聖書全体が指し示しているのはイエスです。イエスは偉大な勝利者であり、私たちの人生におけるあらゆる勝利の源です。
主よ、罪と死、そしてすべての悪の力に対するあなたの偉大な勝利に感謝します。今日の私の人生がこの偉大な勝利を反映しますように。私自身の個人的な生活だけでなく、私たちのコミュニティ、都市、そして国家においても、この勝利をもっと実感できますように。

ピッパはこう付け加えます
ルカ 24:1-12
私はこれらの女性たちの勇気と実際的な考え方の組み合わせが大好きです。安息日が終わるとすぐに、彼女たちは墓に向かっています。男性たちはどこにいたのでしょう? 彼らは混乱しているようです! 物事がうまくいかなくても、私たちはイエスから離れてはいけません。

疑いが信仰と出会うところ

2024-04-24 04:08:52 | 日記
‭マルコによる福音書 9:23 新共同訳‬ [23] イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」

疑いが信仰と出会うところ

マルコ 9 章には、息子を愛する父親の話があります。父親は息子をとても愛していたので、息子が悪霊にとりつかれたとき、イエスが息子を癒し、悪霊を追い出すことができると信じて、息子をイエスのもとに連れて行きました。「もしあなたができることなら、憐れんで助けてください」と少年の父親は言いました。

少年の父親は、イエスがこの悪霊を追い出すことができると信じていました。しかし、確信はありませんでした。彼は息子をイエスのもとに連れて行きましたが、それでも疑いました。結局のところ、息子を癒すことができた人は他に誰もいなかったのです。

あなたも、同じ信念と疑いの間で引き裂かれたと感じたことがありますか? 少年の父親は、私たちの多くが経験する苦悩を共有しています。人生の試練の中で信仰を保とうとする苦悩です。

しかし、イエスはこの父親を恥じ入らせることはしませんでした。その代わりに、信仰をもってこう答えました。「『できるなら』と。信じる者にはすべてできるのです。」

イエスはこの父親に決定的な選択を勧めます。イエスの権威を信頼するか、疑うかです。

この物語では、イエスは祈りを通して悪霊を追い出しましたが、弟子たちはそうすることができませんでした(マルコ 9:26-28)。しかし、イエスの応答は、信仰が私たちのすべての願いを叶えることを保証するものではないことも理解する必要があります。信仰は、願いを叶えるための免許ではありません。むしろ、神の至高の力と、神の意志を神の方法で実現する能力を認識するように私たちに挑戦するのです(マルコ 1:40-42)。真の信仰は常に神の主権の権威の下にあります。

信仰の真の形は、神の目的が私たちの理解を超えていることを信じることです。

神様、どうか私の信仰を増してください。私はあなたの権威、力、主権を信頼しています。私はあなたの誠実な約束と愛にすがっています。私を導き、強めてください。私の信仰を使って他の人を励ましてください。イエス様の御名によって、アーメン。