心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

【4】福島の地に立って

2012年01月07日 | 震災



御礼を読み上げた園児の後ろには、同じ背丈の男の子が手作りのメダルを持っていた。小さな男の子は、親族に手作りのメダルを首にかけた。園児達から大きな拍手が重ねて送られた。わたしも募金活動を数回手伝った立場として、この瞬間に立ち会えた事は本当に喜ばしかった。

募金活動中、わたしは嬉しくて泣いた事があった。それは、駅の改札口の傍で募金をしている時だった。この時、大勢の大人が先を急ぎ見ないよう行き交う中で、春休みだった小学生達が前を通りすぎ、切符売り場の前でじっとこちらを見た後、小学生の2人の少女がゆっくりと近づき、ポケットから小さな財布を取り出し、そこから100円ずつ寄付してくれた。

募金箱の横には、讀賣新聞が大々的に取り上げた被災地の子供の写真をパネルにして置いていた。あの幼き被災地の子供の写真を見て、何かこころに留まったのだろう。少女達がわずかな小遣いの中から、差し出された100円には、どれほどの価値があっただろうか。公のために、何かの役にと、幼き少女達もまた、お金と共に慈愛もこの募金箱に入れてくれたのだ。子供達にも、慈愛のこころが、しっかり宿っている。その事が何よりも嬉しかった。

あの時の光景もまた、この保育園の中で走馬灯のように思い出していた。


メダルを首にかけてもらった親族が席に戻り、園長先生からは、子供達から劇と歌を披露することを告げられ、わたしたちはそれらを鑑賞することになった。キリスト誕生の劇である。まだ、練習過程なので、本番ではないのでと園長先生からはフォローがあったが、わたしは園児達の動きをしっかり見ていた。声の張り、そして、表現力、子供は嘘はつかない。子供達は、覚えたばかりの動きとセリフを発しながらも、一生懸命演じきろうとしていた。これを演じたのは5歳児たち。しっかりと難しいセリフも紙も見ずに言えていた。






そして、次はもう少し幼い3~4歳の園児たち。彼らは歌を披露してくれた。歌は「お星が光る」という賛美歌の曲。わたしの後ろでは保育士の先生が伴奏ピアノを弾いていた。


おほしがひかるぴかぴか
ふしぎにあかくぴかぴか
なにがなにがあるのか
おほしがひかるぴかぴか

らくだがとおるかぽかぽ
さばくのはらをかぽかぽ
どこへどこへいくのか
らくだがとおるかぽかぽ

おほしがひかるぴかぴか
らくだがとおるかぽかぽ
そうだそうだこよいは
めでたいきよいよるだよ


この歌を唄いながら、小さな園児達は舞台の上で手足をバタバタと動かし、振り付けの通り踊ってくれた。同時に床に座る他の園児達も、手足をバタバタさせている。この曲はとても覚えやすく、一度聞くと耳に残るメロディーだった。歌が終わった後、礼をし舞台から園児達が下りていった。


そして、最後に園児達が覚えたダンスを一緒に行なう事になった。もちろん、誰もが踊れるダンスでなければ誘わない。そう、御存知オクラホマミキサーである。小学生以来だろう。フォークダンスを踊らない時期があまりにも長すぎたため、曲は記憶していたが、動きがさっぱりである。親族共々わたしも舞台上へ上がり、園児達の立ち位置の指定場所に着いた。

小さな園児達の背丈に合わせ、若干かがみぎみで、小さな手を握る。どの子の手も少し冷たい。かがみながら、見えるところは園児達の小さな足。ダンスをするなら、こんな黒尽くめでロングスカートなどはかねば良かったと一瞬思いは巡ったものの、黒の服ばかり持っているのだから、黒尽くめは変わらないだろうと自問自答しつつ、ダンスでぐるぐると人が入れ替わっていく中、園児達の頭をそっとなでてた。

その後は、子供達を囲んで記念撮影。中にはふざけた表情を見せるユニークな園児もいた。そうだ、このふざけ具合が子供なのだ。もっと、はじけろ。いいんだぞ。調子に乗ったところで保育士の先生に叱られてもいいんだ。君達が元気になれば、先生達も元気になるんだから。わたしはそんな思いを抱きながら、ふざけた園児を傍に来るようにいい、横に座らせ写真を写してもらった。

こうして、保育園の園長先生や保育士の方々のありがたい感謝を伝える場面も終わった。再びロビーの席に戻り、お茶を頂くことになった。ここで、わたしは個人的に持参していた先生方へのお茶菓子を園長先生に手渡した。

この袋の中には、もう一つ手渡ししたいものを入れていた。それは、わたしが前日夜なべして作った、この度の募金活動のきっかけや経緯を説明した文書に、募金活動の写真のプリントをセットしたものだった。

そして、それを取り出し、一応文書の説明を簡単に伝え、頁をめくり、小学生の少女達が募金する前で、頭を深々に下げる親族の写真を園長先生はご覧になった。それを見た瞬間、園長先生が感極まり、むせるように泣き出したのだった。

「被災した子供達のために、ここまでして下さって、ありがとうございます。あの時はさまざまな方々に良くして頂きましたが、今忘れかけられていますから、ありがたいです。」涙を拭い、こころの内を発露された。

園長先生にも家族がある。しかし、この保育園で預からねばならない子供達もいる。これまで経験した事のない試練の中で、どれほど気丈に振舞われた事だろうか。これらの重責によって、どれほど私心を殺した日々が続いただろう。そう想うと、わたしも泣けて来た。本当に、お辛かっただろうと想う。

園長先生は、この時はっきりと、今”忘れかけられているという立場”をわたしに伝えてくれた。被災地の多くの住民がガレキの撤去が終わり、自衛隊が撤退した後、漠然とした虚無感に襲われていることを、この言葉に集約されたように想う。これからに対する不安、ここがあの写真によって発露されたのだろう。



「忘れない。」

それは、悲惨な過去の記憶だけを指した言葉ではない。その地に生きている人が今、生きているという事、この事も忘れてはならないのだ。当事者にとって、忘れないという概念は、自分達の存在を留めておいて欲しいという願いでもある。被災しなかった人々は、時が流れればこの思いもすっかり忘れるのだろうか。

正直に言えば、今福島の復興は表面的な意味でしかない。この保育園の園児が何も語らずとも、伝えてくるもの、それが震災した後の問題点を集約している。地震や津波以上に、生きている人々を長きに亘り、心身を苦しめる原発事故の影響は、過去のことではなく、今も進行中なのだ。


(つづく)

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