心人-KOKOROBITO-

亡き先人と今を生きる人に想いを馳せて
慰霊活動や神社参拝で感じ取った事を書き綴った日記と日々の雑感コラム

【9】福島の地に立って

2012年01月12日 | 震災



車は、川俣町の入り組んだ抜け道に入って行った。どうやら、商店街のようである。あちこちにノボリが立ててあった。

「風評被害に負けないで!がんばろう福島」

色彩のデザインは、日の丸を用いたものであり、わたしはこのノボリを作られた商店街の店主たちの壮絶な目に見えない世論との戦いを想像し、このノボリによって、互いに励まし結束しようとされる想いが垣間見られてならなかった。

放射能は数値として測定する機械もあり、また学識的見地からも専門家によって調べる努力を行えば安全か否かの結果は出るはずだが、それを行なわず妥当な策で手打ちをされた場面が、何度かあった。例えば、先の京都の大文字焼きのお騒がせもそうである。汚染された薪を焼いた後出る放射能に比べ、中国から雨天時に雲に乗って降りてくる黄砂の方がよほど体に悪い。そんな事も騒ぐ方々は想いを巡らせない。

復興への希望の光を見出す事を阻害する人々は、メールのみを配信し、自らの手で、足で、耳で、目で、調べず、私心のみで騒ぐ人々が中心だろう。震災の陰で、希望を見出す行事にすら、阻む行いをする人々が、残念ながらこの国に住んでいるという事だ。

「こころ一つに」
「絆」
「がんばろう日本」

震災後、何通りも復興支援のスローガンが掲げられたが、それが今も国民の共有すべき認識として持ち続けているだろうか?と言えば、決してそうではない現実がある。だったら、川俣町商店街に、決してあのノボリは立たないだろう。日本国民のよくも悪くも気質として、”喉元過ぎれば熱さ忘れる”という慣習がある事も、背中を押しているだろう。しかし、福島は今も被災中である。

わたしは、やはり、この国の方向性と、そして、それらに疑問を抱かず無関心である人々の存在に思いを巡らせると、強烈な違和感を感じている。この違和感には、子々孫々と命を繋ぐこの国を未来に向けてどうあるべきか、またどのようにすべきなのかという思いを、感じさせてもらえない事への失意も含まれる。

しかし、それらとは相反し、希望もあるのだ。私心を捨て、他者のために懸命に動いている方々の存在もあるからこそ、なんとか、こころのバランスが取れていると感じている。福島県の地に立って、改めて気づいた事、そして、改めて納得出来た事が沢山あった。

そして、希望を形へと導く事は、誰にでも出来る。何もボランティアや視察的な範囲ではなく、観光される行き先として、この福島県や他の被災地を選んで、現地の人と会話をして戴く事もその一つだろう。公のために自ら出来る事とは何か?それはこうした観光も実は含まれるのだ。

被災された人々に直に触れ合う事によって、彼らがどれだけ励まされる事か、その事も精神面におけて、大きな復興支援の一つであるという事を、わたしはこの旅から感じ取っていた。そこには、お金と時間が必要かもしれないが、もしそれらに余裕のある方々は、出来れば率先して行動に移して頂ければと願っている。



ノボリがあちこちに立てられた商店街を車は通過しながら、ようやくこの旅の出発地、福島駅に到着した。Y秘書に御礼を述べ、親族が荷物を持ってくれて改札口まで見送ってくれた。予定していた時間の車両が出発してしまったからである。別の車両への切符の交換手続きを行なってくれた。わたしは、ここで親族と別れ、福島を後にした。


新幹線から見える風景。ほんの数時間の滞在ながら、どこか親しみを抱いている。
わたしが再び、ここに訪れるのは一年後かもしれないし、また一年以内かもしれない。
でも、必ず、もう一度訪れる事を、固く、こころに誓った。






自宅に戻ってから、わたしは、少し心の整理もあって、福島行きについては周りにその事を多くは語らなかった。そして、改めて自身が写した写真の整理をし、また佐藤事務所のY秘書から戴いた3月26日に撮影した相馬市と南相馬市の被災状況写真のCD-Rを丁寧に見ていた。その上で、自分が来た道を辿るため、地図でルートを検索し、色をつけたのである。

赤線が行きのルートで、青線が帰りのルート。オレンジの点線が、原発事故による立入禁止区域。こうして地図上で指し示す距離に、改めて立入禁止区域近くまで行っていた事を認識させられた。このルート作成によって、場所が示す感じ取れた雰囲気、被害状況なども、旅の当事者としてより認識を深める事が出来た。

立ち寄った場所は、聖心三育保育園、飯館村、通過しながらも相馬市、そして南相馬市、通過した川俣町。ほとんどが移動に時間が費やされ、各所に立ち寄った時間はわずかである。それでも、このわずかな時間ながらも、たくさん、たくさん、感じ取らせてもらった。

わたしは、この旅の日記をいつここに書き綴ろうかとも同時に考えていた。それは、こころの整理と情報の整理の両立を行なった行いでもあるからだ。やはり、すぐには書くことは出来なかった。



新年を迎える年末の12月30日、わたしの自宅に予約していた書籍、3冊が届いた。それは著者 青山繁晴氏の「ぼくらの祖国」という書籍である。1冊は自分自身のために、もう1冊は母のために、そしてもう1冊は沖縄にいる白梅看護元学徒隊の生き残りでいらっしゃる中山きくさんのために取り寄せた。

平成24年という新たな年に向け、わたしにはさまざまな想いがある。この一年を生きる上で、最も根幹を見ねばならない一年だとも想っている。試練多き一年の中にある「希望」、それを見出すためにも、「ぼくらの祖国」の書籍の出版時期は、実に意義深い。より大勢の人に手にして頂き、おのおのの原点に立って、祖国というものに想いを巡らせ考えて頂きたいと願っている。

また同時に、昨年末には、日本国中、どれほどの喪中のハガキが行き交っただろうと、想いを巡らせていた。新たな年の挨拶を控える方々のあまりの多さに、正直、被災から一年満たない新たな年に対し、「あけましておめでとう」という言葉は、こころから言えずにいた。儀礼的なあいさつはあっても、大勢の方々がお亡くなりになり、まだ一周忌も迎えてはいない新年に対し、やはり、疑問を抱きながら迎えた元日だった。

それでも、わたしの福島行きは、震災を通じ、祖国に思いを馳せるために、行く機会を与えられたのだろう。自分の住んでいる地域以外の、初めて触れる見知らぬ土地。その知らぬ土地は被災場所であり、そこに住む人たちに触れ、今も進行中の苦しみや試練を見聞きし、自然の猛威が及ぼした傷痕に触れ、今一度考えろ!と天から考える機会を与えられたものだろう。

今回、あの南相馬市の300人余りの尊い命が消えた何もない広大な場所に立って、感じさせてもらった感受は、今までの概念を大きく覆すものだった。

人は皆、いつかは死ぬ。それは、いつ死ぬか分からないだけであり、分からないという部分が漠然とした不安を抱かせる。また、死に行く時の未練もある。残された家族、そして仲間、その者が後世しっかりと生き抜けるだろうか、そうした不安も旅立つ際に想いが深まりこの世に残るだろう。

このような経験した事のない死に対する向き合い方も、この旅で感じた犠牲者の想いに触れ、一考することになった。こちらが、同情するほど、死者に迷いが多くなかった事、ここがわたしの感嘆たる事実であり、死者が生きてきた軌跡の中で司った死生観によるものであると感じている。この点こそ、今回の旅で最もこころに響いたことだ。犠牲者の想い、それは、生き残った者で考え、子々孫々と命をどのように繋ぐのか?これらに意識を傾注すること、ここに、死者の願いがある。

わたしたちは、改めて、この死者の願いに対し、真摯に向き合い、生きねばならない。
その行いこそが、犠牲者の本当の意味での供養とも言える。
復興の糸口ともなる共有すべき認識、
この言葉を、平成24年の新年を迎えるにあたり、改めて伝えたい。


生きよ。

ともに、考え、

ともに、助け合い、

ともに、生きよ。



被災地にとって、まだまだ試練の日々が続くが、
【そこに生きている人がいる】という事を、
忘れないで日々過ごしたいと想っている。
また、再び、笑顔で再会できるためにも。


(おわり)



【追記】
この旅でお世話になった、聖心三育保育園の園長先生、保育士の皆さん、そして園児の皆さん、そして1日時間を費やして下さった参議院議員 佐藤正久氏の福島事務所のY秘書、最後に、この旅のきっかけとなった募金活動で善意を寄せて下さった全ての方々に、こころから深く、深く、感謝申し上げます。ありがとうございました。

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