醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  640号  ほろほろと山吹ちるか瀧の音(芭蕉)  白井一道

2018-02-03 13:29:59 | 日記

 ほろほろと山吹ちるか瀧の音  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「ほろほろと山吹ちるか瀧の音」。芭蕉45歳の時の句。「西河」と前詞を置き、詠んでいる。「西河」に岩波文庫『芭蕉俳句集』には「にじつこう」とルビが振ってある。注釈には「ニシコウ」とある。西河とは、吉野川の崖を落ちる滝、吉野大滝をいう。
華女 滝が巻き起こす風に揺られて山吹の花びらが散っている。それだけの句ね。
句郎 この句は『笈の小文』に載せられている句なんだ。このほかに伝えられている『真蹟自画賛』がある。それには「きしの山吹とよみけむ、よしの川ゝかみこそみなやまぶきなれ。しかも一重に咲きこぼれて、あはれにみえ侍るぞ、櫻にもをとるまじきや」との前詞がある。
華女 この前詞を読むと芭蕉は吉野川の川岸に咲く山吹を見たのね。
句郎 その山吹を見た芭蕉には『古今集』の歌が思い出されたんだ。「吉野川岸の山吹ふく風に底の影さへ移ろひにけり」。紀貫之の歌や「蛙なく井手の山吹散りにけり花の盛りにあはましものを」。詠み人しらずの歌をね。吉野川の川岸をたどって西河を目指していると滝の音が聞こえて来たんだ。吉野川の清流と山吹が和歌の世界なら、滝の音と山吹の花、これが俳諧の世界だと芭蕉は主張しているんじゃないのかな。
華女 芭蕉は西河、大滝を見ていないのね。ただ滝の音を聞いて句が湧いてきたということを句郎君は主張したいわけなのね。
句郎 そんな気がしただけなんだけどね。その方が俳句になるのじゃないのかなと思ったんだ。
華女 吉野大滝といっても大きな音を立てる滝じゃないのよね。
句郎 そうだと思っているんだけどね。
華女 滝の音と山吹じゃ、やはり和歌の世界なんじゃないのかしら。まだ蛙と山吹の方が俳諧の世界なんじゃないのかしらね。
句郎 、そうじゃないよ。和歌に詠まれた蛙はガマガエルやアオガエルじゃないよ。河鹿蛙(カジカカエル)だよ。河鹿蛙はまるでカナカナ蟬のような美しい声で鳴く蛙だよ。清流に住む蛙だからね。
華女 世にも綺麗な声で鳴く蛙と山吹、和歌の世界だわ。
句郎 山吹と滝の音じゃ、まだまだ和歌の世界なのかもしれないな。美の世界が貴族的な感じがしないでもないからなぁー。
華女 強いていうなら、「ほろほろと山吹ちるか」の「ちるか」という言葉に俳諧の匂いがでているのかもしれないなと感じるわ。
句郎 木の葉が「ほろほろと」散る。この言葉にも和歌の匂いがあるようにも感じるね。
華女 「山吹」そのものが和歌の世界の花だったんじゃないのかしらね。
句郎 芭蕉のこの句では「山吹」は、まだ庶民の花になりきれていないということなのかな。
華女 平凡な里山の中を流れている川岸に咲く山吹に芭蕉は美しさを見たんでしようけれども、山吹に付け加わったイメージは和歌の世界のものだったんじゃないのかしら。
句郎 華女さんがいうように山吹ちるか」と言い放った言葉に俳諧があるのかもしれないな。そんな感じがしてきたような気がするな。