春雨のこしたにつたふ清水哉 芭蕉
句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「春雨のこしたにつたふ清水哉」。芭蕉45歳の時の句。『笈の小文』に載せている。「苔清水」と前詞を置いて載せている。また『芭蕉庵小文庫』の「はる雨の木下にかかる雫かな」が伝えられている。
華女 前詞の「苔清水」には、何か意味があるのかしら。
句郎 岩波文庫『芭蕉紀行文集』「笈の小文」にある注釈には、吉野の奥、西行庵の近くにある「とくとくの清水」をさすと説明している。
華女 「とくとくの清水」とは、何か特別な清水ということなの。
句郎 「とくとくと落つる岩間の苔清水くみほすほどもなきすまひかな」と西行が詠んだ歌が伝えられている。「とくとくの清水」とは、西行庵の傍らにあったちょろちょろと流れ落ちる清水を指しているのだと思う。
華女 吉野の奥にある西行庵を訪ねた芭蕉と杜国は「とくとくの清水」にじっと見入り、芭蕉はこの句を詠んだということね。句郎 芭蕉はとくとくと流れ落ちる清水を見て、春雨が桜の木の幹をつたい落ち地面にしみこんだ雨水が清水となって湧きだし、「とくとくの清水」になっているのかなぁーと感慨をもったという句なのではないかと考えているんだけど。
華女 「春雨のこしたにつたふ」とは、芭蕉の想像なのね。
句郎 そうなんじゃないかな。清水となって湧きだしている水は春雨に限らず春夏秋冬一年中、山に降った雨水が地中に沁みこみ、あふれ出したものが清水だからね。そのような清水を見て、この清水は春雨が桜の木の幹を流れ落ち、地面に沁み込み、あふれ出して清水に違いないと勝手に想像したと言うことだと思う。
華女 西行もこの清水を飲んで喉の渇きを癒したんだと思うといやがうえにもその清水が美味しく飲めたのかもしれないわ。
句郎 この句は西行を偲んだ句なんだと思う。それは「苔清水」という前詞があるからだよね。「苔清水」という言葉が「とくとくの清水」という言葉を、西行の歌を思い出させるからだと思う。もし「苔清水」という前詞がなく、西行の歌が注釈になかったら、西行を偲んだ句だという解釈はできないでしょ。
華女 だから俳句にとって、前詞は大事だということを句郎君は言いたいの、それともそのような前詞がなければ作者の真意が伝わらないような句は、良くないということを言いたいわけなの。
句郎 前詞を必要とするような句は句として自立していないように感じているんだけれどね。
華女 現代にあっては、絶対そうでしようね。でも芭蕉の時代には許される状況があったのじゃないかと私は思っているわ。
句郎 関西では、ももひきのことをコシタと言ったんだ。だから最初、この句を読んだとき、春雨に降られて花見をした芭蕉は雨水がコシタにつたって流れていくのを感じたんだなと思ったんだ。
華女 笑えるわね。
句郎 笑えるでしょう。前詞と注釈によって正しい解釈ができる句が芭蕉にはあるということなんだ。
華女 三百年前の句だからね。やむを得ないという面もあるんでしようよ。