若葉して御 めの雫ぬぐはヾや 芭蕉
句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「若葉して御 めの雫ぬぐはヾや」。芭蕉45歳の時の句。「招提寺鑑真和尚来朝の時、船中七十餘度の難をしのぎたまひ御目のうち塩風吹入て、終に御目盲させ給ふ尊像を拝して」書き、『笈の小文』に載せている。
華女 「招提寺」とは、唐招提寺ということでいいのよね。
句郎 鑑真和尚が唐招提寺の開祖だからね。
華女 鑑真とは、中国から日本にやって来た僧侶だったのよね。いつころ日本に中国からやってきたのかしら。
句郎 八世紀の中頃だったのじゃないかな。、
華女 奈良時代ね。
句郎 天平時代の頃だと思う。聖武天皇全盛の頃のことだったんじゃないのかな。
華女 当時の中国は日本と比べたら遥かに先進国よね。その中国のお坊さんがなぜ又、日本に来ようと思ったのかしらね。
句郎 当時の日本では仏教の教えを広めることよって天皇の統治の安定を図っていた。そのため僧侶が優遇されていた。僧侶になれば優遇される。その結果、坊主頭になれば、僧侶だと名乗っても誰も咎めだてすることができないような状況があった。政府は誰でもが勝手に僧侶になってもらっては困る。僧侶になるには受戒が必要だ。僧侶の資格を与える受戒師としての仏教の戒律の専門家を求めていたんだ。聖武天皇は興福寺で仏教を学んでいた栄叡(ようえい)、普照(ふしょう)二人の若き学問僧を唐に派遣し、戒律を授ける律師を日本に招聘する職務を与えたんだ。
華女 私、思い出したわ。井上靖『天平の甍』ね。
句郎 奈良・天平時代に生きた青年の夢や理想がどんなものであったのか、表現してみたいと考え小説『天平の甍』を書いたと言っていた。
華女 出家とは、どういうことかということよね。
句郎 中国から日本に来るまで十二年くらいかかったようだから、目が潮風に当たり、視力を失ったと言われている。
華女 唐招提寺の開山忌に芭蕉は参ったのね。私も肖像彫刻としても見ることができるという瞑目した鑑真像を拝観したことがあるわ。
句郎 華女さんも六月六日の開山忌に唐招提寺に参ったことがあるんだ。
華女 いや、違うわ。上野の国立博物館で見たような記憶があるわ。
句郎 目に優しい色の若葉で瞑目した鑑真の目を拭ってあげたいと鑑真の渡海の苦しみをねぎらっている句を芭蕉は詠んだ。
華女 鑑真の人生を芭蕉は自分の人生のように受け入れ、日本の仏教に魂を授けてくれたお坊さんだとぬかずいているのよね。
句郎 鑑真像を今見てもまるで血の通った人間を思わせるような生き生きした尊像だよね。
華女 運慶に代表される鎌倉仏とは違っていると私は思うわ。鎌倉仏のようなリアリティーはないよね。やはり天平仏に変わりはないと思っているわ。でも鎌倉仏に匹敵するようなリアリティーがあることも事実だと思うわ。八世紀にこのような仏像が造られたことに驚異を感じるわ。
句郎 そうだよね。鑑真像に匹敵する尊像というと夢殿・行信僧都座像かな。