春雨や蓬をのばす艸(くさ)の道 芭蕉
句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「春雨や蓬をのばす艸(くさ)の道」。元禄二年。
華女 春雨が表現されているわ。春雨とは、こういうものよ。
句郎 「春雨」が決まっているということなのかな。
華女 俳句とは、季語を表現するものなのね。
句郎 春雨の本質が表現されているということでいいのかな。
華女 厳しい寒さの中に優しい温みが感じられるのが春雨なんじゃないのかしら。
句郎 静かにそっと漂ってくる優しさのようなものが春雨なのかな。
華女 「道の草」ではなく、「草の道」が決まっているのよ。上手いわ。
句郎 寒さの中に春を見つけているのがいいのかな。
華女 春雨の句を芭蕉はこの句の他にどんな句を詠んでいるのかしら。
句郎 「春雨やふた葉にもゆる茄子種」。「春雨の木下につたふ清水かな」。「春雨や蜂の巣つたふ屋根の漏り」。「春雨や蓑吹きかへす川柳」。「笠寺やもらぬいはやも春の雨」。「不精さやかき起こされし春の雨」。芭蕉のこれらの句の中で「春雨」「春の雨」の本意が最も表現されている句は、どの句だと考えているの。
華女 「春雨や蓬をのばす艸(くさ)の道」。この句が最も「春雨」の本意が表現されていると思うわ。
「不精さやかき起こされし春の雨」。この句には、「春の雨」の静かさが表現されているように思うわ。
句郎 平明さのようなものがいいのかな。
華女 「平明」だということは、軽いということなのよね。この軽さがいいのよ。何でもないありふれたことが平明に表現されているということがいいのよ。このような句の典型句の一つなのじゃないのかしら。
句郎 「道のべの木槿は馬にくはれけり」。この句と共通するものがあるということなのかな。
華女 そうよ。肩の力の抜けた句がいいのよね。
句郎 読者に負担をかけないということかな。
華女 何を言っているのか、一読して分からない句は素通りされてしまうわ。
句郎 良く達意の文という言葉があるように達意の句が読者に優しいということなんだろうね。
華女 そうよ。読者に媚びることなく、自然体の句がいいのよ。このような芭蕉の精神は現代俳人にも継承されているんじゃないのかしら。例えば原石鼎の句「春雨や山里ながら広き道」があるのよ。一読してわかるじゃない。春雨にある明るさよ。この明るさが上手に表現されているように思うわ。
句郎 五七五の俳句が表現できることは全て芭蕉がやってしまっているのかもしれないな。文学としての俳句が到達できる頂点を芭蕉が極めてしまったのかもしれないような気がするな。
華女 短歌の場合もそれに似た話を聞いたことがあるわ。藤原定家が五七五七七の文型で文学として頂点を極めてしまった。だから定家以来、定家を超えた歌人はいないという話よ。
句郎 五七五の言葉を並べたら、俳句になるから、俳句は老人の趣味として素晴らしい楽しみだと思うな。
華女 そうなのよ。文学的な楽しみが得られるんですものね。
句郎 やりだすと上手になる場合もあるからね。