むざんやな甲の下のキリギリス 芭蕉
石川県小松市にある多田神社で芭蕉が詠んだ句である。初めてこの句を読んだとき私は何も感じなかった。
何も感じない私に対して久富哲雄は「じつに痛ましいことであるよ。あの実盛が白髪染めの頭にかぶって奮戦したという兜をみるにつけ、往時がしのばれてならないが、今はその兜の下で、実盛の亡霊の化身かと思われるこうろぎが、か細い声で寂しく鳴き、秋のあわれを誘うことである。」とこのように鑑賞している。どうしたらこのような鑑賞ができるようになるのか、少し実盛について調べてみた。
「奥の細道」には「太田(ただ)の神社に詣(もうづ)。実盛が甲・錦の切(きれ)あり」とある。きっと芭蕉は実盛に思いを込めて詠んでいるに違いない。
源平合戦中の篠原合戦に平氏側の将軍の一人として斉藤実盛は参戦している。対戦側の源氏の将軍は木曽義仲である。実盛は越前の人であった。初め、源義朝に仕え、骨肉相食む大蔵合戦では義朝の異母弟源義賢
を討った。義賢の血縁の者すべてを殺すよう命令されたが義賢の子、後の源義仲(木曽義仲)をまだ幼児であったため、不憫に思い木曽に実盛は逃がした。その後、保元・平治の乱で義朝が平氏側に敗れると実盛は平清盛の三男、宗盛に仕えるようになり、長井荘(熊谷・深谷の一部)の別当に任じられる。
源義朝滅亡後、伊豆に流されていた義朝の三男、頼朝が兵を挙げ、源平合戦が再び始まと、実盛は平氏側に立って参戦する。倶利伽羅峠の戦いは圧倒的な強さ
を源氏側の木曽義仲軍はみせ、平氏側の軍勢は雪崩を打って散り散りとなってしまう。その後の篠原合戦では部下を失った将軍、実盛は将軍の出で立ち、龍頭を飾った兜を被り、錦の直垂を着け一人、源氏側の軍勢と向かい合った。実盛の故郷の地、篠原合戦に錦を飾ったのである。
実盛は幼児であった義仲を救った人間であることを隠すため白髪染めをし、名を名乗れといわれても、名乗らず、組み伏せられて止めを刺される。実盛は平宗盛への忠義を尽くす。
実盛は武士道を貫いた人として平家物語の中で物語られている。この物語は謡曲となり、元禄時代には広く江戸庶民の中に普及した。謡曲は「あなむざんやなー」と「実盛」を語り始める。元禄の頃の俳諧を嗜む人々にとっては「むざんやな」という言葉を聞くと謡曲「実盛」を思い浮かべた。「むざんやな甲の下のキリギリス」と読むとこの甲は実盛の甲、故郷に錦を飾った兜であると想像することができた。五百年前の兜が今に伝えられているのは命の恩人、実盛を討った木曽義仲が懇ろに葬れと部下に命令した願状があったればこそとは思うが、兜や錦の鎧の無惨な姿に芭蕉は心を痛めたのであろう。
武士道の鑑(かがみ)として崇められている実盛の甲が野ざらしにうち捨てられてたように飾られている。その兜の下ではコオロギが鳴いているではないか。あー何と無惨なことであるかと、芭蕉は嘆いた。このコオロギが鳴く声は実盛の亡霊が泣く声のようだ。このように感じて詠んだ句なのだろう。この句は人生の無常を嘆いているのだ。