草の戸も住替る代ぞひなの家 芭蕉
句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「草の戸も住替る代ぞひなの家」。この句は『おくのほそ道』の最初に掲げられた句である。
華女 この句の前後には、どのような文があるのかしら。
句郎 「松島の月先(まず)心にかかりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに」と書き「草の戸も」の句を並べ、「面八句を庵の柱に懸置。このようになっている。また「はるけき旅寝の空をおもふにも、心に障らんものいかがと、まづ衣更着(きさらぎ)末草庵を人にゆづる。此人なん、妻を具しむすめを持たりければ、草庵のかはれるやうをかしくて、」
「草の戸も住みかはる世や雛の家」三月廿三日 ばせを
このような、岐阜の門人安川落梧宛の手紙が残っている。
華女 芭蕉は妻や娘のいる家族持ちに我が庵を売り、旅の費用を工面して『おくの細道』へ旅立ったということなのね。
句郎 『おくのほそ道』に載せてある句は「住替る代ぞ」になっているのに落悟宛の手紙にある句は「住替る代や」になっている。「ぞ」と「や」では、どのような違いがあるのだと思う?
華女 「住替る代」が「ぞ」の方が「や」より強いように感じるわ。私が住んだ庵も住む人が変われば家となり、大きく変わっていくんだという感慨を持ったということなんじゃないのかしら。
句郎 「や」より「ぞ」の方が切れが深いということなのかもしれないな。
華女 「住替る代ぞ」と「ひなの家」との間が半拍から一拍になったということでいいのかしらね。
句郎 一人住いの殺風景な寂しいかぎりだった私の庵も桃の節句には娘を祝うお雛様が飾られ、賑やかなことになるのだろうなぁーと庵を後にした芭蕉は思いを深くしたのじゃないのかな。
華女 「ひなの家」とは、芭蕉の想像というか、瞑想なのね。
句郎 何年間か、住んだ家を後にしたときに、その庵に対する愛着を振り捨てて出て行く自分に対する思いを「ひなの家」という言葉にしたところに芭蕉の技があるように思っているんだけどね。
華女 あとを絶った芭蕉はただ前に進むしかない境涯に自分を追い込んで『おくのほそ道』に旅立ったということなのね。
句郎 家族の温かさにたいする憧れのような思いが芭蕉にはあったんじゃないのかな。家族を持ちたいう気持ちか芭蕉にはあったが、持つことが芭蕉にはできなかった。そのような思いを込めた言葉が、「ひなの家」ではなかったのかと私は想像しているんだけれどね。
華女 それは経済的理由なの。それとも他に理由があるの。
句郎 芭蕉は目端のきく生活力旺盛な人だったようだから経済的理由ではないように思うんだ。
華女 じぁー、何が理由で芭蕉は家族が持てなかったのかしら。
句郎 芭蕉は農家の次男だったようだからね。当時の農家の次男は生涯、妻を持つことができない運命だった。芭蕉はその自分に与えられた運命を受け入れて生きた。それが俳諧の道だったんじゃないかと私は考えているんだけれどね。
華女 男とはそういうもの。