短編小説『ラップのリズムで』青木資二著 批評
「ラップのリズムで」
青木資二
この小説の題名「ラップのリズムで」という言葉が象徴しているものは何か。それは人間が生きるということである。私はそのように理解した。
この小説のあらすじは主人公の真吾が定年退職後、視神経脊髄縁を患う。病は癒えるが再発の危険性がある。この病を抱えた真吾が明治公園で行われる原発反対の集会とデモに行くことに妻の直美は夫の体を心配して反対する。真吾は妻の反対を押し切って原発反対の集会とデモに参加する。真吾は病を持ちながらなぜ原発反対の集会とデモに参加したいと思うのか、自らに問う。参加することによって自分の意思を表明したいからだと気づく。病を抱えていても原発反対という自らの意思を表明したいのだ。自らの行為に納得した真吾は心が晴れる。
会場に到着した真吾の携帯に妻の直美から電話が入る。妻の直美が明治公園にやって来る。真吾と直美の夫婦は仲良くデモ行進する。妻は夫の気持ちを理解したのだ。
この小説は青木さんが実
際に経験したことを書いている。そのように読んでいて感じる。自分の経験を書いているのだ。その経験が小説になっている。この小説は日本に古くからあるいわゆる「私小説」といわれるものではない。日本の自然主義文学・私小説というものは事実即真実という立場に立って書かれている。だから自分が経験した事実を真実として書く。このような小説のあり方が日本の現実を、真実を表現する方法であった時代がある。その時代とは個人を押しつぶす「家」との闘いが文学の課題であった時代である。その文学方法が私小説という方法であった。それは家庭内の経験そのものを事実にそって書くことが「家」との闘いであったからである。
経験とは主観である。個人が経験できることは限られている。この限られた経験から得られたものは主観でしかない。一つの主観でしかない経験が客観性を獲得したときに主観から解放され、真実となる。
青木さんの経験は人間が生きるとはどのようなことかということに対する一つ
の真実を、客観性を表現しているから小説になっている。文学になっている。
原子力の平和利用は欺瞞である。原子力を平和的に利用することはできない。自民党の石破茂があけすけに本音を語っている。原子力発電所を稼動させることは潜在的な核武装である。原子力発電所で作られるプルトニウムを持つということはいつでもすぐ核兵器を作ることができると世界に向かって言っていることなのだ。原子力発電所は核の抑止力なのだ。このような核戦略を日本は持っている。日本がこのような国家外交戦略を持っている以上原子力発電所を全て廃炉にすることはできない。
人類滅亡に追い込む核兵器の原料製造基地、原子力発電所と人類は共存できない。このような政策を堅持する政府に対して人類存続のため原発反対と意思表明することは人間が生きるということなのだ。人類が生き延びる道を探ることなのだ。
主人公の妻、直美が夫の気持ちに理解を示したということは人間が生きるとはどのようなことなのかを理解したということなのだ。