鐘撞かぬ里は何をか春の暮 芭蕉
句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「鐘撞かぬ里は何をか春の暮」。元禄二年の句。
華女 江戸時代の村々では鐘を付いて村人に時間を知らせていたのかしら。
句郎 街場の場合、鐘撞堂みたいなものがあったんじゃないのかな。
華女 そう、思い出したわ。川越に鐘撞堂があったわね。「時の鐘」と言っていたのかしら。寛永年間に設置されたと言う話を聞いた事があるわ。
句郎 時計塔の下がだんご屋さんだったかな。
華女 農村にはそのような鐘撞堂みたいなものはなかったということね。
句郎 「鐘撞かぬ里」とは、街場であるにもかかわらず、鐘撞堂のない宿場町のことなんじゃないのかな。
華女 日永の春は日暮れの時が長いわ。宿にとって客を呼び込む時を失ってしまいかねないのじゃないのかと芭蕉はいらない心配をしたのかもしれないわ。
句郎 春の暮というのは、何か落ち着かない時間のような気がするでしょ。もう少し、仕事しようか、それとも終わりにしようかと踏ん切りがつきにくい時間のような気がするんだ。
華女 子どもの頃、おもてで遊んでいると「ご飯ですよ」と母の呼ぶ声がしたのが春の暮のような気がするわ。
句郎 「鐘撞かぬ里は何をか」とは、夕暮れの春、落ち着かない時間をどうしているのかと、感慨をもったということなんじゃないのかな。
華女 実によく「春の暮」と言う時間帯を表現している句だと思うわ。
句郎 芭蕉の供をして『おくのほそ道』の旅をした曾良の『俳諧書留』には「鐘撞かぬ里は何をか春の暮」と並べて「入逢の鐘もきこえず春の暮」という句が載せてあるんだ。
華女 「入逢」とは、夕暮れということでいいのかしら。
句郎 どちらの句がいいかな。
華女 私は「鐘撞かぬ里」の方が思いが籠っているような印象ね。
句郎 「春の暮」が表現されているということなのかな。
華女 宿場町の春の夕暮れなのよね。日光街道沿いのどこかの宿場町なのよね。
句郎 多分ね。一泊目が粕壁(カスカベ)、二泊目が間々田、三泊目が鹿沼になっている。新暦でいうと粕壁には五月十六日に宿泊している。間々田が五月十七日、この日は午前中雨が降っていたようだよ。
華女 『おのほそ道』の日程やらその日の天候まで分かっているの?
句郎 『曾良旅日記』に記入してあるから分かっているんだ。
華女 「鐘撞かぬ里」とは、どこの宿場町だったのかしらね。
句郎 私が想像するに、間々田あたりじゃないのかなと思っているんだけどね。
華女 何か、根拠でもあるのかしら。
句郎 全然ないんだけどね。間々田を立った後、芭蕉と曾良は栃木の室の八島に寄り、句を詠み、日光目指して旅を続ける。
華女 日光街道筋の宿場町と言っても東海道筋の宿場町と比べたら大きく寂れていたことでしようからね。
句郎 ちょうど、間々田宿なんだと思っているんだ。