醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  523号  白井一道

2017-09-23 12:57:32 | 日記

 南無ほとけ草の台(うてな)も涼しかれ 芭蕉

侘輔 「南無ほとけ草の台(うてな)も涼しかれ」。この句には前詞がある。「文鱗生、出山の御像を送りけるを 安置して」と書き、この句がある。貞享元年、芭蕉41歳の時の句のようだ。
呑助 前詞にある「文鱗生」とは何ですか。
侘助 鳥居文鱗(とりいぶんりん)という芭蕉の門人が天和2年の大火で焼失した後、芭蕉庵再建に物心両面で尽くし、釈迦が雪山の苦行を終え、出山した木彫の尊像を再建した芭蕉庵に持ってきた。
呑助 文鱗さんにいただいた釈迦像を詠んだ句ということですか。
侘助 芭蕉はこの釈迦像を芭蕉庵の本尊として大事にした。亡くなる時には遺言として史考に譲ったようだから。
呑助 史考さんは芭蕉臨終の時にいろいろ働いた門人でしたっけ。
侘助 芭蕉は本当に門人に恵まれた人だった。芭蕉は人に尽くしたからまた人から尽くされたんだろうと思っているんだ。
呑助 「南無ほとけ」は「なむほとけ」ですか、「それとも「なもほとけ」なんですか。
侘助 分からない。誰かに教えてもらいたいな。でも「なむほうれんげきょう」と唱えているよね。だから多分「なむ」じゃないかと考えているんだ。
呑助 「南もほとけ」と岩波文庫の『芭蕉俳句集』にはなっていますが、特に「南も」と主張する理由があるんでしょうか。
侘助 私はそうじゃないと考えているんだけどね。全然分からない。それとも芭蕉は「南もほとけ」と書いているのかもしれないな。当時は「南無」を「なも」と言っていたのかもしれない。
呑助 「草の台」を仏を安置する須弥台にして釈迦像を祭ったということですよね。
侘助 粗末な須弥台ではあるけれども芭蕉庵を荘厳にしてくれていると芭蕉は密かに思っていたのじゃないかな。
呑助 芭蕉は信心深い人だったんですね。
侘助 当時の人は皆、信心深かったんだろうね。
呑助 神様が生きていた時代だったということですか。
侘助 芭蕉は当時のごく一般的な人だったんだろうね。
呑助 ごくごく普通の人だったからいろいろな人が芭蕉と交流できたということですか。
侘助 森川許六が描いた芭蕉と曾良の旅姿などを見ると芭蕉はかなり厳しい風貌をしているように感じるけどね。
呑助 「おくのほそ道」に同道した曾良は気は優しくて力持ちというような風貌をしていますね。
侘助 そうだよね。本当に優しい人だったんだろうね。曾良はそのような人だったんだよ。
呑助 「南無ほとけ草の台(うてな)も涼しかれ」。下五の「涼しかれ」とは、芭蕉の祈りですかね。
侘助 芭蕉庵は狭く、むさくるしいところではありますが、どうか「涼しく」あって下さいというお願いに似た気持ちだったんじゃないのかな。芭蕉の木彫の釈迦像に対する謙譲の気持ちのようにも感じているんだけど。
呑助 お釈迦様の尊像など安置できるような草庵ではないが、片づけて安置させていただきました。
侘助 この尊像を祭ったことで芭蕉の心は落ち着いたということですか。

醸楽庵だより  522号  白井一道

2017-09-21 16:32:19 | 日記

 世に盛る花にも念仏申しけり  芭蕉

侘輔 「世に盛る花にも念仏申しけり」。この句は貞享元年、芭蕉41歳の時の句のようだ。
呑助 17世紀の後半になると江戸庶民の間に花見という行事が一般化していたんですかね。
侘助 貞享の時代になるとすでに花見に代表される江戸庶民の元禄文化はもう始まっていたのかもしれないな。
呑助 貞享の次の時代が元禄時代ですか。貞享時代は何年続いたんですか。
侘助 たったの四年間だった。この四年間の間に芭蕉は「蕉風」という新しい俳諧を創造していったようだ。
呑助 「世に盛る花にも念仏申しけり」。この句はまだ蕉風の成立前の句なんですかね。
侘助 そうなんじゃないかと考えているんだけどね。
呑助 芭蕉は花見の宴をしている際に満開の桜に念仏を唱えている老人を見かけたんでしょうね。
侘助 この句は嘱目吟だな。
呑助 桜の花に念仏をする人を見て芭蕉は奇特な人もいるなぁーと、面白がったんでしようね。
侘助 私はそうじゃないと考えているんだけどね。
呑助 じゃー、桜の花に念仏を唱える何か、特別な意味でもあるんですか。
侘助 満開の桜の花の下には美少女の死体が。満開の桜の花に美少女の死を幻想した詩人がいたでしょ。「汚れっちまった哀しみ」なんて詠った詩人がいたでしょ。
呑助 中原中也ですか。
侘助 散る桜に美を西行は発見しているでしょ。桜の花は死を美化する働きがあるように思うんだ。
呑助 靖国神社は桜の花に囲まれていますね。
侘助 そうでしょ。だから芭蕉は桜の花に念仏を唱えている人を見て、あぅー、あの人の大事な人が身罷っているんだなと想像したんじゃないのかな。
呑助 なるほど、それで桜の花に囲まれた極楽に往生してほしいと念仏をあげているんだなと芭蕉は想像したということですか。
侘助 そんな風にも解釈できるかもしれないなと思ってね。単に桜に念仏唱える人を笑ったんじゃないと思ったということなんだけど。
呑助 酒を飲み、歌を歌って楽しむ花見が湿っぽくなってしまうような句になりますね。
侘助 花見という行事はそもそも湿っぽいものなんじゃないかと思っているんだ。この湿っぽさを払いのけるのが花見なんだと思う。だから土台には湿っぽさがあるんだ。
呑助 そうですよね。
侘助 「死支度(しにじたく)致せ致せと桜哉」と一茶も詠んでいるからね。陽気な花見の席で笑い転げていても心の中ではそろそ死支度する年になってきたなと感じたりすることがあったんじゃないのかな。満開の桜に念仏唱える老人を見て、どうか、桜の花に囲まれた極楽に応じようさせて下さいと願っているのかもしれないなあーと、芭蕉は感じたのかもしれないよ。
呑助 上島鬼貫という俳人は芭蕉とほぼ同世代じゃないですか。鬼貫の句に「骸骨の上を粧うて花見かな」という句があるそうですよ。やせ衰えた鬼貫はどうか今日の桜のような花に囲まれた極楽に往生したいものだと詠んでいるんですね。
侘助 鬼貫は芭蕉より十数歳年下かな。でも確かに同じ時代を生きていた。

醸楽庵だより  522号  白井一道

2017-09-21 16:32:19 | 日記

 奈良七重七堂伽藍八重ざくら  芭蕉

侘輔 「奈良七重七堂伽藍八重ざくら」。この句を天和4年、芭蕉41歳の時の句として岩波文庫は『芭蕉俳句集』に載せている。
呑助 この句の「七堂伽藍八重ざくら」は分かりますが、「奈良七重」とは何を言っているんですか。
侘助 口調がいいから、何も考えないで「奈良七重七堂伽藍」と読んでしまっていたな。ノミちゃんに言われて初めて「奈良七重」とは、何を表現しているのか、考えてしまった。
呑助 そうでしょ。私は、口調を整える意図が芭蕉にはあったのかなと思ったんですけどね。
侘助 特に「奈良七重」には意味がないということかな。
呑助 母音だけで読んでみると「narananae、aaaae」になるでしよう。
侘助 意図的にしたのではなく、偶然そうなったと私は考えたいんだけどね。奈良と言えば、今も昔も東大寺でしよう。南大門の前に立った芭蕉は身震いをしたことでしよう。仁王像の恐ろしさに心身が引き締まったんじゃないかと思うんだ。こんな凄い寺を建立したのは誰なんだ。話に聞くと聖武天皇とは凄いことをした天皇だったんだな。古代の天皇とは凄いことをしたんだと物思いに耽った。
奈良の都には七人の天皇が君臨したという。凄い天皇が七代も君臨したのかと思いを深めたんじゃないのかな。そのことがもしかしたら「奈良七重」という言葉で表現したことだったのかもしれないと想像したんだけど。嫌、奈良に出てみると、東大寺の他にも興福寺や薬師寺、法隆寺、西大寺、大安寺、元興寺など南都七大寺といわれる大寺院があるじゃないか。その他にも唐招提寺のような立派な寺があるじゃないか。「奈良七重」とは、南都七大寺の「七」だったのかもしれないな。奈良は京都と比べると狭い地域に犇めくように立派な寺院が重なるように立っていると芭蕉は感じたのかもしれない。
呑助 なるほどね。私は南
都七大寺の「七」が「奈良七重」の「七」じゃないかなぁーと思いました。
侘助 確かにそうかもしれないな。奈良は南都七大寺、それらの寺には「七堂伽藍」が揃っていると芭蕉は詠んでいるからね。
呑助 「七堂伽藍」とは、金堂とか講堂、鐘楼とかのことですかね。
侘助 奈良時代の寺の配置は金堂を中心に僧侶が学ぶ講堂、僧侶が生活する僧房、僧侶が食事をする食堂(じきどう)、僧侶の生活を規律する鐘楼、お釈迦様の教えを書いたお経を仕舞う経蔵、お釈迦様を祭る塔を具えていた。これを「七堂伽藍」と言っているんだ。奈良時代の大学がまさに「七堂伽藍」だった。
呑助 「奈良七重七堂伽藍八重ざくら」。奈良には七堂伽藍を具えた立派なお寺に圧倒されましたと、いうことですか。
侘助 奈良という街を称えた句なんだろうね。
呑助 その奈良には今、八重桜が咲き誇っているということですか。
侘助 百人一首にある「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほいぬるかな」(伊勢大輔)の歌を芭蕉は下敷きにしてこの句を詠んでいるのかもしれないなぁー。奈良の古の都を称える気持ちを芭蕉を継承したのかもね。

醸楽庵だより  521号  白井一道

2017-09-20 15:16:37 | 日記

 留守に来て梅さへよその垣穂かな  芭蕉

侘輔 「留守に来て梅さへよその垣穂かな」。この句には長い前書きがある。「ある人の隠れ家を訪ねはべるに、あるじは寺に詣でけるよしにて、年老いたる男ひとり、庵を守りゐける。垣穂に梅さかりなりければ、「これなむあるじ顔なり」と言ひけるを、かの男、「よその垣穂にてさうらふ」と言ふを聞きて」と芭蕉は書いている。天和4年、芭蕉41歳の時の句として岩波文庫『芭蕉俳句集』に載っている。
呑助 「垣穂」とは、何ですか。
侘助 垣根のことなんじゃないかな。
呑助 垣根の上に梅の花が咲いているのを見て、見事な梅ですねと、述べたらその梅は隣の梅ですと言われてしまったと、いうことですか。
侘助 留守宅を訪ね、何と挨拶したらいいのか、困ってしまったという笑いの俳句じゃないかと思っているんだけれど。
呑助 留守だと聞き、私は垣根に咲く梅がご主人だと思って帰りますと言ったところ、その梅は隣の家の梅なんですと言われてしまったということですか。
侘助 芭蕉は「春きてぞ人も訪(と)ひける山里は花こそ宿のあるじなりけれ」という拾遺集に載っている藤原公任の歌を芭蕉は知っていたんじゃないのかな。
呑助 山里に春が来ると桜の花が咲く。山里に人が訪ねて来るのは私を訪ねるのではなく、桜の花を愛でるためだ。山里の主人は私ではなく、桜の花こそ主人だと詠っているんですね。
侘助 そうそう、だから芭蕉は梅を愛でさせていただこうと思ってきましたと垣根の上に咲く梅を眺めているとその梅はお隣さんの梅でなんですと、言われてしまったと笑ったんだろうとね。
呑助 芭蕉さんには平安時代からの和歌の知識があったから、その和歌を土台にして笑いの句を詠むことができたということですか。
侘助 留守宅を訪ねて、残念。梅の花を愛でて帰りますと言ったら、その梅はお隣さんのですと言われてすごすご帰った。散々な思いだったと自分を笑った。
呑助 「留守に来て梅さへよその垣穂かな」。なるほどね。名句なのかなと思い始めましたよ。
侘助 軽いね。この軽さが芭蕉の発句なのかもしれないね。
呑助 元禄時代に向かう江戸時代というのは今の時代と比べて庶民にとっては、厳しい厳しい社会だったんでしよう。
侘助 お犬様の時代からね。五代将軍綱吉の時代からね。百姓、町人にとっては厳しい社会だったんだろうね。
呑助 そんな社会にあって、芭蕉は人生を軽く受け流すように生きていったんですか。
侘助 芭蕉は厳しい社会を受け入れ、軽く受け流す処世観を身に付けていったんだろうね。
呑助 肩の力を抜いた生き方ですか。
侘助 「留守に来て梅さへよその垣穂かな」。この句はまさに肩の力が抜けた句なんじゃないかな。
呑助 「侘び」「寂び」「しをり」「軽み」と言われる芭蕉の俳諧理念はすでに徐々に生まれてきているんでしようか。
侘助 そうなんじゃないのかな。

醸楽庵だより  520号  白井一道

2017-09-19 14:46:42 | 日記

 海苔汁の手ぎわ見せけり浅黄椀(あさぎわん)

侘輔 「海苔汁の手ぎわ見せけり浅黄椀(あさぎわん)」。この句の前書きに「あさくさ千里がもとにて」とある。天和4年、芭蕉41歳の時の句として岩波文庫『芭蕉俳句集』に載っている。
呑助 芭蕉門人の千里(ちり)というと『のざらし紀行』の旅の供をした俳人でしたね。
侘助 そう、その『のざらし紀行』の中で芭蕉は「何某(なにがし)千里(ちり)といひけるは、此たび路のたすけとなりて、万(よろず)いたはり心を尽し侍る。常に莫逆(ばくげき)の交(まじわり)ふかく、朋友に信あるかな此の人」。
「深川や芭蕉を富士に預け行く」と千里は詠んでいる。
呑助 「莫逆(ばくげき)の交(まじわり)」とは、どんな交わりだったんですか。
侘助 きわめて親密な交友関係だったということだと思う。「朋友に信ある」と書いているから信頼できる友人だと芭蕉は思っていた。
呑助 「深川や芭蕉を富士に預け行く」とは、何を詠んでいるんですかね。
侘助 芭蕉庵をしばらく留守にしますがよろしくお願いしますよと、富士山に挨拶した句なのかな。
呑助 当時、深川から富士山を眺めることができたんですか。
侘助 今だって、甲州街道の中野坂上から冬の日には富士山を眺めることができるからね。
呑助 そう言えば、いつだったか、東京の「富士見町」と名の付く町では富士山が眺められると放送していたのを覚えていますよ。
侘助 千里は大和當麻村竹内の俳人は江戸に出て、浅草に住んでいた。芭蕉は浅草の千里を訪ね、「海苔汁の手ぎわ見せけり浅黄椀(あさぎわん)」と千里に挨拶した。
呑助 その時、実際に千里は「海苔汁」を作って芭蕉にご馳走したんでしょうかね。
侘助 芭蕉は伊賀上野藤堂藩の勝手方に奉公していたようだから、調理を心得ていたと思うんだ。だから千里が海苔汁を作る手際の良さに驚いたんじゃないのかな。
呑助 千里のつくった「海苔汁」とは、どんなものだったんですかね。
侘助 大根や里芋を入れた味噌汁にたっぷりと生海苔を入れた味噌汁じゃなかったのかな。当時の浅草では、海苔がとれたので今でも「浅草海苔」というブランド名が残っているからね。
呑助 生海苔の味噌汁ですか。
侘助 冬の日の具だくさんの味噌汁は体も心も温まるものだったのだろう。
呑助 特に生海苔に芭蕉は舌鼓をうったと言うことですか。
侘助 生海苔は産地でないと食べられないものだったんだろうから。浅草の千里の家を訪ね、そこで浅草の生海苔の入った味噌汁を馳走になった挨拶の句が「海苔汁の手ぎわ見せけり浅黄椀(あさぎわん)」だったのではと思っているんだ。
呑助 当時、庶民が食べられた海苔は生海苔だったんですかね。
侘助 そうなんだろうと思う。芭蕉には海苔を詠んだ「衰ひや歯に喰ひあてし海苔の砂」という句があるんだ。老いてくると分かるでしょ。この句が詠んでいる海苔は間違いなく生海苔だと思うよ。今、海苔を食べて歯に食い当てることなんてない。