醸楽庵だより

芭蕉の紀行文・俳句、その他文学、社会問題についての評論

醸楽庵だより  672号  送られつ送りつ果ては木曽の秋(芭蕉)  白井一道

2018-03-15 12:48:35 | 日記


 送られつ送りつ果ては木曽の秋  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「送られつ送りつ果ては木曽の秋」。芭蕉45歳の時の句。『曠野』に載せられている。『更科紀行』には「送られつ別れつ果ては木曽の秋」とある。
華女 中七が『曠野』と『更科紀行』では異なっているのよね。
句郎 「送りつ」と「別れつ」では、表現されていることに大きな違いがあるように感じるね。
華女 そうね。「送られつ送りつ果ては」と詠んだ方の意味内容が深くなっているように感じるわ。
句郎 人生の普遍性のようなものを詠んでいるように感じるよね。
華女 父母から送り出され、成人し、今度は子を送り出す。そんな人間の一生をも感じさせるような言葉になっているように感じるわ。
句郎 「送られつ別れつ果ては木曽の秋」の句の場合、中山道の旅の結果、見送りの人に送られ、旅中の人々も別れを告げ、木曽の秋になったということかな。
華女 『更科紀行』は、そうだったのじゃないのかしらね。中山道の旅の目的地、木曽に着いたら秋になっていたということなんでしょ。
句郎 「木曽の秋」のイメージが上五、中七の言葉の意味を大きく膨らましているように感じるな。
華女 私たちの世代にとって木曽路というと何といっても島崎藤村のよね。
句郎 「木曾路はすべて山の中である。あるところは岨そばづたいに行く崖がけの道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」。『夜明け前』冒頭の書き出しかな。
華女 「木曽」と聞いただけで私たちは深山幽谷の世界をイメージしてしまうわ。
句郎 当時の木曽は落葉広葉樹林と照葉樹林が入り混じった山林だったんじゃないのかな。勿論針葉樹林を代表する杉や檜もあっただろうけれども、材木材としての杉や檜だらけの森林になって来るのは江戸後期から明治期なんじゃないのかな。
華女 元禄時代ころから材木林の産地としての木曽が知られるようになるということね。
句郎 芭蕉が生きていた時代の木曽は雑木の紅葉や黄葉が秋になると美しかったのじゃないのかな。
華女 落葉広葉樹が秋になると気温が急激に下がると黄葉したり、紅葉したりするのよね。
句郎 木曽の秋というと、真っ赤に紅葉した山、黄葉した銀杏の木、夕日に輝く山々を想像してしまうのかな。
華女 「送られつ送りつ果は木曽の秋」とは、人の一生、人生の終末は赤秋、輝きの時だというようなことをイメージさせる句なのかもしれないわ。
句郎 この句は人生という時間を木曽の秋という空間をもって表現した句になっていると言えそうな気がするな。
華女 紅葉の木曽、それが木曽の秋ということね。
句郎 「果ては」という言葉が人生の終末というようなことを想像させていると感じるんだ。
華女 この句は芭蕉の名句の一つと挙げられているのでしょ。
句郎 アレゴリカルな句だと言えるように思うな。

醸楽庵だより  671号  かくさぬぞ宿は菜汁に唐からし(芭蕉)  白井一道

2018-03-14 15:48:57 | 日記


 かくさぬぞ宿は菜汁に唐からし  芭蕉



句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「かくさぬぞ宿は菜汁に唐からし」。芭蕉45歳の時の句。『笈の小文』の旅中、豊橋の医師加藤鳥巣(うそう)宅を訪ねての吟。
華女 芭蕉は自然体の人だったのね。
句郎 気を使ってもらうとかえってくたびれることがあるからね。
華女 でも唐辛子が副菜になるとは、思えないわ。
句郎 菜汁とは、菜っ葉の味噌汁だよね。香辛料としての唐辛子ではなく、野菜としての唐辛子を醤油で煮たようなものだったんじゃないのかな。
華女 そうよね。。
句郎 お客に菜汁と唐辛子の膳を出す。「かくさぬぞ」という言葉がいいなぁーと思っているんだけどね。
華女 この句の「ぞ」という言葉は、「や」という言葉に匹敵する言葉になっているわ。
句郎 三百年も前に詠まれた句だとは思えないような平明な言葉で詠まれているのが魅力なのかな。
華女 簡明な句よね。
句郎 三百年前の庶民として、裕福な生活の一端が詠まれているようにも感じるな。
華女 玄米のご飯に菜っ葉の味噌汁と唐辛子の煮物、立派な食事内容だったのかもしれないわ。
句郎 赤い唐辛子の煮物が食欲を刺激したのかもしれないな。
華女 「あかとんぼはねをとったらとうがらし」という其角の句を「とうがらしはねをつけたらあかとんぼ」と芭蕉が添削したという話をネットで読んだことがあるのよ。この話は本当の話なのかしら。
句郎 さすがに芭蕉の添削は素晴らしいと思うけれども、本当なのかな。私にはわからない。でもここには俳諧の精神のような息づいているという感じがするな。
華女 唐辛子というと何か晩秋のイメージがあるようにも感じるわ。「かくさぬぞ宿は菜汁に唐からし」。すっきりした晩秋のイメージ、藤沢周平のひたむきに生きる下層武士の食卓という雰囲気を感じる句だわ。
句郎 夕日に唐辛子というイメージかな。
華女 掃除が行き届いた質素な部屋の食卓のイメージがこの句を読むと湧いてくるわ。
句郎 勤勉で質素、節約した生活に満足している。足るを知る生活かな。
華女 「かくさぬぞ」という上五に足るを知る生活が表現されているように思うわ。
句郎 そうだね。足るを知る生活をしているから客人を迎えても菜汁と唐辛子の食卓を囲むことができるということなのかもしれないな。
華女 そうなのよ。今の自分を受け入れている生活なのよね。これじゃだめだ。これじゃだめだと、自分を絶えず、否定し頑張っていく生活じゃないのよね。
句郎 真面目に誠実に今の生活を大事にしているということなんだよね。
華女 そう、今の自分の生活を大事にしているということなのよね。菜締めと唐辛子の食卓に満足している生活ということなのよね。
句郎 背筋を伸ばし、怠けることなく、誠実に生きていくということなんだろうな。そこから客人に菜汁と唐辛子の食卓を出し、静かな会話に芭蕉は満足したということかな。

醸楽庵だより  670号  粟稗(あわひえ)にまづしくもなし草の庵(芭蕉)  白井一道

2018-03-13 14:59:17 | 日記

 
 粟稗(あわひえ)にまづしくもなし草の庵  芭蕉



句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「粟稗(あわひえ)にまづしくもなし草の庵」。芭蕉45歳の時の句。『笈日記』。「覓レ閑(かんをもとむ)三句、杉の竹葉軒という草庵たづねて」と前詞がある。
華女 粟や稗を食べる生活であっても貧しさを少しも感じさせない草庵の生活だことという意味でいいのかしらね。
句郎 そうだよね。私も初め、そのように理解したんだけれど、粟や稗が豊かに実っている村にある草庵の生活はきっと豊かなんだろうなというような意味にもとれないかなと思うようになったんだ。
華女 どうしてそのように思うようになったのかしら。
句郎 粟や稗といったら、雑穀だよね。江戸時代の農民は米が食べられず、粟や稗を食べ、飢えをしのいでいたというようなイメージが我々にはあるように思っているんだ。
華女 私にもそのようなイメージがあるわ。
句郎 日本の地形を考えてみると少し山間部に入ると稲作が難しい地域は多かったんじゃないのかな。水利が無ければ稲作は無理だからね。
華女 あぁー、それで稲作は無理でも粟や稗の栽培ができているのでこの草庵での生活は貧しくはないということを言いたいのね。
句郎 この句には詠まれた時代の社会が反映しているように感じるんだ。僕らが子供だった頃、麦飯を食べていた。麦飯を弁当に学校に持っていくのが恥ずかしかった経験があるんだ。
華女 そうよね。私にもそのような経験があるわ。だから弁当を包んだ新聞紙で弁当を隠して食べた経験があるわ。
句郎 芭蕉がこの句を詠んだ時代の将軍は犬公方、五代綱吉だった。彼は銀舎利、白米飯を食べ、脚気になったと言われているんだ。
華女 将軍や江戸詰めの武士たちは憧れの白米飯を食べていたのね。
句郎 その結果、脚気が武士たちの間に流行った。参勤交代で地元に帰ると不思議なことに脚気が治ったようなんだ。このことから脚気を「江戸煩い」というようになった。
華女 白米のご飯は美味しかったのよね。
句郎 そう、だから米の飯は食べられなくとも粟や稗が十分食べられるなら十分じゃないかという解釈が出てくるのかなと思うんだ。粟や稗で満足できる豊かな精神生活をしているという解釈だよね。
華女 そうよ。綱吉の時代、江戸では白米のご飯を食べる武士たちがいたということなのよ。だから農民や下層の町人たちが白米のご飯への憧れが生まれて来ていたのよ。
句郎 山間部や水の便の悪い地域であっても粟や稗の栽培ができるなら、生活が成り立つ。そのようなことを芭蕉は詠んだのではないかと愚考しているんだけどね。
華女 貧富の格差は食生活に現れてくるのよね。
句郎 芭蕉は格差社会であることを否定しようとは、していないよね。否定したとろでどうなるものでもないからね。粟や稗と白米。この格差を肯定的に受け入れていると言うことなんじゃないのかな。
華女 でも芭蕉は白米のご飯の美味しさはきっと知っていたのじゃないのかしらね。でも粟や稗の飯でも満足できたんでしょ。

醸楽庵だより  669号  はつ秋や海も青田の一みどり(芭蕉)  白井一道

2018-03-12 13:38:37 | 日記


 はつ秋や海も青田の一みどり  芭蕉


句郎 岩波文庫『芭蕉俳句集』から「はつ秋や海も青田の一みどり」。芭蕉45歳の時の句。『千鳥掛』。「鳴海眺望」と前詞がある。
華女 この句は名詞を助詞で結びつけた句ね。
句郎 名詞と助詞だけの句かな。俳句文体の典型的な句の一つなのかもしれないな。
華女 鳴海の大景を表現しているわね。こんな句が詠めたらいいなぁーという句よ。
句郎 芭蕉は大景も上手に詠む俳人だったということなのかな。
華女 人に知られた句に「荒海や佐渡によこたふ天河」があるじゃない。
句郎 『おくのほそ道』出雲崎で詠んだ句だよね。
華女 荒海というと冬の海というイメージがあるじゃない。でもこの句は冬じゃないのよね。
句郎 「天河」があるからね。彦星と織姫の逢瀬。本土と佐渡とを結ぶ天の川。佐渡を隔てる荒海を乗り越えていく彦星と織姫の愛といういろいろなイメージ折り重なった句になっている。
華女 「初秋や」の句は、初秋の海がすっきりと表現されているのよね。
句郎 初秋の海かな。「海も青田の一みどり」。上手いなぁーの一語だよね。浮世絵のような透明感があるように感じているんだけれど。
華女 短歌は動詞の詩。俳句は名詞の詩だという話を聞いた事があるけれど、まさに名詞の詩にこの句はなっていると思うわ。
句郎 初秋の海は緑だという認識を詠っているんだと思うな。
華女 真っ青な空が見えてくるのよね。
句郎 そう、真っ青な空と波の静かな緑の海。これが初秋の海だと芭蕉は感じたんだろうな。
華女 夏の海だったら波頭が白っぽく賑やかな感じよね。初秋の海は静かなのよ。この静かさに少し寂しさがあるのよね。
句郎 誰もいない海かな。
華女 そんな感じなのよね。
句郎 日脚が少しづつ短くなっていく感じが寂しさを醸し出すのかな。
華女 「初秋や海も青田の一みどり」とは、晩夏の最後の輝きのようなものが初秋の海にあるのじゃないのかしら。
句郎 それが海の緑色ということなのかもしれないな。
華女 江戸時代に生きた人々にとって緑色という色はきっと憧れの色だったのじゃないかしら。
句郎 そうなのかもしれないな。当時、庶民というか、町人に許された色は藍染の色だけだったようだからね。海の色が緑色だということは、鳴海の海は深い、深いからこそ海の色が緑色をしている。空と同じようにどこまでも広がっている深い海が鳴海の海だと言っているんだろう。
華女 この句は俳諧の発句だったんでしよう。
句郎 そのようだ。だから招かれた主への挨拶でもあった。招かれた部屋から鳴海の海が臨めたのかもしれないな。尾張鳴海六歌仙の一人、知足亭で歌仙を巻いている。その発句が「初秋や」だ。
華女 この発句にどんな句を付けているのかしら。
句郎 重辰が「乘行馬の口とむる月」と詠んでいる。
華女 浜辺を馬に乗って歩んでいると馬が止まった。どうしたのかと思い、空を仰ぎ見るとそこにはお月さまがでていたという解釈でいいのかしらね。


醸楽庵だより  668号  釜屋蔵開き  白井一道

2018-03-11 14:22:26 | 日記


  釜屋蔵開きに行く

 八時二十分ごろ、駅に一番近い自転車駐輪場に自転車を入れているとTさんが歩いて来た。ここは六時間毎に100円だよ。少し離れたところだと八時間ごとに100円だと生活の知恵を得た。
 我々は埼玉県騎西町にある「釜屋酒造」の酒蔵開放のイベントに仲間を募って参加するために集まった。
毎年、三月の第二週の土曜日が「釜屋」の酒蔵開放の日だ。
 我々と年恰好が似ているオヤジたちが駅ホーム待合室に集まって来る。そのうちの一人が我々の仲間の一人に親しげに挨拶を交わしている。話を聞いていると行先は同じところのようだ。定年退職後の男にとっての先は同じ。なんとなく見ず知らずの男に親近感をもった。
 全員集合午前八時四十六分発舘林行、区間急行に乗った。最寄り駅の加須駅南口に行くと既にシャトルバスを待つ長蛇のオヤジたちの行列ができていた。
 去年に比べて三十分も早く出て来たのにななぁー。
 シャトルバス案内の釜屋の職員がバスの運行が遅れているという謝罪の言葉があった。待つこと三十分、やっとの思いで酒蔵に着くともうすでに庭に準備されて机は先客によって占められていた。我々は庭の奥に進み、たった一つ残された机を見つけるとそこにもお客が一人いた。仲間がここは何人で使うのか聞いてみると三人だという。一緒に楽しめないかとお願いすると快諾を得た。そんなこんなをしていたため、四斗樽の鏡開きに参加することができなかった。
 槽口(ふなくち)に行くと本醸造の絞ったばかりの酒が注がれれた小さな盃がテーブルの上に並べられていた。
 槽口の酒を猪口で三杯ほど呷るとぐらっときた。仕込み水で喉を潤し、大吟醸の酒を所望すると一杯100円だという。100円を支払い、お燗した酒を頂いた。熱燗で味がなくなっている。これじゃ、ダメだ。もっとぬる燗じゃなくちゃ、味わえないと言うと杜氏がすまなそうに「そうですね」と相槌を打ってくれた。
 勝手知ったる仲間たちは庭中を歩き回り、摘みを買い求めてくる。
 前回、この酒蔵開放で一緒に楽しんだ人から突然声をかけられた。その時、私は同じ埼玉県の酒蔵「清龍酒造」の蔵見学会の話をしたようだ。「清龍」に行ってきたと話してくれた。
 我々の席の傍を着物姿の若い女性が歩いてくる。肩には「ミス日本酒」とある。仲間の一人が握手を求めると快く手を差し伸べてくれる。
 仲間の一人が言った。俺は去年の「ミス日本酒」埼玉代表の方がよかったなどと贅沢なことを述べていた。
 青空が広がり、庭一杯のに参加者が溢れている。これがお祭りなんだと実感した。
 一角に唎酒コーナーがあった。参加してみよう。紙と鉛筆を借り、普通酒から吟醸酒までの五種類のマッチングに挑戦した。何問正答できたが分からなかった。大部をお酒を頂いた後だったので、自信はなかったが、楽しむことができた。
 試飲した酒、100円で楽しんだ酒、ワイン酵母で醸した酒、アルコール度数の高い焼酎のような酒、いろいろ酒を楽しんだ。なんといっても見ず知らずの人との他愛のない会話が楽しかった。帰りには製麺所が経営するうどん屋でてんぷらうどんを頂き、加須駅まで歩いて帰ってきた。