side by side:湘南夫婦のあしあと

二人が好きな地元湘南、スポーツ観戦、旅行、食べ歩き,音楽・美術鑑賞など、日々のあれこれを綴ります

夜と霧 新版 ヴィクトール・E・フランクル

2021年09月09日 | 書籍・雑誌

※※※※※ ご注意! 一部ネタバレの可能性があります ※※※※※

池田香代子訳

ホロコーストサバイバーである著者フランクルが、精神科医として被収容者だった日々を精神面での変化・分析を中心に語る。
他の情実的な体験談とは一線を画す。

持ち物を奪われ、名前でなく番号となり、飢えや寒さ、病気や収容者側からの暴力・嫌がらせに耐える日々
想像を働かせても、今の私には恐らくフランクルが体験した極限の状態のほんの一部さえも理解できるのか自信がない。

読んで思うのは、戦争、特にホロコーストの被収容者という状況下でも、人間は生き伸びる偉大な力があるのだということ。
精神科医として体験談を語り継がなくてはと出版された

印象深かった箇所

被収容者として生き延びたのには、ひとつは運命だったこと。
病人収容所行の移送団に行くことになった時、移送団は嘘でガス室行かもしれないとの不安もあったが運命のなすがままに・・・と身を委ねた。
その後残された収容所内では飢餓状態が悪化。
著者は収容所内が人肉も食したといわれる地獄となる前に逃れることができた。

寒さと飢えと労働にも、愛する人(妻)と会話するという夢想を続け、苦しい労働を生きながらえたこと

そしていつかくる未来では自分を待っている人がいる、自分を必要とする仕事があるという考えが、収容人生活でひとりひとりの唯一性に気づかせ、生き続ける責任を気づかせること
頑張りぬく理由を見失った人があっという間に弱っていく例をクリスマス後の大量死者で説明している(帰宅する希望が失望に変わったため)

収容所内では管理する側の横暴が語られているが著者によると、収容者・被収容者で違うのではないという
収容者側にも良心をもった人がいたし、被収容者側にも立ち位置によって一転サディスティックな振舞をした人もいたらしい。
要は人間はまともな人とまともでない人に分けられ、どの集団にもその二つは存在する。まともな人間だけの集団、「純血」な集団などないのだと。
(ヒトラーは「純血」主義に拘り、ナチスの愚行の原因となった)
戦争(ホロコースト)は極限の状態で人の心の深淵を触れ、2つの種族を鮮明にした。
ガス室を発明したのも人間であり、ガス室で毅然と祈りを口にするのもまた人間

やるせないなのは、ホロコーストから解放された後、多くのサバイバー達が経験した精神的な危険という新たな試練があったこと。
権力・暴力の支配下に長くいたため、自由の下では自分が暴力・権力の主体側になってもいいと考え、権力・暴力の枠から逃れないこと。
世間が自分の体験した過酷な状況を理解してくれないという不満を抱えること
生き延びる心の支えとしていた人が死亡していて再会が叶わないという現実に面した時の途方もない失意に見舞われること

フランクルは「夜と霧」の初版を1947年に出した(日本語訳霜山徳爾)
時代を超えて読み継がれたいと1977年に著者が新たに手を加えた新版を出版している。
本著は新版

旧版の訳者霜山氏の寄せ書きで、フランクルも解放後妻にも両親にも再会できなかったことを知る





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