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加賀藩の所領加賀、能登、越中の魅力、海越しに観る山々、風光明媚なシーサイド・ラインの風景・出来事を写真で紹介する。
金澤・能登立山シーサイド・ライン



晴れた日の午後紅葉谷は赤く染まっていた。

11月が暖かな年は紅葉谷のもみじは赤くなる前に枯れて落葉する。と誰かが言っていた。その言葉をいい方向に裏切ってくれた。


紅葉谷の階段を登ると卯辰山公園線出る道路から見たもみじ


菖蒲園から見る紅葉谷(もみじだに)

 

玉兎ヶ丘の紅葉は終わりを告げている


もみじの絨毯を引き詰めた園内

卯辰山公園見晴らし台


「風の樹」新宮晋と紅葉のもみじ、

見晴らし台から右側を眺める

見晴らし台右側の遊歩道を下りていくと整備、植樹されたもみじが紅葉している。いつもは見晴らし台の上しか行かないのでこんなところがあるとは知らなかった。


もみじとブナの木だろうか足元にはたくさんのドングリが落ちていた。

 

見晴らし台横の駐車場からふれあい広場に降りるとそこにももみじが植林されている。

卯辰山公園には、まだまだ紅葉の綺麗な場所があるようだ。今シーズンの紅葉は終わりかもしれない。また、来シーズンに散策する楽しみをとっておこう。

撮影2023.11.26

 



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卯辰山花菖蒲園

この奥が紅葉(もみじ)谷そろそろ紅葉の時期


クリックで拡大

眺望の丘

玉兎ケ丘

望湖台

日曜日、雨の合い間に撮影した卯辰山の紅葉です。

ホワイトバランスを曇天で書き出しました。現実よりイエローが強くなったみたいです。



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久しぶりに訪ねた郡上八幡城


2010年のもみじ祭り、”山燃ゆるま”さしくその通りだった。

今年も期待して訪ねてみた。前日までの雨も岐阜まで行くと晴れ間の覗く予報が出ており期待し出かけた。

今回は高速道路を使わずに一般国道で郡上までのアプローチの紅葉も楽しもうと、156号線の木々も赤、黄にと紅葉している、これは期待できるぞと心躍る。

で、2010年を振り返ってみた。

ライトアップもとても綺麗だった。

ここまでは2010年の撮影です。

 

ここからは2023年11月11日に訪ねた時の八幡城です。

天候もよく青空に恵まれた登城でしたが、夏の猛暑の影響でしょうか。

また、11月に入っても夏日が有ったせいでしょうか?

それとも、ただ単に少し遅かったのでしょうか?

 

いずれにしてもタイミングが難しいですね。

 

紅葉はさておいて、八幡城のことについて何も知らなかったので少し調べてみました。

 

参照サイト

 

郡上八幡城

岐阜郡上八幡(郡上市)、日本最古の木造再建城、郡上八幡城。耐震補強等工事、城内展示にリニューアル工事を終え、天守閣再建90周年を迎えました。

郡上八幡城

 

郡上八幡城の見どころ

戦国時代末期に起源をもつ郡上八幡城は、幕末・明治維新の動乱を受け、全国多くのお城と同じように取り壊しとなりました。
その後、長らくは石垣だけが取り残された状態でしたが、昭和8年(1933年)に、未来に伝わる郡上八幡のシンボルとなるよう願いを込めて、木造の模擬天守が再建されました。
80年以上経た現在も、日本最古の木造再建城として、郡上の歴史を今に伝えております。

概要

名称:郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう)
別称:積翠城(せきすいじょう)、郡城、虞城(ぐじょう)
城種別:城 ※時代が下り城郭構造が変わり「平山城」として変遷
石垣:野面積み
標高:海抜353.95m 市街地より129.75m ※山頂見晴台付近
城創始年:永禄2年(1559年) 創始者:遠藤盛数
城創建年:永禄9年(1566年) 創建者:遠藤慶隆
天守:昭和8年(1933年)再建 模擬天守 [郡上市重要文化財] / 4層5階建 木造 / 天守規模:建面積118.98㎡ 延面積309.11㎡ 高さ17.18m
構造:石垣等の城跡 [県指定史跡]


始まりは戦国時代末期
永禄2年(1559年)、郡上領主である東常慶と遠藤盛数との間で「赤谷山城の戦い」という郡上支配をめぐる戦いが起こりました。その際に、盛数が構えた陣の場所が郡上八幡城の創始です。その後、盛数の子慶隆が郡上を統一し、城や城下町を建設しました。

……


江戸時代の郡上藩
慶長5年(1600年)9月1日。
八幡城をめぐって、遠藤慶隆・金森可重連合軍(東軍)と稲葉貞通軍(西軍)との間で合戦が起こりました。この合戦が、関ヶ原の戦いの前哨戦の一つ「八幡城の戦い」です。

……

金森氏の改易後、入部した青山氏が7代に渡って100年以上の治世を続け、明治に行われた廃藩置県まで続きました。

慶応4年(1868年)、明治維新の激動の時代
新政府軍と旧幕府軍との間で「戊辰戦争」が勃発。
17歳の朝比奈茂吉を隊長に、郡上藩士45名による“凌霜隊(りょうそうたい)”は、旧幕府軍として、新政府と苦しい戦いを続けました。会津若松城の籠城戦では、白虎隊とも共に戦ったそうです。

“凌霜”とは不屈不当の精神を意味し、今の郡上の人々にも受け継がれています。

明治2年(1869年)に青山幸宜が版籍を朝廷に返上し、郡上藩知事となり、翌年の5月に「郡上城撤去伺」が出され、同年7月より一ノ門から取り払いが始まりました。

明治4年(1871年)廃藩置県により、郡上藩は廃藩となり、9月に知藩事である青山幸宜が東京に出立し郡上八幡城は廃城。こうして、郡上藩四万八千石は終息を迎えたのです。

 

明治以降の郡上八幡城

廃城の翌年の明治3年(1870年)に、八幡城は石垣だけを残して、他は取り壊されてしまいました。現在の城は昭和8年(1933年)に、大垣城を参考に模擬天守として造られたものです。
当時の八幡町長、仲上忠平の決断のもと、郡上八幡城天守台跡に天守閣、隅櫓、高塀を再建。模擬天守としては珍しい“木造”で造られた八幡城の擬似天守は、現存する“木造再建城”としては日本最古として知られています。

昭和30年(1955年)に全ての石垣が「岐阜県指定史跡」に指定され、その後昭和62年(1987年)に木造4層5階建ての模擬天守は「郡上市有形文化財」に指定されました。

 

文豪司馬遼太郎を魅了した美しい山城

……

文豪文豪 故 司馬遼太郎氏も名著『街道をゆく』中で粉雪舞う郡上八幡城を訪れた際の感動を記

 

野面積の石垣

郡上八幡城の石垣は戦国時代によく用いられた「野面積(のづらづみ)」という手法です。

……

石垣を含む一帯の城跡は岐阜県の史跡として指定されています。荒々しい石垣から歴史に思い……。

 

山内一豊の妻・千代


郡上八幡には“内助の功”で有名な女性がいます。
2006年放送のNHK大河ドラマ「功名が辻」の主人公で一躍脚光を浴びた「千代」です。
大河ドラマでは司馬遼太郎の原作にならって別の地域の生まれとして描かれていましたが、千代は郡上八幡城の創始者・遠藤盛数の娘という説が有力です。

……

そのワンシーンを再現した一豊と千代の銅像が、城山公園(本丸跡地)に建てられています。

※千代の出自等は諸説ありますが、様々な資料より、千代が古今伝授の東家の血を引く女性であったという説が濃厚です。

HPより

 

撮影:2010.11.13

  :2023.11.11

記:2023.11.19

 



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称名滝散策 2023.10.29 天候曇り時々雨 霧のため視界が悪く期待した滝を望むことはできず。

あれから一週間がたち、紅葉のピークはもう過ぎたころだろう。

週末にしか動けない身としては、致し方無いことなので諦めるしかない。

八郎坂を上り称名滝をと思ったが一向に天候の回復の兆しが見えてこない。

 

 

滝に向かう途中に悪城の壁で車を止め、晴れ間を見計らって撮影。しかしすぐに雨粒が。遠目に称名滝とハンノキ滝を眺める

悪城の壁

称名滝の下流の左岸側に、延長2km、高低差500mの溶結凝灰岩の壮大な岩壁が切り立っています。立山火山の大噴火でできた溶岩の台地が、称名滝に深く削られてつくられた断崖は、一枚岩盤では日本一を誇ります。これが「悪城の壁」で、岩壁の形が2段になっていることから「悪城の壁の2階」ともいわれています。その名にふさわしく、圧倒的な迫力にあふれています。

国土交通省 北陸地方整備局 立山砂防事務所HPより

 

悪城の壁展望台の説明によると

悪城の壁は、古立山火山の噴出物でつくられた溶岩大地を、氷河と称名川の浸食作用でおおよそ十万年かけて形成したものと言われています。

悪城の壁全体は溶結凝灰岩でできており、「材木岩」と呼ばれる柱状節理が所々で発達しています。

また、

立山黒部ジオパークサイトには

・・・大きなスプーンですくったような形に上の部分がえぐられた奇妙な形をしています。このU字の形にへこんだ地形は、雪食作用が硬い岩壁をゆっくりと粘土化、浸食してできたものではないかと考えられています。悪城壁には展望台もあり、融雪時や降水期には幾筋もの滝が架かり、秋にはせり立つ岩壁と紅葉の美しい彩を眺めることができます。

称名滝は永い々歳月をかけ現在の位置まで後退した。七万年前には現在の立山駅の位置に在ったとか?

 

 

そんな浸食によって断崖を登る八郎坂、落ち葉の八郎坂を上りながら期待してみたが途中で断念

再び来た道を戻り称名滝見台園地への橋まで行き滝を眺める。

 

落ち葉が積もる八郎坂。雨に濡れとても滑りやすく慎重に歩く、それでも下りには何度も滑る。転倒まではいかないが、こんな時にはストックがあれば安全かも?

 

滝の音は聞こえてくるが霧の切れ間に少し見ることが出来る程度。

もとは“八丁坂”だったようだが、山岳ガイド佐伯八郎さんの名前をとって”八郎坂”となったようだが素直に“称名坂”でもと思ったりしてみる。

 

 

 

 

落差350M 、日本一落差の大きな滝、でも、隣に見るハンノキ滝の落差は500Mをはるかに凌ぐが、常に見られる訳では無いために、滝として認められていない。かわいそうな滝「幻の滝」と呼ばれているそうな!

そう言えばどこかの滝で、滝を見るためのエレベーターを設置して観瀑台に上がり降りできるようにしてあるとか?

2023.10.14八郎坂より撮影

撮影2023.10.29

 

 



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黒部渓谷トロッコ列車とパノラマ展望ツアーの旅 2023.10.22 Vol 03


祖母谷地獄、川沿いを掘るとそこには熱いお湯が湧き出している、川の流れを引き込みお湯の温度を調整すれば天然、自然の露天風呂、足湯

二人ずれのハイカーがたくさんの温泉卵を作りリュックに詰めている。そんな利用の仕方も。

暖かくのどかなひと時、遅い昼食をとり、帰り支度をしてここまでで折り返す。

ここから見る山々は、旭岳・白馬岳だろうか?

 

 

橋の上にはこんな説明板が。黒部川花崗岩通称パンダ石、思わず河床を覗き込んでしまう。

祖父谷から見る山々は唐松岳だろうか?それとも天狗の頭?

流れる水はとても綺麗なエメラルドブルー

奥鐘橋から見る第三発電所、ホーム、送水管、竪坑エレベーター展望台が見える。欅平駅には第三便ツアー客がホームに到着していた

帰りの列車の時刻、帰りの列車もほぼ満席状態

朝の列車で撮ることが出来なかった出平ダム席から立ちあがって何とか撮影。このダムには排砂設備が設けられておりダムに堆積する土砂を排出することが出来る。また同じように下流にある宇奈月ダムにも排砂設備が設けられており両ダムで自然に近い形で連携排砂を行っているようです。

下写真;宇奈月ダム

到着したときにはしっかり日も暮れてしまった。

今回は天候にも恵まれ素敵なツアーになりました。来春からの新たにスタートする、黒部宇奈月キャニオンルートが楽しみだ。出来ることなら一度は参加してみたいものだ。



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黒部渓谷トロッコ列車とパノラマ展望ツアーの旅 2023.10.22 Vol 02

天候もよく、いつまで眺めていても飽きることのない山々。しかし、今回はのんびりする訳にはいかず、下山の時刻となってしまった。今来た道を引き返す。

トンネル出入り口広場にて山岳ガイドと別れ坑道案内人とトンネル内に入る。

現在の場所、欅平上部、仙人谷黒部川第四発電所、インクライン、黒部トンネルを通り黒部ダムまで17km。ちなみに、地上の下ノ廊下で黒部ダムまで30数km。命がけで地上を行くか、お金をかけて地下を行くか、その両方を通て往復するのもありですね。

2002年 大みそかの夜紅白歌合戦、にここから中島みゆきさんの「地上の星」がライブ放送された。その場所が「みゆき広場」と語り継がれているようです。


あるサイトから拝借してきました。厳冬期の黒部渓谷上部トンネルよくこのような処でライブ中継をしようと思ったものですね。本当に頭が下がる思いです。おかげで日の当たらない過去の遺産に日が差し来年からは黒部宇奈月キャニオンロードとして一般に開放されるようです。でも決してオーバーツーリズムに、団体客で騒がしい観光地にならない願ってやみません。

再び竪坑エレベーターに乗り下部に降り専用列車に乗り欅平に、ここでガイドの方に御礼を言ってヘルメット返却、今回のツアーは終了です。12:35分

#

この後は帰りの列車の時刻13:53までフリータイム、時間にして一時間程度しかありません。そこで切符販売窓口の方で乗車時間変更を16:01に、これで三時間は確保、祖母谷温泉・地獄まで往復の時間は十分にある。

12:50 駅ホームから奥鐘橋へと降りるが、橋の上では記念撮影の人であふれていて橋の写真は諦め先を急ぐ。

 
奥鐘橋上から上流、下流を見る。上流にかすかに新黒部川第三発電所が見える。

観光案内によく出てくる人喰岩。

ここはモルタルが吹き付けてあるが、これから先に行くと今にも落ちてきそうな岩が剥き出しになっているところがある。

それで奥鐘橋を渡た所に貸し出し用のヘルメットが置いてあったことを思い出すが全く着用している人は居なかった。


名剣橋

 
左:名剣温泉横の渓谷、この川沿いに温泉があり渓谷を眺めることができそう?

右:谷間に建つ名剣温泉その右の山は名剣山。


雪を頂いた山々は毛勝三山(2414)、釜谷山(2415)あたりだろうか?

道はトンネルにつながる、かすかに出口が見えるが暗く、足元もはっきり見えない。数か所に電灯が付ているがライトがあれば良かった。(後で気が付いたが荷物の中にペン型ライトを入れてあったことを忘れていた。)

長いトンネルを抜けると正面に祖母谷温泉が見える。

時間に余裕があれば河原の散策、手造りの温泉に入ったりゆっくりまったりできそうだが。

祖母谷川から分かれた祖父谷川方向の望む、こちら側の登山道は唐松岳へと続く。

13:31 祖母谷橋を渡ったところ左、祖母谷温泉。右、祖母谷地獄・白馬岳。前回来た時にソロの登山者にどこまでと訪ねた時に「白馬岳まで」と話されていた。あとでマップを見たところ、ここから裕に10時間はかかりそうだ。その時は「気を付けて!」と返しておいたが本当にたくましい女性だ。

列車時刻まで2時間半今回は温泉に入るのをあきらめ祖母谷地獄に向かう。

ここからは、次回に・・・・・。

記;2023.10.28



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黒部渓谷トロッコ列車とパノラマ展望ツアーの旅 2023.10.22


宇奈月駅、トロッコ列車の旅はここから始まる。列車に乗る前に宇奈月エリアを散策。

早朝の宇奈月ダムまで上がってみる宇奈月湖に架かる湖面峡、この橋を渡り進むととちの湯にと着く車はここまでで行き止まりとなる。途中に宇奈月温泉木管事件碑が立つ興味のある方はググってみてください。


湖面にには城を思わせる円筒形の建物、新柳河原発電所が立つ。奥の山々の頂には、昨日来からの雪が積もる。


温泉街には普通にサルも


宇奈月駅を出発するトロッコ列車、列車はすぐにトンネル、新山彦橋を渡る(山彦橋より見る)1時間20分のトロッコ列車の旅が始まる。

 

9:00 宇奈月駅出発

相変らず多くの人で賑わっている。私の乗った車両は満席、普通客車8編成だがどの客車も満席状態、思うように写真も撮れない。車窓からの風景は帰りにと少々我慢。


狭軌道の車両はギシギシと音を上げながら進むトンネル内は狭く壁面に手が届きそうな幅しかない。窓がない普通客車は外気を肌で感じることができる


黒薙駅を出ると直ぐに鉄橋を渡る。左手に架かる水路橋を見ることができる

跡曳水路橋

富山県黒部市の柳河原発電所 跡曳水路橋(やながわらはつでんじょ あとひきすいろきょう)は黒部川の支流の黒薙川に架かる水路橋である(写真1枚目)。2009年(平成21年度)に土木学会 選奨土木遺産に選奨された。
竣工年:昭和2年
選奨理由:RCアーチとして当時最大スパンの橋梁であり、水路を支える柱頂部の連続シャローアーチは当時の技術水準の高さを感じさせる。水路用の上路RCアーチ橋である。

「土木ウォッチング」HPより

 

笹平、出平、猫又、そして、鐘釣ここまで約14.3km時間で60分、小さなトロッコ列車の普通客車満席状態で少々疲れが、あと20分の辛抱木屋平に停車ここでは乗客の乗り降りは無いからすぐに出発

 

10:18 欅平 標高 599m

程なくして欅平に到着小さな客車から大勢の乗客が降りてくる、本当にこんなにも乗っていたのかと思うくらいに。

 

ツアー組は改札を出ることなくホームを先にと進む、そこが集合場所、ちょうど黒部川第三発電所の上付近。ここでガイドと合流ヘルメットをお借りして着用。第一班は青色ヘルメット、ちなみに二班はオレンジ色、三班は黄緑色。行程の説明・注意事項を聞き待つ。

 

ここから先に進むための専用車両がバックにて入ってくる機関車と客車3両の四両編成。参加者は機関車前で思い思いに記念撮影をしている。

 



昭和10年頃から現在まで活躍しているこの凸型(トツガタ)の機関車。運転席が真ん中にあり、運転士は横向きで運転

10:33 一号車・二号車に分かれて乗り込みいよいよツアーの出発、距離にして4・500m前進にて進みポイントを切り替えてバックにて100M程度、時間にして数分の乗車。

現在の標高が600mここは欅平下部トンネルここから竪坑エレベーターに乗って200m上の上部トンネルへと上がる。このエレベーターは貨車も載せることができる大型エレベーター中にも軌道が敷かれている。ダム建設用の資材の運搬用に建設されたもの。

竪坑エレベーターを降り上部トンネルに出て100m程度進んだところに右手に曲がったところにい竪坑展望台がある。トンネルから出て一度に視界が開ける。先ほどまでの欅平からの風景とは一変している、みんなの口からは歓声が漏れる。まして雲一つない青空、真白に雪化粧した峰々これを見たら誰もが感動するだろう。

参加者はこの景色を背景にして記念撮影をしている。200m上がるとがるとこんなにまで景色が変わることに驚かされる。

再び、先ほどのトンネルに戻り下流側にと軌道横を登っていく・出口付近に近づくと登りは少し急となり階段も不揃いとなり足元を注意しないと躓きそうになる。どうもこの坑道は送水管を坑道内に引き込むために掘られたものらしい。

 

トンネルを上り詰めるとゲートがありそこから先は一般の登山道となる。ここから先は自由参加足腰に自信がない方はこちらで待つことも可能だが、参加者全員が登山道を登る。またこの地点に戻るため荷物をここにデポすることができるので参加者は不要な荷物を置いて登山道にと。

ここからは、案内人が坑道ガイドと山岳ガイドに交代してパノラマ展望台まで案内してくれる。登山道は桟橋が架かり急なところは階段が架けられている。途中に水平歩道、阿曽原方面の登山道との分岐点がありそこを横目に見ながらパノラマ展望台へと進む。10数分で展望台に到着ここは一般の登山者もいて360度景観を楽しんでいる。

周りの山々を眺めながら山岳ガイドの説明を聞く。ガイドの説明もほどほどに思い思いに記念撮影をしている。

私としてはここより奥の水平歩道へと思いをはせている。出来ることならこの紅葉の時期に登ってみたいと思おうが、ガイドの話では昨日も一件の滑落事故があったようで、ヘリコプターが頻繁に飛んでいたことを話してくれる。

黒四ダムまで30km途中の阿曽原で一泊しての登山になる黒四ダムから大町まで行くにも、もう一泊、そう考えると簡単にはいきそうにもない。

 

 

パノラマ展望台にて 続く。

 

後編 祖母谷へ・・・・・。

 

 

 



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黒部渓谷トロッコ列車とパノラマ展望ツアーの旅 2023.10.22

関西電力施設内の欅平竪坑展望台からの風景

一昨日の前線通過から一夜明けた欅平に上がってきた。期待以上の好天、真っ白に雪化粧した山々素敵な風景を堪能してきました。

ツアー終了後には祖母谷温泉まで足を延ばしてみました。

詳しくは後日に・・・・続く



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原風景が残る白川郷を訪ねて 2023.10.01


霊峰白山の東に面する白川郷、そこは遥か昔にタイムスリップしたかの様だ。そこには忘れかけていた原風景が残る。(わたくしが幼少のころは我が家もそして近所もこのようなところだった。)

合掌造り100棟余りを残す白川村荻町地区そこでは人々の生活が営まれている。

1995年には世界遺産に登録されたがそれは建物、景観だけではないそこに住む人々の生活、文化、暮らしそれら全てが世界遺産。

白川郷の歴史は古い

安元2年(1176)藤原兼実の「玉業」に『飛騨国白川郷』の名称が見られることから、それ以前から存在していたと思われます。寿永2年(1183)に行われた倶利伽羅峠の戦いで敗れた平家はその後の追撃戦でも敗退を続け僅かの手勢を率いて白川郷まで落ち延びたとの伝承が残っています。建長5年(1253)、嘉念坊善俊(伝:後鳥羽上皇の子又は孫)が白川郷鳩ヶ谷に正蓮寺(照蓮寺)を開山すると浄土真宗の一大拠点となり白川郷を含む飛騨国一帯に大きな影響力を及ぼします。

長い歳月の中でここに暮す人たちは、この山間の閉ざされた地域で綿々と歴史を紡いできた。

そんな中によそ者の私たちが車でやってきてわずかな時間で駆け巡ったところで何を見ることができるだろう。何を感じることができるだろう。

合掌造りの建物を見るだけなら写真でも見ることができる。都会の中に合掌造りの建物を建てることだってできる。インスタ映えするからと風景を背景にして自撮りする。そんな写真ならAIで世界中の写真を合成することができる。

でも、それでは千年をもの歴史を感じることができない。どこを見ても地域の人の姿が見えない。生活が見えない。感じれない。ここは白川郷というテーマパークの様だ。

そんなことを感じながら観光客であふれかえる、飛び交う言葉はここは日本なのかと疑うくらいに国際色豊かなテーマパークを見て回った。

 

 

綿々と紡いできた、静かな白川郷を見てみたい。

2023/10/01撮影



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浅野川右岸、浅野本町にある三本の“大きな木

京町小緑地、十字路からJR高架下から浅野本町ホ 金沢市企業局城北水質管理センター横を通る抜け道乗用車がやっと通れる堤防道路

ここは川筋景観保全区域に指定されたおかげでこの木が残されたのだろう。(個人的考え)

都市整備局 景観政策課 金沢市

犀川及び浅野川における美しい川筋景観の保全に関する条例 

浅野川の川筋景観保全方針

浅野川の繊細で情緒が漂う流れと川沿いの歴史的な街並みの景観が調和した川筋景観を
保全・継承する。

地区別の川筋景観保全方針 七ツ屋地区 

魅力ある開放的な景観と落ち着いた佇まいのある街並み、河川敷の緑が調和した川筋景観を保全・継承する。

景観特性 七ツ屋町地区

  • 浅野川の清流と緩やかな蛇行に沿った景観の変化
  • 川筋に面した敷地内の庭や樹木の緑
  • 中低層の建築物が立ち並ぶ街並み
  • 河川敷の遊歩道

犀川沿い、浅野川沿いを守るためにこのような条例が金沢らしさをつくているのだろう。

車が通るのにも気を避けるために蛇行して通り抜ける。

 

もし、道路拡張工事があるのなら、この木々を迂回するかたちでの計画をも視野に入れてほしい。

そして、この木々を中心にした憩いの空間になるような川筋緑地にしてはどうだろう。

 

この木々がいつ頃植えられた物なのか。また、ここには何があったのか少し気になってきました。

 

川筋景観の保全に向けて 浅野川区域 川筋パンフ(浅野川)

https://digilib.city.kanazawa.ishikawa.jp/preview/pdf/CB0aEAAAA

 

写真;2023.06.16夕刻撮影



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