カメラを片手に

柳生を見る・知る・歩く、①陣屋跡から南へ疱瘡地蔵まで

昨日は30.0℃真夏日になり、今日も10時には26度を超えて、
ぼんやりとした春日奥山、若草山の芝生だけが光り輝きます。
小庭での草取りも、蒸し暑さを伴う暑さでうんざり。
10時

5月下旬に奈良東部地区、剣豪の里・柳生に柳生公民館主催の
「柳生を見る・知る・歩く」講座で二時間半ほど歩いてきた。
ハイキングに行きました。


国道369号線から正木坂を上ると、柳生陣屋跡に至ります。


北側に陣屋跡の石碑がひっそりと

柳生宗矩は柳生新陰流を生み出した柳生宗厳(石舟斎)の
菩提を弔うため国道をはさむ高台に芳徳禅寺を建立後に
柳生陣屋跡(1347坪)を1642年に建立したが、
2016.10芳徳寺より右側の紅葉部分

1747年に火災で焼失。築城禁止令のため仮建築のまま明治を
迎え、姿を消し、庁舎や小学校・中学校も建てられていたが、
奈良市により昭和55年に公園として整備され、春は桜、秋は
紅葉の名所で賑わいます。
 

南に向かう東海自然歩道に出ると、大きな石垣にお地蔵様が
彫られ、手を合わせます。
 

さらに南に下ると田植えが済んでいた。


標識に注意して、民家の間を東に30m進み、左に折れます。
此の道は旧・柳生街道に当たります。
 

この標識から50m程で、見落としてしまいそうな山側の土手、
窪んだ所に「寝仏地蔵」さんが横たわっておられ、


さらに山道を少し行くと、「中村六地蔵磨崖仏」が
明応十年(1501年)の銘がある。




200m程進むと庇の下に通称『疱瘡地蔵』大磨崖仏が祀られている。
また他に天正年間(16世紀後期)の五輪塔や阿弥陀如来像も刻まれ、
この地は隣郷との境目で、村を守護するよう願いを込めているのかも。


疱瘡除けに地蔵菩薩立像は3mもの花崗岩の巨石に彫りだされ、
元応元年(1319年)十一月の銘があり、さらに重要なのは


向って右下部分に次のように27文字の碑文が3行半で陰刻される。
しかし風化が進み、読みにくく、16年前に庇が造られたようだ。
生長元年ヨリ サキ者カンヘ四カン カウニヲ井メアル ヘカラス
読み「生長元年より先は、神戸四箇郷に負い目あるべからず」
〝生長元年より以前の神戸四箇郷における負債は一切消滅した”という
具体的な徳政令の内容で、生長元年(1428年)生長の土一揆によって
徳政令を勝ち取った郷民の誰かが記念に彫ったとされる。
なお四箇郷は大柳生庄、小柳生庄、坂原庄と邑地庄を指し、
芳徳禅寺に伝わる沢庵宗彭の鐘銘文に記されることで証明される。



奈良市教育委員会より

道沿いの側面にも地蔵様が彫られている。


分岐点まで戻り、東の一刀石まで、登りますか。

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