朝日が照りだせば、お隣の屋根も輝き初霜が下り、快晴の一日の始まりです。
気温は放射冷却もあり今季最低の5.4℃迄下がり、風もなく日中の最高気温は
20.6℃に達し、寒暖差が大きくなった一日になりました。
12時、18.8℃、40%
若草山の1重目頂上から二重目にかけ人影がかなり見られ、辺りも赤く見え
るが、鹿も食べない外来種ナンキンハゼの紅葉ですね。
例年この辺りイチョウの木が目印の紅葉なのですが・・・。
この暖かさの誘われて、スズメが日向ぼっこしながら毛づくろい中です。
さてNHKラジオ深夜便・今日の誕生日の花は「コウヤボウキ・高野箒」
キク科コウヤボウキ属、草ではなく落葉小低木、茎は灰褐色で細く木質化、
葉は互生し、今年の枝は幅広い卵形、前年枝の節に束生する葉は細長い。
冬には葉を落とし、枝のみが目につく。
奈良時代は「たまははき」と呼ばれ、その後「タマボウキ・玉箒」ともされ、
万葉集では二首詠まれ、巻20-4493 大伴家持を呈示する。
758年1月3日、孝謙天皇が玉箒を賜り宴を催されたおりの歌です。
原『始春乃 波都祢乃家布能 多麻婆波伎 手尓等流可良尓 由良久多麻能乎』
『初春の 初子(はつね)の今日の 玉箒(たまばはき) 手に取るからに 揺らく玉の緒』
『初春の 初子(はつね)の今日の 玉箒(たまばはき) 手に取るからに 揺らく玉の緒』
意)初春の、初子の今日、玉箒を手に取ると、玉が揺れて音をたてます。
和名は、高野山で冬の茎を束ねて箒の材料としたことから
高野山でこの材を用いたのは、竹は食用の筍が育ち、その後色々な用具の材料
にも利用されることで、人間の欲望を生じさせるものとして真言密教では
かつては竹を植えることを禁じられてからです。
花言葉は「働き者」
昨日は飛鳥公民館主催「飛鳥お宝さんぽ」、平城(なら)の『飛鳥』を見つけに
コース:公民館・・・十輪院・・・御霊神社・・・元興寺塔跡・・・小塔院
・・・庚申堂・・・元興寺極楽房・・・大乗院庭園・・・祐佳神社
・・・福智院・・・公民館
奈良ボランティアガイドの皆様が6人一組で案内してくれました。
西へ150m程で「雨寶山十輪院」、南都十輪院とも呼ぶ。
元興寺旧境内の南東隅に位置し、この辺りは観光客は少なく静かな奈良町で、
ドイツの建築家「ブルーノ・タウト」、著作『忘れられた日本』で絶賛する。
「奈良に来たら、まず小規模ではあるが非常に古い簡素優美な十輪院を訪ねて静かにその美を鑑賞し、近傍の素朴な街路などを心ゆくまで味わうがよい」と
寺伝では、元正天皇(715-724)の勅願寺で元興寺の一子院、右大臣吉備真備
の長男・朝野宿禰魚養(あさのすくね なかい)の開基と伝えられ、元正天皇の旧殿を
拝領し創建したとも。中世には庶民の地蔵信仰の寺とされ鎌倉時代末まで寺領
300石、境内1万坪もあったが、戦乱で打撃を受ける。
1602年に徳川家康により寺領50石の寄進され、一般大衆の地蔵信仰の高まりと相まって次第に寺勢は興隆する。
廃仏毀釈での影響か、東京国立博物館構内にある重文「旧十輪院宝蔵」も
法隆寺の仏さまたち同様、売られたのでしょうか。
南門は 切妻造・本瓦葺の四脚門で鎌倉時代中期の建築で重要文化財、厚板で
支えられ、築地塀が続く。
山内に入ると左手に護摩堂があり、不動明王・二童子(平安期重文)を祀る。
軒が低く柔らかな勾配の屋根を持った本堂、寄棟造、本瓦葺きで桁行5間、
梁行4間、鎌倉時代前期の建立で国宝に指定される。
元は背後の覆堂内に安置された石仏龕を拝むための礼堂(らいどう)で、近世は
灌頂堂とも呼ばれていた。
正面の間口を広縁にし、格子模様の蔀戸(しとみど)を用い、軒まわりは垂木では
なく厚板で軒を支え、棟、軒および床が低く、中世の住宅風仏堂となる。
柱間の上の蟇股(かえるまた)は垢抜けした優美な形状が印象的です。
蔀戸が上にあげられています。
石仏龕は間口3m、奥行2.5m、高さ2.3mの規模で、地蔵菩薩立像を中心に、
その手前左右の壁面に冥界の十王像、その手前左右には弥勒菩薩、釈迦如来、
不動明王、観音菩薩を表し、さらに外側に五輪塔や持国天、多聞天、金剛力士
(仁王)などの像を表す。「建造物」として重要文化財に指定されている。
森鴎外は詠む
「なつかしき十輪院は青き鳥 子等のたずぬる老人(おいびと)の庭」
「なつかしき十輪院は青き鳥 子等のたずぬる老人(おいびと)の庭」
歌碑が2023年9月4日に建つ。
また「水原秋桜子」も詠んでおり、池の中央にカキツバタが植えられている。
「優曇華や石龕きよく立つ仏龍王石をがむや雨の燕子花(かきつばた)」
また三木が句を詠む「ほのぼのと石龕仏に障子の日」の句碑も・・・
鎌倉時代の「石造不動明王立像」、そして東側にもあるのだが、時間がない
石造不動明王立像
境内隅には、当山開基の朝野宿禰魚養の古墳も残る。
朝野魚養は能書(書道の名人)で、空海の書の師ともいわれるが詳細は不明
朝野魚養は能書(書道の名人)で、空海の書の師ともいわれるが詳細は不明
本堂裏には墓地があり、「河島英五」の墓はここにある。
彼は生粋の東大阪生まれの東大阪育ちだが、奈良を訪れることが多く、浮御堂
にもよく来られていたとか、そして家族経営のカフェ「TEN.TEN.CAFE」も
裏側には
参拝者はお一人だけで、ほんとに清々しい境内です。