曇り空の朝の奈良、7.3℃の最低気温で日差しがなく日中も13.4℃と低く、
エアコン暖房があっても、足元から冷えてくる奈良です。
12時、11.7℃、69%
1839年のこの日、江戸後期の数学者、和算家「長谷川 寛」の57歳で没す。
江戸生れ、通称は善左衛門、藤次郎とも。和算・関流の日下誠に師事し、
子弟の教育に優れ、「長谷川道場」という塾として明治初期に盛んになる。
著書は初歩から著したことから和算の教科書となる1830年『算法新書』。
円周率が書かれている。
雨の土曜日16日の昼下がり、虚空蔵山「弘仁寺」での南部公民館の講座
「宿院仏師の密教像を学ぶ」、講師は奈良国立博物館名誉館員「鈴木喜博」。
投稿等はご遠慮くださいということで、一部だけ紹介します。
弘仁寺「不動明王」は室町時代1568年 源次作、100.6㎝ 檜寄木造 彩色 玉眼
下部には截金の施され、緻密さに欠けるとの説明がありましたが・・・
通常素地のままで彩色されないのだが、後の彩色かは検討を要すると。
平安時代以降の他の不動明王との変遷・対比も良く分りました。
👇不動明王 👇役行者
先生が担当された奈良博・2005年特別陳列「宿院仏師ー戦国時代の奈良仏師」
での解説を記す。
"戦国時代の奈良、仏像彫刻の製作環境が大きく変わり、古代中世の伝統から
大きく外れた俗人の仏師、いわゆる宿院仏師が誕生。彼らは正統の仏師系図
に載らぬ番匠(ばんしょう)=大工関係出身の仏師集団で、3世代にわたる約80年
余りの活躍が知られています。
初代の源四郎は海龍王寺の沙弥仙算のもとで木寄番匠として彫刻用材の木取
初代の源四郎は海龍王寺の沙弥仙算のもとで木寄番匠として彫刻用材の木取
りなどに携わり、続いて東大寺僧実清のもとで助作として仏像製作に参加。
二代目の源次は俗人のまま宿院仏師と名乗って自立し、奈良宿院(しゅくいん)
町(奈良奉行所・奈良女子大近く)に構えた仏像製作の工房を仏師屋と呼ぶ。
三代目の源三郎は大仏師と名乗り、林小路町で工房を経営しました。
この間の仏像の表現は、棟梁の交替時期を境にして作風が微妙に変化し、
これまで注文製作であったのが、大きな社会変革のなかで店舗販売に変貌
していったのかどうか、重要な課題が彼らの作品の中に潜んでいます。
宿院仏師の仏像は多くが彩色を施さず、良質なヒノキ材を活かした素地仕上
げであり、平明で清潔感のある表現に特色があります。
その素直な表現は同時代の他地域の仏像と比べて孤立しており、南都の古き
良き伝統がそこに感じられます。また健康的で明快な表現には、近世職人の
先駆けのようなところがある。
2005年現在、宿院仏師関係の遺品は70件を越え、調査が進めば100件に近づく
さて高野山真言宗「弘仁寺」は奈良市最南部の虚空蔵山の山腹にある。
本堂、本尊は虚空蔵菩薩
十三詣りと算額の寺として有名で、毎年4月13日の十三詣り、我が子も小6で
塾からお参りしており、地域では「高樋の虚空蔵さん」と呼ばれる。
*虚空蔵菩薩とは広大な宇宙のような無限の智恵と慈悲を持った菩薩 であり
参拝する事で智恵や知識、記憶といった面での利益があると信仰されている
*13詣り:旧暦の3月13日前後に、多福・開運を祈り、小学校を卒業して中学
校に入学する春に寺社に詣で、数え年13歳でおこなう祝い。
いわれは、弘仁6年(815年)に嵯峨天皇の勅願によって創建、807年にこの地に
明星が隕ちたことから、空海が神聖な土地としてこの地に寺を建立したとも、
空海が自ら彫った虚空蔵菩薩像を本尊として安置されたとも伝わる。
中世には華厳宗の末寺、1572年に松永久秀の兵火により伽藍の大部分が焼失
したが、1629年に宗全によって再興され、それが現在の建物です。
本堂に二枚かかる算額を探し、本堂正面の算額です。もう一つは探せず。
*算額は、江戸時代に額や絵馬に数学の問題や解法を記して、 神社や仏閣に
奉納された額の事です。
解答です。
紅葉ですが、イチョウもモミジもまだ早く、この週末辺りかも・・・
付録、2021年11月30日の紅葉で、この時はイチョウが散っていた。
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