寒気の南下に伴い5.7℃迄下がり2番目の記録(11月9日が5.4℃)だったが、
先日床下に断熱発泡ウレタン処理をしたので、試しに床暖をONにすれば、
温まりの速さが違うようで、ガス使用量が低減しそうですね。
日中は雲が多く日差しの少ない一日、最高気温は午後3時過ぎの12.0℃、この
日曜日は23℃もあったのに、一気に寒くなり、一気に紅葉が進みそうです。
奈良公園辺りも週末から12月初めにかけ、紅葉狩り日和との報も。
13時、10.4℃、55%
現在の春日奥山方面を望遠で撮れば、若草山一重目から二重目にかけ人の姿
とともに、背後の春日奥山は錦秋?。
👇春日奥山最高峰は花山498m
そして高円山にかけても錦秋なのでしょうか。
高円山432m👇
昨日、笠ソバの帰りは、
奈良市南部虚空蔵山「弘仁寺」と菩提山「正暦寺」へ
連れ合いは行ったことがなく、紅葉はまだの様ですがここまで来たのでと
*弘仁寺は南部公民館の講座で先日の雨の土曜日訪れ、後日記載予定。
Google mapより
悟りの山・菩提仙と二つの尾根に挟まれ、間を流れる菩提仙川流域25万坪、
インド・ガンジス川上流の聖地リシケンに似ていることから、二龍王が守護す
る大乗仏教の聖地として、992年一条天皇の勅命で九条兼家の子「兼俊僧正」
により創建され、堂塔伽藍を中心に86坊の子院があった。
だが1180年の平重衡による南都焼討によっり焼失し、寺領も没収された。
興福寺別当・大乗院院主の信円僧正が、1218年に法相宗の学問所として再興し
室町時代は金堂、弥勒堂、講堂、十三重宝塔、経蔵、御影堂、鐘楼、六所社
および別院などが整備された。その頃に日本酒の元となる菩提元造りが確立
現在日本酒発祥の地の石碑がある。
さらに戦国時代を乗り越えるも、1629年に火災によって堂塔伽藍が焼失、
江戸中期以降は、法相宗から真言宗・仁和寺の末寺となる。
1836年にまたしても火災にあい、再び多くの堂舎が焼失した。
明治時代には廃仏毀釈の影響もあり荒廃し、明治16年頃には本堂と観音堂も
消失、福寿院だけとなる。
1967年に真言宗御室派から独立し、菩提山真言宗大本山を名乗る。
現在、江戸期の福寿院(本坊扱い)、1916年再建された本堂、
1925年再建の鐘楼などだけですが、
広い境内は四季折々自然豊かでサクラや楓などが咲き、累々と残る石垣との
コントラストが心を癒してくれますね。
500円の駐車料金で車を第二駐車場へ止め、菩提仙川沿いを上る
本堂へと石段を上り、境内を見渡す。
階段の上の広場に、本堂(1906年再建)で拝観する。内部は写真撮影禁止
本堂内陣、一番手前に秘仏「金銅薬師如来倚像」28㎝、奈良時代前期・重文
珍しいものですね。
パンフより
十二神将がおられます。そして後ろに新しく造られた薬師如来様と両脇の2m
日光・月光菩薩は平安時代 県重文 廃仏毀釈で大三輪神社内の大御輪寺のもの
パンフより
瑠璃光台へと上がる前に、「九輪草枯れず 池田小菊」と刻まれる石碑が
池田は志賀直哉に師事した作家で、志賀から株分けされた九輪草を愛した。
瑠璃光台から山・牛頭天王に向かい二礼二拍手一礼し、境内を振り返れば
下り、本堂前から龍神平へと向かい、福寿院を見れば、参拝者が庭を眺める
本堂前まで戻れば・・・
こんな面白い句碑がある。『正暦や紅葉みなきる句三昧』東伯
菩提仙川の沿い下る。紅葉はまだですね。
イチョウもまだですね
福寿殿への門前です。
振り返れば・・・
客殿(重要文化財)で、1681年の再建。数寄屋風の客殿建築。
狩野永納筆の富嶽の襖絵がある。
内部には孔雀明王、鎌倉時代 県重文:
心身の毒を取り除き、災害を除去し、災難を振り払う
パンフより
両脇に明王様がおられた。
欄間と襖絵は江戸時代 狩野永納作
「借景庭園」で、ドウダンツツジが色付いているだけでバックが・・・
パンフより
駐車場への帰り道、タラヨウが赤い実をつけていた。
この寒気で、モミジも色づき、今週末から見頃になるかも知れない。