のちに校長になられた佐藤先生に連れられて校下を歩き回った。
熱心な先生の指導で、太秦、嵯峨野、嵐山など一帯の
古墳、史蹟、旧家などをまわり、古い石碑の拓本を取ったりもした。
chibaのおーちゃんによる庚申塔の写真が、
そのころの心を蘇らせてくれた。
上の写真は近所の境川を渡って
大和市に入ったところにある塚だ。
左の方に庚申塔が3体、そして木をはさんで右の方に地神塔がある。
この塚は地元の人が今も守っておられるようで
御幣が奉げられている。
庚申塔は中国伝来の庚申信仰に基づくもので、
室町時代以降、特に江戸時代初期から盛んに建てられるようになった。
全国的に建てられたが、相模の国は特に盛んだったらしい。
京都はお地蔵様が多く庚申塔は知らなかったが、近所に猿田彦神社はあった。
仏教では庚申の本尊は青面金剛ということで、正面に彫りこまれていることが多い。
他の仏様のこともあるし、庚申塔という文字だけのものもある。
青面金剛は邪鬼を踏んでいる。
さらに三猿(みざる、いわざる、きかざる)が基台にいることも多いが、
ここのものは、痛みが激しく分離している。
寛政10年だから1798年、松平定信や本居宣長の時代に建立された。
瀬谷区相沢にも庚申塔と地神塔の塚がある。
この庚申塔も傷んで、年代も分からない。
前の写真の左側の方にも、2体の庚申塔がある。
文字だけの方が嘉永5年1852年、
三猿のいる方が萬延元年1860年と比較的新しい。
申講の文字が見えて、建てる土台となったエネルギーが分かる。
地神は畑の神、農業の神。
土地の人たちにとって庚申塔も地神塔も大切なものだったのだろう。
明治政府は庚申信仰を迷信と位置づけて、
街道筋にあるものを中心に庚申塔の撤去政策をとった。
それでも私有地や社寺境内、小さな道筋などに残された。
ウオーキングのときなどに、気をつけて見よう。