
大和市の泉の森とその南側のふれあいの森あたりには、
いろんな水鳥がいる。

そんな仲間のコガモは、池よりは川のほうで見ることが多い。

そんな森の一角に朱塗りの建物がある。台湾亭という。
台湾高座会と日本高座会の人たちが建設し1997年に大和市に寄贈された。
高座会とは何だろうか。

昭和戦争末期、青年が戦場に借り出された日本は深刻な労働力不足に陥った。
航空機生産の拡大と熟練工確保の必要に迫られた海軍当局は、安定した優秀な労働力を確保するため、
台湾の少年たちに的を絞って優秀な青少年を選抜して高座海軍工廠に動員した。
12歳から16歳ぐらいまでの少年とリーダー役の17~19際の中学生たち8000人以上が、
この近くにあった少年工宿舎に寝泊りして約2年、戦闘機の生産に従事した。
戦後、台湾に戻った人たちは高座の地を第2の故郷とも思い続け、
戒厳令が解除された欲1988年に同窓会「台湾高座会」を結成した。

2月4日読売新聞の朝刊2面「顔」欄に、こんな記事が掲載された。
写真が鮮明でなく読みにくいので原文のまま転記する。
昭和戦争中の元台湾少年工組織の代表 李 雪峰さん
昭和戦争末期、日本の植民地統治下の台湾から、神奈川県の高座海軍工廠に渡り、
戦闘機「雷電」の生産に汗を流した少年たちがいた。
1943年秋、その一員に志願して、日本へ行った。日本名は森本雪夫。当時17歳。
リーダー役だった関係から、同窓会「高座会」を結成し、会長を務める。
「働きながら学べる」として、台湾各地から成績優秀者が少年工に選抜され、計8,419人が
労働力不足だった日本の軍需産業を支えた。
「寒い日本では食べ物が台湾より少なく、故郷が恋しくて皆で泣いた。
それだけに、同じ釜の飯を食った連帯意識が強いんです」。
戦況悪化につれて、各地の工場を転々とし、空襲で死亡した仲間も多かった。
仲間内の会話は、今も日本語だ。
忘れられない思い出は、地元の農家から、サツマイモなどの差し入れを受け、
「高座の情」に触れたことだという。
戦後、台湾に戻り、各界で活躍する少年工出身者の同窓会結成が認められたのは、
戒厳令解除の翌88年。
昨年秋の20周年記念大会には、約800人が集まった。
2003年、高座での勤務を示す在職証明書を厚生労働省から受け取った。
一時は3,400人いた会員も、今では2,000人余り。平均年齢は79歳。
近年は日本側と連携して、自治体交流の橋渡し役を担う。
「19年間、日本人だった」との考えから、余生を日台交流に費やすつもりだ。
「日本は第二の故郷。不屈の精神を学んだ。悔いはない」。
日本を思う気持ちは、人一倍強い。(台湾支局、石井利尚)

竜宮城の門を思わせる造りで、鉄筋コンクリート製の6角形の建物の高さは約10m。

絵柄陶器がはめ込まれた欄間の下部の内外面は、
色鮮やかな山水・花鳥画で飾られている。

階段には海軍高座工廠のマークが彫られている。
このマークは碇と前面から見た飛行機とを組み合わせたものだそうだ。

この少年工たちの中には病没した者もいれば、
いまのふれあいの森の近くで空襲されて死んだ者もいる。
台湾亭に近い善徳寺に、戦没台湾少年慰霊の碑がある。

台湾亭の近くはコサギも多い。
前に真下から撮ったので、今回は真上から失礼。
