◯◯◯ですから。

いいやま線とか、、、飯山鐡道、東京電燈西大滝ダム信濃川発電所、鉄道省信濃川発電所工事材料運搬線

飯山線今昔 飯山鉄道と電源開発

2018-09-20 05:09:07 | 飯山鉄道関連
ちょっとサボると日がたつのが早いもので、飯山鉄道と電源開発を続けたい。記事を書いていないだけで、資料の参照と収集は確実に行っている。ここ最近は十日町とか飯山まで出掛けても飯山線の撮影もそこそこに各地元の図書館に籠っているのが事実であり、自分でも何をやってるんだと思う時が無いわけでもない。けど、何となく撮っていた飯山線の歴史について、それこそネットで検索しても出てこない、Wikipediaにも載ってない、そんな部分を知ることが出来て私は楽しい。そんなこんなで私は楽しいから、自分が飽きるまで続けるつもりである。自分のブログだから好きに書いても良いよねって感じで。

嘘は書かないように気を付けているものの、もし事実誤認等があればコメント等で指摘を乞う次第です。

今回は岡山村史の飯山鉄道に関する記述をざっとまとめておきたい。簡潔な時系列についてはwikipediaにまとまっているので、参照されたい。



大正6年、鉄道敷設が認可され飯山鉄道会社が発足した。しかしながら、創立当時の飯山鉄道株式会社の目的は、飯山を終点として北部への延長計画はなかったため、飯山以北の人々はこれを遺憾とした。
同年、郡会(下水内郡議会のことと思われる)にて、これを戸狩まで延長するよう意見書提出の建議をなし、郡会の議決を経てこれを郡長に提出。しかし、それでも飯山鉄道会社としては戸狩までの延長について明確な意思表示をしなかった。
これには、飯山以北まで鉄道が延伸されると、今迄は飯山で行われていた経済活動が、飯山を素通りして中野や長野に流れ、かえって飯山の発展上不利になるという考えもあったらしい。大正8年には郡会において飯山鉄道会社に対して群費補助をとりあげたが、以上のことから反対が予想された。それでも郡長等の働きかけにより、飯山鉄道会社との間に覚書を交わし、大正8年8月8日の郡会において飯山鉄道株式会社に対しての補助を決定した。

この覚書の内容を私なりの理解で書かせてもらう

・戸狩までの延長の準備を万全にする
・飯山鉄道会社の増資の上で戸狩まで延長する計画は勿論だけど、法律上不可能な場合は予め鉄道院の了解を得て、飯山鉄道に合併するつもりでも新会社を創立して鉄道院に認可申請を提出することもありうる

※理解に自信が無いので覚書の内容は後日原文も引用するつもりです。


どうにも、西大滝(岡山村)までの延長どころか戸狩までの延長すら、この時点では怪しい雰囲気が漂う飯山鉄道である。

これは筆者の感想に過ぎないが、ここまで調べてきた中で、飯山鉄道は後に十日町まで全通したとはいえ、豊野から飯山まで開通した時点で飯山鉄道会社としては使命を果たしたと思っている感がある。
(飯山まですら電力会社の増資で工事が進んだとはいえ)飯山までは地域や飯山鉄道会社が敷きたかった鉄道、その先の十日町までの区間は電源開発のための資材運搬路線の色が強くなる。

そして同時期、信越電力株式会社の幹部が当地を視察し、飯山鉄道の完成は地方発展のみならず、信越電力会社の発電工事に重大な役割と果たすことと認め、増資を決定。これでようやく豊野ー飯山間の工事着手と共に、飯山から西大滝までの延長が決定されたという経緯になる。

ここでは同時に、会社幹部に電力会社関係の人間を登用することとなり、路線を巡る事情に電力開発が大きく影響していく体制が整っていく。電力会社の影響力で十日町までの全通を成し遂げられたことは事実として、飯山鉄道がやりたかったのは飯山までだったんじゃないかと私が感想を抱く理由も分かってもらえると思う。

※ここまで書いておいて、飯山鉄道側が鉄道院線(後の国鉄)の十日町線まで繋げる明確な意思と認められる記述を見つけたら、後で訂正します。



これによって、岡山村の西大滝まで飯山鉄道が来ることが現実的となった

それに対する岡山村史の記述である

以上の如き地方民の熱望と信越電力株式会社の協力が実を結んで大正十二年四月廿九日飯鉄株主総会を開き、西大滝より十日町に至る二十三哩延長の件、資本金を一千万円に増額すること等を決議し、同年十二月一日西大滝駅まで、同十四年十一月十九日森宮野原駅迄開通して、長野県内の全通を見、旅客の交通及び地方産物の搬出、需要品の移入等が円滑に行はれるようになり従来奥信濃と称して明治維新後も依然として文化のおくれていた市川谷地方も、漸く文明の恵沢に浴することが出来るようになつた。


更に

飯山鉄道完成の結果、飯山の商圏は遠く新潟県迄拡大し、飯山商人活動の範囲は長足の進歩を来した。即ち信濃川発電工事に伴う資材の供給、労働者の日用品食糧等は殆ど飯山商人によつて販売され、西大滝大割野等は飯山商人活動の中心となり、工事終了後も、下り一番の列車は飯山行商人とその荷物でいつも混雑を極めて居り、それ等の人々が最終の上り列車で飯山に運ぶ金品は莫大の額に上つている。


と、飯山鉄道開通の当地への影響を記述している。

この飯山商人の発展ついては飯山市史にも似たような記述がある。

飯山市史では

郡民を挙げて取り組んできた飯山鉄道の開設は、飯山地域の経済や産業に大きな構造の変化をもたらした。飯山町の商圏は新潟県にまで拡大し飯山の商人の活動の範囲が広がった。信濃川発電所工事用の資材や働く人の日用品食料品は飯山の商人によって販売された。飯山停車場・北飯山停留所を利用する行商人の数は八〇余名もあった。


しかし、これが事実だとしてだ。

少し気になる記述を当時の新聞記事だったかで見た気がするのだが、手元に無い。
それは、特に発電所の資材調達について電力会社は下請け工事会社に一任し、飯山商人が完全に肩透かしを食らい、電力会社に請願に赴いたという話。結局は請願によって飯山商人も工事に食い込めたという結果だったと記憶しているだが、飯山鉄道建設当時に並行して行われていた中津川発電所の話だか、開通後の信濃川発電所の話だかも曖昧だ。話の本筋ではないと思うのでここでは、そういう記述も見たよという程度の紹介に留めたい。

※例によってちゃんとした記述を見つけ次第、ここの内容も書き換えるつもりでです。


そんなこんなで、この地域にとって飯山鉄道の開通と発電所建設は生活の構造を変える程のインパクトがあったのだ。たかが飯山線、たかがダムや発電所、今や元からあったくらの風景として見過ごしてしまうものも、その歴史を知ると、少し見方が変わると思う。

ここまでのことを踏まえて、岡山村史の西大滝駅と西大滝ダムに対する記述を見る

西大滝駅は飯山から十二哩七分の所にある駅で、又東電信濃川発電所取水口見張所のある所である。東電工事中は、用地の買収によって村民には一時に金が入り、又堰堤沈砂地会社の諸建物舎宅の建設等で、総額七千八百万に及ぶ莫大の資金がここに投資され、多数の資材、食糧、日用品の供給、労働者及会社員の往復等で一時非常な盛況を呈したものであつたが、工事終了後は、労働者は去り、土地の売却によつて得たる地方の金は追々消費され、十四町歩に及ぶ耕地は減少したため、当時の盛況を見ることは出来なくなつたが、西大滝、藤沢、東大滝等の人々の乗降地方物産の移出需要物資の移入、東電関係者の出入等によって、本村最北端の駅として栄えている。



さんざん引っ張っておいてあれだけど、西大滝駅における西大滝ダム建設資材の状況について言及している記述は一切ありませんでしたってことで。

ただ、当時の西大滝の駅の写真が載っていたのだ。



うそーん!山側に側線あるやーん!まさかこの狭い側線で貨物扱いしていたのか?

ダムの方向にそういう施設があると予想していたんだけども、実際のところどうなんだろう?っていう疑問が一気に膨らんでしまう写真だ。

でも、一歩前進なのかもしれませんね。これは事実として受け止めないといけません。



同アングルで

まぁ、側線くらいは置けそうな敷地は残ってるけどさ




さて、そこからの西大滝ダム建設から10年後くらいの航空写真を引っ張ってくる アメリカ軍が戦後に撮ったものです



なんか駅の側線もあるっぽいけど、それ以上に駅の長野方にも平場と大きな建屋がある気がするんですよね。住宅にしては大きすぎると思うんだけども。

更なる調査が必要ですね。



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