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鶴田(たづた)藩 西御殿跡  2019.4.15 「19」

2024-12-04 15:33:08 | 旅行

鶴田(たづた)藩  西御殿跡  2019.4.15

  浜田藩➡たづた藩

第二次幕薩戦争に際して、石見国(島根県)浜田藩(松平右近将監家 石高六万一千石)は幕府軍の先鋒部隊の一つとして石州口の守備についたが、石州口の戦いにおいては、

村田蔵六(のちの大村益次郎)に指揮された長州軍に敗北し、慶応二年(1866)七月、自ら浜田城に火を放って藩主以下士卒は杵築に、続いて松江(共に島根県)に退いた。

幕長戦争は、朝廷からの勅命による兵事の停止というかたちで終結したが、その後も石見国の浜田藩領は長州に占領されたままであったので、

浜田藩は藩を挙げて飛領地であった久米北条郡の十七ケ村(石高八千三百余石)に移動することとなった。
 藩主松平武聰(たけあきら)は、慶応三年(1867)三月二十六日、里公文中村の大庄屋福山元太郎邸に入り、藩名を「鶴田藩(たずた)」と改めた。

そして、士卒や家族はそれぞれ近在の民家に寄寓し、慣れない土地での生活を行うこととなった。

これは、別の観点からみれば、作州移住後は六万一千石の大名が八千三百余石で生活するという、経済的にみても極めて苦しい立場となったのである。
 その後、人心も落着きを見せ、鶴田藩の統治機構が次第に整うにつれ、移住後福山邸に起居していた藩主や家族についても新しい居所が検討されるに至った。

当初候補地となったのは、久米北条郡下打穴村内の鬼山であったが、慶応四年六月以降鶴田藩領となっていた同郡桑下村内のこの地に建設されることとなった。
 鶴田藩主の居館は、この西御殿の地に建築され、藩主がここに移ったのは年号も改まった明治四年(1871)の六月であった。

しかしながら同月の版籍奉還、翌七月の十四日には廃藩置県の詔書が出され、松平武聰は藩知事の職を解かれて東京へ召されることとなった。
 武聰の東京への出発は同年八月二十三日であり、藩主がここへ起居したのはわずか足掛け三ヵ月の短期間であった。

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