![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/ba/008a3211240e4f0dd91931f88bc8650e.jpg)
(※萩尾望都先生の漫画『百億の昼と千億の夜』のネタばれ☆がありますので、くれぐれも御注意くださいませm(_ _)m)
あ、ちなみにわたし、光瀬龍先生の原作については未読ということでよろしくお願いしますm(_ _)m
実をいうとわたし、『百億の昼と千億の夜』を読み終わった時に思いだしたのが、次のふたつのことでした。ひとつ目がダンテの『神曲』のラストのことであり、もうひとつが手塚治虫先生の『ブッダ』で……ただわたし、手塚先生の『ブッダ』、ちゃんと読んだこと一度もありません(^^;)
なのに何故「思いだした」のかというと――相当昔のことになりますが、友人ふたりくらいと某ラーメン屋さんへ行った時のことです。そこのラーメン屋さんの本棚(というか、カラーボックス☆)に、手塚先生の『ブッダ』が全巻揃ってるのを見て……「おお!」となり、三人で読みはじめたのです。
まあ、ラーメンやって来るまでの間なので、時間のほうは非常に限られています。で、ぱらぱら読んでいった時にふとこう思ったわけです。(そうだ!わたし、仏陀がどうやって悟りを開いたのか、そのシーンを手塚先生がどう描いたのか、その部分を一番知りたい)と……なので、かなりのとこ飛ばして読んで、仏陀がどうやらそろそろ悟りを開きそーだなというページを夢中で捲りました。
で、結果としては「悟りはない」と悟ることこそ悟りだ――というのでしょうか。わたし、そのことがわかると、物凄く納得して、あとはもうラーメンをすすることにだけ集中したわけです
いえ、「たったのそんだけえっ!?」なんて、これっぽっちも思いませんでしたし、むしろ逆に「流石手塚先生だ!
」とすら思ったのを今もよく覚えています
それで、ですね。『百億の昼と千億の夜』はあらすじを書くのが非常に難しい漫画なのですが、一応ウィキからコピペ☆するだけしてみましょうか(^^;)
>>ギリシャの哲学者プラトンはアトランティス王国の文書を求め、旅に出る。旅先のエルカシアでプラトンは太陽のような灯り(タウブ)、高度な調味料を使った食材、グラウス(ガラス)と、今までに見たことのない高度な技術を持った文明に出会う。プラトンは、エルカシアの宗主にアトランティスがなぜ滅んだのかを尋ねる。宗主は「その問いはあなた自身で見つけることになる」との謎の言葉を残す。プラトンはその地で横になり、目が覚めると自分がアトランティスの司政官オリオナエであることを自覚する。
オリオナエは、国王アトラス7世、先王ポセイドニス5世から、王国のアトランタ地方への移動を強く求められていたことに苦しんでいた。しかし、2人は惑星開発委員会の要請に基づくものであるとして強く移動を迫る。王国は移動を試みるも失敗し、大惨事に襲われて王国の繁栄は一夜にして崩壊する。プラトンは再び目を醒ます。体調を取り戻したプラトンは西北の地 TOVATSUE へ向かうという。これが時を超えた遥かな旅の始まりとなった。
シッタータ(釈迦)は釈迦国の太子であったが、世の無常を感じて出家し、トバツ市にて梵天王から破滅の相を聞かされる。疑問を抱いた彼は阿修羅王と会うことを決意する。
一方、ナザレのイエスはゴルゴダの奇蹟の後、大天使ミカエルにより地球の惑星管理員に任命される。
超越者である“シ”の命を受けたという惑星開発委員会の真意とは何であろうか。弥勒の救済計画とは何か。様々な謎が彼らの前に立ちはだかる。
ちなみに、こちらのあらすじは小説版のあらすじで、萩尾先生の漫画と原作の間には違いがあるそうなのですが、その点についてもウィキを参照してくださいまし☆ということで、よろしくお願いしますm(_ _)m
こうあらすじをコピペ☆してみただけでも、原作なり漫画なりを読んだことない方にとっては「なんのこっちゃら☆」というところではないでしょうか。また、『百億の昼と千億の夜』を読まなかったとしても、「キミィ、キミは人生の三分の一をソンしてるねえ
」と言うつもりもありません。ただ、人生の滋養が遥かに豊かになるだろうということだけは間違いないにしても。
それで、ですね。ここからは基本的に『百億の昼と千億の夜』をすでに読んでいるという前提で話を進めたいのですが、次は先に上げたダンテの『神曲』について。わたし、ダンテの『神曲』を最初に読んだ時――ダンテの描く地獄の描写にすっかり魅せられましたし、それは煉獄篇や天国篇についても同様でした。ただ、ダンテの『神曲』は途中で読者を裏切るのではないかと思うんですよね。それもいい意味ではなく、悪い意味で(^^;)
ここまでせっかくこれほどまでに緻密に物語を積み上げてきたというのに……何故か突然、ダンテがその生涯で恋い焦がれた女性、ベアトリーチェが出てきて、物語を台無しにするわけです。で、わたしこの時こう思いました。「まあ、気持ちはわかんなくもないけど……せっかく煉獄篇の最後のほうまできて登場するのが、著者の現実世界で恋い焦がれたマドンナとはね。でもいいよ。ここに至るまで、ものすごーくものすごーく面白くて夢中で読んだからさ。ダンテ先生、あんたは凄い人だね。間違いなく天才だよ。うん、ベアトリーチェなんていう、個人的な恋慕でせっかくの物語を台無しにしたとしても……何よりここに至るまで、こんなに面白かったんだしね」といったように。
何を言いたいかというと――わたし原作読んでないので、原作を読めばまた印象が変わるのでしょうが、『百億の昼と千億の夜』のラストにガッカリしたという話ではまったくありません。ただ、手塚先生の『ブッダ』の、『ブッダ』が悟りを開く場面、そこしか読んでない人間が何か語るなという話ではあるのですが、「悟りはない」と悟ることこそ悟り……というあの部分。そこだけ、『百億の昼と千億の夜』のラストと共通する何かを感じた、というか。
で、ですね。ダンテの『神曲』を思いだしたのは、地獄・煉獄・天国と、ダンテはもしかして本当に肉体を離れた霊だけで、そのような旅をしたのではあるまいか……というくらい興奮して読み進めたのですが、途中でハッとするわけです。ベアトリーチェという、著者の個人的な恋慕の対象者が出てくることによって――「ああ、なんだ。これは間違いなくダンテさんが自分の頭で作ったお話なんだ。むしろそれでこそ良かった。なんかホッとしたよ」となったあの感覚、その読後感と似てるような気がしたんですよね(※『百億の昼と千億の夜』は素晴らしい作品ですので、繰り返しになりますが、あのラストにはガッカリした……といった意味ではまったくありません)。
ようするに、物語の中では「ヘリオ・セス・ベータ型惑星開発」なるものを、宇宙の生命が芽生えた惑星すべてにおいて、「惑星委員会」なる存在が計画したらしい、となっている。そしてそれは簡単にいえば、「いつか人は救済される」という宗教とワンセットになっているわけですけど、それはあくまで「惑星委員会」が創りだした<神>であって、本物の神は別にいる――そして、オリオナエ、阿修羅王、シッタータらは、その本物の「神探し」をして宇宙を巡る……という、大まかに言えばそういうことですよね。
>>「ヘリオ・セス・ベータ型惑星開発……とは、それは小さな海の分子から発展させて、知的な生命体を生み出し、高度な文明を作る開発のことだ」
「それを地球にやったのか!」
「……と、いくつかの惑星にな。慎重に手間をかけて」
「では、地球にたまたま生命が発生したというのではなく……」
「委員会がやったのだ」
オリオナエはかつて、アトランティスの執政官であり、そこではポセイドン神の神殿があって、ポセイドンの指示によってアトランティスは非常に栄えていた。ところがこのポセイドンは「惑星委員会」の手先(従業員?笑)のような存在にすぎず、結局のところこのポセイドンの不手際によってアトランティスは滅ぶわけですよね。火災と不思議な闇によって滅亡が訪れた時、市民は>>「もう金輪際神さまなんて信用しねえぞ。さんざおれたちにいい目見させといて、最後はこのザマかよ」と言い、息子のハルトとその婚約者のアイナを失ったオリオナエはこう叫びます。>>「あなたは神ではないのか!?ハルトを返せ!民を返せ!アトランティスを返せ!なぜ、なぜ、なぜ、神ならば何故われわれをこんな目に合わせるのだーーっ!!」
そして、のちに仏陀となるシッタータも、この世に苦しみがあるのは何故かと悩み、出家するわけですが……阿修羅王から教えられ、>>「何故地球に開発を行い、人間に知恵をつけ、生きることを苦しみとしたのか?」との疑問を惑星委員会に持つようになり、阿修羅王自身もまた、>>「何故この宇宙を破滅へと向かわせているのか?」との疑問を解くため戦い続けます。
『百億の昼と千億の夜』の面白いところは、主人公側であるオリオナエ・阿修羅王・シッタータ(&ユダ)らの敵サイドにいるのが、「惑星委員会」から命を受けて地上に「終末の滅びとその後の救い」という例の神の存在を布教したイエス・キリストその人ということでしょうか(ようするに、キリストが悪役っていうことですよね・笑)。
このあたり、書きたいことは色々あるのですが、そうするとさらに長くなってしまうので(汗)、そこは端折るとして……巨大な動く神像のようなポセイドン、あるいは摩尼宝殿の最下層にいる巨大な弥勒像、または実は帝釈天が化けていた大天使ミカエルから啓示を受けたイエス・キリスト――「設定めちゃくちゃやがな☆」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、肝要なのは何より、ポセイドンはともかくとして、>>「銀河系において、高度な文明を築きあげた星には必ず、ほろびの伝説と救いの神の伝説がつきまとい――それに対して、土着の神や悪の神の存在があった」ということですよね。そして、これらの神々はいつか来る滅びと、その後の天国や極楽浄土における救いを説いているわけですが、阿修羅王が指摘しているのは、「そんな救いなどはない。滅びのあとに来るのは無だ」ということなわけです。そして、我々人類は、実は宇宙の彼方にいるそのような宇宙人の運営する「惑星委員会」なるものの思惑によって、このようなペテンの宗教に騙されているのではないか……キリスト教においては、世界の終末には地震や飢饉や戦争など、相当ひどい艱難があるけれど、イエス・キリストを信じている者は救済されると教えています。一方、弥勒とは何者かといえば、>>「天空全土の救世主である。五十六億七千万年後には人間界へ現れて人々を救うといわれている菩薩」ということでした。五十六億七千万年後ってあんた……
という話です。
だから、阿修羅王は言います。「そんな救いなど実はないのだ」と。では、何故「惑星委員会」なる存在は、そのような計画を立てたのか、そもそも「惑星委員会」とは何者なのか――最後、宇宙を旅する中、オリオナエもシッタータもユダも死んでゆきますが、阿修羅王はただひとりとなってなお、その明確な答えを得られずに物語は終わります。一応、答えとして一番近いものをくれるのが、宇宙の因縁の支配者と言われる転輪王であり、彼との会話でしょうけれども、これもまた何か今までと同じく「取ってつけた」ようで、阿修羅王は再びその意識の中で「惑星委員会」(たぶん☆)の連中の会話を聞きます。
宇宙の一番外側にいると思われた転輪王でさえも、「〃シ〃が何者か」、「謎の惑星委員会」の存在理由等について、阿修羅王が十分納得できる答えを与えてはくれず(>>「彼らは彼岸に住む超越者だ」としか)……ただ、この宇宙に存在する生命たちが滅びゆくのを黙って静観するに忍びず、オリオナエや阿修羅王、シッタータといった目覚めた戦士たちを彼らの対抗勢力として送りだし、どうにかして滅びとそれに続く無を食い止めたいと願った。つまりはそうしたことだったのだと思います。
いえ、わたしのこの読みが正しいかどうかすらわかりませんし、萩尾先生の漫画を読んで思ったのはとにかく、「こりゃ原作のほうを読めってことなんだろうなあ」ということだったかもしれません
あと、作中で他に面白かったのは、第11章の「ゼン・ゼン・シティー」と、第12章の「コンパートメント」のエピソードでしょうか。そこではB級市民が「コンパートメントが欲しい!」と言ってデモ(テロにも近いような・笑)を起こしており、でもこのコンパートメントというのは、A級市民しか入れない。
ところがシッタータがA級市民が住まうという区画へ行ってみると、そこには誰もいないんですよね。そして、天井にある小さな灰皿みたいな形の機械が、ひとつの照合カード(キー・パンチカード)を取りだすと(今でいえば小型チップみたいなものでしょうか^^;)、カゴに入った人が奥のほうからひとり出てきて、>>「偉大な神……われわれを見守り、恐怖や破滅のない世界をくれた。今われわれA級市民には永遠のやすらぎだけがある。神の加護のもと……」なんて、洗脳されてるみたいなことを言う。
それもそのはずで、「コンパートメント」というのは、このA級市民がただひたすら(幸せな夢を見て)眠り続ける、狭くて小さな部屋のことなんですよね(管で繋がれてひたすら眠り続ける姿は、マトリックスのアレと同じと思います)。そして、ここまでシッタータを案内してくれたB・6号と呼ばれるB級市民の青年は、A級市民を追い出し自分がコンパートメントの住人になろうとしますが、そのあと死んでしまいます。何故なら、B級市民たちは全員がロボットで、ロボットは夢など見ないからなのでした。。。
う゛~ん。このあたりも何か非常に考えさせられるというか、書かれたのが1965~66年であることを思うと、その当時にこうした発想がすでにSF界にはあったということに驚かされます
なんにしても、これだってある意味「人間の救済のひとつの形」と思うわけですが――「ヘリオ・セス・ベータ型惑星計画」においては、銀河系の中で生命の芽生える星を誕生させ、そこに生まれた人類に高度な文明を築かせるというものであり、でも結局のところすべての文明は衰え滅び……こうした計画は結果として成功しなかったわけです(=「惑星委員会」にとっては、これらの文明があまりにも栄えすぎ、自分たちと同等の力を持つようになるのを恐れ、最初から滅びと決してやっては来ない救済とがワンセットになっていた、ということ)。では、何故人間は生きるのか、この世界に苦しみのあるのは何故か、苦しみから逃れようとして縋った神ですらも偽者であるなら、人間が「生きる」ことにどんな意味があるのか――「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」……最後に待つものは<無>でしかないのに、それならば何故???
その答えは禅問答のようなものであり、まさしく「悟りなどないと悟ることこそ悟り」とでもいうべき何ものかです(^^;)
また、ここからはあくまでわたし個人の『百億の昼と千億の夜』を読んだ感想ということですが、「神は裁く」という、この裁きの神というところに、作中のユダが疑問を覚えていたと思います。わたし自身、「神は何ゆえに人を裁くのか」についてはわかりませんが(ヨハネの福音書、第3章17節には「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである」とあります)、でも、ここまでコンピューター機器類が発達した昨今、わたしたちの生涯といったものは、一本のビデオテープ(今はDVDかな・笑)……あるいは小型チップのような形で保存されていて、神さまが裁かれる時にはそれを映像として見るとかだと、言い逃れって出来ないなあ、なんて思いました(つまり、ゼン・ゼン・シティーのあのエピソードとの連想でいうと、ということですけど)。
キリスト教の教義では、イエス・キリストを信じている人は裁かれないということなわけですが、『百億の昼と千億の夜』のイエス・キリストはなんかあんな感じのダサい悪役だし(でもマリアさまの故郷のナザレって田舎なので、普通に考えたとすればああいうしゃべりが想像される……というのはよくわかります・笑^^;)
あと、阿修羅王は神が存在していて、もし自分が殺すことが出来ればそんな奴は神でない――と思ってる気がするのですが、これも結構怖い話ではありますよね。わたし、阿修羅王大好きなので、あんまりこういうことは書きたくないものの……「神が目に見えないのは何故か」と言いますか、神は霊的存在なわけですから、目に見えないのは当たり前とはいえ、まあもし目に見える存在で、宇宙の彼方のどっかの惑星にでも住んでいたとします(そして、「惑星委員会」とかいうのも、もしかしたら神がひとり何十役どころか、何百役、何千役とかでやってんのかもしんない
)。
でもこの神――わたしたちが想像してるような、神々しい姿としての神ではないかもしれないわけですよね。『クトゥルフの呼び声』に出てくるような、人間がその姿を見ただけで失神し、精神病院送りになるという醜い宇宙人のような姿をしていた場合……「こんな奴、神ではない」として、阿修羅王でなくても一刀両断して殺そうとするかもしれません。ところが、神は神であるがゆえに、「フォッ、フォッ、フォッ~。見~た~な~あっ!とはいえ、それはあくまで世を忍ぶ私の仮の姿……だが、神殺しの罪を犯したおまえは何者ぞ。今、おまえに相応しい罰を与えやろう。えいっ!!」というわけで、阿修羅王及び、神殺しの罪を犯した人間は全員、記憶を消され、再びただの人間として地球で生きているかもしれません。そして、悩むのですね。「何故生きていることはこんなにつらいのだ。何故このような人々の悲惨を神は見て見ぬ振りをしているのだ……我々人間があなたに何をしたというのだッ、神よ~おっおっ!!
」なんていうふうに。
=「そりゃおまーが、前世で神殺しの罪を犯したからだっちゅうの!」という。そして、この状態が永遠に続くのだとすれば、もしかしたらそれこそが人が裁きののちに行くという、地獄にも等しいものなのかもしれません。。。
ではでは、次回は一応、竹宮先生の『アンドロメダ・ストーリーズ』を予定していますm(_ _)m
それではまた~!!