あ~、こういう前文にたっぷり使える余裕のある時こそ……【8】のところの<痛みのダウンロード>についての理論の続きでも――と思ったんですけど、実は突然前回とか今回あたりの文章を読み返してて、ちょっと思いだしたことが。。。
今回のトップ画は「カミーユ・クローデル」なんですけど、確かわたしがまだ二十代前半だった頃、「ベティ・ブルー」とか、ちょっとフランス映画見るのに軽くハマってたことがあったんですよね(あくまで一過性のものです^^;)。
そして、そうした関連の中で「カミーユ・クローデル」も映画のほうを見て、すごく影響を受けて、すぐに図書館で伝記の本を借りて読みました
カミーユ・クローデルはあの「考える人」や「地獄の門」などで有名な彫刻家、ロダンの愛人だった方で、それと同時に彼女自身も彫刻家として素晴らしく才能のある女性でした
ただ、当時の世間の風潮として、両家の子女が彫刻家だなんて……といった雰囲気が強く、そうした時代の流れに苦しんだ才能のある女性であると同時に、ロダンの愛人であった頃、彼もまたカミーユのことをとても愛していたと思うのですが――結局彼は、糟糠の妻として長く自分を支えてくれたローズのことを捨てることが出来なかったんですよね(形としては内縁でも、子供もいることからほとんど結婚しているも同然という関係)。
ええとですね、わたしも映画見たの相当昔ですし、本のほうを読んだのも相当前のことなもので、間違ったこと書いてたら申し訳ないのですが(汗)……愛人関係にあった時、カミーユがロダンに向けて書いたという手紙の内容を覚えています。
確か、>>「何も身に着けずにベッドへ横たわり、あなたのことを待っています」みたいなことが書いてあって、カミーユさんってめっちゃ美人なので、どんな男の人でも愛人にこんなことを手紙に書かれたら堪らないだろうなあ……なんて思ったり(^^;)
けれど、その後カミーユはロダンの子を宿すも中絶したということもあり(20代後半)、自分かローズかといったように態度をはっきりさせるよう迫ったところ(34歳頃)、優柔不断なロダンは逃げてしまい(カミーユの「分別盛り」という作品に、この時の痛々しいまでの精神状態が表わされています)――こうした精神的ショックから、カミーユは統合失調症を発病し(48歳頃)、ロダンに対しては彼が自分の作品を盗作しているなど、強い被害妄想と憎しみに苦しむようになっていきます。
こうして、ふたりの関係は破綻し、カミーユは精神病院へ収容され、死ぬまでそこを出ることはなく……カミーユ19歳、ロダン42歳の時にはじまった情熱的な恋は、悲劇的な結末を迎えてしまったのでした
ロダンの内縁の妻のローズについて、本や映画の中でどんなふうに描写されてたかって覚えてないんですけど(汗)、でも、ロダンが彫刻家として名をなす前からお針子として生活を支えたりしていたことから――たぶん、家庭的な雰囲気の強い女性だったんじゃないかなって想像します。でもわたし、思うんですけど、カミーユって情熱的な激しい性格ですから、ロダンは彼女がローズのように大人しく家庭をおさめてくれる……とは思えなかったんじゃないかなっていう気がするんですよね(^^;)
そして、恋愛的な情熱とともに、カミーユは弟子としてロダンから影響を受けると同時に、ロダンもまたカミーユから影響を受けて、互いにそのように芸術を発展させていったという関係だったわけですから……そうした部分でふたりの間では、どこからどこまでが自分でロダンなのか、どこまでがロダンでどこからがカミーユなのか、わからないくらいの深い関係だったんだろうなって思います。
しかも、内縁の妻ローズに対しても、ようやく籍を入れたのが七十過ぎてからだったり(ローズの死の16日前)、自分が死ぬ前には「パリに残した、若いほうの妻に会いたい」と言っていたり……この三角関係において一番悪いのはロダンであることは間違いないとはいえ、にも関わらずロダンのことを「このゲスのブタ野郎め!」と言い切れないのは、まず彼は法的には結婚していなかったため不倫と言えないこと、また彼くらいの芸術的才能のある男にはプライヴェートでもこのくらいのことがあってこそ、男としても彫刻家としても超一流――といったように、一般に受け止められる向きがあるせいかもしれません。
あ、もちろんわたしはカミーユの味方ですけどね!ロダンは彼女から若さや恋愛的情熱を通して彫刻の才能をも吸い取ってたんじゃないかと思いますし(自分的にはロダンがカミーユの作品を盗作したというのはそういう意味ですごく頷けるのです)、ただ彼女は生まれて来るのが時代的に早すぎたのかなって感じたりもします。彼女が今くらいの男女平等の風潮の中で彫刻の才能を発揮していたら……並の男ではおそらく、カミーユのほうに精力やら才能やら、吸い取られてしまうくらいだったでしょう。
けれど、ロダンほど才能に優れた男がいなくて、彼と恋愛するでもなく彫刻家として天才の名を今の時代で欲しいままにするより――最終的な結末が悲劇的なものでも、その人生すらも含めて、芸術家として<永遠>の名の元に彼と結ばれていたほうが良かったのかどうか、選べるとしたらカミーユにとってはどちらが良かったのか……いえ、ロダンとカミーユって結ばれていても、その結婚生活は大変なものであった気がしますから、今のような時代にふたりとも生まれて、カミーユはロダンとの間に子を設けるものの、その後離婚、というくらいが「幸せ」だったりするのでしょうか。。。
でも、<今>のようなぬるい時代にふたりが生を受けていたら、そもそもあれほどの作品群が生まれたかどうかっていうこと自体が、実は一番の疑問であるかもしれません(^^;)
なんにしてもわたし、この「不倫小説」っていう小説はあんまし深い意味のない、暇潰しに書いたような小説だったりするんですけど(汗)、書き終わってから連載はじめて、「ええっと、不倫ねえ。わたし不倫を描いたドラマや映画って、どんなの見たことあったっけ?」と思いまして、でも思い浮かぶといえば「アンナ・カレー二ナ」くらいだったんですよ、ほんと。。。
でも、この「アンナ・カレー二ナ」、わたしの中での理想のイメージってイザベル・アジャー二さんだったもんですから、たぶんその関連として、カミーユを演じてるのが彼女だったことから、記憶の中で繋がってカミーユとロダンのことを思い出したのかもしれません(^^;)
ではでは、この文章書いてる間に、たまたまザ・ピーナッツさんの「シェルブールの雨傘」と映画「ひまわり」の曲がかかってたもので、ちょっと貼っつけてこの前文の終わりにしたいと思いますm(_ _)m
いえ、状況や設定などは違っても、同じように「切ない気持ちになる」という意味において、なんとなく共通するものを感じたものですから。。。
それではまた~!!
不倫小説。-【10】-
その年の年末も押し迫った暮れのこと――奏汰は(そろそろ明日香との関係も三年目になる)と思い、妻に離婚を切りだすタイミングを推し量っていた。何分、以前よりはかなり減ったとはいえ、野間瑤子のことは彼女の化粧品会社のCMなど、ちらほら見る状態というのは今後も続きそうであったし、姉のほうはもうすでに画家の鷹橋陽一郎との離婚からすっかり立ち直っているのだ。
そして奏汰は、ふたりが二年前に初めて関係を持った十二月二十三日、スケジュール的には厳しかったが、明日香のことを個室のあるフランス料理店へ連れていき(言うまでもなく、入店する時は別々である)、そこで彼女に仮のプロポーズをした。
この日のために奏汰は前もってブランド物のドレスや靴などを明日香にプレゼントしており、病院にいる時とは違ってフルメイクした明日香はいつも以上にとても綺麗だった。そして、ティファニーの指輪のケースを食事中に差しだし……「来年中に必ず妻とは離婚する」と、彼は明日香にそう約束したのだった。
「ほん……とに?」
明日香はこうした店にあまり来たことがないため、緊張していたせいもあってか、この時ナプキンを持つ手が微かに震えていた。
「小百合の姉のほうはもう立派に立ち直ってるし、実家のほうへ小百合が戻っても……七海のことを目に入れても痛くないくらい可愛がってくれるおじいちゃんやおばあちゃんがいるから、きっと大丈夫だと思うんだ」
「そう、ですか。でもわたし……なんて言ったらいいか……」
奏汰が明日香にプロポーズしたのは、メインディッシュの「牛フィレ肉のポワレ、ロッシーニ風」という料理が済み、デザートが運ばれて来、給仕係が一度下がった時のことだった。あと出てくるものは小菓子とコーヒーだけだ。
「いや、俺の家庭の都合のことなんか、明日香は何も考える必要はないよ。自分が俺と幸福になるために、妻と娘が不幸になるのかとか、そういうことは……明日香には何も関係のないことだから。ただ、俺を信じて待っていて欲しい。だから、これは婚約指輪として受けとってくれ。実際に離婚して、明日香と結婚する時には、また別に結婚指輪を用意するから」
「そんな……いいんです。それに指輪なんてなくても、わたし、先生のことは今も十分信じてますから」
イチゴのたっぶり使われたデザートを食べ、小菓子が運ばれてくるまでの間、ふたりはそれ以上他に何もしゃべらなかった。テーブルにはダマスク織のテーブルクロスがかかり、中央にキャンドルとその両隣に可愛らしい花が飾られている。そして壁にはシャガールやルノワールの絵がかかり、窓のそばには白のグランドピアノが置いてあった。希望があれば、ピアニストが要望の曲を弾いてくれるという。また、その後ろの窓からはS市の街の綺麗な夜景を眺め渡すことが出来、夏であればバルコニーで涼みながらシャンパンを飲む……というのも一興であったろう。
「先生。もし次にわたしに何か贈り物をしたいと思ったら、わたし、花がいいです。アクセサリーとかカバンとか、何かそういう高価なものより……」
「そうか。そういえば明日香の部屋には花の鉢植えがいくつかあったっけ」
小菓子が済み、コーヒーが運ばれてくると、やはり一流の店のコーヒーは違うな、などと思いながら、奏汰はそれをゆっくりと味わった。
「ええ。最近、またポインセチアを一鉢買っちゃいました。なんででしょうね。クリスマスの頃になると、どうしても買いたくなっちゃって……まあ、値段が手ごろなせいもあるんですけど」
「俺は……明日香との出会いは、神さまがくれたクリスマス・プレゼントだと思ってる。だから、十二月になってそこら中がクリスマスムード一色になると、いつも以上に幸せな気持ちになるんだ。今までは十二月になってカーネルサンダースがサンタの格好してようと、仕事が忙しくてクリスマスも師走もあるかっていう感じだったけどね。明日香と恋人同士になった月だと思うと、一年の中で一番大切な月だって、本当にそう思って毎日を幸せに過ごせるんだ」
「わたしも……十二月になると、いつもの月以上に幸せな気持ちになります。でも先生、わたし、ほんとに急いでませんから……奥さまともよく話しあってください。そのためならわたし、いつまででも待ちますから……」
「うん。わかってる。ただ俺はね、この世にサンタクロースなんかいないっていうことに、極小さい頃に気づいた、可哀想な子供だったんだ。だって、毎年あのゲームソフトが欲しいとかこの漫画が欲しいと願い続けているのに、ためになる本とか地球儀とか、そんなものしかクリスマスにはもらえなかったからね。つまりさ、俺にはそういう貯金が随分貯まってるってことなんだ。どういうことかっていうと、そういうふうに『本当に欲しいもの』とは絶えず巡りあえずに、医者にもなりたくてなったわけでもなく、そうならざるをえなかったから自分の心身を打ち叩いて修行を積んだという感じだった。娘のことはもちろん違うけど、妻のことも、そういう両親が納得するようなとか、色々条件的に考えて結婚して……でも今、生まれて初めてそうした生き方の報いとして、明日香と出会えたと思ってるんだ。だから、俺は自分のこの幸福と幸運を手放す気は絶対にない」
「先生……」
このあと、ふたりで近くのホテルへでも行けたらどんなに良かっただろうと奏汰は思った。けれど、今夜は食事だけにしておいて帰らなくてはならなかった。お互い、明日も仕事だし、何より、小百合の態度が最近硬化してきたため――彼にしても今では嘘をつくのも一苦労といった状態になっていたからである。
そしてこの翌年、正月が過ぎ、一月も半ばとなる頃……奏汰がいつ妻に離婚のことを切り出すかと、タイミングを見計らっていると――まるで、あなたのその魂胆はすべて見抜いている、とばかり、小百合のほうから先制攻撃をしかけてきたのだった。
もっとも小百合は、夫が自分にいつ離婚のことを切り出そうかと機会を伺っているなどとはまったく知らなかったし、考えてもみなかった。ただ、探偵社から夫の浮気相手の資料一式が届いて、彼女は愕然としたのだ。それを一読して打ちのめされたと言ってもいい。
『両親の蒸発後は、キリスト教系の孤児院で育ち、高校のほうは三年通って卒業と同時に介護士の資格を取れるといった高校を出たようですね。その後、今の旦那さんが勤めるのと同じ創医会系の総合病院のほうへ勤務。勤務態度のほうは真面目で、同僚や患者さんからも概ね好かれているといった印象です』
その探偵社の五十台前半の社長は、まるで他人の不幸を調べ、その不幸から養分でも吸いとったというように丸々太り、艶々した顔をしていた。正直、最初会った時には「違うところに頼むべきだったかしら」と小百合も半ば後悔したが、彼の渡してくれた資料には小百合が知りたいことは大体のところ網羅されており、さらには夫が彼女のマンションへ入っていくところなど、証拠写真もバッチリ押さえてあった。
『ただ、おふたりとも相当用心深いようでして、ツーショットを撮るのはなかなか苦労しましたよ。それでも、女性のほうが旦那さんの車に乗り込む写真が一枚と、何か忘れものでもしたのかどうか、愛人の女性が旦那さんを追ってきたところが一枚。でも、これでもまだ浮気の証拠としては弱いかもしれませんな。本当はラブホテルにでも入っていくところを一枚撮れれば良かったんですが……』
『いえ、これだけでもう十分です』
そう短く答えて、小百合は調査料の残りの半額を支払うと、すぐにその探偵社の入っている雑居ビルを出た。小百合は地味な格好をし、サングラスもかけていたが、まかり間違ってもこんなところから出てきた自分を誰にも見られたくないと思っていたのである。
そして家に帰ってきてからもう一度資料のほうを読み直し……小百合は「ああっ」と呻き声にも近い声を洩らすと、頭を抱えこんだのだった。
(これじゃあ、別れないわけだわ……)
小百合は、(自分には人を見る目がある)などと自惚れるつもりはなかったが、それでも、写真を見ただけでわかった。性格がいいというのか、ある種の善良性のようなものが清宮明日香という若い娘からは漂ってきている。そしてそれを、車椅子に乗る患者と目線を下げて話す姿や、患者とコミュニケーションを取る時に見せる笑顔が裏書きしているかのようだった。
実際のところ、小百合はこれだけのことでも十分にわかった気がした。年齢を見ればまだ二十五歳……夫とは十五、いや十八歳年下だと思うと、小百合はガンガンと頭の奥が痛くなってきたほどだ。
小百合自身にも覚えがある。彼女もまた大体二十台の前半くらいまで、若い男よりも父親くらいの男性に惹かれる傾向があった。また、姉の瑤子のような女性ならばともかく、大体十代から二十代前半の女の子というのは無防備で純粋な場合が多い。ゆえに、小百合はすべての不倫が悪いとは簡単に片付けられないのではないかと思っている。何故といって、たとえば小さい頃に心から好きだった父親を亡くしたために、大体そのくらいの男性に惹かれる女性というのがいるものだ。また、若い女性が相手に妻子がいるとわかっていても好きになる場合、そのことは別として本当に純粋に相手が好きだったり、強い憧れから盲目的に慕っていたりというのもよくあることだろう。そこには邪心のようなものがまったくない場合もあるし、事実、小百合も片思いではあったが、そのような恋をしたことがある。
この時小百合は、自分があれこれ夫の愛人について妄想していた人物像のすべてを砕かれ、突然ハッと目が覚める思いだった。もちろん、きっかけが何だったのかは小百合にもわからない。もしかして、この清宮明日香という女性のほうから、「先生に奥さんがいることは知っています。でも、好きです」などと告白したりしたのだろうか?それとも、飲み会か何かで酔ってそうした関係になったのか……あるいは、小百合は写真で見て女性を(見るからに善良そうだ)と感じたが、実はなかなかに彼女もしたたかな性格をしており、いずれ必ず桐生先生と自分は結婚するのだと、そんなふうに夢見ていたりするのだろうか?
小百合がこのことを知ったのは、十一月初旬のことだったが、知ったその日はショックのあまり、ずっとソファの上で寝込んだままでいた。娘が学校から帰ってくると、色々心配してくれたが、小百合はとにかくもう何をする気力も起きず、「晩ごはんは何か七海の好きなものと、お父さんが食べたそうなものでも取って食べてちょうだい」と伝えておいた。
「え?じゃあ、お母さんは?お母さんこそ、具合が悪いんだったら、何か一等美味しいもの食べなきゃ駄目じゃない」
「お母さんはね、具合が悪くてものが喉を通りそうにないからいいの。それに、お腹がすいたら冷蔵庫の中にあるものを何か食べればいいだけだからね。そんなことより、ピアノのお稽古に行く時、車に気をつけるのよ。あと、変な人が声をかけてきても……」
「わかってるよお。お母さんも毎日同じことばっかり言って、よく飽きないね!」
そのあと、七海は手のひらで母の額の熱をはかったり、みかんをふたつ持ってくると、彼女の枕元に置いたりした。
「ひんやりしてて気持ちいいでしょ?そういうの食べたらきっと、少しは気分もよくなるよ!」
「あら、ありがとね、七海」
じゃ、行ってきまーす!と、ピアノの鍵盤の描かれたお稽古バッグを片手に、娘が家を出ていくのを見て……小百合は再び深く嘆息した。今までは、最低でも娘の前でだけは、自分が夫のことで悩んでいる姿を見せてはならないと思ってきたのに――今回のことは彼女にとってあまりにも打撃の大きいことだった。
それでも、娘の置いていってくれたみかんのひんやりした感触に慰められ、小百合は体を起こすと、大きく溜息をついてみかんをひとつ食べた。毎年、夫の親戚が送ってきてくれる、愛媛のとても甘くて美味しいみかんだ。
(そうよ。あの人のために、わたしは親戚に気を使って歳暮を色々送ったり、病院関係の各筋からも何かもらったら必ずお返ししたりお礼状を書いたり……それに毎年の大量の年賀状書きだって、あの人のかわりに手配したり、宛名を書いたり。そういう細かいところでわたしが気を遣ってることがどのくらいあるか、あの人だってわかってないはずはないのに……)
けれど、小百合はここで再び溜息を着いた。夫はそうした頼みごとを妻にする時、大抵「いつも悪いな」といったことを必ず口にする。そして実際顔を見ると、申し訳ないような顔をしているので、小百合は大抵の面倒なことは夫のその態度に免じていくらでも引き受けられるところがあった。
(でも、今回のことはあんまりひどすぎるわよ……)
小百合は再び体に力が入らなくなり、ぐったりとソファに身を横たえると、今後のことについて考えた。まさか、今日・明日突然夫に探偵社で調べた証拠資料を叩きつけ、「これ、一体どういうことなのよ!?」などと、鬼の形相で迫るというわけにもいかない。
(これは、つらいわ。本当のことを知ってしまったのに、まだ当分暫くの間は知らん顔をして、夫が家にいて七海がいない時にでも話を切り出さなきゃいけないなんて……)
正直、小百合は夫とこのことを話しあう前に、夫の愛人と直接対決することになるかもしれないと考えていた。けれど、相手が十八も年下の若い娘で、飲み屋やクラブといった場所に勤めているわけでもなく――しかも、両親の蒸発した施設育ちの子と聞いてしまっては、これはもう夫のほうに責任があるとしか、小百合には思えなかった。
もちろん、何かそうした機会のあった時に、清宮明日香という女性のほうから奏汰のことを強引に誘って関係を持った可能性もなくはない。けれど、結婚する気もないのにそんな若い娘と体だけ関係を持っているのだとしたら――仮に相手が「わたしは先生が相手なら、愛人というだけでいいんです」と言ったとしても、いい年をした大人の男としてもっと分別を持つべきだとしか、小百合には思えない。
(もちろん、そんな分別なんていうものは、若い女の体とかセックスなんていうことが目の前にちらついたら、どっかいっちゃうってことくらいわたしにもわかるけど……)
けれど、夫には医師として社会的立場といったものがあり、たとえば学校の教師だったら生徒に手を出さないのは当然であるように、一般のサラリーマンよりもそのあたりの道徳や倫理観を強く持つべきでないかとの思いが小百合にはある。
(なんにしても、この子に会いにいって桐生先生に対する愛なんて純粋に語られちゃったりしたら堪らないわ。本当は夫と愛人や浮気云々について正面切って話すことは避けたかったけど……わたしだって夫に対しサインもだし、待つだけのことは待った。これはもう、あの人にはっきり話すしかない)
とはいえ、探偵社で調べた云々といったことは、小百合は極力証拠として夫に叩きつけたくはなかった。そもそも結婚して以来、小百合は夫と喧嘩らしい喧嘩というのか、とにかく大喧嘩というものをしたことがない。確かに仕事で忙しい夫に、当たられそうになったことはある。けれど、そうした時には奏汰のほうでも(自分が悪い)ということはわかっており、あとから「さっきはすまなかった」とあやまってくれたり……小百合は正直、そうした時によく(この人はやはり普通の男性とは違う人だ)と感じることが出来た。夫婦や家族の間ではとかく、「はっきり謝る」とか「お礼を言う」といったことは曖昧にされがちなものだが、娘の教育上よくないと考えてか、「ほら、七海、お母さんにありがとうは?」と言うのと同時に、奏汰のほうでも「ママ、ありがとう」と優しく言ってくれたり……。
(結婚当初は自分は完璧な良い夫を持ったと思い、その後も不満なんてほとんどなかった。あっても大抵は我慢できるようなことばかりだったし……それなのに、どうしてわたしは今こんなことで悩んで精神をすり減らしてなきゃいけないのかしら)
自分は一体探偵社の結果に何を期待していたのだろう。相手の容姿や年齢や経歴等がわかることで、「ああ、この程度の女ならきっといずれは別れるはずだ」との確信が欲しかったのだろうか?あるいは、姉がアドバイスしてくれたとおり――「社会的地位の高い男と寝るのが好きな、愛人専門の女」のようなのが相手だったら、それは相手の女に話をして別れさせたほうがよい、との――そのような女性が相手なら心おきなく憎めるし、かつこの場合は慰謝料の請求さえ求めることも出来、愛人の女を脅すことさえ出来るのだ。おそらく自分はそうした何がしかの切り札と出来るカードが欲しかったのだろうと、小百合はこの時思っていた。
(でも、よく考えたら、そうした愛人専門の女なんていうのは、たぶんみんな姉さんと似たところのある女なのよ。それで、あの人は姉さんみたいなタイプの女が大嫌いなわけだから……それで、それとは真逆の女と浮気してたってわけよ)
夫は一体何を考えているのだろうと、小百合はこの時つくづく思った。そして小百合が妻としてこれまで夫のことを長く観察してきた経緯からみても――夫は自分と離婚することだけはないと判断していた。というのも、奏汰の実家は現代社会の日本において、いまだ因習に縛られているといった古くささの残る家柄を保持しており、両親ともに堅苦しく、医者以外の職業は許さないといった家庭環境だったことから……そんな両親に離婚の報告など、夫はとても出来ないだろうと思われた。何より、兄の聡一のほうで脳外科医として一流であるのみならず、アメリカ留学中に交際していたブロンド美人と結婚し、そちらは今も熱々なのだ。奏汰自身、「兄に比べたら自分の腕は三流とまではいかないにせよ、まあ、せいぜいが二流といったところかな」と言っていたが、その上離婚までした場合、医師のキャリアという面でも家庭人としても兄とはさらに水をあけられるという形になるだろう。
(だから、離婚はないと見ていい。でも、わたしが知りたいのは、最終的に夫を許すにしても、一体いつまでこの愛人との関係を続けるつもりなのかっていうことよね……)
そしてこの日、奏汰は帰宅すると珍しくテーブルになんの用意もないのを見て驚いていた。娘が<うまカツ屋>という豚カツ専門の店から取ったらしい、カツ定食がそこには置かれ、七海はパパにあてて手紙も書いていた。
<パパへ。
おしごとごくろうさまです。ママはね、あたまがずきんずきんしていたむんだって。
だから、きょうはおいしいとんかつ屋さんのおべんとうをとりました。
パパ、おそいみたいだからナナはねちゃうけど、かえってきたらママのこと、みてあげてね。
こういうとき、おいしゃさんのパパはべんりでいいね。
だってしんさつしてもらっても、お金かからないもの。
ナナちゃんより>
娘の手紙の、可愛らしい文字の羅列を見て、奏汰も思わず笑みが洩れる。実は食事のほうは明日香のところで済ませてきていた。だから弁当のほうは冷蔵庫にしまい――明日、あれを病院に持っていって昼食にするのでもいいなと思ったりした。
時刻のほうはすでに零時十分前だった。奏汰は夫婦の寝室のドアを開けると、そこが真っ暗闇なのを見て、再び静かに閉めた。それからバスルームのほうでシャワーを浴び、ビールを飲んでから就寝しようとする。
奏汰は小百合がすっかり眠っているものと思っていたが、明日の朝になったら体の調子のほうをよくよく気遣ってやらなくてはと考えつつ、彼がベッドへ入ろうとした時のことだった。ゆらりと暗闇の中に人影がむくりと起き上がったかと思うと、自分のほうにピタリとくっついてくる。
「……おまえ、具合が悪いんだってな。なんだったら明日も晩ごはんは店屋物とかそんなのでいいぞ。朝ごはんだって、七海も俺も冷蔵庫の中のものを適当に食べたっていいし」
「ううん。薬飲んだらよくなったから、もういいのよ。それよりもね、わたしの頭痛の原因、たぶん欲求不満のせいだと思うの」
「欲求不満っておまえ……」
奏汰は笑いそうになったが、背後の妻の深刻な気配を察して、一旦黙りこんだ。彼にも、もし自分に(愛人がいる)という弱みがなかったら、『なんだ?結婚生活や家庭に何か不満でもあるのか?』とでも聞いていたことだろう。けれど、妻との離婚を考えている彼には、それ以上強く出るということが出来なかった。
「ねえ、あなた。わたしたち、しなくなって随分になるわよね」
「あ、ああ……そうだっけな」
奏汰は自分にやましいところがあるせいか、この時ゴクリと喉を鳴らしていた。
「そうよ。でもたぶん、久しぶりにしたら、わたしの頭痛も治ると思うの。そのこと、考えておいてくれる?」
ここで奏汰は何度かごほっ、げほっと咳こんでいた。彼の中で妻と離婚することはすでに決定済みの条項のようなものだったから、まさか小百合のほうからこんなふうに言ってくるとは想定外のことだったのである。
「う、うん。考えておくよ……でも、今日はまあ疲れてるから」
この時、小百合はそのまま夫と体をくっつけたまま眠ろうとしていた。いつもは彼女もこんなことはしない。それに、小百合にしても夫が帰ってきたら抱きつこうなどとは考えていなかった。たぶん、頭の中だけで夫の浮気のことを考え続けるのに疲れきってしまったのだろう。その上、話しあおうにも「探偵社に頼んであなたの浮気のこと、調べたわ」とストレートに言うことも出来ない。けれど、小百合は結局――最後に気づいたのだ。自分はこの夫と娘と一緒に繋がっていたく、その絆を守るためなら、今回の浮気のことには目を瞑ってもいい。それに、夫と娘の間にある父と子の絆は変わっていないというのに、自分と繋がっていたそれだけが、他の女と結びついているということが……悲しいとかつらいというより何より、自分は寂しいと感じていたのだと。
けれど、その後も夫のこの「考えておく」と言ったことに対する返答がいつまで経ってもなかったため――小百合はだんだんに顔の表情が能面化していくことになったというわけなのである。
>>続く。