【姉妹】ウィリアム・アドルフ・ブグロー
さて、今回も再びマリーの手紙ということで、自分でも「なげーな」と思うのですが(汗)、まあgooブログって30000文字くらいしか入らないので、ちょっと文字数的な関係が色々ありましてww
ええと、今回もまた↓のマリーの手紙の中にわかりにくい点があると思ったんですけど、そこをどう説明したらいいものか……というのがありまして、今回も前回に続いて介護的な何かについて書いてみようかな~なんて(^^;)
【44】のところで、「看護(介護)してあげる・看護(介護)する・看護(介護)させていただく」――の3つのうち、態度としてどれが正しいか……みたいな話があったと思うんですけど、これはわたしがホームヘルパーの講習か何かを受けた時に講師の先生が言われていたことでした。。。
といってもまあ、その何日か前に別の先生が「介護する時には自分の親に対するように接することの出来るのが理想です」みたいにおっしゃっていたので、まあ、同じ講師の先生でも人によって言うことが違うかもしれないんですけど、「<介護してあげる>でもなく、<介護させていただく>」でもなく、<介護する>というのが介護する時の正しい姿勢だっていうのは、わたし的になんか妙に頷けることだったというか(^^;)
まあ、そのあたりの「患者(利用者)さんとのコミュニケーション」に関連してわたしの思ったのが……なんていうか、患者(利用者)さんの自尊心というか、プライドの問題のことだったでしょうか。
その患者(利用者)さんの性格的なこともあると思うんですけど、やっぱりオムツを替えたりなんだりしてもらう相手に対しては、あんまり強いこと言えないっていうの、絶対ありますよね(^^;)
わたしが特にこのことを思ったのが、いわゆる模擬講習っていうか、そういうので患者さん役をやってオムツ交換してもらったりとか、ごはん食べさせてもらったりした時のことだったかもしれません。
もしかしたら、他の人はそう感じなかったかもしれないんですけど……わたしこれ、ものすっっごく嫌だったんですよ正直、相手の人がいい人だからとかなんとか、あんまり関係ないんですよね。自分が車椅子に座ったり、ベッドに横になったりしてみると、その上から人が話しかけてくる、上から目線っていうのがほんと、なんとも言えませんでしたww
それはただの講習だからほんの短い時間我慢すればいいだけにしても、そういうふうに上から来られるというだけで、わたしなら素直に相手の言うことを聞こう……みたいな気持ちにはあんまりなれないな~と思ったほどでした
つまりですね、なんというかわかるのですよ。その時点ですでにもう「この偽善者め!!」みたいに介護してくださる人に毒づきたくなる患者(利用者)さんの気持ちっていうのが(笑)。
でもやっぱり、オムツ替えてもらったりごはん食べさせてもらったりする以上――やっぱり面倒みてもらう側のこっちが相手に対して下手に出たり、嫌な態度を取ったりしたら、あとでヘルパー同士で自分の悪口を言うのだろうから……とかなんとか、わたしなら相当屈折した思いを抱くことになるなと思ったものでした(^^;)
つまり、これはわたしが思うにっていうことなんですけど……もし仮に100%完璧な看護や介護が出来る人がいたとして、それがいくら100%完璧なものでも、そんなの実際は大したことじゃないんじゃないかなって初めて思ったというか。。。
そうではなく、看護(介護)される側の人のほうの人格がすごいというか、そこでさらに「自分はこうしてもらいたい」、「もっとああしてくれなきゃ」、「こうしてよ」と言うことの出来る患者(利用者)さんのほうがよっぽど凄いっていうことなんだなっていうことに初めて気づかされたというか(^^;)
いえ、いつか自分も年をとったり、あるいは事故などで車椅子に乗ったりということになったとしたら――嫌でもそうしたことを受け容れ、乗り越えていかなくちゃいけない……とは、他の人から聞きました。
でもねえ、わたしの我が強いせいもあるのかもしれませんが、「オレならぜってえ無理!!」みたいに、この時ものすごおおおく思ったのです。
これはお医者さんや看護師さんもそうだって聞くんですけど――やっぱりものすごく立派な経歴のお医者さんでも、あるいはどんなベテランの看護師さんでも、一度自分が患者になって入院して手術を受けたりすると、本当に180度意識が変わるっていいますよね。
そして、看護とか介護の質のようなものが変わる、変えられるというか、いわゆる医療のパラダイムシフトみたいなことは、こうした体験を抜きにしては絶対ありえないんだろうなって思ったりしたという、今回は何かそんなお話でした(^^;)
ではでは、次回はようやくマリーの手紙のほうも終わりとなります。。。
それではまた~!!
聖女マリー・ルイスの肖像-【45】-
>>敬愛する院長さまへ。
少しの間、お便りできなくて申し訳ありませんでした。院長さまにおかれましても、きっと気をお揉みになっておられたことと思います。ああ、でも……一体どこからお話したらいいでしょう!!
まず第一に、子供たちはとっても可愛いです。みんな、わたしが突然家にやって来ても特に驚きもせず、本当に自然な対応でした。上から十歳のランディ、九歳のロン、七歳のココ、四歳のミミちゃんと続きます。ランディはとても天真爛漫な子で、嘘をつくということの出来ない素直な子です。ロンは優しくて純粋ないい子ですし、ココちゃんは利発な、自分の意見をはっきり言う子です。そしてミミちゃん!!見ているだけで、心の和む、純粋無垢な子で、この子のためならなんでもしてあげたいという気持ちをわたしに起こさせます……。
ただ、ご長男のイーサンは、当然のことながらわたしに対してあまりいい態度ではありませんでした。なんと言ったらいいのでしょう、まるで冷厳な王のような顔立ちをした方で、かなりはっきりした口調でものをおっしゃる方です。もちろんこう書くからといって、マリーは不満を洩らしているわけではありません。第一、子供たちに害が及ぶことを用心しつつもわたしのことを家へあげてくれましたし、彼自身は大学での寮暮らしとのことで、少しほっとしたりもしました。
ずっとこの方が家にいて色々なことを監督されるというのではわたしも疲れてしまいますし、でも彼には大学や寮での暮らしがあって、それ以外でこちらの屋敷のほうへは戻ってくるということでしたから……たぶん、子供たちとわたしだけなら、なんとかなると思います。
ただ、わたしに色々なことを教えてくれる家政婦のマグダがそのうち辞めてしまうということでしたので、それまでの間にマクフィールド家における家事のことを覚えてしまいたいと思っています。なんにしても院長さま、マリーはこちらへ来て、はっきりと確信致しました。まず、それ以前にKさんのお葬式の時に虹が出たというのが神さまのわたしに対するしるしだと思いましたし(わたしがロンシュタットに来てから、あんなに綺麗な虹を見たことは一度もありません)、そして……わたしが何故この家に招かれることになったかの理由も、来てすぐにわかったのです。
ランディ、ロン、ココちゃん、ミミちゃんのお母さんのシャーロットさんは、新興宗教的なものの信者の方で、クリスチャンではなかったみたいなのです。子供たちも教会へ通うといった習慣は持っておらず、ただ、マグダがミミちゃんに何か霊的な気配を感じて、この子のことだけ毎週教会へ連れていくことにしたようです。
さて、院長さま。わたしは今<霊的な気配>と書きました。そして、シャーロットさんの亡くなったのがほんの三年前、ミミちゃんが二歳になるかならないかくらいの頃のことです。でもミミちゃんは、その頃のことなんて覚えてないはずなのに(だって、まだほんの二歳ですもの!)、家に出入りしていた霊媒師の名前を覚えていて、ぬいぐるみにヌメア先生という名前をつけています……。
ええ、お笑いになってください、院長さま!!でもわたし自身はこのためにこそ、マクフィールド家へやって来ることになったのだと確信しております。それにしても、恐ろしいことです。キリストを十字架に磔にしたのと同じ者が、このように小さくて純粋無垢な存在の中へさえも入り込もうとするのですもの。
見ていてください、院長さま。マリーは必ず、ミミちゃんにヌメア先生のことを忘れさせてみせます。だって、ミミちゃんったらぬいぐるみのヌメア先生に話しかけては、お返事したりしてるんですものね……もしミミちゃんが霊的に解放されましたら、マリーはあとのことは大体安心な気がしています。もちろん、ヌメア先生というのはお母さんのシャーロットさんと深く結びついている存在ですから、慎重の上にも慎重を期さなくてはなりませんけれど……。
わかりますでしょうか、院長さま。わたしがマクフィールド家に派遣された理由が他でもなく「これ」だったのです。ご長男のイーサンも、非常に賢い方ですが、それだけに神さまのことはあんまり信じおられないご様子で、ランディとロンとココちゃんに関しては、そもそも知る機会も与えられていなかったのです。
わたしも信仰というものは強制されるべきものではないと思ってはおりますが、それでも子供の場合は別ですもの。時間はかかるかもしれませんが、幸い、ミミちゃんはなんの疑問もなく教会へ一緒に来てくれますし、ロンも通うことに同意してくれました。困ったことがあったらお祈りして神さまにお願いするといいのよってお話したら、ロンも教会へ行ってみたいと言ってくれたのです……子供というのは本当に素直なものですね。以来、教会へは毎日曜、三人で通っていますが、つい先日、急に何をどう思ったのかわかりませんが、イーサンが家族全員で教会へ行くように何故かしてくださいました。
マリーの神さまに対するお祈りが聞かれたのでしょうか?きっとそうだと思います……その帰り道、家族みんなで写真を撮って、お食事して帰ってきました。子供たちも概ね満足そうでしたし、イーサンはどこか不機嫌そうに見えましたが、彼はそれがいつものことなので、気にしてはいけません。
院長さま、年の近い男性の出入りが家にあることをご心配しておいででしたね。でも、イーサンなら何も心配いりません。何分、大変能力のある方で、大学でもアメフトをしていて、大変もてるそうです(ココちゃんがそう嬉しそうに申しておりました)。ですから、わたしのことは家の家政婦か何かと思っているようですし、実際そうした扱いを受けてもいます。
それでは院長さま、また忙しい合間を縫って必ずお便り致します。
心からの愛をこめて、マリーより。
>>敬愛する院長さまへ。
院長さま、子育てというのは本当に大変なものですね。体力的にもそうですし、一日中たくさんやることがあって、あっという間に夜になってしまいます……病院にいた頃は、勤務時間がひけてしまえば自分の時間でしたが、マリーは今、家事をすることに二十四時間我が身を捧げているといっても過言ではないかもしれません。
けれども、修道院にいた頃も、自分に与えられた一日二十四時間という時間を神さまにお捧げするよう心がけていたのですから、もしかしたら同じ心持ちでマリーは家事に励むべきなのかもしれません。マリーは修道院にいた頃と同じく、今も朝の五時に起床しております。そして、子供たちのために朝食を作ってランディとロンとココちゃんを学校へ送りだしたあとは、ミミちゃんと一緒に遊びます。
また、この時、ミミちゃんがテレビに夢中になっている時などに掃除したり、おやつ作りをしたり、食事の用意をしたりといったことをしています。ミミちゃんとは毎日一緒にいてもまるで飽きるということがありません……ミミちゃんのほうでもわたしを好いてくれていて、「おねえさん、いつまでもミミと一緒にいてね」とよく言ってくれます。対するわたしの答えはキスとハグです。
院長さま、マリーは昔から子供という存在のことは好きでした。けれど、あまり身近に接する機会もなく今日まで来てしまい……神さまがこのことを通し、わたしに何をさせたいのか、伝えたいのかはまだわかりません。でも、聖書には>>「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。 歓声をあげ、喜び歌え、産みの苦しみをしたことのない女よ。 夫に捨てられた女の子供らは、夫のある女の子供らよりも数多くなると、 主は言われる」(イザヤ書、第54章1節)とありますものね。わたしは一生、子育ての喜びなんて知らずにいるものとばかり思っていましたけれど、この子たちが大きくなって、また立派なクリスチャンになってくれたら、修道院へ戻るということを神さまがお許しくださるのではないかと、そんなふうに考えることがあります……。
そういえば、この間ココちゃんから頼まれてポーチを作りました。他に、子供たちの服も時間のある時に作ってみたりしています。不思議ですね、院長さま。まさか、修道院で身に着けた手芸のスキルが、こんなところで生かされることになるとは、思ってもみませんでした。なんにしてもマリーは、マクフィールド家の主婦として、日々喜びをもって活動しています。
院長さま、院長さまにもいつか、この子たちに会っていただきたいと、マリーはそのように願っております。
今回の手紙は短いのですが、明日もまた朝から子供たちの世話がわたしを待っているものですから……毎日大変ですが、誰かに必要とされるということは、本当に幸せなことです。
子育てに忙しく、腕が四本欲しいマリーより。
――イーサンはここまで手紙を読むと、一度重い溜息を着いた。封筒の消印を見、この頃自分はマリーに対してどんな態度を取っていたかということが、色々思い出されてくる。マリーはもちろん、最初からマクフィールド家の財産狙いといったようにはまるで見えない女ではあった。だが、「何か目的があるはずだ」とのうさんくささが完全には拭えなかったため、疑いの不審の目でもってマリーを見ることを、この時イーサンはまだやめていなかったように記憶している。
このあとの手紙も、夏休みに家族全員でディズニーランドへ行ってどんなに楽しかったかということや、ロンの不登校事件について、そのあとの派手なお誕生日会のこと、ランディがネイサンと喧嘩したことや、ココがオーディションを受けたこと、ミミが幼稚園へ行くことになってということなど……ほとんど一か月と置かずに報告の手紙が送られている。イーサンは、アグネス院長がいかにも「なんでも知っている」といった態度だったのも無理もないと、この時初めて思ったものだ。
また、イーサンはマリーの手紙を読むうちに、何度も涙を流した。いつでも子供たちのことを第一に考え、そのことしか頭になかったのだということがよくわかったからだ。正直いって、今ならアグネス院長のあの軽蔑に満ちた眼差しが何故だったのかがイーサンにも理解できる。確かに、イーサンはマリーを愛していたし、今も愛している。だが、彼が愛していたのは女としてのマリーであり、子供たちの母親としてのマリーだった。こうして今マリーの手紙を読み、彼女が「本当は何をどう考え行動していたか」がわかってくると……自分は「ひとりの人間としてのマリー・ルイス」について、どの程度理解していたのか、自分でもわからないと思った。
いつでも美味しいものを作ってくれるから、子供の面倒を見てくれる都合のいい女だから、少し押せば肉体関係を持てそうだから……そんなものが果たして本当に愛なのだろうか?イーサンはマリーの手紙を読んでいるうちに、自分がなんだか情けなくなってきた。もちろん、世間の人々はこう言うかもしれない。世間の君と同じくらいの年の男など、みんなそんなものだよ、と。だが、イーサンには今あるひとつのことがわかっている。愛というのはおそらく、相手の欠点を覆うということなのだ、と。マリーは誰に対してもそれをした。もちろんマリー本人は意識してそうしようとまでは考えてなかったに違いない。そして、そうしたマリーの姿勢というのは、父ケネスにでさえ十分に通じるものがあったのだろう。
大して清くもない相手のことでも、自分よりも清いものとして扱ったり、そうした謙遜と愛の姿勢がマリーに備わっていればこそ、自分でさえも彼女の顔に<善良>としか書かれていない気がして、見ず知らずの他人であるにも関わらず、この家へ入れるということになったのだ。
(本当に馬鹿だな、俺は……ひょっとしたら、家に天使が来たとも気づかずに、追い返していたかもしれなかっただなんて……)
イーサンは鼻をひとつかむと、寝静まった一階のリビングまで下りていって、マントルピースの上から例の家族写真を取ってきて、書斎のテーブルの上へ置いた。もう夜の十一時過ぎだった。けれど、イーサンはアグネス院長が自分とマリーのことについて、どこまで知っていたのか……いや、そのことをどう手紙に書いて知らせたのか、どうしてもその手紙を読まずには眠れそうになかった。
そこで、少し手紙を飛ばして――今読まなかったものはあとで必ず読むにしても――自分とそうした関係になってからの手紙を探すということにした。イーサンにしても、読む時には微かに手が震えた。何故といって、ここまで手紙を読んでくる過程において、マリーはイーサンに関して実に素っ気ない描写しかしていなかったからだ。もちろんそれは、年の近い異性である自分を警戒するようアグネス院長が繰り返し警告していたせいかもしれないにしても……五人兄妹のうち、自分のことだけ唯一感情移入があまりされていないことに対し、イーサンは若干傷つかないでもなかった。
だから、マリーの本音としては、最初はまったくその気などなかったとか、自分が出ていくかイーサンが出ていくかということになると思ったから仕方なくとか……ここまで、マリーはアグネス院長宛ての手紙の中で、素直にその時に感じた自分の心情等について書いているだけに――そこに書いてあることが嘘偽りのないマリーの本心なのだと思うと、イーサンは思わず手紙を読む手が震えたのである。
>>敬愛する院長さまへ。
長らくお手紙もせず、申し訳ありませんでした。
マリーは院長さまに懺悔しなくてはなりません。何故といって、おそらくはもう二度と修道院へは戻れない身になってしまったものですから……ずっと院長さまが懸念し、わたしが「そんなことはない」と否定し続けてきたことが現実になりました。
といっても、イーサンにばかり責任があるわけではありません。わたしのほうで同意を与えたのですから、彼を責めることは出来ないと思います。手短に話しますと、イーサンにわたしたちは結婚しているのも同然だと言われたのです。イーサンがマクフィールド家のパパで、わたしがママで……わたしたちの間にないのは、ただ夫婦の営みだけだと。
わたし自身、イーサンがいなければ、とてもこんなに長く主婦業を続けて来れなかったと思っています。院長さまもご存じのとおり、わたしは人に厳しく当たったり、叱ったりということが苦手なのです。イーサンはわたしのそうした欠点をかわりに覆ってくれて、子供たちに必要な時には厳しく接し、叱りつけるということをしてくれました……わたしたちはずっとお互いに車輪の両輪として調和してやってきたのだと思います。
けれど、イーサンが「ほとんど夫婦のように暮らしているのに結婚していないのはおかしい」と言うなら……院長さま、この時マリーが思ったのはただ、彼にこの家から出ていって欲しくないということだけでした。でも、ずっと今のままでいたら、わたしかイーサンのどちらかが出ていくしかないのだと、すぐにわかったのです。
だからわたしは、イーサンの申し出に同意しました。すでに結婚しているようなものなのですから、これからは本当の夫婦のように暮らしていくということに同意したのです。わたしにとってこのことは、とてもつらい決断でした。ただ、イーサンがわたしのことを愛してくれているらしいことだけが救いだったかもしれません。けれど、わたしはこのことで苦しむでしょう。何故なら、神の花嫁になることをあれほど長く祈ってきたのですし、その代償がどれほど高くつくのかもわかりません。
ただ、イーサンのことを拒絶していても、同じように苦しむことになるとわかっていました。そして今となってはもう……聖書にある、>>「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです(ローマ人への手紙、第6章16節)」という言葉のとおり、マリーは彼に支配されています。神の支配よりもそれが強いのですかと、院長さまはお訊ねになるかもしれません。わたしにはわからないのです。もちろん、神さまの愛はイーサンの愛よりも高く力強いものです。ただ、どうか院長さま、マリーがこのことを善良な心から決断したということを理解していただけたならと思います。
わたしはこれまでの人生の中で、人から何かを頼まれて断ったということがありませんし(これはもちろん「ノー」と言ったことがないという意味ではありません)、同じ心からイーサンの申し出に同意しました。けれども今はもう……最初の動機がどうだったかなど、関係のないくらい彼のことを愛しています。
どうか院長さま、こんなマリーのことをお許しください。修道院を出てから八年……マリーにとってはあなたさまのいらっしゃる修道院へいつか帰れるということだけが唯一の心の支えでした。こちらの家に来てから、わたしは筆不精だったというのに、こんなことを申し上げる資格はないのですが、それでもどうか、なるべく早くお返事をくださいませ。
それがどんなに厳しいご叱責の言葉でも、マリーは身を正して聞く所存でおりますから……。
もうあなたの妹と呼ばれることの出来ないマリーより。
――このあと、意外にもあのアグネス院長は温情ふあれる手紙を書いて、マリーのことを安心させていた。
イーサンはその手紙をもう一度読み返した。
>>わたしの可愛い妹のマリーへ。
あなたからお手紙いただいて、すぐに筆を執ることにしました。
マリー、これから先どんなことがあっても、あなたはわたしの可愛い妹です。またそれは、他のシスターたちにとっても一生涯変わることはないでしょう。
わたしはね、マリー。あなたがマクフィールド家に行くずっと前から……いつかこんなことになるのではないかと恐れていました。一体わたしは何を、一体何故恐れたと思いますか?もしそんなことになったとすれぱ、あなたはきっと苦しむことになるとわかっていたからです。
心から愛する人と結ばれるということは、とても素晴らしいことですよ、マリー。けれど、あれほど幼い頃からキリストの花嫁になることを熱望していたあなたが、地上の愛に囚われるということは……相手の男性をどんなに愛していたとしても、最初の心の中での誓願を達成できなかったことで苦しむだろうことを何よりわたしは恐れたのです。
おそらく、あなたも今感じているでしょうが、地上的愛情というものは主の愛ほど完璧でもなければ絶対でもありません。もしかしたらいつか相手が心変わりするかもしれない恐れや、他の女性に目を移すかもしれないことに対する嫉妬……そんなものに縛られることもありえます。
マリー、わたしはあなたのことを祝福しますよ。今までずっとあなたからいただいた手紙を読んできて、あなたたちはもう家族なのだとはずっと思っていました。それほどまでに分かちがたい絆で結ばれているのですから、あなたがマクフィールド家の長兄と結ばれたこともある意味自然なことだったでしょう。
わたしもずっとあなたがいつか修道院に戻ってくると思っていましたから、いつでもあなたがどうしているかと身を案じてきました。けれど、わたしにはもうそんなにマメに手紙を寄こす必要はありません。こう書くと、もしかしたら繊細なあなたはわたしに見捨てられたのだと思うかもしれません。でもそうではないのです。ひとつの家庭で主婦を務め、これから自分の子供も持つとなれば、何かと忙しく、筆を取っている暇もなくなるでしょう。これまではあなたが修道院に戻ってくるという前提がありましたから、ひとつの報告としてわたしは手紙をずっと受けとってきました。
けれども、これからはマリー、あなたが気が向いた時に気軽な気持ちでなんでも書いてくれたらと願っています。また、何か困ったことがあった時にも、なんでも相談に乗ります。
まずはとりあえず、一度修道院まで会いにいらっしゃい。こうしたことは顔と顔を合わせてでなくては、お互いの真意が伝わらないかもしれませんからね。繰り返しますが、マリー、あなたが罪悪感に苦しむことなく、愛する人と家族に囲まれて、幸福であるということが、何よりのわたしの願いです。
あなたを心から愛する、姉のアグネス・マルティネスより。
……イーサンはここで一度、手紙の続きを読むのをやめた。ここからもまた、マリーとアグネスの手紙のやりとりは続いていたが、この時マリーは一度、アグネス・マルティネスに会いに行ったらしい。そして、その時に会ったことがふたりにとっての今生の別れとなったようである。
イーサンは座っていた椅子の背もたれに寄りかかると、再び重い溜息を着いた。イーサンは、マリーのことを愛しすぎるくらい愛していたため、彼女にそこまでの重い代償を支払わせた、といったようには考えていなかった。お互いに愛しあっているのだから、当然のことをしているのだとしか思ったことはない。けれど、アグネス・マルティネスの、軽蔑の入り混じったようなあの冷たい眼差し……その意味が、初めて彼にもよく理解された。何もあれは、神に捧げられるはずだった修道女を誘惑した悪しき男――という、そうした種類のことではなく、「男は自分の欲望を中心にした馬鹿ばかりだから、自分が何をしたのかなどまず間違いなく理解してはいまい」という、そうした種類の軽蔑の眼差しだったのだろうと、イーサンは初めて気づく。
そして、修道院で自分とは顔を合わせず、他の修道女にマリーの手紙を渡させたのが何故なのかも、イーサンには今はよくわかる気がしていた。この手紙を読んで、自分が言いたいことを悟ったなら、「まともなひとりの男として」相手をしてやろうという、何かそうしたことに違いない。
何分、読んでいない手紙は結構な量にのぼるため、これを全部読んでから、さらに自分の心の中を整理してから、もう一度アグネス院長には会いにいかねばなるまいと、イーサンはそう考えていた。この手紙の続きを読んでいけば、おそらくマリーがどこでどんなふうにマッキンタイア家の人々と知り合い、その後どんなつきあいをしていたのかもわかる気がしたが、何分、イーサンの目は今充血しきっており、さらには心の震えが止まっていなかった。>>「けれども今はもう……最初の動機がどうだったかなど、関係のないくらい彼のことを愛しています」……イーサンはこの言葉に心から救われた。手紙の文面のほうはかなり控え目な表現であるかもしれないが、マリーが本当はもっと情熱的に、深く自分を愛してくれていたということについては、かなりのところ自信があったからだ。
(それなのに、もう二度会えない。こんなに恋しくても、触れることさえ出来ない。俺はただ、あいつに与えられただけ。奪っただけ……もしマリーが火事に巻きこまれることがなかったら、あいつが本当は何を考えていたかなんて、どうして欲しかったかなんて、気づくことさえ出来ていたかどうか……)
そのことを思うと、イーサンは自分が情けなかった。もしこの世に<神>がいるのなら、マリーに自分は相応しくないとして退けていたろうとさえイーサンは思う。
(そうだ。俺よりもあいつに相応しいのは……ラリーみたいな奴だ。あいつなら、マリーのことを女としてだけでなく、人間としても尊重した上で愛したことだろう。父親が教条主義的な信仰心だから、そこに反発心を持っていてあまり宗教熱心でないが、それでもマリーの信仰心の清らかさにあいつならば感動し、貧者救済だのなんだの、マリーが思うところになんでも協力し、あいつの影を踏むことさえせずに崇拝していたことだろう……)
マリーの手紙をイーサンがざっと見たところによると、ラリーのことをマリーが本当はどう思っていたかということは、手紙の中に一切言及がない。おそらく、交際を断ったのであるから、わざわざそんなことをアグネス修道院長に説明する必要はないと思ったのかもしれない。
そしてイーサンは、マリーの心からの愛に救われるのと同時、この時、あることに気づいて戦慄した。それは、「実はマリーを殺したのは自分なのではないか」という考えだった。ずっと、神の御心に従って行動するようマリーは心がけ、最後にマクフィールド家へと行き着いた……ここまではいいのだ。だが、神の花嫁としての誓いを立てていたのに、それを彼女が破ったから……この世におけるマリーの修行期間はこれで終わりだというように神のほうで考えたのだとしたら?
(いや、そんな馬鹿な話があるか。むしろ俺はそんなのがもし本当の神だというのなら、絶対に許すことは出来ない。あいつは俺と一緒にこれからもこの屋敷で幸せに暮らしていくはずだったんだ。そして、子供を生み育てて……それの一体どこが悪い?第一、そういう命の営みがなかったら、人類なんかとっくに滅んでいるんだしな)
イーサンはその博識が災いしてか、トルストイが出来ることなら全人類が禁欲し、セックスしないことが聖書の真理だと「性欲論」の中で述べていたことをこの時思いだしていた。とはいえ、そう述べたトルストイ自身が十人以上もの子持ちだったのだから、この意見にはあまりそう強い説得力はないと見ていいだろう。
また、聖書を読む限り、結婚や女性が子を生むといったことはそう問題視されていないとイーサン自身は思っている。実際、創世記には「あなた方は生めよ、増えよ」といった神自身の言葉があるし、そうではなく結婚の神聖さを汚す行為や、淫らな眼差しで女性を見ることはよくないといったことが禁止事項とされていると考えたほうがいいのだろう。
だが、マリーの場合は、おそらく六歳で引き取られたというカトリックの孤児院で修道女たちに囲まれて育つ中で……かなり早い段階から神の花嫁となることを志し、祈りの中でもそう誓いを立てていたに違いない。イーサンは思いだす。マリーがあの時、「考えさせてください」と言うでもなく、すぐに自分に対して「そうした関係になる」のを同意したことを……。
(もしあの時、マリーの返事するのが遅れたりしたら、俺はおそらく惨め極まりなかっただろうな。だけど、マリーはそういう気まずい思いを俺にさせたくなかったから、すぐにそう答えていたんだ。結局のところ、もし自分が断れば、俺が出ていくかあいつが出ていくかという話になると思ったから……)
イーサンはこの日、思いが千々に乱れるあまり、そのまま就寝することにした。頭の中ではそれまでに読んだマリーの手紙の言葉が、何故か彼女の肉声を伴って彼の中でぐるぐる回っていた。イーサンは思考がどうにもまとまらず心が乱れていながらも、それでも悲しいと感じるのと同時、どこか嬉しくもあった。何故といって、マリーが「本当は何をどんなふうに感じ、考えていたのか」がわかったからであり、彼女の残した手紙を読むという喜びが残っていることに、何か希望めいたものを覚えるそのせいだった。
そして数日かけてイーサンはマリーの手紙を読むと、心に苦しみを覚えつつ、アグネス・マルティネスと再び連絡を取っていた。今では彼にも、マリーが何故植物園通りのあのマンションで火事が起きた時、彼女があんなにも必死になってシャーリーやジェニー、それにキムという赤ん坊の命を助けたのかがわかっている。マリーは時々、ユトレイシア植物園に出かけていくことがあったらしく、そこで薔薇の花や蓮の花を見たりしていたことがあったらしい。そして、その帰り道でグレイスの部屋を訪ねていき、相談にのっていたということだった。
>>続く。
さて、今回も再びマリーの手紙ということで、自分でも「なげーな」と思うのですが(汗)、まあgooブログって30000文字くらいしか入らないので、ちょっと文字数的な関係が色々ありましてww
ええと、今回もまた↓のマリーの手紙の中にわかりにくい点があると思ったんですけど、そこをどう説明したらいいものか……というのがありまして、今回も前回に続いて介護的な何かについて書いてみようかな~なんて(^^;)
【44】のところで、「看護(介護)してあげる・看護(介護)する・看護(介護)させていただく」――の3つのうち、態度としてどれが正しいか……みたいな話があったと思うんですけど、これはわたしがホームヘルパーの講習か何かを受けた時に講師の先生が言われていたことでした。。。
といってもまあ、その何日か前に別の先生が「介護する時には自分の親に対するように接することの出来るのが理想です」みたいにおっしゃっていたので、まあ、同じ講師の先生でも人によって言うことが違うかもしれないんですけど、「<介護してあげる>でもなく、<介護させていただく>」でもなく、<介護する>というのが介護する時の正しい姿勢だっていうのは、わたし的になんか妙に頷けることだったというか(^^;)
まあ、そのあたりの「患者(利用者)さんとのコミュニケーション」に関連してわたしの思ったのが……なんていうか、患者(利用者)さんの自尊心というか、プライドの問題のことだったでしょうか。
その患者(利用者)さんの性格的なこともあると思うんですけど、やっぱりオムツを替えたりなんだりしてもらう相手に対しては、あんまり強いこと言えないっていうの、絶対ありますよね(^^;)
わたしが特にこのことを思ったのが、いわゆる模擬講習っていうか、そういうので患者さん役をやってオムツ交換してもらったりとか、ごはん食べさせてもらったりした時のことだったかもしれません。
もしかしたら、他の人はそう感じなかったかもしれないんですけど……わたしこれ、ものすっっごく嫌だったんですよ正直、相手の人がいい人だからとかなんとか、あんまり関係ないんですよね。自分が車椅子に座ったり、ベッドに横になったりしてみると、その上から人が話しかけてくる、上から目線っていうのがほんと、なんとも言えませんでしたww
それはただの講習だからほんの短い時間我慢すればいいだけにしても、そういうふうに上から来られるというだけで、わたしなら素直に相手の言うことを聞こう……みたいな気持ちにはあんまりなれないな~と思ったほどでした
つまりですね、なんというかわかるのですよ。その時点ですでにもう「この偽善者め!!」みたいに介護してくださる人に毒づきたくなる患者(利用者)さんの気持ちっていうのが(笑)。
でもやっぱり、オムツ替えてもらったりごはん食べさせてもらったりする以上――やっぱり面倒みてもらう側のこっちが相手に対して下手に出たり、嫌な態度を取ったりしたら、あとでヘルパー同士で自分の悪口を言うのだろうから……とかなんとか、わたしなら相当屈折した思いを抱くことになるなと思ったものでした(^^;)
つまり、これはわたしが思うにっていうことなんですけど……もし仮に100%完璧な看護や介護が出来る人がいたとして、それがいくら100%完璧なものでも、そんなの実際は大したことじゃないんじゃないかなって初めて思ったというか。。。
そうではなく、看護(介護)される側の人のほうの人格がすごいというか、そこでさらに「自分はこうしてもらいたい」、「もっとああしてくれなきゃ」、「こうしてよ」と言うことの出来る患者(利用者)さんのほうがよっぽど凄いっていうことなんだなっていうことに初めて気づかされたというか(^^;)
いえ、いつか自分も年をとったり、あるいは事故などで車椅子に乗ったりということになったとしたら――嫌でもそうしたことを受け容れ、乗り越えていかなくちゃいけない……とは、他の人から聞きました。
でもねえ、わたしの我が強いせいもあるのかもしれませんが、「オレならぜってえ無理!!」みたいに、この時ものすごおおおく思ったのです。
これはお医者さんや看護師さんもそうだって聞くんですけど――やっぱりものすごく立派な経歴のお医者さんでも、あるいはどんなベテランの看護師さんでも、一度自分が患者になって入院して手術を受けたりすると、本当に180度意識が変わるっていいますよね。
そして、看護とか介護の質のようなものが変わる、変えられるというか、いわゆる医療のパラダイムシフトみたいなことは、こうした体験を抜きにしては絶対ありえないんだろうなって思ったりしたという、今回は何かそんなお話でした(^^;)
ではでは、次回はようやくマリーの手紙のほうも終わりとなります。。。
それではまた~!!
聖女マリー・ルイスの肖像-【45】-
>>敬愛する院長さまへ。
少しの間、お便りできなくて申し訳ありませんでした。院長さまにおかれましても、きっと気をお揉みになっておられたことと思います。ああ、でも……一体どこからお話したらいいでしょう!!
まず第一に、子供たちはとっても可愛いです。みんな、わたしが突然家にやって来ても特に驚きもせず、本当に自然な対応でした。上から十歳のランディ、九歳のロン、七歳のココ、四歳のミミちゃんと続きます。ランディはとても天真爛漫な子で、嘘をつくということの出来ない素直な子です。ロンは優しくて純粋ないい子ですし、ココちゃんは利発な、自分の意見をはっきり言う子です。そしてミミちゃん!!見ているだけで、心の和む、純粋無垢な子で、この子のためならなんでもしてあげたいという気持ちをわたしに起こさせます……。
ただ、ご長男のイーサンは、当然のことながらわたしに対してあまりいい態度ではありませんでした。なんと言ったらいいのでしょう、まるで冷厳な王のような顔立ちをした方で、かなりはっきりした口調でものをおっしゃる方です。もちろんこう書くからといって、マリーは不満を洩らしているわけではありません。第一、子供たちに害が及ぶことを用心しつつもわたしのことを家へあげてくれましたし、彼自身は大学での寮暮らしとのことで、少しほっとしたりもしました。
ずっとこの方が家にいて色々なことを監督されるというのではわたしも疲れてしまいますし、でも彼には大学や寮での暮らしがあって、それ以外でこちらの屋敷のほうへは戻ってくるということでしたから……たぶん、子供たちとわたしだけなら、なんとかなると思います。
ただ、わたしに色々なことを教えてくれる家政婦のマグダがそのうち辞めてしまうということでしたので、それまでの間にマクフィールド家における家事のことを覚えてしまいたいと思っています。なんにしても院長さま、マリーはこちらへ来て、はっきりと確信致しました。まず、それ以前にKさんのお葬式の時に虹が出たというのが神さまのわたしに対するしるしだと思いましたし(わたしがロンシュタットに来てから、あんなに綺麗な虹を見たことは一度もありません)、そして……わたしが何故この家に招かれることになったかの理由も、来てすぐにわかったのです。
ランディ、ロン、ココちゃん、ミミちゃんのお母さんのシャーロットさんは、新興宗教的なものの信者の方で、クリスチャンではなかったみたいなのです。子供たちも教会へ通うといった習慣は持っておらず、ただ、マグダがミミちゃんに何か霊的な気配を感じて、この子のことだけ毎週教会へ連れていくことにしたようです。
さて、院長さま。わたしは今<霊的な気配>と書きました。そして、シャーロットさんの亡くなったのがほんの三年前、ミミちゃんが二歳になるかならないかくらいの頃のことです。でもミミちゃんは、その頃のことなんて覚えてないはずなのに(だって、まだほんの二歳ですもの!)、家に出入りしていた霊媒師の名前を覚えていて、ぬいぐるみにヌメア先生という名前をつけています……。
ええ、お笑いになってください、院長さま!!でもわたし自身はこのためにこそ、マクフィールド家へやって来ることになったのだと確信しております。それにしても、恐ろしいことです。キリストを十字架に磔にしたのと同じ者が、このように小さくて純粋無垢な存在の中へさえも入り込もうとするのですもの。
見ていてください、院長さま。マリーは必ず、ミミちゃんにヌメア先生のことを忘れさせてみせます。だって、ミミちゃんったらぬいぐるみのヌメア先生に話しかけては、お返事したりしてるんですものね……もしミミちゃんが霊的に解放されましたら、マリーはあとのことは大体安心な気がしています。もちろん、ヌメア先生というのはお母さんのシャーロットさんと深く結びついている存在ですから、慎重の上にも慎重を期さなくてはなりませんけれど……。
わかりますでしょうか、院長さま。わたしがマクフィールド家に派遣された理由が他でもなく「これ」だったのです。ご長男のイーサンも、非常に賢い方ですが、それだけに神さまのことはあんまり信じおられないご様子で、ランディとロンとココちゃんに関しては、そもそも知る機会も与えられていなかったのです。
わたしも信仰というものは強制されるべきものではないと思ってはおりますが、それでも子供の場合は別ですもの。時間はかかるかもしれませんが、幸い、ミミちゃんはなんの疑問もなく教会へ一緒に来てくれますし、ロンも通うことに同意してくれました。困ったことがあったらお祈りして神さまにお願いするといいのよってお話したら、ロンも教会へ行ってみたいと言ってくれたのです……子供というのは本当に素直なものですね。以来、教会へは毎日曜、三人で通っていますが、つい先日、急に何をどう思ったのかわかりませんが、イーサンが家族全員で教会へ行くように何故かしてくださいました。
マリーの神さまに対するお祈りが聞かれたのでしょうか?きっとそうだと思います……その帰り道、家族みんなで写真を撮って、お食事して帰ってきました。子供たちも概ね満足そうでしたし、イーサンはどこか不機嫌そうに見えましたが、彼はそれがいつものことなので、気にしてはいけません。
院長さま、年の近い男性の出入りが家にあることをご心配しておいででしたね。でも、イーサンなら何も心配いりません。何分、大変能力のある方で、大学でもアメフトをしていて、大変もてるそうです(ココちゃんがそう嬉しそうに申しておりました)。ですから、わたしのことは家の家政婦か何かと思っているようですし、実際そうした扱いを受けてもいます。
それでは院長さま、また忙しい合間を縫って必ずお便り致します。
心からの愛をこめて、マリーより。
>>敬愛する院長さまへ。
院長さま、子育てというのは本当に大変なものですね。体力的にもそうですし、一日中たくさんやることがあって、あっという間に夜になってしまいます……病院にいた頃は、勤務時間がひけてしまえば自分の時間でしたが、マリーは今、家事をすることに二十四時間我が身を捧げているといっても過言ではないかもしれません。
けれども、修道院にいた頃も、自分に与えられた一日二十四時間という時間を神さまにお捧げするよう心がけていたのですから、もしかしたら同じ心持ちでマリーは家事に励むべきなのかもしれません。マリーは修道院にいた頃と同じく、今も朝の五時に起床しております。そして、子供たちのために朝食を作ってランディとロンとココちゃんを学校へ送りだしたあとは、ミミちゃんと一緒に遊びます。
また、この時、ミミちゃんがテレビに夢中になっている時などに掃除したり、おやつ作りをしたり、食事の用意をしたりといったことをしています。ミミちゃんとは毎日一緒にいてもまるで飽きるということがありません……ミミちゃんのほうでもわたしを好いてくれていて、「おねえさん、いつまでもミミと一緒にいてね」とよく言ってくれます。対するわたしの答えはキスとハグです。
院長さま、マリーは昔から子供という存在のことは好きでした。けれど、あまり身近に接する機会もなく今日まで来てしまい……神さまがこのことを通し、わたしに何をさせたいのか、伝えたいのかはまだわかりません。でも、聖書には>>「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。 歓声をあげ、喜び歌え、産みの苦しみをしたことのない女よ。 夫に捨てられた女の子供らは、夫のある女の子供らよりも数多くなると、 主は言われる」(イザヤ書、第54章1節)とありますものね。わたしは一生、子育ての喜びなんて知らずにいるものとばかり思っていましたけれど、この子たちが大きくなって、また立派なクリスチャンになってくれたら、修道院へ戻るということを神さまがお許しくださるのではないかと、そんなふうに考えることがあります……。
そういえば、この間ココちゃんから頼まれてポーチを作りました。他に、子供たちの服も時間のある時に作ってみたりしています。不思議ですね、院長さま。まさか、修道院で身に着けた手芸のスキルが、こんなところで生かされることになるとは、思ってもみませんでした。なんにしてもマリーは、マクフィールド家の主婦として、日々喜びをもって活動しています。
院長さま、院長さまにもいつか、この子たちに会っていただきたいと、マリーはそのように願っております。
今回の手紙は短いのですが、明日もまた朝から子供たちの世話がわたしを待っているものですから……毎日大変ですが、誰かに必要とされるということは、本当に幸せなことです。
子育てに忙しく、腕が四本欲しいマリーより。
――イーサンはここまで手紙を読むと、一度重い溜息を着いた。封筒の消印を見、この頃自分はマリーに対してどんな態度を取っていたかということが、色々思い出されてくる。マリーはもちろん、最初からマクフィールド家の財産狙いといったようにはまるで見えない女ではあった。だが、「何か目的があるはずだ」とのうさんくささが完全には拭えなかったため、疑いの不審の目でもってマリーを見ることを、この時イーサンはまだやめていなかったように記憶している。
このあとの手紙も、夏休みに家族全員でディズニーランドへ行ってどんなに楽しかったかということや、ロンの不登校事件について、そのあとの派手なお誕生日会のこと、ランディがネイサンと喧嘩したことや、ココがオーディションを受けたこと、ミミが幼稚園へ行くことになってということなど……ほとんど一か月と置かずに報告の手紙が送られている。イーサンは、アグネス院長がいかにも「なんでも知っている」といった態度だったのも無理もないと、この時初めて思ったものだ。
また、イーサンはマリーの手紙を読むうちに、何度も涙を流した。いつでも子供たちのことを第一に考え、そのことしか頭になかったのだということがよくわかったからだ。正直いって、今ならアグネス院長のあの軽蔑に満ちた眼差しが何故だったのかがイーサンにも理解できる。確かに、イーサンはマリーを愛していたし、今も愛している。だが、彼が愛していたのは女としてのマリーであり、子供たちの母親としてのマリーだった。こうして今マリーの手紙を読み、彼女が「本当は何をどう考え行動していたか」がわかってくると……自分は「ひとりの人間としてのマリー・ルイス」について、どの程度理解していたのか、自分でもわからないと思った。
いつでも美味しいものを作ってくれるから、子供の面倒を見てくれる都合のいい女だから、少し押せば肉体関係を持てそうだから……そんなものが果たして本当に愛なのだろうか?イーサンはマリーの手紙を読んでいるうちに、自分がなんだか情けなくなってきた。もちろん、世間の人々はこう言うかもしれない。世間の君と同じくらいの年の男など、みんなそんなものだよ、と。だが、イーサンには今あるひとつのことがわかっている。愛というのはおそらく、相手の欠点を覆うということなのだ、と。マリーは誰に対してもそれをした。もちろんマリー本人は意識してそうしようとまでは考えてなかったに違いない。そして、そうしたマリーの姿勢というのは、父ケネスにでさえ十分に通じるものがあったのだろう。
大して清くもない相手のことでも、自分よりも清いものとして扱ったり、そうした謙遜と愛の姿勢がマリーに備わっていればこそ、自分でさえも彼女の顔に<善良>としか書かれていない気がして、見ず知らずの他人であるにも関わらず、この家へ入れるということになったのだ。
(本当に馬鹿だな、俺は……ひょっとしたら、家に天使が来たとも気づかずに、追い返していたかもしれなかっただなんて……)
イーサンは鼻をひとつかむと、寝静まった一階のリビングまで下りていって、マントルピースの上から例の家族写真を取ってきて、書斎のテーブルの上へ置いた。もう夜の十一時過ぎだった。けれど、イーサンはアグネス院長が自分とマリーのことについて、どこまで知っていたのか……いや、そのことをどう手紙に書いて知らせたのか、どうしてもその手紙を読まずには眠れそうになかった。
そこで、少し手紙を飛ばして――今読まなかったものはあとで必ず読むにしても――自分とそうした関係になってからの手紙を探すということにした。イーサンにしても、読む時には微かに手が震えた。何故といって、ここまで手紙を読んでくる過程において、マリーはイーサンに関して実に素っ気ない描写しかしていなかったからだ。もちろんそれは、年の近い異性である自分を警戒するようアグネス院長が繰り返し警告していたせいかもしれないにしても……五人兄妹のうち、自分のことだけ唯一感情移入があまりされていないことに対し、イーサンは若干傷つかないでもなかった。
だから、マリーの本音としては、最初はまったくその気などなかったとか、自分が出ていくかイーサンが出ていくかということになると思ったから仕方なくとか……ここまで、マリーはアグネス院長宛ての手紙の中で、素直にその時に感じた自分の心情等について書いているだけに――そこに書いてあることが嘘偽りのないマリーの本心なのだと思うと、イーサンは思わず手紙を読む手が震えたのである。
>>敬愛する院長さまへ。
長らくお手紙もせず、申し訳ありませんでした。
マリーは院長さまに懺悔しなくてはなりません。何故といって、おそらくはもう二度と修道院へは戻れない身になってしまったものですから……ずっと院長さまが懸念し、わたしが「そんなことはない」と否定し続けてきたことが現実になりました。
といっても、イーサンにばかり責任があるわけではありません。わたしのほうで同意を与えたのですから、彼を責めることは出来ないと思います。手短に話しますと、イーサンにわたしたちは結婚しているのも同然だと言われたのです。イーサンがマクフィールド家のパパで、わたしがママで……わたしたちの間にないのは、ただ夫婦の営みだけだと。
わたし自身、イーサンがいなければ、とてもこんなに長く主婦業を続けて来れなかったと思っています。院長さまもご存じのとおり、わたしは人に厳しく当たったり、叱ったりということが苦手なのです。イーサンはわたしのそうした欠点をかわりに覆ってくれて、子供たちに必要な時には厳しく接し、叱りつけるということをしてくれました……わたしたちはずっとお互いに車輪の両輪として調和してやってきたのだと思います。
けれど、イーサンが「ほとんど夫婦のように暮らしているのに結婚していないのはおかしい」と言うなら……院長さま、この時マリーが思ったのはただ、彼にこの家から出ていって欲しくないということだけでした。でも、ずっと今のままでいたら、わたしかイーサンのどちらかが出ていくしかないのだと、すぐにわかったのです。
だからわたしは、イーサンの申し出に同意しました。すでに結婚しているようなものなのですから、これからは本当の夫婦のように暮らしていくということに同意したのです。わたしにとってこのことは、とてもつらい決断でした。ただ、イーサンがわたしのことを愛してくれているらしいことだけが救いだったかもしれません。けれど、わたしはこのことで苦しむでしょう。何故なら、神の花嫁になることをあれほど長く祈ってきたのですし、その代償がどれほど高くつくのかもわかりません。
ただ、イーサンのことを拒絶していても、同じように苦しむことになるとわかっていました。そして今となってはもう……聖書にある、>>「あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです(ローマ人への手紙、第6章16節)」という言葉のとおり、マリーは彼に支配されています。神の支配よりもそれが強いのですかと、院長さまはお訊ねになるかもしれません。わたしにはわからないのです。もちろん、神さまの愛はイーサンの愛よりも高く力強いものです。ただ、どうか院長さま、マリーがこのことを善良な心から決断したということを理解していただけたならと思います。
わたしはこれまでの人生の中で、人から何かを頼まれて断ったということがありませんし(これはもちろん「ノー」と言ったことがないという意味ではありません)、同じ心からイーサンの申し出に同意しました。けれども今はもう……最初の動機がどうだったかなど、関係のないくらい彼のことを愛しています。
どうか院長さま、こんなマリーのことをお許しください。修道院を出てから八年……マリーにとってはあなたさまのいらっしゃる修道院へいつか帰れるということだけが唯一の心の支えでした。こちらの家に来てから、わたしは筆不精だったというのに、こんなことを申し上げる資格はないのですが、それでもどうか、なるべく早くお返事をくださいませ。
それがどんなに厳しいご叱責の言葉でも、マリーは身を正して聞く所存でおりますから……。
もうあなたの妹と呼ばれることの出来ないマリーより。
――このあと、意外にもあのアグネス院長は温情ふあれる手紙を書いて、マリーのことを安心させていた。
イーサンはその手紙をもう一度読み返した。
>>わたしの可愛い妹のマリーへ。
あなたからお手紙いただいて、すぐに筆を執ることにしました。
マリー、これから先どんなことがあっても、あなたはわたしの可愛い妹です。またそれは、他のシスターたちにとっても一生涯変わることはないでしょう。
わたしはね、マリー。あなたがマクフィールド家に行くずっと前から……いつかこんなことになるのではないかと恐れていました。一体わたしは何を、一体何故恐れたと思いますか?もしそんなことになったとすれぱ、あなたはきっと苦しむことになるとわかっていたからです。
心から愛する人と結ばれるということは、とても素晴らしいことですよ、マリー。けれど、あれほど幼い頃からキリストの花嫁になることを熱望していたあなたが、地上の愛に囚われるということは……相手の男性をどんなに愛していたとしても、最初の心の中での誓願を達成できなかったことで苦しむだろうことを何よりわたしは恐れたのです。
おそらく、あなたも今感じているでしょうが、地上的愛情というものは主の愛ほど完璧でもなければ絶対でもありません。もしかしたらいつか相手が心変わりするかもしれない恐れや、他の女性に目を移すかもしれないことに対する嫉妬……そんなものに縛られることもありえます。
マリー、わたしはあなたのことを祝福しますよ。今までずっとあなたからいただいた手紙を読んできて、あなたたちはもう家族なのだとはずっと思っていました。それほどまでに分かちがたい絆で結ばれているのですから、あなたがマクフィールド家の長兄と結ばれたこともある意味自然なことだったでしょう。
わたしもずっとあなたがいつか修道院に戻ってくると思っていましたから、いつでもあなたがどうしているかと身を案じてきました。けれど、わたしにはもうそんなにマメに手紙を寄こす必要はありません。こう書くと、もしかしたら繊細なあなたはわたしに見捨てられたのだと思うかもしれません。でもそうではないのです。ひとつの家庭で主婦を務め、これから自分の子供も持つとなれば、何かと忙しく、筆を取っている暇もなくなるでしょう。これまではあなたが修道院に戻ってくるという前提がありましたから、ひとつの報告としてわたしは手紙をずっと受けとってきました。
けれども、これからはマリー、あなたが気が向いた時に気軽な気持ちでなんでも書いてくれたらと願っています。また、何か困ったことがあった時にも、なんでも相談に乗ります。
まずはとりあえず、一度修道院まで会いにいらっしゃい。こうしたことは顔と顔を合わせてでなくては、お互いの真意が伝わらないかもしれませんからね。繰り返しますが、マリー、あなたが罪悪感に苦しむことなく、愛する人と家族に囲まれて、幸福であるということが、何よりのわたしの願いです。
あなたを心から愛する、姉のアグネス・マルティネスより。
……イーサンはここで一度、手紙の続きを読むのをやめた。ここからもまた、マリーとアグネスの手紙のやりとりは続いていたが、この時マリーは一度、アグネス・マルティネスに会いに行ったらしい。そして、その時に会ったことがふたりにとっての今生の別れとなったようである。
イーサンは座っていた椅子の背もたれに寄りかかると、再び重い溜息を着いた。イーサンは、マリーのことを愛しすぎるくらい愛していたため、彼女にそこまでの重い代償を支払わせた、といったようには考えていなかった。お互いに愛しあっているのだから、当然のことをしているのだとしか思ったことはない。けれど、アグネス・マルティネスの、軽蔑の入り混じったようなあの冷たい眼差し……その意味が、初めて彼にもよく理解された。何もあれは、神に捧げられるはずだった修道女を誘惑した悪しき男――という、そうした種類のことではなく、「男は自分の欲望を中心にした馬鹿ばかりだから、自分が何をしたのかなどまず間違いなく理解してはいまい」という、そうした種類の軽蔑の眼差しだったのだろうと、イーサンは初めて気づく。
そして、修道院で自分とは顔を合わせず、他の修道女にマリーの手紙を渡させたのが何故なのかも、イーサンには今はよくわかる気がしていた。この手紙を読んで、自分が言いたいことを悟ったなら、「まともなひとりの男として」相手をしてやろうという、何かそうしたことに違いない。
何分、読んでいない手紙は結構な量にのぼるため、これを全部読んでから、さらに自分の心の中を整理してから、もう一度アグネス院長には会いにいかねばなるまいと、イーサンはそう考えていた。この手紙の続きを読んでいけば、おそらくマリーがどこでどんなふうにマッキンタイア家の人々と知り合い、その後どんなつきあいをしていたのかもわかる気がしたが、何分、イーサンの目は今充血しきっており、さらには心の震えが止まっていなかった。>>「けれども今はもう……最初の動機がどうだったかなど、関係のないくらい彼のことを愛しています」……イーサンはこの言葉に心から救われた。手紙の文面のほうはかなり控え目な表現であるかもしれないが、マリーが本当はもっと情熱的に、深く自分を愛してくれていたということについては、かなりのところ自信があったからだ。
(それなのに、もう二度会えない。こんなに恋しくても、触れることさえ出来ない。俺はただ、あいつに与えられただけ。奪っただけ……もしマリーが火事に巻きこまれることがなかったら、あいつが本当は何を考えていたかなんて、どうして欲しかったかなんて、気づくことさえ出来ていたかどうか……)
そのことを思うと、イーサンは自分が情けなかった。もしこの世に<神>がいるのなら、マリーに自分は相応しくないとして退けていたろうとさえイーサンは思う。
(そうだ。俺よりもあいつに相応しいのは……ラリーみたいな奴だ。あいつなら、マリーのことを女としてだけでなく、人間としても尊重した上で愛したことだろう。父親が教条主義的な信仰心だから、そこに反発心を持っていてあまり宗教熱心でないが、それでもマリーの信仰心の清らかさにあいつならば感動し、貧者救済だのなんだの、マリーが思うところになんでも協力し、あいつの影を踏むことさえせずに崇拝していたことだろう……)
マリーの手紙をイーサンがざっと見たところによると、ラリーのことをマリーが本当はどう思っていたかということは、手紙の中に一切言及がない。おそらく、交際を断ったのであるから、わざわざそんなことをアグネス修道院長に説明する必要はないと思ったのかもしれない。
そしてイーサンは、マリーの心からの愛に救われるのと同時、この時、あることに気づいて戦慄した。それは、「実はマリーを殺したのは自分なのではないか」という考えだった。ずっと、神の御心に従って行動するようマリーは心がけ、最後にマクフィールド家へと行き着いた……ここまではいいのだ。だが、神の花嫁としての誓いを立てていたのに、それを彼女が破ったから……この世におけるマリーの修行期間はこれで終わりだというように神のほうで考えたのだとしたら?
(いや、そんな馬鹿な話があるか。むしろ俺はそんなのがもし本当の神だというのなら、絶対に許すことは出来ない。あいつは俺と一緒にこれからもこの屋敷で幸せに暮らしていくはずだったんだ。そして、子供を生み育てて……それの一体どこが悪い?第一、そういう命の営みがなかったら、人類なんかとっくに滅んでいるんだしな)
イーサンはその博識が災いしてか、トルストイが出来ることなら全人類が禁欲し、セックスしないことが聖書の真理だと「性欲論」の中で述べていたことをこの時思いだしていた。とはいえ、そう述べたトルストイ自身が十人以上もの子持ちだったのだから、この意見にはあまりそう強い説得力はないと見ていいだろう。
また、聖書を読む限り、結婚や女性が子を生むといったことはそう問題視されていないとイーサン自身は思っている。実際、創世記には「あなた方は生めよ、増えよ」といった神自身の言葉があるし、そうではなく結婚の神聖さを汚す行為や、淫らな眼差しで女性を見ることはよくないといったことが禁止事項とされていると考えたほうがいいのだろう。
だが、マリーの場合は、おそらく六歳で引き取られたというカトリックの孤児院で修道女たちに囲まれて育つ中で……かなり早い段階から神の花嫁となることを志し、祈りの中でもそう誓いを立てていたに違いない。イーサンは思いだす。マリーがあの時、「考えさせてください」と言うでもなく、すぐに自分に対して「そうした関係になる」のを同意したことを……。
(もしあの時、マリーの返事するのが遅れたりしたら、俺はおそらく惨め極まりなかっただろうな。だけど、マリーはそういう気まずい思いを俺にさせたくなかったから、すぐにそう答えていたんだ。結局のところ、もし自分が断れば、俺が出ていくかあいつが出ていくかという話になると思ったから……)
イーサンはこの日、思いが千々に乱れるあまり、そのまま就寝することにした。頭の中ではそれまでに読んだマリーの手紙の言葉が、何故か彼女の肉声を伴って彼の中でぐるぐる回っていた。イーサンは思考がどうにもまとまらず心が乱れていながらも、それでも悲しいと感じるのと同時、どこか嬉しくもあった。何故といって、マリーが「本当は何をどんなふうに感じ、考えていたのか」がわかったからであり、彼女の残した手紙を読むという喜びが残っていることに、何か希望めいたものを覚えるそのせいだった。
そして数日かけてイーサンはマリーの手紙を読むと、心に苦しみを覚えつつ、アグネス・マルティネスと再び連絡を取っていた。今では彼にも、マリーが何故植物園通りのあのマンションで火事が起きた時、彼女があんなにも必死になってシャーリーやジェニー、それにキムという赤ん坊の命を助けたのかがわかっている。マリーは時々、ユトレイシア植物園に出かけていくことがあったらしく、そこで薔薇の花や蓮の花を見たりしていたことがあったらしい。そして、その帰り道でグレイスの部屋を訪ねていき、相談にのっていたということだった。
>>続く。