ええと、今回は前回以上に文字数がギリギリいっぱいということになってしまい、本文のみでするということに。ぐぬぬ。。。
あ、でも前文にもそんなに書くことないので、「ま、いっか☆」とも思ったり(笑)。
それではまた~!!
ユトレイシア・ユニバーシティ。-【20】-
卒業パーティのあった日、テディはアレンを通して親しくなった先輩や友人らのたくさんいる、ユトレイシア大の男子寮のほうへ向かった。寮のほうは大学の北門近くにあり、1874年に大学の最初の建物が竣工して以降、オンボロっちくなっては新しく建設され……ということを、この男子寮は繰り返してきた(ちなみに、女子寮のほうが出来たのは1918年のことであり、南門の近く、大学の敷地から少し外れたところにある)。
もちろんテディは、ロイは彼の恋人のリズ・パーカーと、ギルバートはコニー・レイノルズというチア部の可愛い子と卒業パーティに出席するらしいと知っている。そのことに対し、テディは本当に羨ましくもなんともなかったが、それでも、闇鍋パーティに招待してくれたアレン・ウォーカーまでもが――パートナーを得て、その卒業パーティへ参加すると聞いた時にはがっかり肩を落としたものだった。
「あ~、いやそのさ、みんなにテディのことは話しておくから、心おきなく闇鍋パーティに参加しろよ。つか、誘っておいてなんだけど、俺的にはテディがなんであんなもんにそんなに参加したがってんのか理解不能なんだよな」
「だって、時によってはイノシシの肉とかクマの肉とか……少し変わったものが変わった味付けで食べられるって話じゃないか。ぼく的にはね、卒業パーティなんかより、その闇鍋パーティのほうがよっぽど魅力的だよ。っていうか、いくらパートナーが見つかったからって、あんな卒業パーティなんかに行きたがるアレンのがよっぽど信じられないね。ぼくらだって三年もして卒業する頃には出られるのに、一年のうちに経験したりしたら、きっとその頃には有り難味が薄れるよ」
ちなみに、テディは嫉妬からこんな言い方をしているのではなかった。彼は本当にそう思っており、そのことはアレンにもわかっていた。また、男子寮のモテない連は、テディがそうした人間であればこそ……自分たちと同じ匂いを感じ、仲間としてマスコットのように可愛がっているに違いない。
「まあな。確かにテディ、おまえの言うことには一理あるよ。けど、チア部の美人に来いって言われたら……断る理由が俺にはない。しかも向こうは、俺がバイトしてる先の店長の娘でもあるし……」
「いいよ、アレン。そんなニヤケきった顔で弁解されたって、少しも嬉しくない。で、市内で一番安い店でスーツをレンタルしたいんだね?あと、靴を買って床屋に行っていい感じに男としてキメたいというわけだ」
「そうなんだ。床屋についちゃ、先輩が散髪料が30%オフになるクーポン券をくれたし、靴のほうはだな、ABCマートでバイトしてる寮の奴がいいのを安くしてくれたし……あとはスーツだけなんだ。だから、どういうのがいいか、一緒に選んでくれないか?」
「いいよ。ネットで検索してさ、どういうところがあるか探して、一番安そうなところから当たってみよう」
――といったようなわけで、アレンはミランダがくれた百ドルをある意味有効活用し、そこから釣りまで出ていたのである。とはいえ、「ほんとに俺、おかしくないか?」としつこく聞くアレンに、テディはほとほとうんざりしていたが。結局最後には、男子寮の居残り連中に「モテないアレンが初めてモテたぞ、ばんざ~いっ!!」、「しかも相手はあのチア部のミランダ・ダルトンだぞ、イェーイ!!」などという、小っ恥かしい見送りの合唱とともにアレンは送りだされ……まずはギルバート・フォードと男同士の盟約を結んだというわけだった。
一方、卒業パーティのはじまるのと同じ、ちょうど六時に闇鍋パーティのほうは始まったわけだが、ひとり必ず一品以上、鍋の中に入れるものを持参のこと……と参加条件にあるため、テディは張り切って家の冷蔵庫の中にあるものをリュックに詰めて寮のほうへ出発した。大学内の敷地を歩く途中、華やかなスーツ&ドレス姿の男女にであれば、何組となく通りすがった。だが、テディには彼らのことなど眼中にはない。それよりも、闇鍋パーティの楽しみで頭がいっぱいだったからである。
(ブルーチーズでしょ、さやいんげんにニラに、エシャロット、マカロニにパスタにミートソースの缶に、ホイールトマト……目についたもの、色々持ってきちゃった。えへへ)
さて、今は夏休み。寮の学生たちもこの期間ばかりは里帰りするなどして、寮内は人もまばらである。寮のほうは、寮生が増えるにつれ増築されていったため――順次、その古い部分が壊され、新しい建物が継ぎ足されるような形で建設され、古い建物と繋ぐ……といったことが繰り返されたため、かなり複雑な構造をしている。
だがもう、テディは寮の常連として来慣れていたため、闇鍋パーティが開かれる和室(Japanese-style room)のある二階の奥まった部屋へ、ほとんど最短距離で上がっていった。
この「Yaminabeパーティ」という不思議な……というよりおぞましい食事会のはじまりは、かれこれ今から50年ほども昔、1970年代頃のことに遡る。今では、大学の敷地内に<東洋文化研究センター>なる、東洋圏の文化について研究する施設もあるとはいえ、その頃はユトレイシア大に日本人や中国人、あるいは韓国人などが留学してくること自体、非常に珍しいことであった。
そして、この寮に<和室>なる場所をそもそも最初に作ったのが、日本の東京からやって来たというケン・トーゴー(東郷賢)という留学生だったのである。彼は一体どこから持ってきたのか、同室者の了解を得て部屋を畳敷きにし(当時、一畳でも結構したはずである)、床の間に見立てた場所に掛け軸を飾った。
冬はこたつなる場所で暖をとったことから――他の寮生たちも珍しがり、ケンの日本文化の講釈に真面目に耳を傾けたものだったらしい。彼は畳の上で他の寮生たちに空手や柔道などを教え、さらには中途半端な知識による<茶の心>なるものも伝授し……正座して足のしびれた面々の足を孫の手で押しつつ、日本から送ってもらった緑茶や番茶を振るまったという。その時、彼の部屋に招かれた寮生たちは言った。「日本人は何故こんな苦しい姿勢で長時間座り、こんなまずいものを複雑な作法によって飲むのか」と。ケンは「修行が足りん!」と言って、彼らの足の裏を孫の手でさらに押して諭した。「これぞワビサビ、禅の心よ」と。すると、一同は「おお~!これがゼンか」とか、「ワビ、サビ……なんという不思議な言葉」などと言ってそれぞれ勝手に納得するのだった。
またある夜、ケンは「Yaminabe」というものも、日本文化に心酔しきっている寮生たちに伝授したのである。もっとも、当時は今のように最終的な出来映えがグロテスクになることはなく――ただ、みんなで少しずつ肉や野菜を持ち寄って、美味しく味付けしてみんなで一緒に食べるという、そのようなものであったらしい。その頃はおそらく、今以上に本当に食糧事情がよくなく、食うか食わずで講義に参加したり、空腹のまま勉強を続けるということなど珍しくもなかったのだろう。ところがいつしか、その最初の「Yaminabe」が、伝統として寮にずっと伝わるうち、変質してゆき……「闇鍋」という日本語の本来の意味に、どんどん近づいていったものと思われる。
――こうして、テディが六時ちょっとすぎに和室へ到着した時には、カセットコンロにかかった大きな鍋を十数人の寮生たちが囲み、何やら不気味なオーラを周囲に放っていたわけである。
「おお、みんな!我らがセオドア・ライリーがやってきたぞ。拍手によって出迎えようではないか」
寮長のリアム・モルデン(工学部三年)がそう呼びかけると、「よく来たな!」、「地獄へようこそ」、「胃薬は持ってきたかい?」だのいう言葉とともに、拍手が湧き上がる。何故か不思議と、彼らの間にはある共通の要素――『見るからにオタクっぽい』という、そうした雰囲気があるように見受けられた。
「ぼく、色々持ってきたよ!早速入れてもいーい?」
テディが興奮ではち切れんばかりの顔をして、リュックの中のものを順に取りだそうとすると――「待て、待てーい!!」とリアムが急いで止めた。
「ふっふっふっ。セオドア……いや、テディよ。そう簡単に我らに手の内を見せるでないぞ。そういえば、今はどこまでいったかな?ジョンの鷹の爪、ポールの林檎のすり身、ジョージのしょうが……その次が俺のアボカドだったっけ。ええと、時計回りということは、次は……」
「モルデン寮長!次はテディ・ライリーの番としてはどうでしょう?せっかく我らがわびしき闇鍋パーティに出席してくれようと言うのです。そのくらいの特別感があってもいいのではないでしょうか」
全員から次々、「賛成!!」の言葉が挙手とともに上がったため、テディはさも嬉しげにニコニコして――缶切りを借りると、ホイールトマトの中身を一缶そこへ快く投入した。即座に上がる「おお~っ!」という全員の感嘆の声。
「いやいやいや、まだまだこんなものではないぞ、みなの者ども……まだまだ味としては想像の範囲内といったところ。さて、次はトマス・キージェ、おまえさんの番だぞい」
このあとトマスは「食らえ、ポテトチップスの残りカス!」と叫び、袋の底にあるものを鍋に入れた。コンソメの風味が何やら立ちのぼってくる。
「オレのターン!スニッカーズの最後の一かけ!」と、エドワード・ミーガン。
「ぼくはカレー粉の残りだ!」と、ノエル・モートン。
「じゃ、俺はシチューのルウ!」と、ダン・ストルツ。
「クックックッ。みなの衆……これが何がわかるかね?とりゃあっ!!」
タラの白子(精巣)をデイヴ・モローが投入すると、周囲から「なんだそりゃ!?」、「おえっ!気持ち悪っ!!」、「もしかしてサルの脳味噌か!?」などなど、次々叫び声が上がる。
「ふはははっ!!じゃ、次は俺がこいつをお見舞いするぜっ」
今度は、ジェームズ・コクソンがボトボトッ!と、何やらよくわからぬ、ぬたぬたした内臓っぽいものを鍋へ放り込む。
「バイト先のレストランから頂戴してきた、魚の肝よ!!いい出汁が取れるぜ、こりゃあ!ヒッヒッヒッ」
――テディはドキドキしてきた。次に自分のターンが回ってきて、何か入れられる瞬間のことが楽しみで仕方ない。こうして卒業パーティもたけなわのチークダンスが行われる頃には……大鍋を囲む前途有望とされるユト学生らの顔は煮詰まったように赤くなり、持ちよったものをほぼ飲み込んだ不気味な鍋をじっと覗きこむということになった。
「キョッ、キョッ、キョッ。みなの者ども、そろそろ食事の時がやってきたようだわい!さあ、器をこれへ!!」
寮長のリアムがお玉を片手に叫ぶと、「ははーっ!」とばかりお椀や鉢や深皿などを手にして、一同は狂気の膳を頂戴するということになった。もっとも、最後のほうでジョロキアが登場していたこともあり、「ぐえ~っ!ここでジョロキア先生~!!」と、見ているだけで寮生たちは畳の上をのたうっていたものである。ゆえに、味のほうは辛すぎて何もわからないか、とてもこの世のものとも思えぬ味がするかのいずれかであったが……全員が同時に「いただきます!」と叫び、それをスプーンで口許へ運んだところ――ある者は一口食べたたけで「うおえっ!」と顔をしかめ、「かっれえ~!」と言って、水をがぶ飲みする者もいれば、「いや、これはこれで食えんことはない」と、ずずずっと飲み干す者もあり……テディはといえば、がんばって完食しようとしたものの、どうしても途中で「ごほっ、ごほっ!」と咳き込んでしまい、周囲の寮生たちはそんなテディのことをしきりと心配したものだった。
「無理するなよ、テディ。おまえ、顔真っ赤だぞ」
「そうだ、そうだ。盛られた膳はすべて食せというのが闇鍋パーティの鉄則だが、テディは初参加なんだから、そのくらいでもう十分だよ」
「うっ、うう……」
このあと、テディは水をコップ一杯分ほども飲み干すと、あとはもう畳の上にばたんと倒れこんだ。他にも同類の友が数名おり、「天井がまわる~!!」とか、「目の裏にお星さまが見える~!!」などと、どこかラリッた麻薬中毒患者のような風体を晒していたものだった。
テディが次にハッと気づいた時には、闇鍋パーティの片付けもほとんど済んでおり、「ごめん、みんな。なんかぼく、あんまし手伝えなくて……」と彼が申し訳なさそうに言うと、キッチンで洗い物をしていた面々は「気にすんなよ」とか、「来てくれただけで嬉しかったよ」などと、優しいことしか言わなかったものである。
その上、テディは<闇鍋パーティ参加賞のお土産>として、寮長のリアムから何やら気味の悪い物体がいくつも詰まったバルーンと、それを膨らませるための小型ポンプを貰った。「もし帰り道で痴漢にあったら、それを破裂させてやれ」と言うのである。
「痴漢なんてあうわけないよ。ぼく、男だもん」
テディがそう言うと、その場にいた寮生たちはどっと笑った。
「いやいや、テディはわからんぞ。女に間違われる可能性だってあるし……」
「そうそう。小さな男の子だけが好きな変質者とかな。帰り道で襲ってくるかもしれん」
「いや、マジな話気をつけろよ。今日はまあ、卒業パーティってこともあって、結構人が出入りしてるから大丈夫だろうが……何分、大学の敷地内は広いからな。その上、夜は明かりの少ないエリアも結構あるし、近道なんかしないで、なるべく電灯のあるところを選んで歩いていったほうがいい」
だが、この親切な寮生たちの忠告を、テディは無視した。確かに、暗がりで突然殴られてカバンを盗まれるであるとか、絶対ないとは言えない。けれど、寮を出て正門の方角へ向かう途中、グラウンドに焚かれたキャンプファイヤーの炎が天空を焦がす勢いなのを見て――まるで蛾が光に惹かれるように、そちらで何が行われているのかを、少し見てみたいようにテディは思ったのである。
「俺はぁぁっ、大学の四年間ずっと、文学部のメアリー・コリンズのことが好きだったあ!だが振られたあっ!!在学生のみんなよ、俺だって振られてもこうして今も生きてるっ。恋をすることを恐れるなよおっ。恋愛は素晴らしいっ、若さを燃やせる恋が出来るのも青春の情熱も今この瞬間だけのものだあっ。がんばれいっ!!」
(……なんだ、あれ?)
もともと、テディは恋愛などというものにあまり興味がない。そのせいでよく、同性愛者なのではないかと間違われるのだが、彼にしてみれば余計なお世話もいいところである。
(チェッ。卒業パーティってのは何か?誰が好きだったのなんだと、叫んだりする大会なわけか?くっだらない。闇鍋パーティのほうが、時間の過ごし方としちゃよっぽど有意義だよ。ああ、良かった。闇鍋パーティ最高!!次はきっと絶対完食して、そのあと片付けの手伝いもちゃんとするんだ~)
このあと、テディは近道をするため、建物が解放されているのなら、大講堂を通り、正門を出たところにある地下鉄駅入口へ潜ろうと思っていた。もし、ロイやギルバートに途中で会ったとしたら、卒業パーティなんかより、闇鍋パーティのほうがどれほど素晴らしいか知れやしない……ということを、とくと聞かせてやろうと思っていたというのもある。
けれど、この時テディは大講堂が人もまばらにがらんとし、多くの学生たちはグラウンドに出て花火が上がるのを待っているらしいと知り――教育棟のAかBの三階あたりから、花火を少し見てから帰るのも悪くないと思った。卒業生の青春の雄叫びとやらはまだ続いており、「わたし、社会にでるの、ほんとはイヤッ!すごく怖い。ずっとこのまま大学生活が続いたらどんなにいいかと思ってる。だけど、とうとう船出する時が来たの。その思いをのせて歌います。みんな、聞いて。『ネバーセイグッバイ』」……このあと、テディはギターの弾き語りによる、彼女のオリジナルなのだろう歌を聴いていたが、実をいうとそちらのほうはもうどうでもよくなっていた。
おそらく、同じように教育棟のAやBの階上から、花火を見ようと思う学生というのは他に何人もいるものなのだろう。テディの頭の中には彼らがいわゆる「しけこんだあと」といった発想自体がないため、ただなんとなく、そうした部屋のいくつかを通りすぎた。そして二階の廊下を歩いて、三階へ上がる階段へ向かおうとした時のことだった。
「いやだって言ってるでしょ!」
「ここまで来て何言ってんだっ!!」
テディは、その多目的教室の前で立ち止まった。女のほうの声に聞き覚えがあったのと、明かりが消えているとはいえ、ドアの窓のところから中を伺うと、そこでは薄暗がりの中、真っ白なドレスを着た女性と、その上にのしかかり、相手を力でやりこめようとする男の姿が見え――テディは首を傾げた。ふたりがまるで、何か気妙な器械体操でもしているようにしか見えなかったせいである。
けれどこのあと、女性のほうが「いやっ、いやっ、ほんとにやなんだったらっ!!」と叫ぶのを聞き、テディは準備を開始した。シュコー、シュコーとポンプでバルーンを十分な大きさまで膨らませると、ガラッとドアを開け、パッと電気をつける。
「喰らえっ、ゴキブリボンバーッ!!」
バァンっ!!と、物凄い破裂音と共にバルーンが割れ――そこから四方八方に、何か虫のように見えるものが飛び散った。
「ひっ、ヒィィィィッ!!」
そう叫んだのは、ヘンリー・オルデンだった。彼はこの時、すでに下のズボンを脱いでいたので、勃起したペニスが丸見えだった。しかもそこに、ゴキブリが何匹も飛んできたのである。
ヘンリーはこのあと急いでトランクスとズボンを履き、その場からすぐ退散していった。廊下を走っていく時、頭の上にのったゴキブリがポトリと落ち……彼は再び「ギャオエッ!!」と、声にならぬ叫びを上げ、一度飛び上がることになった。
「キャーーーッ!!キャーーーッ、キャアアアアッ!!」
ホラー映画の登場人物のように叫んだのは、何もヘンリーばかりではない。ジェニファーは「助かった」という思いでいっぱいだったため、彼よりも反応が遅れていたが――破れたドレスの胸あたりをかき合わせると、体を起こし……その瞬間、ヘンリーが何にそんなに怯えたのか、気づいたのである。
「ゴッ、ゴキブリ……っ!!」
おえっ!というようにジェニファーは部屋中に散らばるゴキブリから目を逸らした。真夏だというのに悪寒が走り、自分で自分の体を抱きしめる。
「心配しなくても、こんなの全部偽物だよ。すっごく本物に似てるけどね」
そらっ!というように一匹放り投げられると、ジェニファーは一瞬ビクッとしたが、床にぽとっと落ちたそれが、プラスチックかビニール製のものであるらしいと気づく。
「それよりさ、助けてやったんだから、このゴキブリ、全部回収するの手伝ってよ」
この時、ジェニファーの叫び声を聞きつけ、同じ階にいた学生らが、こちらの様子を伺いにやってきた。そこでテディは手のひらに乗せたゴキブリを数匹見せ――「驚かせようと思っただけなんだけど、彼女、ぼくが想像してた以上にびっくりしちゃって」そう説明すると、「な~んだ」とか、「人騒がせねえ、もう」といったようにブツブツ言いながら、カップルたちは元の場所へ戻っていく。
テディはてっきり、『なんであたしがそんなことしなきゃなんないのよ』とでも言って、ジェニファーが多目的教室からいなくなるものと思っていた。けれど、珍しく彼女は百匹以上もいるだろうブリゴキを大人しく拾い集め……テディが手にしていたリュックに入れていたのである。
「当然、送ってくれるでしょ?」
「ぼくが?なんで?」
テディはさも不思議そうな顔をして首を傾げた。その瞳は言外にこう語っている――(なんでぼくがジニーみたいな馬鹿女を送っていかなきゃならないんだ?)と。
「あんたねえっ、見てたんだからわかるでしょっ!!わたし、襲われて危うくレイプされるとこだったのよっ。まだヴァージンなのにっ!!」
「ふうん。そうなんだ」
(しょうがないな)と思ったテディは、溜息を着くと上に着ていた半袖シャツを脱ぎ、黒のランニングシャツ一枚になった。今夜くらいの気温なら、これでもまったく寒くはない。
「だけどぼく、ジニーに同情はしないよ。あっちの男、こっちの男って、中途半端に気をもたせて蛇の生殺しにするっていうのは、男子学生の間じゃ有名な話だからね。ヘンリーだって、おまえがそんな馬鹿みたいな格好してるから、ヤラせてくれる気で自分を誘ったみたいに思ったんじゃないの?あいつ、ほんとはいい奴だもん。だから、ジニーにも責任があるっていうのがぼくの意見だ」
「ばっ、馬鹿みたいな格好って何よっ!これはねえ、今日のためにママが作ってくれたものなのっ。ていうか、ほんとどうしよう。わたしがこんな格好して帰ったら……ママはびっくりするし、パパは猟銃でヘンリーのこと、撃ち殺しかねないわ」
「確かにね。おじさんなら殺るだろうね」
テディのライリー家とジェニファーのレイトン家とは、それぞれの母同士が姉妹の、彼らは従姉妹同士といった関係である。また、この姉妹の仲が良くしょっちゅう互いの家を行き来していたため……テディとジニーは小さい頃はそれこそ、親しい兄妹のような関係性であった。
「あんたがうちに来なくなって、結構になるわよね。ママは思春期の第二次性徴がなんとかで、テディがわたしのこと意識してるんだなんて言ってたけど、本当?」
「そんなわけあるかよ」
(馬鹿女につける薬はない)――そう思い、テディは溜息を着いた。
「っていうか、おまえ覚えてないのかよ。ジニーがいつだったか言ったんだぞ。中学一年に上がった時くらいだったかに……ぼくみたいなチビと従姉妹同士だってわかると恥かしいから、もう話しかけてこないでって」
「ええ~っ!?わたし、そんなこと言ったっけ?違うんじゃない?きっとテディが何かのことでわたしを怒らせたのよ。だからわたし、そんな意地悪なこと言ったんじゃない?それに、小さい頃はわたしたち、喧嘩なんてしょっちゅうしては仲直りっていう、そんな関係性だったじゃない」
この時、テディは「チッ」と舌打ちした。こういうことに関してはおそらく、傷つけたほうは覚えてないものなのだろう。
「とにかく、ぼくらはもうガキじゃない。ジニーもね、これに懲りてあっちの男子学生、こっちの男子学生と色気をふりまいたりして、変に気を持たせるのはよすんだね。言っとくけど、ぼくがこう言うのはおまえのためじゃないよ。相手の男子学生がレイプ魔に仕立て上げられて、鹿撃ちの名手のおじさんの餌食にされないためさ。実際、ヘンリーがズボン脱いでるって最初からわかってたら……ぼくだってあんなこと、絶対しなかったんだから」
ここで初めて、ジェニファーはぷっと吹きだし、くすくす笑いだした。
「あの時のヘンリーの顔……写真に撮っておきたいくらいだったわ。ほんと、馬鹿よね。他の教室なんかにもよろしくやってるカップルなんていただろうけど、大学の中でだなんて、神経がどうかしてるわよ。あ、テディはわたしに責任があるって言ったけど、わたしは絶対そう思わない。あれは何もかも全部ぜええんっぶ、ヘンリーの奴が悪いのっ。だってそうでしょう?あんなところでだなんて、ちっともロマンティックじゃないし、あんなことがしたいんだったらもうちょっと考えてくれなきゃ絶対駄目よ。だからね、テディがなんと言おうとわたしは100%被害者ってこと。なんにしても、次はもっとマシな相手を探すわ」
「ふうん。可哀想なヘンリー」
ジェニファーはこのいかにも無関心なテディの物言いに腹が立ったが、とりあえず我慢した。なんにしてもとにかく、彼には家まで送ってもらわなくては。
けれど、正門前に並ぶタクシーにテディはジェニファーを乗せると、そのまま自分は地下鉄で帰ろうとしたため――彼女は「テディ!」と従兄弟の名を呼んだ。
「とにかく、うちに来てちょうだい。せっかくママの作ってくれたドレスはぼろぼろだし、そこらへん、うまく説明して欲しいの。あんた、頭いいから何か適当な嘘が思い浮かぶでしょ?わたしの家に着くまでに」
「ごめんだよ、そんなの。嘘ならおまえの悪い頭で考えて、自分が馬鹿だったからレイプされそうになったとでもなんとでも正直に話すんだね。ぼくには関係ない」
だが結局、テディはジェニファーがせっかく乗せたタクシーから降りて来ようとしたため、面倒になり――彼女と一緒に後部席へ収まることになったわけである。
「そうね。あんたの言うわたしの悪い頭で考えたシナリオはこうよ。ママが玄関ホールとか、そっちに出てくると困るから、わたしはさっさと二階の自分の部屋に上がる。もしその時、ママがわたしたちの帰ってきたのに気づいて一階のどっかから出てきたら、テディが相手してくれない?だって、あんたがうちに来なくなって随分になるでしょう?だからきっと、『まあまあテディ』なんて具合で、ママは暫くあんたを捕まえてかまびすしくしゃべり倒すでしょうからね」
「やれやれ。ぼくには何ひとつとしてメリットのない作戦だね」
テディはジェニファーの家にタクシーが着くまでの間、窓外の闇を見つめるようにして、彼女のほうを見ようとはしなかった。けれど、ジェニファーのほうではテディのほうをじっと見ていたし、時折そんな彼女の顔が、テディのいる側の窓に映りこみもする。
「ねえ、わたしたち何年ぶり?こんなふうに話すの……」
「さあ。幸いなことにぼくは、中学の時も高校の時も、おまえと同じクラスにならなかったしね。でも、ジェニファーが網にかかった魚の中で一番いいのを選んで残りは捨てるって噂話なら聞いてたから、ぼくのほうでおまえのことなんかもうどうでもよくなったんだ」
「ふうん。さっきの話だけど、そういえば少し思いだしたわ。中学に上がった時、友達のバーバラがテディのこと好きとかって言いだしたのよ。でね、バーバラはわたしとあんたの関係を勘繰ったわけ。その場合、わたしに一体どう言える?新しい学校で、イケてる感じのグループに入れてもらえたけど、ちょっと何かがどうかしたら、わたしだってそこから外されるかもしれない……そういう可能性だって、ないとは言えないもの。で、あんたその後、バーバラを振ったわよね?『他に好きな子がいる』とか言って。だからわたし、あんたに言ったのよ。『もう二度と学校じゃ話しかけてこないで』みたいにね」
「違うよ。『あんたみたいなチビ、従兄弟だとわかったら恥かしいから二度と話しかけないで』だ。バーバラには確かに、手紙をもらった記憶はある。だから、ぼくなりに丁寧に返事を書いたつもりだよ。物凄く慎重に色々考えて、彼女が傷ついたり不愉快になったりしないような、極めて紳士的な文面だったはずだ。それ以上なんかしろって言われたって、ぼくには無理だ」
(くっだらない)と、テディは思った。もし、今まだテディが中学生か高校生の時にその真実を知ったとしたら――『だったら、あとから電話でもしてきて、そのあたりを説明すれば良かっただろ!』とでも怒鳴ったかもしれない。けれどもう、中学・高校の六年で、テディの中で気持ちの整理のほうはとっくについているのだ。
「はは~ん。あんた、あれでしょ?もしかして高校の時のこと、まだ根に持ってるんじゃない?あんたの大親友のロイとほんのちょっとだけつきあった時……それまでは学校の廊下なんかで見かけても、わたしのこと、透明人間みたいに見えない振りしてたくせに――突然幽霊の存在が視認できたみたいに、嫉妬に血走った目でガン見してきたものね。だからわたし、その時思ったのよ。ああ、あんたはわたしが自分の親友とつきあうのが面白くないんだって……ふふっ。ねえ、知ってる?あんたとロイ、ホモなんじゃないかって噂がずっとあったけど――今日大講堂でロイがリズ・パーカーと踊ってるところ見て、彼もやっと卒業したのねって思ったわ」
「卒業ってなんだよ。今日は確かに卒業パーティだったかもしれないけど……」
「違うわよ。なんていうかこう……男同士の馴れ合いっていうの?モテない男同士って、変な連帯感持ってたりするじゃない。でも、ロイもようやくそういうところから抜けだしたのねって意味」
「…………………」
テディは一旦黙り込んだ。ジェニファーが自分を怒らせようとしているのはわかっていた。やはりタクシーになど同乗するのではなかったと、心から後悔する。
「ぼくがジニーのことを嫉妬の目で睨んでいたとすれば、たぶんそれはおまえがロイをたったの三か月かそこらで捨てて、ユージン・ガードナーに乗り換えたからじゃないか?だから、正確には嫉妬じゃない。大切な親友をおまえが傷つけたから、それで腹が立つあまり血走った目で睨んでいたんだろうよ」
「へ~え?わたしはそんなふうには思わなかったけどな。そもそも、テディがそんな目でわたしを見てきたからこそ、わたしはロイと別れてユージンに乗り換えたのよ。わたしがデートしたいのはロイなのに、そのたんびにテディがくっついてくるなんていうんじゃ面倒そうだと思ったっていうのが一番の理由よ。だから、あんたがわたしを責めるのはお門違いってこと」
タクシーは、アストレイシア地区と呼ばれる、市内でも指折りの一等地のひとつへ入っていくと、広い庭付きの大邸宅のドライブウェイへ入っていった。テディはもちろん、金など払わない。ジェニファーのほうで彼が支払うのではないかという微妙な間があったが、当然そんなもの無視した。
「あ~あ、なんかもうやんなっちゃう!ヘンリーには襲われるわ、せっかくのドレスはボロボロになるわ……助けてくれた王子さまはゴキブリをポケットからはみ出させてるわ……」
「うるさいな!てかジニー、おまえほんとにぼくに感謝しろよな。というより、ぼくは今猛烈に後悔してる。おまえなんかほんとはあのままヘンリーにヤラれちまえばよかったんじゃないかと思ってね」
このことについては、流石にジェニファーのほうでも憎まれ口を聞くのをやめた。実際、もしあの時あんな奇妙な方法によってでもテディが助けてくれなかったら――自分はこの白いドレスの後ろを血で汚し、泣きじゃくっていたかもしれないからだ。ジェニファーはそのことだけは心底、有難いと思っていた。
「とりあえず、うちに上がっていきなさいよ。っていうか、ママが出てきたら暫く惹きつけておいて」
「やれやれ。おまえの感謝なんて気持ちはきっと、三分噛んで吐き捨てられる食後のガムほどにも長持ちしないんだろうな」
だが、このあとテディの機嫌は少しだけ良くなった。何故かというと、アールヌーボー調に装飾されたドアを開けるなり――一目散に三匹のバセットハウンドがすっ飛んできて、千切れんばかりに尻尾を振っていたからである。
「もうっ!ジェラルドったらダメよ。相手をするのは着替えをしてからね」
めっ!と茶色い犬の目の前に指を立て、ジェニファーは玄関ホールと同じくアールヌーボー調に装飾された階段を上り、二階の自分の部屋へ消えた。犬のほうは階段の途中まで追いかけていったが、その後戻ってきて、他の二匹の仲間と一緒になって、テディの体を引き倒さんばかりに愛想を振りまいている。
「はははっ!ぼくがここに来なくなってから随分になるのに……まだ覚えてたのか?」
普段これらの三匹の犬(スコットとフィッツとジェラルド)は、誰にでも愛想よく振るまうわけではない。家に来た人間のうち、知らない人間のことは、それがピザの配達人でも、宅配業者の人間でも――唸って警戒するのを決して忘れないのである。
「よしよし、可愛いやつめ……」
テディが三匹の犬の歓迎に応えるうち、リビングのドアが開いて、ジェニファーのママ、ミア・レイトンが姿を見せた。彼女はテディがここへやって来なくなっても、妹の家のほうへはしょっちゅうやって来る関係から――母の姉である彼女とテディはよくおしゃべりするといった仲だった。
ただ、ミアのほうでは「またその内うちへもいらっしゃいよ」とか、「どうして来なくなったの?ジェニーと喧嘩でもした?」といったようには、一度も聞いたことがない。
「あら、テディ!随分珍しいお客さんもあったものね。あらあらまあ、スコットもフィッツもジェラルドも喜んじゃって……じゃあ、ジェニーも一緒ってことでしょ?変ねえ。あの子、あんなに卒業パーティがどうこう言って張り切って、中くらいのボーイフレンドで妥協したとかなんとか言ってたのよ。キャデラックで迎えにきた、あの中くらいのボーイフレンドはどこへ行ったのかしら」
「よくわかりませんが、その中くらいのボーイフレンドはたぶん、二度とここへは来ないと思いますよ」
「あら、そうなの」
この件に関する、ミアとテディの会話はこれで終わった。その後、ミアはじろじろとテディの黒のタンクトップ姿を眺めやり――昔よくそうだったのと同じように、テディは暖炉前のソファに座ると、そのあたりの説明をした。
「いくら暑いからって、ぼくだってこんな格好、ナウいだなんて全然思ってません。もちろん、ジーンズ履いたこんなダサい格好で卒業パーティに参加したりもしませんでしたし。男子寮にいる友人を訪ねた帰り道、偶然ジニーに出くわしたら、家まで送っていけと脅迫されたんです。あとの詳しいことは、ジニーに聞いてください」
「へえ……あの中くらいのボーイフレンドの子、ジェニーの機嫌を損ねるようなことでもしたのかしら。でもほんと、びっくりね。あなたたち、昔はあんなに仲良しだったのに、話もしないようになってから随分になるんじゃない?」
「はははっ。おばさん、思春期なんとかでぼくがジニーと口を聞かなくなったとかっておっしゃったんでしょう?さっき、タクシーの中でジニーに聞きましたよ」
この時、家政婦の女性がレモネードを運んできて――彼女、スーザン・プラットは見るからに驚いた顔をした。「まああっ!テディ坊ちゃま」と、まるで死人に出会ったような反応である。
「ああ、もうここへ来なくなってぼくも、六年くらいになるんだっけ?唯一、犬のギャツビーが死んだって聞いた時だけ、来ようと思わなくもなかったんだけど……彼の葬式に参列するためにね」
「ええ、ええ。お元気そうで何よりでございます。無事、ユトレイシア大学へストレートで入学したとお聞きして、わたくしも嬉しく思っておりました。及ばずながら、ジェニファーお嬢さまがお受験なさる日は、セオドアさまも同じく合格するようお祈りしましたくらい」
「そっか。ありがとう。きっとぼくが浪人せずに済んだのは、スーザンのお祈りのお陰だね」
このあと、テディは喉が渇いていたせいもあり、レモネードを一気に飲み干した。それから、「ああ、美味しいっ!」とテディが爽快感とともに言うと、ミアもスーザンも笑っていたものである。
「すみません、おばさん。ぼく、これからちょっとまだ用事があって……また、いつでもうちに来てください。スーザン、レモネードありがとう。久しぶりに会えて嬉しかった」
テディはスーザンとハグし、レイトン夫人に別れのキスをすると、そのままリビングのほうを立ち去った。三匹のバセットハウンドたちだけが、名残り惜しそうに玄関ホールまで追ってくる。
ミアは別れ際、「ジニーと仲直りしたのね。よかったわ」と言ったが、テディは曖昧に微笑むだけで、それには答えなかった。スーザンのすこぶる美味しい食事の味を思いだし、それには多少未練が残るものの……引き続き、もうここへは必要最低限やって来ることはないだろうと、あらためてそう思っていた。
帰り道、ジーンズのポケットに手を突っ込んだまま歩きながら――ジェニファーが多目的教室やタクシーの中で話したことを繰り返し反芻した。確かに、中学一年のあの時、突然関係を絶ちたいといったことを言われ、テディはショックだった。『あんたみたいなチビと……』と言われたことから、自分の背の低いことが原因なのだろうと思い、その日から一生懸命大嫌いな牛乳を必死で飲みはじめたものだ(ジェニファーが言っていた、第二次性徴云々というのは、母シルヴィアにこのあたりのことをミアが聞いたからに違いない)。
さらには、背が伸びるという触れ込みの健康器具に貯金した小遣いすべてを使い果たし、にも関わらずあまり効果が出ないとなると、今度は週刊誌の広告で見たあやしげな「セノヴィル錠」(医薬部外品)なるものの購入を真剣に検討し……だがその後、テディはすっかり目が覚めたのだ。ジェニファーが次から次へと男を乗り換えていき、早い時にはたったの二日で男子を変えるのを見て――女子グループの仲間内での見栄であるとか盛り上がりであるとか、そんなくだらない必要があるらしいとは、当時からテディも察してはいた。けれど高校へ進学後、「みんなキスどまりらしいぜ」とか「いやいや、あんなしょっちゅう男を変えるビッチ、そのうちの誰かひとりくらいと絶対やってるだろ」……そんなふうにジェニファー・レイトンが男子生徒間で評されるのを聞くうち、すっかり気持ちが冷めたのだ。
ゆえに、親友のロイが高校三年時にジェニファーと交際できるということで有頂天になっていた時、テディは本当に嫉妬などしなかった。ただ――このことをテディは断固として認めたくはないのだが、「ジェニファー・レイトンに失恋した」ということについて、ロイの落ち込む姿を見て追体験することで、テディは親友の胸の痛みを察すると同時、非常に悩み苦しんだというのは事実である。
何故なら……ほんの小さい時の口約束とはいえ、テディはジェニファーが『いつかわたし、大人になったら絶対テディのお嫁さんになるわね』と言ったことを今でも覚えていた。六月の、薔薇が咲き乱れるレイトン家の庭で、テディはジェニファーに花冠を被せ、『可愛いぼくの妖精さん、いつかぼくと結婚してください』と言ったこともあったし、草の茎で作ったピンクの花の指輪をジェニファーの指に嵌め、『婚約指輪だよ、それ!』とプレゼントしたこともある。きっと彼女にとってそうしたことは、今はもう覚えてないか、覚えていても(ああ、そんなこともあったっけ)程度の記憶だったに違いない。
けれど、テディは真剣だった。テディはそれらの子供時代の約束をずっと有効であると信じ……いつか自分がノーベル賞を受賞したら、晩餐会の時、ジェニファーが隣にいるところまで想像していた。また、ジェニファーの父親はユトランド共和国内で<不動産王のひとり>と言われるほどの本物の富豪である。テディの父もまた投資家として毎年長者番付トップ・フォーティに名を連ねていたが、自分はそうした経済面のみならず、ジェニファー・レイトンに相応しい者になろうと思い――母親の英才教育の影響もあったが、随分勉強のほうも頑張ってきたものである。
(小さい頃のジェニファーは、ほんとに可愛かったんだ。それなのに、なんであんなふうになっちまったんだろう。両親の愛情をたっぷり受け、何不自由なくお嬢さまとして育てられ、教育面も申し分ない……それなのに、なんで……)
この点が、何度考えてもテディにしてもまったくわからないところだった。だが、危うく『セノヴィル錠』に大枚をはたこうかと血迷っていた頃、ハッとしたのだ。その頃、もう学校の廊下で通りすがっても、目ですら会話しなくなって一年以上にもなっていた。そして、ジェニファーがつきあっていた男の誰それと――「とっくにDキス済みらしい」という噂をテディは小耳に挟んだ。その頃、確かにテディの目には彼とジニーが幸せそうなカップルに見えていたことから……もう、自然の力に反して自分の身長をどうかするのは愚かであるとして、一切やめることにしたのだ。
『ねえ、テディ!結婚式ではね、花婿さんは花嫁さんにキスするのよ。それがね、これからずっと一緒にいるっていうことの約束のしるしなの』
テディは照れくさかったが、ジェニファーに何十度目かの花冠や花環をプレゼントしたその日、彼女の薬指に赤い花の指輪を通すと、目を閉じたジェニファーにそっとキスした。
そのあと、ジェニファーは頬を赤く染めたまま、『お食事にしましょう、あなた』などと言い、スーザンがバスケットに詰めてくれたおやつを一緒に食べたりしたものだった。けれど、テディはジェニファーがもうディープキスを経験済みだということより――その噂話を耳にした時、この幼き日の契約は他でもない彼女の手によって破られたのだと思った。途端、スッとジェニファーに対する気持ちも冷め、以後は他の男子生徒がジェニファー・レイトンについてなんと言っていようとも、特に何も感じなくなっていったのである。
(そうだ……ぼくはもうジニーなんかと二度と口も聞きたくないと思ってたけど、でも物事はなんでもプラスに捉えたほうがいい。タクシーの中で聞いた話は、確かにあいつの口から直接聞かなければ、知りようのないことだったんだから。それに、確かにジニーが言っていたことにも一理ある)
この時、遠くの空に大きな花火が上がって――パラパラッと弾けるような音をテディは聞いた。ユトレイシア大学の方角である。テディは一時間半ほどかけて家まで帰る途中、その美しい大輪の花のような花火を何度も見た。
テディは今の今まで、恋愛などというものに時間とエネルギーを消費するのは無駄なことだし、計画性のない、愚かな人間のすることだと思ってきた。他の人間がそんなことにかまけている間に自分は勉強や研究に時間とエネルギーのすべてを費やし、人生の勝ち組になってから恋愛でもして、その後結婚すればいいだろうと……また、テディはこうしたことを何も、理性によってのみ打ちたて、実行してきたのではない。自分と同じ<男子>はといえば、女子たちの顔や髪の色、あるいは胸の大きさのことをしきりと問題にし、「絶対Eカップはあるだろ?」、「体育の陸上の時、ブラしてねえんだよ!もうぶるんぶるん左右に揺れちまってまあ……」大体のところ、この種の下品なことしかテディは耳にしたことがない。一方、<女子>はといえば、イケメンか、家が金持ちか、身長は高いか、スポーツは出来るか、クラスで発言力のある目立つタイプかどうか――テディの知る限り、こうしたことが大体のところ査定対象となるらしい。
この中で、テディはいつでもクラスで一番背が低かったし、場合によっては背が低い→アレも小さそうというわけで、女子たちの人気度としては最下位あたりを彷徨うことになるらしかった。つまり、そうしたことがなんとなくわかるようになって以降、テディの中で恋愛というのは「馬鹿らしい、くだらないこと」に分類され、男同士でだけつるんで遊んででもいたほうがよほど楽しい……そう思うようになっていったわけである。
(だけど、今日ぼくは少しばかり何かを学んだぞ。つまり、もしこれから三年くらいして大学を卒業しようという頃……いやまあ、ぼくは大学院へ進むつもりでいるけど、そちらの試験に落ちた場合は三年後にキャンパスを去るかもしれない。そうだ、なんにしても三年後くらいの卒業パーティで、あんな野外ステージに上がって、『ぼくはジェニファー・レイトンなんか嫌いだあぁっ!あんな女、大っ嫌いだあぁっ!!』なんて叫んでいたとしたら、それはジニーが悪いってわけじゃない。ぼく自身の人間性に欠陥と問題があるってことなんだ)
だがもし、今からでも――卒業生だけでなく、在学生も「なんでもいいから叫んでいい」ということであれば、テディは迷うことなくステージの上、マイクの前に立ち、闇夜に上がる花火にも負けぬ大声で、こう叫んでいたことだろう。
『ジェニファー・レイトン、ぼくはおまえみたいな女、大・大・大・大・大っ嫌いだあぁぁっ!!』と……。
>>続く。