こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

ゴールデンライラック。

2021年10月23日 | 日記

(※萩尾望都先生の漫画『ゴールデンライラック』のネタばれ☆がありますので、念のため御注意くださいませm(_ _)m)

 

 さて、今回取り上げる萩尾望都作品は、『ゴールデンライラック』です♪

 

 まずは、文庫版にあるあらすじ。をば。。。

 

 

 >>ライラックの茂みのなかで始まった、ヴィーとビリーの幼い恋。しかし幸福は不意に終りを告げ、第一次大戦の暗い渦が時代を覆う。失意の日々、見上げる空には希望のありかをさししめすかのように、いつも飛行機が高く飛んでいた……。

 

 

 他の方のレビューを見ていて、『風と共に去りぬ』について指摘される方が多い……みたいに書いてあるのを先に読んでいたのですが、読んでいて、「ああ、なるほど!」と思いました。

 

 いえ、わたし『風と共に去りぬ』大好きなので、そういう意味でも読んでいて嬉しかったというか、楽しかったです♪

 

 そして、これでいくとヴィー(ヴィクトーリア)がスカーレット、ハーバートがレット・バトラー、ビリー=アシュレ、エルシー=メラニー……ということに、配役としては近いということになるでしょうか。。。

 

 ただ、ビリー=アシュレというのは異論がある気もしますが、わたしが最初に『風と共に去りぬ』を読んだ時……実をいうとスカーレットとアシュレが結ばれたらいいのになあと思いながら読んでいたんですけど、ここが結局結ばれないわけですよね(笑)。

 

 それで、スカーレットはアシュレを愛していながらも、お金その他のために最初は愛していないレット・バトラーと結婚する。けれど、『ゴールデンライラック』のハーバートとは違い、レット・バトラーのほうがもっと複雑な性格をしていますし、スカーレットとレット・バトラーの結婚生活というのは波乱に満ちたものだったと思います。また、ふたりの間に出来た愛娘のボニーが死んでしまったことは、夫婦の間にあった最後の絆を断ち切る出来事でもありました。。。

 

 なので、『ゴールデンライラック』のほうでは、ヴィーとハーバートの間に出来た娘コニーが、あわやというところで(ビリーによって)助かる、またこのハーバートが交通事故で死んでしまうというのも……『風と共に去りぬ』との比較で興味深いところであるような気がします。

 

 そして、『風と共に去りぬ』は原作を読んだり、映画を見た方でなくても、「明日は明日の風が吹く(正確には〃Tomorrow is another day〃らしい)」という、スカーレットの有名なセリフによって終わりを迎える……というのは、誰でもご存じと思うんですよね。これは、最初はスカーレット側では愛なくしてはじまったレット・バトラーとの結婚生活だったわけですが、レット・バトラーのほうではスカーレットのことを愛していた。けれど、スカーレットはアシュレが結婚して以後も彼のことを思い続け……けれど、スカーレットのほうでは物語のかなりあとのほうで気づくわけですよね。自分のアシュレに対する思いというのは、自分の色々な憧れという名の服を彼に着せていただけであって――わたしが真実本当に愛しているのはレット・バトラーだということに……。

 

 ところが、スカーレットがそう気づいた時、今度はレット・バトラーのほうが彼女のことを愛し続けるのに疲れたというか、何かそうした理由によって心がスカーレットから離れていく。けれど、スカーレットは必ずもう一度レット・バトラーの心を振り向かせてみせる、と決意するわけです。そしてそんな彼女のつぶやいたのが、「明日は明日の風が吹く」……だったように記憶しているのですが、間違ってたらすみませんww読んだの相当昔&今手許に本がないので確認しようがないもので(たぶん、まだ実家にあるかなあ)。

 

 で、ですね。アメリカの南北戦争と第一次世界大戦といった違いもあるとはいえ、割と人物造形的に『風と共に去りぬ』を思いださせると同時に――『風と共に去りぬ』の「ここがこうであったらよかったのになあ」と、読者が読んでいて思う点について、『ゴールデンライラック』が叶えてくれている点、というのが自分的一番の高評価ポイントだったのです

 

 なんていうか、ヴィーとハーバートが結婚してしまうと、「そっかあ。これはもうビリーとヴィーが結ばれるってことはなさそうだなあ。残念☆」くらいな感覚で読み進めていくことになるのですが、最後、きちんと結ばれているというか、間違いなくそうなるであろう……という展開によって終わるわけです。

 

 ライラックの花陰で小さな頃出会い(正確には再会し)、その後色々なことがあって、物語のラストで再びライラックの花陰でヴィーとビリーは出会う……ヴィーのお父さんが倒れ、家が没落して貧乏になる前、ヴィーはライラックのドレスを作って着ているわけですが、これはある意味彼女にとっての、人生の一番幸福な時代の象徴だったのではないでしょうか。

 

 けれどその後、貧乏の暗くつらい、先の見えない人生を経験したヴィー。ハーバートによってドレスや豊かな暮らしぶりといったものは取り戻したとはいえ、彼女が一番に愛していたのはビリーだった……けれどその後、ハーバートのことはハーバートのことで愛するようになるヴィー。そして、夫の死後、今度はもうビリーと結ばれるのになんの障害もなくなり、人生の黄金の季節が再び戻ってくる……それが、出だしの>>「だぁれも見つけちゃだめよ。でも、恋人ならいいわ。恋人なら……」という同じ歌が、最後のほうで繰り返されることによって物語のほうは閉じられます。

 

 あと、ビリーのことを引き取ってくれたヴィーのお父さんが、飛行機の着陸時のショックで頭の血管が切れてしまい、入院生活を余儀なくされるわけですが――この寝たきりのお父さんの快復というのも、エピソードとしては地味(?)ながら、本当に素晴らしいと思いました。漫画の中では邪魔になった登場人物というのは、病気などによって割合あっさり消されてしまうわけですが、ヴィーのお父さんに関しては、少しずつ、本当に少しずつじわじわ快復していく過程というのが素晴らしいと思うんですよね

 

 この時代で脳の血管が切れて手術不能ということは……まあ、普通に考えてもう助からない、あるいは快復することはあるまい――と想像するのが普通と思うわけです。でも、ヴィーのお父さんは少しずつ快復して、最初は首が動くようになり、次には手が……といったようになり、それから筆談によって意思の疎通も出来、言葉が話せるようになっただけでなく、可愛い孫のこともその胸に抱けるようになったのですから!

 

 いえ、このヴィーのお父さんの状態って、相当つらいものだと思います。家族の負担にならないために早く死にたいと思っても、自殺することさえもはや出来ず……どんなにつらかったろうと思いますそして、ビリーは飛行機に強い興味を持ち、空軍に所属するようになるわけですが、このあたりも「おじさんに恩返しを」というのとは少し違うかもしれないにしても――義理の息子としてそうした気持ちもあったのではないかということ、またそうしたシーンがあるわけではないにせよ、そうしたビリーの気持ちがおじさんにも通じていたのではないか……そのように想像されるわけです

 

 他に、『風と共に去りぬ』との共通点云々ということ以上に、時代考証的なこととか、すごく大変だったのでは……と思ったり(^^;)そのあたり、「何気なくサラサラ描いている」というふうに読者に感じさせるというところが、萩尾先生のプロの漫画家としての底力を感じる点でもあります(スゴイ!)。

 

 

・ばらの花びん。

 

 たぶん、このお話は分類としては「喜劇」なのかな……と思います。

 

 ただ、絵の技術的な巧さ、繊細さは『ゴールデンライラック』の7年後の作品ということもあり、上回っているものの――「ストーリーとしては、あまりうまくいってないような?」という、読者的にはそんな印象かもしれません(あくまでも自分比☆)。

 

 でも、萩尾先生の漫画はどれも、標準以上に遥かに面白い、あるいは面白いのいずれかといったところなので、たま~に「この作品はまあまあかなあ」みたいな作品があってもいいんじゃないかな……と思ったりもします(いえ、これだけの作品描くの、ほんと大変と思うんですけど、客観的な感想として^^;)。

 

 なので、自分的に「そんなに面白い」とまでは感じなかった作品について長々描くのもなんですし、端折ってもいいくらいなんですけど……まあ、少しくらいは何か書いてみよう(笑)。

 

 主要登場人物は、マルス(ダンディおじさん)とミシェル(美青年)、ミシェルのお姉さんで、マルスが求婚しているセザンヌ(弟のミシェルとは違って、あまり器量よしとは言えないお姉さん)、未亡人ファデット(美人!)、ファデットを愛する義理の息子(死んだ夫の先妻の子)ポルト……といったところ。

 

 タイトルの「ばらの花びん」は、セザンヌとミシェルのお祖母さんの代から伝わる花びんのことで、その花びんにはミシェルによく似た、ばらの庭でばらの花を手に持つ若者の絵があります(>>『若者はものうげな、やさしい瞳をしています。わたしの弟と同じように』)。

 

 物語はこのモノローグのあと、マルスの>>「恋は螺旋階段に似ている。長く立っているとめまいがする。すぐ二、三歩先のステップはもうかくれて見えない。次になにが訪れるかわからない」……という、印象的な言葉からはじまります。

 

 最初、マルスはミシェルのお姉さんのセザンヌに求婚しており、ミシェルは若くて美人の未亡人、ファデットに恋焦がれ……そこへ、ミシェルの元に>>『ファデットから手を引け、M』という手紙が送られてきます。そこでミシェルは、ファデットが実は未亡人ではなく、まだ夫が生きているのではないかと疑うわけですが――この手紙を出したのが、ファデットの死んだ夫の息子、ポルトだったのでした

 

 繊細なミシェルは、死んだ父に変装したポルトから、「ファデットの夫である自分は生きている。あれには二人も子供があるのに、こんなうぶな若い人を手玉にとって……」といったように言われ、ファデットに対し「どうして騙していたんだ!」となじります。

 

 そして、何がなんだかわからないファデットとミシェルの間で、例のばらの花びんが割れてしまう――というところで、前編のほうは終わります

 

 そして後編。割れたばらの花びんのように傷ついたミシェルの心……失恋のショックで、ミシェルは糸の切れた人形のように、口もきかず物も食べず、ただ黙って泣いているといった状態(やれやれ。女々しいなあ・笑)。

 

 ここで、弟の姿を>>「とても見ていられない」と悲しむセザンヌに対して、マルスは慰めると同時に再び求婚しているわけですが――このあと、マルスはミシェルを慰めるうち、何故か男同士で一夜を過ごしてしまい……けれど、マルスはこのことを一夜の過ちとしてすまそうとします。一方、ミシェルはファデットに続き、マルスにも捨てられたら――と思いつめ、マルスの洗面所で偶然見つけた青酸カリを手にすると……>>「死のう……!」と思うのでした。

 

 一方、ファデットの夫の変装を解いたポルトは、ファデットに「愛している」と言って迫りますが、ファデットは彼の愛を拒みます。けれどこの時、本当に偶然、オランダの骨董屋でポルトが見つけたという花びんを見て、ファデットは驚きます。そして、それが例の割れたばらの花びんとまったく同じものだったので、それでファデットは弁償し、お詫びしようとするのでした。

 

 紅茶に青酸カリを入れ、死のうとしたミシェルですが、その時、ファデットが訪ねてきて、「あの男は死んだ夫に変装した義理の息子です」という真実が明かされ――紅茶を飲んでしまったミシェルは倒れこみます。そして、この紅茶を飲んだのはミシェルひとりだけではなく、その場にいたセザンヌ、マルス、ファデット、ポルトも同様でした。

 

 みな、毒を飲んだと思い込み、「苦しい」、「吐き気がする」、「頭がガンガンする」、「息が詰まる」等々と言い出し……心の奥底にあることをそれぞれが告白しはじめます。マルスはミシェルに対して「愛してる」と告白し、ファデットもまた、愛を拒んだはずのポルトに対して、「本当は愛している」といったように告白し――ところがいつまでたっても誰も死にません。

 

 お話のオチとしては、青酸カリと書かれた瓶の中身は実はハミガキ粉だったという、そのようなオチです。。。(←?)

 

 こうして、ファデットとポルトは結ばれ……婚約していたはずのセザンヌは当然マルスとの婚約を解消した模様。マルスとミシェルはどうなったのかわかりませんが(きっと、くっついたのでしょう・笑)、セザンヌが>>「わたしは……誰とも結婚しません。また花びんを見つめて暮らしますわ」とつぶやいたところで、物語は幕となります

 

 

・マリーン

 

 この『マリーン』というお話も、わたしが萩尾先生の描かれたお話の中で、どこに収録されているかを探して読みたかった漫画のひとつです

 

 何故かというと、原作者の今里孝子さんは、萩尾先生の現在のマネージャーの方で、こちらのほうが本名であり、『一度きりの大泉の話』の中では城章子さんとして知られている方……ということだったからなんですよね

 

 

 >>この後、私は今里孝子原作の『マリーン』も描きました。

 

 今里孝子さんは、実は城章子という名前の漫画家です。城章子がペンネーム。前述した通り、本名が今里孝子です。城さんは、集英社の月刊誌『りぼん』の増刊で執筆していました(のちに小学館に移籍)。

 

『マリーン』ですが、『りぼんデラックス』の編集者にネームを見せたけれど反応がいまいちでお蔵入りになりそうだというので、下書きを読ませてもらいました。そしたらすごくいい感じの恋愛ファンタジーで、お蔵入りなんてもったいない、私、描いてもいいなら描きたいけど?と提案したら「いいよ、じゃあ代わりに描いて」と言われ、喜んで描きました。で、原作名は城章子にする?と聞いたら、今里孝子の本名を使った方がいいと言われ、そうしました。

 

 城さんは何年か漫画家をやった後に引退し、銀行出身のキャリアもあって、私の経理とマネージャーをしてくれています。その後も編集者や友人みんなに「城章子」という名前が浸透していたので、ペンネームがそのまま仕事上の名前になりました。

 

(『一度きりの大泉の話』萩尾望都先生著/河出書房新社より)

 

 

 マリーン、わたしすごく面白く読んだんですけど、編集者の方の反応がいまいち……というのも、なんとなくわかんなくもないよーなという気もしたり(^^;)

 

 お話の主人公はエイブというの名の貧しい少年。お話の冒頭、町の悪ガキどもに、病気の母親の水薬の瓶を割られ、エイブは彼らと喧嘩になります。そこへ、美しい少女が喧嘩を止めに入り、銀の耳飾りを薬の代金とするよう渡してくれます。

 

 気のいい薬屋の主人は、その耳飾りが本物の銀だったため、「薬代はいいよ」と言って受け取りませんでした。それよりも、「お嬢さんに返しな」と。けれど、薬屋を出ると彼女の姿はすでになく、エイブは耳飾りを返し損ねてしまいます。この美しい女性は名前をマリーンと言い、その後何度もエイブの前に現れますが、読者にとって一番不思議なのは何より、マリーンが登場時より一切年を取らないことで……エイブは6歳の時彼女と出会ってのち、その後だんだん成長してゆきますが、マリーンはずっと同じ姿のままです。

 

 エイブは小間使いをしていたお金持ちのお屋敷で、学校での成績の良さを認められ、将来の投資として、屋敷のご主人に上の学校のほうへ進学させてもらえることになるのですが……このお屋敷にディデットという名前のいかにも意地悪そうな同じ年頃の女の子がいます(笑)。

 

 わたし、いかにも優しげなマリーンのことも好きですが、こっちの ディデットもかなり好きです(というか、読者はみんなそうと思う、たぶん)。

 

 ディデットはテニスを習っているのですが、ある時エイブはディデットのコーチからその腕前を見込まれ、彼はめきめきテニスで頭角を現していくことに……そんなエイブの姿を少し遠まきに眺めるマリーン。ある時、ディデットはエイブがマリーンと話している姿を見、ふたりが好きあっているらしいと察します。

 

 >>「いいとこのお嬢さんみたいだったわ。あなたのこと、本気で相手してるのかしら!?あなたのような一文無しを……」

 

 もちろん、ディデットは嫉妬からこんなことを意地悪く言ってるわけですが、彼女は登場時からずっとエイブにキツい物言いしかしないので、これでもしエイブが(ははーん。彼女、きっと俺のことが好きで妬いてるんだな)と気づいたとしたら、間違いなく彼は100%エスパーです(笑)。

 

 >>「あの人はいつもぼくのそばにいるんだ。いつもぼくのことを考えているって。そして、待っているって」

 

 このあと、まるきりエイブに相手にされないディデットは――「キャーッ」と叫び、エイブに乱暴された振りをして、そのことを家の人に伝えます。当然、ディデットの父親は怒り狂いますが、もちろんテニスのコーチのテリーさんにはわかっています。ただのディデットのヒステリーだろうということが……。

 

 エイブはテリーにコーチしてもらい、プロ・テニス界へと乗り込み、ついには全米チャンピオン、元全仏チャンピオンらをネット際で躍らせるまでに成長

 

 海辺で、世界チャンピオンになったその時には……と約束しようとするエイブでしたが、マリーンは何故か涙を流し、その場を去っていってしまいました。そしてこののち、マリーンの正体が判明。

 

 >>「あの子の名は、セオドラ・ビクトーリア・フィールズベリ。フィールズベリ伯のひとり娘で、いわば貴族のお姫さまよ。それに婚約者がいるわ!生まれたときから家どうしで決められた相応の婚約者よ。ビンセント・クラークって。あなたなんかいくら好きでもだめなんだから!」

 

 ディデットにそう言われ、マリーンに事実を確かめるエイブ。こののち、何かに取り憑かれたように、彼はテニスで勝ち進み……19歳で全英チャンピオンにまで登りつめるエイブでしたが、そんな彼の元にマリーンと彼女の婚約者、ビンセント・クラーク・トラウトの結婚披露宴の招待状が届きます

 

 結婚披露宴は、豪華なヨットの中で行われ、アマチュアのシングルスのチャンピオンであるビンセントとエイブは船内にあるコートで試合をすることに……エイブは力の差を見せつけてビンセントに勝ちますが、彼にしてみればマリーンを彼から奪うための勝利でもあったのではないでしょうか

 

 そしてこの後、試合の様子を見ていたマリーンは、銀のイヤリングの片方を甲板に残し、船から身投げして自殺してしまいます。教会で式を挙げ、すでにビンセントと結婚してしまったマリーン。このヨットはこのまま、新婚旅行へと出発するのです簡単にいえば、今夜マリーンはビンセントと結婚初夜を迎えなければならず……けれど、彼女の心はエイブのものでした。そのことに絶望したマリーンは、他の男のものになるよりも、死を選んだ――そういうことなのだと思います

 

 つまり、簡単にいうと、元のマリーンは、このテニスの試合の時にエイブと初めて出会い、恋に落ち……死んでから、エイブのことを知りたくて、小さい頃の彼に会いに行ったということですよね。だから、マリーンはその後もずっと年を取らず、エイブだけが時間通りに成長していったということ。

 

 わたし、『一度きりの大泉の話』で、『マリーン』という作品を知った時から、『マリーン』が収録された文庫本を探して、必ず読みたいと思っていましたもちろん、ただの偶然とは思うのですが、『マリーン』が描かれたのは、1977年で、ウィキを見ると『十年目の鞠絵』のあとであり、この頃、ブラッドベリの短編や『百億の昼と千億の夜』など、萩尾先生は原作付きのものを多く描いておられます。

 

『一度きりの大泉の話』には、>>「レイ・ブラッドベリとジャン・コクトーの仕事が続いた時には、「萩尾望都はもう描くものがなくなったから原作付きを描いているんだ」と、あからさまに言われたことがあります。ああ、心が狭いなあ、と思いました(ため息)。面白い話を読んでほしいだけなのに」といったようにあるわけですが、自分的には、この前年の1976年から竹宮先生の『風と木の詩』がはじまっており、1977年には『地球へ……』など、簡単にいうと竹宮先生の漫画家としての全盛期がはじまっていたのではないかと思われるわけです。

 

 これはわたしの勝手な妄想ですので、おそらく関係ないとは思うものの(とりあえず、『一度きりの大泉の話』を読む限り、そう思われる)、自分的にはこの<風木ショック>によって、萩尾先生はオリジナルのものではなく、原作付きのものを暫く描いておられたのではないだろうか……と、想像しなくもないというか(^^;)

 

 あ、ちなみにわたしが最初に『風と木の詩』を読んだ時、『残酷な神が支配する』によって、萩尾先生は風木のコミックスを『オツベルと象』のオツベルの如く踏み潰したのだろうなあ……と、そのように思ったものでした(くしゃくしゃに潰した☆→ぺしゃんこ)。でもどうもこれは違ったのだろうと思います。というのも、そもそも萩尾先生は天王星と冥王星の間あたりから電波を受信して作品を描くといったタイプの天才型であり、「締切までにネタ降りてこい、ネタ降りてこい!」とこちらから一生懸命電波を発信し、向こうから返ってくるのを待つ――といったタイプの創作家ではないのだろうと思う、というのがひとつ目。

 

 そしてふたつ目が、『海のアリア』を読んでいて、これもまあわたしの勝手な妄想なのですが、「嗚呼、とっくにこの頃決着のほうはついていたのだ」と思った、というのがあります。さらにはその上で、『残酷な神が支配する』という作品が出てきたというのは――本当に凄いことだなあと思うんですよね

 

 竹宮先生は、萩尾先生の『海のアリア』の頃すでに、漫画家としてはキャリア後半というか、作品について全体をあとから把握したとすれば、もう終わりに向かってる感じだったのではないかと思うんですよね。でも、萩尾先生はこのあとに、漫画家キャリアの中で一番長い傑作長編作品が出てくるというあたり……やっぱり常人離れしてると思うわけです(^^;)

 

 ただ、これもわたしの妄想なのですが、わたしが<風木ショック>と呼んでいるのは――竹宮先生と増山さんの、創作的結びつきのことだったりします。たぶん、同人などでも経験ある方はわかると思うのですが、ある人が原作を書いて、もう一方が漫画を描くとか、あるいはふたりの共同作業で漫画についてアイディアをだし、ふたりで物語を作って絵のほうも描く……とかだと、この時に生じる創作的エネルギーって、ほとんど恋愛にも似て、到底まわりの人がそこに入りこめないくらいの力があると思うんですよね

 

 そして、萩尾先生が心を痛めたのは、そのふたりの間に入れてもらえなかったということではなく、そこはそれで構わないんだけれど、「たまにOSマンションに遊びに行く」ということさえ遠慮して欲しい……となったら、「そうと気づかなかっただけで、自分はそんなに嫌われていたのだろうか」、「心の内では疎まれていたのだろうか」など、疑いは無限に広がるような気がします。竹宮先生が自分に嫉妬して苦しんでいた――などとは、露とも思い浮かばない萩尾先生にしてみたら。

 

『風と木の詩』の竹宮先生(と増山さん)の成功というのは、自分が外されたあと、増山さん原案(と萩尾先生は思っていた)の作品によってふたりの関係が創作的な意味で頂点を迎えてうまくいっていたように思えることであり(実際には『風木』の10巻解説にあるように、大変な内情もあったというのが事実でも)、そこから受ける磁場の影響力が抜けるまでに、結構時間がかかった――という、自分的にはそうしたことなのではないかと思ったわけです

 

 一方、『少年の名はジルベール』発表後の竹宮先生のインタビューを読むと、萩尾先生と袂を分かってからも、竹宮先生は嫉妬や才能の違いなどに苦しまれ……その影響力が抜けるまでに、少し時間がかかったというか、竹宮先生の場合はそれこそ、『風木』以降はもうそうしたコンプレックスには悩まされなくなっていったのではないかと思うんですよね

 

 だから、一方が苦しんでいる時期、一方は人生の高みにあり、一方が太陽を拝む時期、もう一方は月のない影のような夜を経験する時を味わい――ふたり一緒に輝くとか、三人同時に輝くとか、そうなれなかったのが、プロという道の厳しさ、難しさだったのだろうか……なんて思ったりもします(あ、もちろんその後、そんなこともまったく関係のない時期へと、萩尾先生と竹宮先生は入っていかれたように思うのですが)。

 

 まあ、いつも通り余計な文章が長くなりました(汗)。ちょっと忙しくて感想とか書けなかったら、なんかバランスの悪い記事になってしまったような気がします(^^;)

 

 さて、次はどの萩尾先生の本を読もうかな~♪

 

 それではまた~!!

 

 

 

 

 


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 海のアリア。-【2】- | トップ | ユトレイシア・ユニバーシテ... »
最新の画像もっと見る

日記」カテゴリの最新記事