【無原罪の御宿り】バルトロメ・エステバン・ムリーリョ
ええと、今回はなんのことを書きませう、的なww
↓に「13日の金曜日」のことがちょろっと出てくるので、そのことでも良かったんですけど……時々、キリスト教のことに言及がありつつ、そんなに説明っぽいことを書いたりしてこなかったというか、なんていうか。。。
前回も、ダンテの『神曲』のことについてとか、書いてもよかった気もするんですけど、今回はなんか少しわかりにくいかな、というのがあって(^^;)
ええと、カトリックにおける「マリア崇敬」と「マリア崇拝」の違いとか、前回のダンテの『神曲』に関していえば、「煉獄」という観念というかそうした教義はカトリックのものであって、同じキリスト教でもプロテスタントにはないとか、そういうことなんですけど
そのですね、わたしもカトリックについてはそんなに詳しくないっていうのがあって、たぶん、プロテスタントでは「マリア崇拝」は異端とされている……なんて言っても、一般的に日本人には「何いってんスか、あーた?」って感じだと思うんですよね。
わたしも自分がクリスチャンになる前までは、聖母マリアさまが幼な子イエスを抱く聖母像とか、そういうものがとても大好きでしたでもカトリックの教皇にピオ9世という方がいらっしゃいまして、この方が突然「イエス・キリストはその聖い生涯において一度も罪を犯されなかった。ということは、その方を生んだ聖母マリアも無原罪なはずだ」と思いつき、そのような教義を追加したわけですよね。
これに対するプロテスタントの立場というのは、マリアさまというのは、普通の一般にどこにでもいる女性だったというか、もちろん神さまがお選びになられたのですから、清い心を持った方だったのでしょうけれども、イエスさまと同じような<無原罪>ということではない……というものです。
ちょっとなんかややこしいですが、とにかくカトリックではピオ9世がそのように聖母マリア様のことを定めて以降、「イエスさまに直接お祈りするのは恐れ多いので、何か神さまにお願いする時にはマリアさまにとりなしをお願いする」という祈りの形態が定式化され、これに対するプロテスタントの立場というのは、マリアさまを通すことなく大胆にイエスさまに直接お祈りする、お願いするということなんですよね(でも、わたしの知識もあやしいものなので、間違ってたらすみませんww)
このことは、カトリックでも今はそのような方向に動いているらしいのですが、でも「マリアさまにとりなしをお願いする」という祈り方というのは、今はもうあまりに深く浸透してしまっていますし、今から正式に何かヴァチカンから公布して「マリアさまを通してではなく、イエスさまに直接祈るべきだ」といったように一本化は出来ないと思うんですよ(^^;)
何より、マリアさまのことを奉ったカトリックの教会も多いでしょうし、カトリックにおいてはマリアさまに纏わる奇跡というのが多いと思うので……歴史的にすでにこんなにも深く根付いているものを「教義的に厳密には間違いだった」とすることは出来ませんし、もしそんなことをしたら特に南米あたりの信者の方などの物凄い反発を受ける、というのがあると思います。
ええと、わたしがプロテスタントだからカトリックの教義がおかしく思えるとか、これはそういう話じゃないんですよね(^^;)
ただ、カトリックはプロテスタントよりも歴史が長くて、教皇無誤謬性という、教皇の神の代理人としての権威があまりに大きく、教皇は神の代理人なんだから、間違うことなんかないんだ……ということで、一度定めてしまって、「後世の人があとから教義的にちょっとおかしいな」と思ったとしても、取り消すことが出来ない事柄というのがたくさんあるということなんですよね。
もちろん、わたしこんなふうに書くからってカトリックよりプロテスタントのほうがだから上なんだとか、そういう考えではないんです。カトリックの方に仮にもし「プロテスタントだってこういうところがおかしいじゃないか」と言われたら、それは普通に話しあえばいいことであって、自分のほうが教義的にこう正しいとか、向こうはここが間違ってるだの、そういうことで言い争っても仕方ないと思うというか(^^;)
とにかく、わたし自身はカトリックの教会に対する憧れというのが昔からあって、それにカトリックのほうがプロテスタントより先にあって歴史も長いわけですから、気持ちとしては「尊敬すべきお兄さん、お姉さん」といったような思いしかないといっていいと思います。
ええと、なんにしても、次。↓に出てくる「不正な管理人が抜け目なくやった」という話については、長くなるので次回に回したいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
聖女マリー・ルイスの肖像-【34】-
ウェザビー家の事件があったせいもあり、イーサンは子供の送り迎えをするのと同時、六月にある試験に向け、ランディのことを容赦なく勉強漬けにしてしごいた。マリーは一度、ランディがラムネの白い錠剤を飲み、死んだ振りをしているのを発見して――とても不安になったものである。ランディにとってイーサンに試験問題を詰め込まれるということは、実はそのくらいつらいことなのではないかと、そんな気がして。
「ランディ、大丈夫なの?もしつらかったらおねえさん、お兄さんに少し話してみるわ」
以前のように、兄としての強権を揮いつつ、どこか傲慢な教え方をする――といったのよりはかなりマシになっていたとはいえ、それでもなかなか弟が同じ間違いから脱却できなかったりすると、イーサンはやはり時々前の状態に逆戻りしたものである。
「いいんだよ。だって、試験まであとほんの何日かでしょ?それに、俺がこういうふうに白い錠剤型のラムネを飲んで死んだ振りをするのって、今にはじまったことじゃないんだもん。こう言うとね、おねえさんは優しいから、何かつらいことがあったんじゃないかって思うかもしれないけど……なんかね、俺の場合あんまし関係ないんだよ。毎日学校にいってて友達もいるし、それなりに毎日楽しかったとしても、たまーに今みたいに死んだふりをしたくなるっていうか。前にこの話をケビンやブラッドやノアにしたら、やっぱりあいつらも同じだって。だからね、四人で白いラムネを飲んで、『く、苦しい……』とか『し、死ぬ……』とか言いながらバッタリ倒れて、そのあとみんなでギャハハって笑ったりしたんだ。なんかそんな程度のことだから、何も心配いらないよ」
そう言ってランディは、今度はグレープ味の少し大きめのラムネを口に放りこみ、にっこり笑った。マリーは「そうなの。だったらいいんだけど……」とその時は納得したふりをしたが、やはり夜にイーサンとふたりきりになると、彼にこのことを相談した。
「あの、試験までもう何日かの辛抱っていうのはわかるんです。だけど、白いラムネを飲んで、死んだ振りをするとスッキリするだなんて聞くと、なんだか心配で……」
この時イーサンは、(やれやれ。ガキの勉強を見るのも楽じゃないな)なんて思っていたのだが、マリーのこの話を聞いて思わず笑ってしまった。
「い、いや。悪い悪い。俺だって何も悪気があったってわけじゃないんだ。それに、あんたの今の話は他の親なら児童精神科医の元に明日にでも連れていこう……みたいになる話だもんな。それに、試験まで何日もないもんで、俺があいつに厳しかったってのも事実だ。だがな、マリー。そんなのはただの一過性のものなんだよ。何故そう言い切れるかというとな、俺もあいつとまったく同じことをやったことがあるからだ」
「えっと、じゃあイーサンも大体今のランディと同じくらいの頃、ラムネを飲んで死んだ振りをしたことがあるっていうことですか?」
イーサンはコーヒーを飲みながら首肯し、もう一度笑った。
「だが、俺の場合もあいつと同じだ。おそらく精神科医に診てもらったとしたら、父親がいないこととか、母親の死とか、何かそんなことに関連づけて何かもっともらしい結論を導きだされていたろうよ。けど、俺の場合もあんまりそういうことは関係なかったな。たとえば、そんなふうに何か薬を飲んで自分もお母さんと同じ天国へ行きたいと思ってそんなことをしたっていうんなら確かに問題だ。だが、俺の場合は違ったからな。ただ、白い錠剤を飲み、ドクニンジンを飲んで死んだとかいうソクラテスの真似をしてたってだけだ」
「でも、ドクニンジンって死ぬまでに時間がかかってとても苦しい思いをするとかって……」
「そうらしいな。あんた、知ってるか?ソクラテスとイエス・キリストってのは哲学の世界じゃよく似てるって言われるんだぜ。ふたりとも博識で、自分が悪いということで死んだのではないっていうところとかな。ところであんた、カトリックか?」
イーサンは以前、サンダーの葬式の時に彼女が話していたことを思いだし、一応念のためにそう聞いておいた。四日後、ランディの試験の結果がどうあれ、その二週間後には新しく建設されたばかりのセブンゲート・クリスチャン・スクールに面接へ行かねばならない。仮に試験の結果が思わしくないものであったとしても――面接の場でいかにこの義理の母親が信仰深いかをアピールできれば、ランディの合格も夢ではなかった。
「元はそうです。もっとも、今はプロテスタントの教会へ通ってますけれど……だからといって、カトリックからプロテスタントになったわけではありません。ただ、マグダがプロテスタントで、それでミミちゃんを今の教会へ連れていっていたから……」
「ああ、俺はそういう細かいことはどうでもいいんだ」
うるさい小蝿でも払うように、イーサンは手を振って続けた。
「セブンゲート・クリスチャン・スクールってのは、あんたも知ってのとおり、プロテスタントの私立校だ。だから、もしかしたらあんたが実はカトリックってことを言ったらランディが合格するのに不利になるかもしれないと思ってな。べつに、元はカトリックでも、今もカトリックってのでも、俺は気にしない。ただ、今現在はプロテスタントの教会へ通ってるんだから、そのあたりはべつにはっきりさせなくてもいいんじゃないかって話だ」
「そう、ですよね……」
その点に関しては、マリーにしても神に対して良心が痛むといったことはなかった。何故ならどちらの神も結局のところ同じイエス・キリストであるからだ。それよりも、マリー自身にとって大切なのはまったく別のことだったといえる。
「あの、ランディがグレイヴス牧師に、今回の受験のこと相談したらしいんです。そんな理由で洗礼を受けたりするのは不謹慎だけど、自分では半分以上信じてる気もするし、どうしたらいいでしょうかって。そしたらグレイヴス牧師、『じゃあ試験の前に洗礼式をしよう』っておっしゃったんです。信仰は個人の問題ですし、グレイヴス牧師自身、幼児洗礼を認めておられないそうです。本人にしっかりとした意志と信仰のあることが大切なのは間違いないことですけど、グレイヴス牧師から見てランディはきちんと信仰を持っているように見えるって……」
「へえ。牧師先生にしちゃ、随分いいかげんなもんだな」
もちろん、彼にしてもそのほうが助かるのだが、あえてそんな臍曲がりな言い方をした。
「その、あとからグレイヴス牧師にお聞きしたら……セブンゲート・クリスチャン・スクールに友人や知り合いの方がいらっしゃるんですって。だから、今は仮に多少信仰面について曖昧なところが残っていたとしても、あそこでは朝と夕に必ず礼拝があるし、日曜に礼拝を守らなかったりしたら白眼視される環境だから、きっとランディはその過程で必ずいいクリスチャンになれるだろうって、そうおっしゃってました。わたし、そのことがとっても嬉しくって……」
「…………………」
実をいうと、先週の日曜、このランディの洗礼式にイーサンは出席していた。ちなみに、その日は家族総出で教会へ出かけていたのだが、イーサン自身は今も無神論であり、洗礼自体は受けたことがない。それはココも同様だったが、彼女は宗教的な様式美には心惹かれるところがあるらしく、「もしいつか自分が洗礼式を受けるとしたら、ランディみたいにショぼい洗礼式じゃなく、もっと壮麗なものにするわ」とのことだった。
「ま、なんにしてもだ。これであとはランディがなるべく試験でいい点数さえ取ってくれれば……総合点でなんとかなるんじゃないかと俺は見ている。他の私立校よりも試験の日程が早いからな、滑り止めとして受ける生徒の数自体は物凄く多いってことになるだろうが、結局そいつらってのは、本命のほうの学校に受かれば入学については辞退するはずだからな。そう考えた場合、補欠合格でも出来れば、十分万々歳といったところだ」
本当はイーサンとしてはこのあと、マリーと子供らのことなどではなく、もっと個人的なことを話したいところではあった。けれど、自分も疲れており、神や信仰がどうだのいう話のことでは彼女と合わないとわかっているため――この日もやはり、疲れた溜息を着いたあと、自分の部屋のほうへ引っ込むということにしていた。
(これで俺たちが本当の夫婦だとでもいうんなら、今ごろ向こうでそれと察してベッドに誘ってるよな)
イーサンは寝仕舞をすると、課題となっている哲学の本を読みながら――ベッドの背もたれにもたれてその日の晩もそう考えた。
(『子供の送り迎えだけじゃなく、勉強の面倒までみて疲れたでしょ?わたしが慰めてあげる』……ってな具合でな。問題は何故現実にはそうなってないのかってことだが)
やれやれと思い、イーサンが目頭のあたりを指でもみ、ナイトスタンドの電気を消そうとした時のことだった。コンコン、とドアがノックされ、彼は期待の高まりとともに心臓の鼓動がドキドキしはじめた。
だが、ドアを開けたのは残念ながらココだったのである。
「……イーサン。わたし、今日だけここで寝ちゃダメ?」
「どうした?ひとりが怖いんなら、マリーと一緒に寝ればいいだろうが」
しょうがないな、という顔をしつつ、イーサンはそう答える。
「だって、隣にミミがいるじゃない。あたしがおねえさんと一緒に寝てるところを見たりしたら、あの子、きっと色々うるさく言うわ」
「べつにいいだろう、そのくらい。だが、おまえがそうしたいんなら、今日はここで寝ればいい。だけど、明日以降はダメだぞ」
イーサンはベッドの上の布団をめくると、少し左にずれて右側にスペースを開けてやった。クイーンサイズのベッドなので、子供とふたりで寝る分には、そう窮屈ということもない。
「よかったあ。今日ね、モニカんちで『13日の金曜日』を見ることになったの。べつにわたし、全然見たくなかったんだけど、なんかカレンが『あ、ココ怖いんだー』とかっていうから、なんか売り言葉に買い言葉っていうの?なんかそんな感じで結局見ることになっちゃって……ジェイソンが架空の人物だっていうのはわかってるのよ。でも、ああいう殺人鬼みたいのがこの広い屋敷のどっかにいたらとか、色々想像してたらひとりで寝るのが怖くなってきゃって……」
「なるほどな。それで、怖いには怖いにしても、面白かったのか?」
このあと、ココはイーサンに映画の内容について細かく説明しはじめ、そうこうしているうちに彼女はぐっすり眠ってしまった。実をいうとイーサンは『13日の金曜日』については全シリーズ見ていたが、特にココの言うことに口を差し挟むでもなく、一生懸命笑いを堪えて妹の話を聞いていた。そしてイーサン自身もまた、小さい頃に友人宅で見た、というよりも見させられた『エルム街の悪夢』のことが思いだされ……(そういや俺も、フレディが自分の夢の中に現れたらどうしようって映画見たその日は怯えていたっけな)と、懐かしい記憶を辿っているうちに――イーサンもまた、ココに続いて深い眠りに落ちていったのだった。
* * * * *
ランディが二日後、セブンゲート・クリスチャン・スクールの試験を受けにいくという日のこと――イーサンは最後の総仕上げとして、自ら作った模擬問題を彼にやらせていた。そしてこの時もランディは、問題を解く合間合間にお気に入りのラムネをなめたり齧ったりしており、そうしていると僅かばかり気分が落ち着くのだった。
ところが、ランディが算数の計算でまたしてもケアレスミスしている箇所を見つけ、イーサンが怒りだしそうになった時のことだった。
「いいか、こういうもったいない点数の落とし方は絶対するな。それじゃなくてもおまえの場合は、出題パターンを覚えて点数を稼ぐっていうやり方なんだから、覚えたパターン以外の応用問題にはほとんど歯が立たないんだ。俺もおまえくらいの年の子にこういういかにもなお受験的覚え方はさせたくないが仕方がない。とにかく、こういうケアレスミスをなくすためにも、時間が余ったらもう一回必ず計算はし直せ。わかったな!?」
「う、うん……」
またしても兄が怒りだすであろう気配を感じたその瞬間――イーサンがプラスチック定規でピシャリと背中を叩くに合わせ、ランディはごきゅりと喉を鳴らした。なんだか、喉が変だった。というより、それが何故なのか、ランディにも原因自体はよくわかっている。ラムネが喉に詰まったのだ。
最初、ランディはどうということなく、次の問題を解こうとした。ところが、喉のあたりが急におかしくなり、座っていた椅子から転げ落ちてしまう。
「う……ううっ。ご、ごほっ。ごほ、グハッ、げほっ、カハッ……!!」
ふざけているわけではなく、ランディの様子が明らかにおかしいと気づき、マリーは床に膝をついているランディの背中をさすった。そんなはずはないのだが、このことの責任のすべてが自分にあるような気がして、イーサンにしても不安になる。
「どうした、ランディ?何か喉に詰まったのか!?」
そう言ってから、ダイニングテーブルの上のグレープ味のラムネにイーサンは気づいた。ランディがそれを飲んで死んだ振りをしていたという白い錠剤とは別の、それより一回りくらい大きいラムネだった。プラスチックケースから出し、イーサンも自分で齧ってみて――これを子供が喉に詰まらせればどうなるかがよくわかる。
「マリー、救急車呼ぶぞっ!!」
「ま、待って……に、兄ちゃん……」
大量によだれを垂らして、苦しみもがいたあと、口許をぬぐってランディは言った。額からは脂汗が流れている。
「だ、大分よくなったよ。こんなことで救急車なんか呼んだりしたら恥かしいや。たぶん、もう少しすれば、なんとか……ぐっ、ごほっ、ぐほっ……がはっ」
「いや、やっぱり駄目だ。救急車が恥かしいんなら、救急病院へ連れていく。マリー、俺は車出してくるから、新聞で今日の救急病院がどこか、調べておいてくれ」
「は、はいっ……!!」
マリーは水を入れたコップを持ってくると、ランディに手渡した。水を大量に飲めばこのまま飲みこめそうな気もしたが、いくら水を飲んでも喉の異物感だけはどうしても去っていかない。
「イーサン、今日はユトレイシア第一病院が当番病院だそうですっ」
「そうか、わかった。ほら、ランディ、行くぞっ!!」
イーサンに連れられる形で、ランディは急いでエクスワイアの助手席に座った。そしてこの時、マリーにもたされたハンカチで口許を押さえ、ランディが咳きついた時のことだった。そこには本当に微かに、血が少しだけついている。
「に、兄ちゃん。俺、もしかして死ぬの……!?」
「アホ!ラムネが喉に詰まったくらいで死ぬわけがあるか。何か食いもんが喉に詰まって死ぬって時は、喉に詰まったもんが気道を塞いで窒息死するってことだろう。なんにしても俺は段階的な窒息死なんてのは聞いたことがないな。だから、おそらくは大丈夫だ」
もちろん、イーサンにも確信はない。だから彼はユトレイシア第一病院まで急いで飛ばしたのだが――白塗りの中型規模の病院内へ足を踏み入れた瞬間、彼はうんざりした。そこの待合室には種々雑多な症状を抱えた人々が鮨詰めになっており、イーサンとランディはどこかに席が空くまで、廊下の外れに突っ立っていなくてはならなかったからだ。
「おい、ランディ。大丈夫か!?」
「う、うん。一分おきぐらいになんか、うえってなるんだけど、それ以外は特になんともないよ。それより、これ一体何時間待ち?こんなの待ってたら、喉のラムネのことじゃなくて、なんか他の病気うつそれて死にそうだよ」
「そうだな……」
イーサンは待合室にいる五十人ばかりもの病人の一団を見回して、溜息を着いた。救急病院へ来るだけあって、みな事情が切迫しているのだろう。多くの人々が下を向き、あるいはお腹や頭のあたりを抱えるような仕種で、ただ黙って座ったままでいる。
(確かにランディの言うとおりだ。そういやサイモンの奴が言ってたことがあったっけ……総合病院の眼科にいっただけなのに、何故か質の悪いインフルエンザをうつされてひでえ目にあったみたいなこと。ランディはもう二日後には試験だからな。なるべくあの病人どもからは離しておくのが理想だが……)
とりあえずイーサンは、病院の廊下のところにあった消毒液をプッシュすると、それでランディに手を消毒させた。また、自分も同じようにしてから、受付の忙しそうな女性に声をかけることにする。
「こっちはもう三時間も待たされてるんですよっ。可哀想に、うちの娘はお腹が痛いって言って、床に這いつくばってるんですからっ。もちろん、順番があるっていうのはわかってますよ。けどね……」
――この問題はすぐに解決した。何故といって、「ルーシー・サーズガードさん」と、ちょうど彼女の娘の名前が呼ばれたところだったからだ。ノーメイクの上、髪の毛をくしゃくしゃにした母親は、娘の体を抱え起こすようにして、第三診察室と書かれた部屋の中へと消えていく。
「大変申し訳ないんですが、マスクなんてないでしょうか?その分のお金はもちろん支払いますから」
「え、ええっ。マスクでございますねっ!!」
それまで、ムスッとした顔でパソコンのキィボードを打っていた受付の女性は、実に快くイーサンの求めに応じてくれた。口許のすべてをぴったり覆うといったタイプのマスクではなく、簡易の紙マスクではあったが、それでもないよりはずっといいと思い、イーサンはそれを二枚もらって礼を言った。
(うわー、兄ちゃんはやっぱりすげえや。口さえ開かなければなあ、イーサン兄ちゃんは女の人にとってシンソウの王子とかいうやつなんだろうな。あの女の人なんか、耳まで真っ赤になってら)
「ほら、大事な試験前だからな。患者からインフルエンザでもうつされでもしたら大変だ。せめてマスクだけでもしとけ」
「う、うん……」
兄の言うとおりマスクをしながらも――ランディはこの時むしろ、誰かから風邪でもうつされたい気分だった。そうすればセブンゲート・クリスチャン・スクール行きはお流れとなり、普通の公立学校へ家から通うことが出来る。もちろん、こんなことを自分が考えていると知れば、兄が「今までしてきた自分の努力を惜しいとは思わないのか!?」とでも怒りだすことだろう。けれど、病気で仕方なかったとなれば……。
「おまえ、なんか時々白いラムネを飲みながら死んだ振りをしてるんだってな」
車椅子や移動用の点滴棒などの並ぶ一角で、イーサンは弟にそう聞いていた。先ほどルーシー・サースガードという女の子が三時間待ちしてようやく呼ばれたところを見たばかりである。ということは、ここから自分たちも三時間くらい待たされることになるのかもしれない。そう思い、イーサンはついでだからと思い、弟に本音を吐き出させようとした。
「もしかして、おねえさんに聞いたの?でもそれ、兄ちゃんに毎日勉強を詰め込まれることとはあんまり関係ないよ。昔から、ずっとたまーにそうしてたし、特に深い意味なんかないんだ。第一、小学校の卒業式も終わったばっかでさ、この私立校の受験に失敗してもどうでも、そのあとは九月までなが~い夏休みだもん。俺が何か自分を不幸に哀れむ理由なんて、何ひとつとしてないよ」
「そうか。だったらいいんだがな……」
イーサン自身、子供の頃にやはりランディと似たようなことをしたことがあったので――そしてその時自分も、特に世を儚んでいるというわけでもないのに、死んだ振りをしていたと思い、それ以上追求しようとは思わなかった。けれど、本人がそうと自覚していないというだけで、受験勉強のストレスというのは間違いなくあるだろうと兄として思ってはいたのである。
「それで、おまえはやっぱりセブンゲート・クリスチャン・スクールへ行ったりするより、公立校のほうへ行きたいといったわけなのか?」
「うん、まあね。っていうか、それももう大分関係なくなった気もする。ほら、ネイサンなんかは特別勉強が出来るからクラスのみんなも別格みたいな感じで扱うじゃん。でも俺は違うからね。ケビンもブラッドもノアも、まったく呑気なもんだよ。で、三人は俺もずっと自分たちの仲間だみたいに思ってたから……俺が兄貴に勉強させられるから遊べないとかっていうとさ、なんかちょっと態度が冷たくなって。俺、『ああ、そっか。今自分が友達だと思ってる子も、一度離れちゃうとそんなものなんだな』って初めて思った。もちろん、ネイサンは違う意見だけどね。セント・オーディアに合格できたら、そこには自分と友人になるのを運命づけられたような素晴らしい友達ができるだろうとか、そういう考えみたい。あ、そういえばネイサンもセブンゲート・クリスチャン・スクールを滑り止めに受験するって言ってたっけ。俺、その部分だけちょっとほっとしてる。試験のほうが、午前から午後にかけてあるから――お昼休みとかさ、一緒にお弁当食べたりできるでしょ」
「そうか。ケビンもブラッドもノアも、三人ともとてもいい子だが……小学校時代の友達っていうのは、一度離れたらそれまでというところは、もしかしたらあるかもしれないな」
この時イーサンは、自分がロイヤルウッド校に受かった頃の記憶を頭の中に甦らせていた。それでももし、実父のケネス・マクフィールドが息子として認知してくれなかったとしたら……おそらく自分もあの下町で今ごろ高卒という学歴でバーテンダーか何かをしていたかもしれない。
つまり、イーサンの場合は下町の小学校から名門私立校へ進学することになって――そこで急激に環境が変わったのだ。ロイヤルウッド校に通っているのは、金持ちの両親を持つお坊ちゃまばかりで、喧嘩の仕方も知らないような子ばかりが多かった。だが、続く六年間、またそのあとユトレイシア大学へ進学してからも、イーサンはとてもいい学生時代を過ごしたし、むしろ公立校へ行っていたらどうなっていたかと、今も少し恐ろしいくらいである。
「だが、子供時代ってのはそんなもんだ。これはな、おまえやあの子たちの友情が「そんなもの」だっていうのとは違う。ケビンもブラッドもノアもみんな……夏休みなんかにランディやネイサンが帰ってきてると知ったら喜んで遊びに来るだろう。そのほうがな、もしかしたら友情が長く続くという場合もある。おまえはクラスが離れてもケビンやブラッドと同じ学校がいいと思ってるかもしれない。だがな、違うクラスでおまえがデブだってことでいじめられたりしてても――もうネイサンがいるわけじゃないからな。ブラッドやノアが怒り狂っておまえのことを守ってくれるとは限らないんだぞ」
この言葉をランディがどのような響きを持って受け止めたかはわからない。だが、イーサンが暫く黙ったままでいると、ランディは突然声もなく泣きだしていた。
座席のひとつが空いたのを見て、イーサンはそちらに弟のことを連れていって座らせた。他の長椅子タイプの座席はすべて埋まっているため、イーサンは立ったままでいたが、とりあえず自販機のある場所を見つけると、そこからジュースを二本買った。一本はメロウイエロー、もうひとつは自分用の缶コーヒーだった。
「ほら、洟をかんだらこれでも飲め」
イーサンがそう言ってランディの好きなメロウイエローを渡していると、名前を呼ばれた小さな子供の母親が、自分の座っていたパイプ椅子を彼に勧めてくれる。そんなわけで、淡いグリーンのソファの端っこに座る弟の横に、イーサンはパイプ椅子を置いていた。
「兄ちゃんはさ、イケメンでいいよね」
洟をかみ、目の涙も拭うと、ランディはやぶからぼうにそんなことを言った。
「なんで俺、兄ちゃんの格好いい遺伝子を受け継がなかったんだろ。あの受付の女の人もさ、兄ちゃんが話しかけたってだけであんなに真っ赤になったり、さっき椅子を譲ってくれたお母さんもさ、他にも立ってる人なんかいっぱいいるのに、わざわざ兄ちゃんに椅子なんか譲ったりして……」
「それはおまえ、ただの善意だろう。俺だって、嫌な目にならこれまでの人生で色々合ったことがある。たとえば、アメフト部で先輩に特に目をつけられてしごかれたりとか、そんなことだがな。だがまあ、人は見た目に騙されるってのは事実だ。俺が優男っぽそうに見えてそこそこ骨があるってことがわかると、向こうでも今度は逆に可愛がってくれるようになったりな……なんにせよ、ロイヤルウッド校はひとつのクラスが三十名で構成されていたが、三十人もの思春期のガキがあんな広いとはいえない教室に押し込められるんだ。人間関係的に色んなことが起きるのは、まあどこも一緒といったところか。俺がおまえに言ってるのは、セブンゲート・クリスチャン・スクールとか、あるいはセント・オーディアでもどこでもいいがな、ああいうところには喧嘩の仕方も知らないような道徳観の高い奴らが集まってくる可能性が高いってことなんだ。もしおまえのことをデブと呼んだりしたら、その日の放課後、生徒会の裁判にかけられるといったような、そんな連中がロイヤルウッドあたりにはわんさといた」
「えっ!?そんなことすんの?」
洟をかんだティッシュをゴミ箱に捨て、メロウイエローをごくごく飲みながらランディは驚く。
「ああ。で、当該生徒は呼びだされて、聖書の上に手を置いて誓わされたあと――大体のところ悪かったほうが謝罪するよう求められ、最後は嫌々ながらでも握手させられるといった具合だな。そんな面倒になりたくないから、みんな大して問題なんて起こさない。なんでかっていうとな、明らかないじめに当たるような行為をして、証人らによってそれが立証されたとしたら……ロビーのあたりにでかでかとそのことが張り出されるし、その時の裁判記録なんてのが生徒会のほうにも残る。ついでに、大学へ進学する時、そのことがまったく影響しないとも言いかねないわけだ。もっとも、そんな中でもやっぱり喧嘩とかいじめとか、そんな小競り合いも多少は起こる。それでもそれは、便所に呼びだして煙草で制服に穴を開けるだの、そういう陰湿な類のものじゃないのさ」
「へえ……」
ランディは喉のあたりをしきりと触りながら、メロウイエローを飲んだ。ジュースを一口飲むごとにはっきり異物感はあるものの、それでも先ほどよりは少し楽になったようだと感じていた。
「ま、セブンゲート・クリスチャン・スクールではどうかは知らんぞ。だが、両親が敬虔なクリスチャンであった場合、仮に多少成績が悪くても入れてくれるだなんて――もしかしたら、開校したばかりの今だけかもしれん。何しろ、どんなに成績や試験の結果だけ良くても、無神論の両親を持つ子よりはそうした子のほうを優先的に取るだなんて言うんだからな」
「そっか。でもじゃあ、ネイサンどうするのかな。お母さんはキリスト教って言っても、正統なプロテスタントの教団っていうのとはちょっと違う宗派に属してるんだって。で、お父さんはイーサン兄ちゃんと同じく無神論なんだよ」
この時、泣いてすっきりしたせいかどうか、ランディの顔色が突然良くなった気がして、弟に「ちょっと喉を開けてみろ」とイーサンは言った。そして喉の奥のほうを見てみるが、肉眼で見る限り、そう異常もないようではある。けれど、イーサンは虫歯があるのを発見すると、夏休み中にランディを歯医者に通わせようと決意する。
「なんかさっき、ハンカチに血がついたとか言ったよな、おまえ」
「う、うん。べつにそう大して出血したってこともなく、ちびっとね。ほんとにちびっと」
このあと、イーサンはランディにハンカチを見せてもらうと、弟の頭をはたいた。
「なんだ、これっぽっち!この程度の出血で死ぬなんてこと、あるわけないだろうが」
「だからさあ、あの時はちょっとビビッたんだってば。こんなふうに喉になんか詰まったことなんて、俺の人生史上これがはじめてなんだもん」
イーサンは壁の時計の針が九時十分前を指しているのを見て、この時心底うんざりした。とりあえず弟は元気そうだし、もう少し様子を見てから救急病院へは連れてくるべきだったのだ。
とはいえ、それから三時間もたたずして、十時四十分頃に名前を呼ばれると、イーサンは弟と一緒に第一診察室と書かれた部屋へ入っていった。医師は五十台初めくらいのベテランといった雰囲気の医師で、細面の顔に眼鏡をかけている。
ランディのかわりにイーサンが症状と何故そうなったのかを説明すると、医師とその後ろにいた看護師とは微かに笑った。何人か重い症状の患者が続いたため、男の子が丸々として健康そうなのを見て、彼らは思わず微笑を洩らしたというわけである。
「それで、今はどう?喉がやっぱりおかしいのかな?」
ランディがあーんと大口をあけると、舌圧子で舌を押さえ、ライトで奥のほうを見ながら医師がそう聞いた。膿盆の上に舌圧子が渇いた音をして置かれる。
「あー、そのですね……非常に言いにくいのですが……」
数秒ランディが言いよどんでいると、「先生方も忙しいんだぞ。早くはっきり言え」と、イーサンが弟の背中をバシッと叩いてよこす。
「あ~、あのう、そのう……最初はほんと、苦しかったんです。でも、待合室で待ってる間に、ジュースを飲んだりとかして、そしたらなんだかだんだんに喉がすっきりと……」
「なんだって!?」
もちろんこう言ったのはイーサンである。
「そういやおまえ、ほんのちょびっとではあったが、血がハンカチについたんだろ」と独り言のように言ってから、イーサンは今度は先生に向けて丁寧な口調になる。「喉かどこか、ほんのちょっとだけ傷ついてたりとか、そういうことがないもんでしょうか」
医師のほうでは、「患者がこれだけ詰まってるんだから、なんともないんならとっとと帰ってくれ」と言うでもなく、実に寛大だった。そこで、滅菌包装のフィルムを剥がすと、新しい舌圧子でまたランディの喉の奥のほうを覗く。
「ま、見たところ異常はないようですが……血がついたのはたぶん、これのせいでしょう」
そう言って、胸のプレートのところにジョナサン・プライスと名札のある医師は、鑷子で綿球を取ると、それをランディの上唇の裏あたりに当てた。すると、綿球には微かに血がついている。
「ちょっと上唇の裏のほうから血が出ているようですが、このくらいなら大丈夫でしょう。まあ、喉に異物感がなくなったというのであれば、特に問題ないでしょうな。おそらく、ラムネのほうでジュースを飲んだりなんだりしてるうちに小さくなったということではないかと思われますが」
「そうですか。どうも、くだらない症状のためにお手間を取らせて、申し訳ありませんでした」
「プライス先生、どうもありがとう!!」
ランディが元気よくそう挨拶し、兄に小突かれながら出ていくと、プライス医師も彼に付いていた若い看護師も笑った。何故といって、忙しいことには忙しいのだが、重症の患者の合間に、たまにこんなことがあることで――再び重症患者の話をうんざりするでもなく聴くことが出来るという、そうしたところがあったからである。
「まったく、いい恥かいたぞ、兄ちゃんは」
「ははは。なんかさあ、十時過ぎた頃くらいからだったかな。ハッと気づいたら、『あれ?なんか喉がよくなったような……』とは思ったんだけど、今さらこんだけ待ったのに『なんともなくなった』とも言いずらくって……」
「まあいいさ」再びすべての座席に人が埋まっており、ランディとイーサンは立ったまま、名前が呼ばれるのを待った。「俺も、ここまで待ちに待ったのに、今さら家に帰ろうとは言わなかったろうからな。念のためにやっぱり見てもらおうとは言ってたろうから、これはこれでいい」
先ほど、マスクを無償でくれた女性から診察券を受けとり、料金を支払う時にイーサンはいささか驚いた。たったあれだけの、治療とも呼べないようなものを受けただけなのに、請求された医療費がびっくりするような金額だったからだ。
「やれやれ。これで本当にユトランドの医療保険財政は赤字なんだろうな。この上救急車まで呼んだ日には、たったあれっぽっちの診療で百ドル越えてたぞ。まあ、緊急病院で診療を受けた場合は、普段より三割増し以上になると聞いてはいたがな」
「ごめんね、兄ちゃん。俺、なんでだろう……いつもこんなことばっかしで」
助手席のランディががっかり肩を落としているのを見て、イーサンは車のエンジンをかけると、弟の頭を乱暴に撫でた。
「むしろ、おまえがラムネを詰まらせたのが明日じゃなくて良かったさ。それに、喉に傷がついてるから手術しましょう……なんていう深刻なことでもなくて良かったな。あのお医者さんもいい人そうだった。医者によっては、あからさまに『こんなこと程度で緊急病院になんて来るな』って対応をされることもあるだろうからな。ランディ、これでおまえ、家に電話してマリーを安心させてやれ」
イーサンから携帯を受けとると、ランディは自宅の番号を押して電話した。マリーが出ると、病院での顛末を話して聞かせ、彼女はただ「良かったわね」と明るく言っていた。「たぶん大丈夫とは思ったけど、ずっと心配してたのよ」と……。
「ねえ、おねえさん。もしかしてそこにココがいたりする?」
『ううん。もう寝ちゃったわ。ただ、ドタバタしてイーサンと一緒に出ていったでしょ?だから、何があったかくらいのことは話しておいたけど……』
「うん、わかった。それじゃあね。心配してくれてありがとう』
携帯を切ると、ランディは溜息を着いた。これでまた明日、妹からは自分のドジっぷりを笑われることになるだろう。もしココがこのことを知らないのなら、妹には何も言わないようおねえさんに頼もうと思っていたのに。
「気にするな、ランディ。何もCTを撮って脳腫瘍のあることがわかったってわけじゃないんだ。おまえがセブンゲート・クリスチャン・スクールに合格した頃には、きっと笑い話になってるさ」
「うん。そうだね!」
――実際、この日にあったことはランディにとっていいことだった。そして彼自身そのことをこの夜のうちに認めていた。何より、兄のイーサンと待合室で暇潰しがてら色々話せたことがランディには嬉しいことだった。今までは「お兄ちゃんがそう言うから」というのが一番の動機だったが、明後日の試験日には「自分のために」試験を一生懸命がんばろうといったように、ランディの中で考え方が変わっていたからである。
そして、ランディは試験と面接の両方をパスして、無事セブンゲート・クリスチャン・スクールに合格した。実をいうと試験の得点のほうはランディよりも上の者はいくらもいた。けれど、ユトレイシア大学で神学の教鞭を執っていたこともある学長は、彼の内申点と面接の時のことを考慮したのである(それと、ランディに洗礼を授けたグレイヴス牧師と学長が知己だったということも、いくらか功を奏する遠因だったに違いない)。
もちろん、ランディの小学一年から六年までの成績はどう贔屓目に見てもひどいものである。けれど、どの先生もランディ・マクフィールドという生徒のことをとても良く評価していた。特に、五年と六年の時の担任の推薦の言葉――ただそこにいるだけで、他の生徒に良い感化力を及ぼすことのできる子です、との――に学長のライアン・フィールズは感心していたといえる。それと、面接の席でのランディの、物怖じせずはっきり正直にものを言う態度や、義理の母の彼を擁護する態度も立派なものだったといえる。
「この子はとても紳士的で優しい子なんです」と、マリーは学長や副校長、他に三名の教師がいる中で、そう答えていた。「ほら、算数の問題に、Aは徒歩で出発して、Bはそのあと五分後に自転車で、Cは十分後に電車で目的地に向けて出発しましたが……なんていう問題があるでしょう?ランディはAはいつでもBに負けて、BはCに負ける運命にあるから、Bはいつでも自分が負けるCが嫌いで、いつでも勝たせてくれるAのことが好きなんじゃないか、なんて言うんです。面白いでしょう?でも、自分はAにもBにもCにも仲良くしてもらいたいんだなんて、そんなことを言うんですよ。ようするに、この子はそういう心の優しい子なんです」
そもそもこのことを言い出したのはネイサンだったため、ランディは耳まで真っ赤になったが、それでもそうした彼のどこか謙遜な態度は教師たちに好意的に受け止められたようである。
他に、信仰のほうがどの程度しっかりしているかについても質問されたが、その点もマリーが先に「最近洗礼を受けたばかりなんです」と答えることでどうにかなった。「その日はわたしにとって、人生最良の日のひとつでした」といったように。
また、マリー自身もそうした種類の質問をいくつも受けたが、彼女があまりに如才なくそれらの質問に答えていったため、ランディは自分ではなくおねえさんがこの学校に入学するのではないかと錯覚しそうになったほどである。たとえば、聖餐論についての質問や、三位一体についての質問、カトリックのマリア崇拝についてどう思うかなど、ランディは(この人たちはそんな質問をおねえさんにしてどうしようというのだろう)と実に訝ったものである。
ただし、イーサンが心配していた事態のようなものは確かに起きていた。というのも、「マリア崇拝」のことに関して、マリーがこんなふうに答えていたからだ。
「何か誤解があるようですけれど、マリア崇拝とマリア崇敬とは別のものです。カトリックでマリアさまにとりなしをお願いしてお祈りするというのは、キリスト教で禁じられている偶像礼拝というのとは違いますから。マザー・テレサもマリアさまにとりなしをお願いして何度もその祈りが聞かれていることはご存じでしょう?つまりはそういうことなんです」
このあと、眼鏡をかけた若い男の教師が机の前で手を組みながらこう言った。微笑みつつ、なんらの敵意も感じさせないような顔つきのまま。
「マリア崇拝……いえ、マリア崇敬でしたね?というのは、そもそも教皇のピオ9世が定義した教義によることなんですよ。イエス・キリストは処女マリアから誕生した、では、その母マリアに罪があるのはおかしいではないかと思い、聖母マリアの無原罪なんていうことを考えだしたんです。ですが、この概念についてはその後教皇庁で否定しようとも、すでにあまりにも一般に浸透しすぎてしまったんですよ。そのことを教皇庁のほうで今からあまりに強調しだした場合、特に南米などでは大変な混乱に陥るでしょうな。我々はマザー・テレサの祈りが聞かれたか否かについては、その結果から神がお聞き届けになったのだろうと信じることにいささかのためらいも覚えません。まあ、そう難しくお考えにならなくても大丈夫ですよ」
何故このような質問がマリーに対してなされたかといえば、彼女が「子供たちをきちんと育てていけるように毎日聖母マリアの像にお祈りしている」とつい言ってしまったからだった。ちなみにその前になされた質問というのは、「その若さで四人のお子さんを育てるというのは、並大抵のことではないでしょうが、いかがですか?」というものだった。
マリー自身は毎週教会へ通っているし、彼女自身の受け答えにも面接官たちは概ね満足したようである。彼らが見るのは基本的に、「当校へ入りたいがために信仰を偽っていないかどうか」、「正統的なキリスト教の教えに反した宗派と関わりあっていないかどうか」、「聖霊を受けているかどうか」、「どのくらいキリストに対する信仰心を持っているか」……といったところで、あとは生徒やその母や父の受け答えによって、不審に感じるところがあればさらに質問を重ね、また何か興味深い発言があれば、こちらについてもさらに議論を重ねるといったところである。
なんにしても、面接時間は二十分ほどで終わり、ランディよりもマリーの話した時間のほうが長いという、何やら奇妙な入学面接ではあった。面接室から出てくると、「大丈夫だったかしら……」とマリーが不安を滲ませるのを見て、「大丈夫だよ!」とランディは頼もしく応じていた。
「あんねえ、おねえさん。もし俺がここの学校に落ちるとしたら、面接が理由なんかじゃないの。内申点が悪いとか、あるいは試験の点数が悪いか、その両方かのどっちかだよ。だからおねえさんが気にすることないって!」
このあと同じように面接を終えたネイサンの父親と合流し、ネイサンの父ジェームズ・スタンフィールドの車に同乗させてもらい、マリーとランディは自宅まで帰ってきた。なんでも、ネイサンの父親は無神論であることはあえて語らず、これまでの人生で学校などで詰め込まれたキリスト教に関しての知識を披露することにしたという。
「なに、おまえに良心はないのかと神に聞かれてもわたしは平気ですよ。だってそうでしょう?そんなこと、神さまはとっくにお見通しに決まってるんですから」
そして、「第一」と、ネイサンの父親は続けた。「ネイサンの第一志望はセント・オーディアなんですし、そちらもネイサンの成績であれば間違いなくパスするといって過言じゃないですからね」……もちろんマリーは信仰心を偽ったネイサンの父のことを責めたりすることはなかった。何故といってその時彼女は、不正な管理人が抜け目なくやったことを褒めたというイエス・キリストの説話を思いだしていたからである。
だが、ネイサンの父もネイサン自身も思ってもみないことであったが、彼はセブンゲートにもセント・オーディアにも両方ともに合格したにも関わらず、セント・オーディアのあるオルセア市に住む母方の祖父が亡くなったことから――結局のところセブンゲート・クリスチャン・スクールへ通うということになったのである。母方の祖母はまだ元気だったが、それでも祖父が亡くなったことで意気消沈しており、長男夫婦のいるノースルイスのほうへ行くということだったからである。
「最終的にね、僕はユトレイシア大の医学部に入りたいわけだから、その水準を保てる学校でさえあればどこでもいいっていうのはあるんだけど」
ネイサンはそう言いながらも、やはり故郷に留まることが出来て嬉しかったようだった。何分、彼の場合はランディとは違い、セブンゲート・クリスチャン・スクールが全寮制であることが何より嬉しいのだった。
「そりゃあね、僕だってランディみたいに毎日家に帰ったらマリーおねえさんみたいな人がいるっていうんなら、喜んで飛び帰るよ。だけど僕の場合は土日もそのまま学校の寮にいたほうがいいって感じの墓場の家庭に帰るわけだから、ランディはもっと自分が恵まれてるって思ったほうがいい。なんでって、土日だけでも家族が待ってる優しい家庭っていうのがあるんだからさ」
「そんなら、ネイサンも土日はうちに来ればいいよ。べつに遠慮はいらないし、おねえさんもネイサンがセブンゲート・クリスチャン・スクールへ入ることになって喜んでたからね。何より、デブの俺にひとりでも友達がいて良かったみたいな」
「マリーおねえさんはそういう言い方しないだろ」
何故かネイサンがムッとしていたので、ランディもその事実を認めた。
「うん。でも、もし俺に何かあった時にはきっともってネイサンが助けてくれると思うと力強いみたいには確かに言ってたと思うよ」
「そっか」
ここでもランディは、ネイサンが何故そう嬉し気なのかよくわからなかったが、なんにしても、ふたりは寮は別室だったし、その上クラスも別れ別れではあっても――毎日食堂では一緒に食べたりして、その後、セブンゲート・クリスチャン・スクールを卒業するまで、ふたりの友情には皹が入ったり影が差したりするということはなかった。
そして、この六年の間常に、まわりの生徒からは誰も「なんで万年ビリッケツの成績のおまえが、学年一位の成績優秀なネイサンと仲がいいんだよ」とからかわれながら過ごすということになるのであった。
>>続く。
ええと、今回はなんのことを書きませう、的なww
↓に「13日の金曜日」のことがちょろっと出てくるので、そのことでも良かったんですけど……時々、キリスト教のことに言及がありつつ、そんなに説明っぽいことを書いたりしてこなかったというか、なんていうか。。。
前回も、ダンテの『神曲』のことについてとか、書いてもよかった気もするんですけど、今回はなんか少しわかりにくいかな、というのがあって(^^;)
ええと、カトリックにおける「マリア崇敬」と「マリア崇拝」の違いとか、前回のダンテの『神曲』に関していえば、「煉獄」という観念というかそうした教義はカトリックのものであって、同じキリスト教でもプロテスタントにはないとか、そういうことなんですけど
そのですね、わたしもカトリックについてはそんなに詳しくないっていうのがあって、たぶん、プロテスタントでは「マリア崇拝」は異端とされている……なんて言っても、一般的に日本人には「何いってんスか、あーた?」って感じだと思うんですよね。
わたしも自分がクリスチャンになる前までは、聖母マリアさまが幼な子イエスを抱く聖母像とか、そういうものがとても大好きでしたでもカトリックの教皇にピオ9世という方がいらっしゃいまして、この方が突然「イエス・キリストはその聖い生涯において一度も罪を犯されなかった。ということは、その方を生んだ聖母マリアも無原罪なはずだ」と思いつき、そのような教義を追加したわけですよね。
これに対するプロテスタントの立場というのは、マリアさまというのは、普通の一般にどこにでもいる女性だったというか、もちろん神さまがお選びになられたのですから、清い心を持った方だったのでしょうけれども、イエスさまと同じような<無原罪>ということではない……というものです。
ちょっとなんかややこしいですが、とにかくカトリックではピオ9世がそのように聖母マリア様のことを定めて以降、「イエスさまに直接お祈りするのは恐れ多いので、何か神さまにお願いする時にはマリアさまにとりなしをお願いする」という祈りの形態が定式化され、これに対するプロテスタントの立場というのは、マリアさまを通すことなく大胆にイエスさまに直接お祈りする、お願いするということなんですよね(でも、わたしの知識もあやしいものなので、間違ってたらすみませんww)
このことは、カトリックでも今はそのような方向に動いているらしいのですが、でも「マリアさまにとりなしをお願いする」という祈り方というのは、今はもうあまりに深く浸透してしまっていますし、今から正式に何かヴァチカンから公布して「マリアさまを通してではなく、イエスさまに直接祈るべきだ」といったように一本化は出来ないと思うんですよ(^^;)
何より、マリアさまのことを奉ったカトリックの教会も多いでしょうし、カトリックにおいてはマリアさまに纏わる奇跡というのが多いと思うので……歴史的にすでにこんなにも深く根付いているものを「教義的に厳密には間違いだった」とすることは出来ませんし、もしそんなことをしたら特に南米あたりの信者の方などの物凄い反発を受ける、というのがあると思います。
ええと、わたしがプロテスタントだからカトリックの教義がおかしく思えるとか、これはそういう話じゃないんですよね(^^;)
ただ、カトリックはプロテスタントよりも歴史が長くて、教皇無誤謬性という、教皇の神の代理人としての権威があまりに大きく、教皇は神の代理人なんだから、間違うことなんかないんだ……ということで、一度定めてしまって、「後世の人があとから教義的にちょっとおかしいな」と思ったとしても、取り消すことが出来ない事柄というのがたくさんあるということなんですよね。
もちろん、わたしこんなふうに書くからってカトリックよりプロテスタントのほうがだから上なんだとか、そういう考えではないんです。カトリックの方に仮にもし「プロテスタントだってこういうところがおかしいじゃないか」と言われたら、それは普通に話しあえばいいことであって、自分のほうが教義的にこう正しいとか、向こうはここが間違ってるだの、そういうことで言い争っても仕方ないと思うというか(^^;)
とにかく、わたし自身はカトリックの教会に対する憧れというのが昔からあって、それにカトリックのほうがプロテスタントより先にあって歴史も長いわけですから、気持ちとしては「尊敬すべきお兄さん、お姉さん」といったような思いしかないといっていいと思います。
ええと、なんにしても、次。↓に出てくる「不正な管理人が抜け目なくやった」という話については、長くなるので次回に回したいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
聖女マリー・ルイスの肖像-【34】-
ウェザビー家の事件があったせいもあり、イーサンは子供の送り迎えをするのと同時、六月にある試験に向け、ランディのことを容赦なく勉強漬けにしてしごいた。マリーは一度、ランディがラムネの白い錠剤を飲み、死んだ振りをしているのを発見して――とても不安になったものである。ランディにとってイーサンに試験問題を詰め込まれるということは、実はそのくらいつらいことなのではないかと、そんな気がして。
「ランディ、大丈夫なの?もしつらかったらおねえさん、お兄さんに少し話してみるわ」
以前のように、兄としての強権を揮いつつ、どこか傲慢な教え方をする――といったのよりはかなりマシになっていたとはいえ、それでもなかなか弟が同じ間違いから脱却できなかったりすると、イーサンはやはり時々前の状態に逆戻りしたものである。
「いいんだよ。だって、試験まであとほんの何日かでしょ?それに、俺がこういうふうに白い錠剤型のラムネを飲んで死んだ振りをするのって、今にはじまったことじゃないんだもん。こう言うとね、おねえさんは優しいから、何かつらいことがあったんじゃないかって思うかもしれないけど……なんかね、俺の場合あんまし関係ないんだよ。毎日学校にいってて友達もいるし、それなりに毎日楽しかったとしても、たまーに今みたいに死んだふりをしたくなるっていうか。前にこの話をケビンやブラッドやノアにしたら、やっぱりあいつらも同じだって。だからね、四人で白いラムネを飲んで、『く、苦しい……』とか『し、死ぬ……』とか言いながらバッタリ倒れて、そのあとみんなでギャハハって笑ったりしたんだ。なんかそんな程度のことだから、何も心配いらないよ」
そう言ってランディは、今度はグレープ味の少し大きめのラムネを口に放りこみ、にっこり笑った。マリーは「そうなの。だったらいいんだけど……」とその時は納得したふりをしたが、やはり夜にイーサンとふたりきりになると、彼にこのことを相談した。
「あの、試験までもう何日かの辛抱っていうのはわかるんです。だけど、白いラムネを飲んで、死んだ振りをするとスッキリするだなんて聞くと、なんだか心配で……」
この時イーサンは、(やれやれ。ガキの勉強を見るのも楽じゃないな)なんて思っていたのだが、マリーのこの話を聞いて思わず笑ってしまった。
「い、いや。悪い悪い。俺だって何も悪気があったってわけじゃないんだ。それに、あんたの今の話は他の親なら児童精神科医の元に明日にでも連れていこう……みたいになる話だもんな。それに、試験まで何日もないもんで、俺があいつに厳しかったってのも事実だ。だがな、マリー。そんなのはただの一過性のものなんだよ。何故そう言い切れるかというとな、俺もあいつとまったく同じことをやったことがあるからだ」
「えっと、じゃあイーサンも大体今のランディと同じくらいの頃、ラムネを飲んで死んだ振りをしたことがあるっていうことですか?」
イーサンはコーヒーを飲みながら首肯し、もう一度笑った。
「だが、俺の場合もあいつと同じだ。おそらく精神科医に診てもらったとしたら、父親がいないこととか、母親の死とか、何かそんなことに関連づけて何かもっともらしい結論を導きだされていたろうよ。けど、俺の場合もあんまりそういうことは関係なかったな。たとえば、そんなふうに何か薬を飲んで自分もお母さんと同じ天国へ行きたいと思ってそんなことをしたっていうんなら確かに問題だ。だが、俺の場合は違ったからな。ただ、白い錠剤を飲み、ドクニンジンを飲んで死んだとかいうソクラテスの真似をしてたってだけだ」
「でも、ドクニンジンって死ぬまでに時間がかかってとても苦しい思いをするとかって……」
「そうらしいな。あんた、知ってるか?ソクラテスとイエス・キリストってのは哲学の世界じゃよく似てるって言われるんだぜ。ふたりとも博識で、自分が悪いということで死んだのではないっていうところとかな。ところであんた、カトリックか?」
イーサンは以前、サンダーの葬式の時に彼女が話していたことを思いだし、一応念のためにそう聞いておいた。四日後、ランディの試験の結果がどうあれ、その二週間後には新しく建設されたばかりのセブンゲート・クリスチャン・スクールに面接へ行かねばならない。仮に試験の結果が思わしくないものであったとしても――面接の場でいかにこの義理の母親が信仰深いかをアピールできれば、ランディの合格も夢ではなかった。
「元はそうです。もっとも、今はプロテスタントの教会へ通ってますけれど……だからといって、カトリックからプロテスタントになったわけではありません。ただ、マグダがプロテスタントで、それでミミちゃんを今の教会へ連れていっていたから……」
「ああ、俺はそういう細かいことはどうでもいいんだ」
うるさい小蝿でも払うように、イーサンは手を振って続けた。
「セブンゲート・クリスチャン・スクールってのは、あんたも知ってのとおり、プロテスタントの私立校だ。だから、もしかしたらあんたが実はカトリックってことを言ったらランディが合格するのに不利になるかもしれないと思ってな。べつに、元はカトリックでも、今もカトリックってのでも、俺は気にしない。ただ、今現在はプロテスタントの教会へ通ってるんだから、そのあたりはべつにはっきりさせなくてもいいんじゃないかって話だ」
「そう、ですよね……」
その点に関しては、マリーにしても神に対して良心が痛むといったことはなかった。何故ならどちらの神も結局のところ同じイエス・キリストであるからだ。それよりも、マリー自身にとって大切なのはまったく別のことだったといえる。
「あの、ランディがグレイヴス牧師に、今回の受験のこと相談したらしいんです。そんな理由で洗礼を受けたりするのは不謹慎だけど、自分では半分以上信じてる気もするし、どうしたらいいでしょうかって。そしたらグレイヴス牧師、『じゃあ試験の前に洗礼式をしよう』っておっしゃったんです。信仰は個人の問題ですし、グレイヴス牧師自身、幼児洗礼を認めておられないそうです。本人にしっかりとした意志と信仰のあることが大切なのは間違いないことですけど、グレイヴス牧師から見てランディはきちんと信仰を持っているように見えるって……」
「へえ。牧師先生にしちゃ、随分いいかげんなもんだな」
もちろん、彼にしてもそのほうが助かるのだが、あえてそんな臍曲がりな言い方をした。
「その、あとからグレイヴス牧師にお聞きしたら……セブンゲート・クリスチャン・スクールに友人や知り合いの方がいらっしゃるんですって。だから、今は仮に多少信仰面について曖昧なところが残っていたとしても、あそこでは朝と夕に必ず礼拝があるし、日曜に礼拝を守らなかったりしたら白眼視される環境だから、きっとランディはその過程で必ずいいクリスチャンになれるだろうって、そうおっしゃってました。わたし、そのことがとっても嬉しくって……」
「…………………」
実をいうと、先週の日曜、このランディの洗礼式にイーサンは出席していた。ちなみに、その日は家族総出で教会へ出かけていたのだが、イーサン自身は今も無神論であり、洗礼自体は受けたことがない。それはココも同様だったが、彼女は宗教的な様式美には心惹かれるところがあるらしく、「もしいつか自分が洗礼式を受けるとしたら、ランディみたいにショぼい洗礼式じゃなく、もっと壮麗なものにするわ」とのことだった。
「ま、なんにしてもだ。これであとはランディがなるべく試験でいい点数さえ取ってくれれば……総合点でなんとかなるんじゃないかと俺は見ている。他の私立校よりも試験の日程が早いからな、滑り止めとして受ける生徒の数自体は物凄く多いってことになるだろうが、結局そいつらってのは、本命のほうの学校に受かれば入学については辞退するはずだからな。そう考えた場合、補欠合格でも出来れば、十分万々歳といったところだ」
本当はイーサンとしてはこのあと、マリーと子供らのことなどではなく、もっと個人的なことを話したいところではあった。けれど、自分も疲れており、神や信仰がどうだのいう話のことでは彼女と合わないとわかっているため――この日もやはり、疲れた溜息を着いたあと、自分の部屋のほうへ引っ込むということにしていた。
(これで俺たちが本当の夫婦だとでもいうんなら、今ごろ向こうでそれと察してベッドに誘ってるよな)
イーサンは寝仕舞をすると、課題となっている哲学の本を読みながら――ベッドの背もたれにもたれてその日の晩もそう考えた。
(『子供の送り迎えだけじゃなく、勉強の面倒までみて疲れたでしょ?わたしが慰めてあげる』……ってな具合でな。問題は何故現実にはそうなってないのかってことだが)
やれやれと思い、イーサンが目頭のあたりを指でもみ、ナイトスタンドの電気を消そうとした時のことだった。コンコン、とドアがノックされ、彼は期待の高まりとともに心臓の鼓動がドキドキしはじめた。
だが、ドアを開けたのは残念ながらココだったのである。
「……イーサン。わたし、今日だけここで寝ちゃダメ?」
「どうした?ひとりが怖いんなら、マリーと一緒に寝ればいいだろうが」
しょうがないな、という顔をしつつ、イーサンはそう答える。
「だって、隣にミミがいるじゃない。あたしがおねえさんと一緒に寝てるところを見たりしたら、あの子、きっと色々うるさく言うわ」
「べつにいいだろう、そのくらい。だが、おまえがそうしたいんなら、今日はここで寝ればいい。だけど、明日以降はダメだぞ」
イーサンはベッドの上の布団をめくると、少し左にずれて右側にスペースを開けてやった。クイーンサイズのベッドなので、子供とふたりで寝る分には、そう窮屈ということもない。
「よかったあ。今日ね、モニカんちで『13日の金曜日』を見ることになったの。べつにわたし、全然見たくなかったんだけど、なんかカレンが『あ、ココ怖いんだー』とかっていうから、なんか売り言葉に買い言葉っていうの?なんかそんな感じで結局見ることになっちゃって……ジェイソンが架空の人物だっていうのはわかってるのよ。でも、ああいう殺人鬼みたいのがこの広い屋敷のどっかにいたらとか、色々想像してたらひとりで寝るのが怖くなってきゃって……」
「なるほどな。それで、怖いには怖いにしても、面白かったのか?」
このあと、ココはイーサンに映画の内容について細かく説明しはじめ、そうこうしているうちに彼女はぐっすり眠ってしまった。実をいうとイーサンは『13日の金曜日』については全シリーズ見ていたが、特にココの言うことに口を差し挟むでもなく、一生懸命笑いを堪えて妹の話を聞いていた。そしてイーサン自身もまた、小さい頃に友人宅で見た、というよりも見させられた『エルム街の悪夢』のことが思いだされ……(そういや俺も、フレディが自分の夢の中に現れたらどうしようって映画見たその日は怯えていたっけな)と、懐かしい記憶を辿っているうちに――イーサンもまた、ココに続いて深い眠りに落ちていったのだった。
* * * * *
ランディが二日後、セブンゲート・クリスチャン・スクールの試験を受けにいくという日のこと――イーサンは最後の総仕上げとして、自ら作った模擬問題を彼にやらせていた。そしてこの時もランディは、問題を解く合間合間にお気に入りのラムネをなめたり齧ったりしており、そうしていると僅かばかり気分が落ち着くのだった。
ところが、ランディが算数の計算でまたしてもケアレスミスしている箇所を見つけ、イーサンが怒りだしそうになった時のことだった。
「いいか、こういうもったいない点数の落とし方は絶対するな。それじゃなくてもおまえの場合は、出題パターンを覚えて点数を稼ぐっていうやり方なんだから、覚えたパターン以外の応用問題にはほとんど歯が立たないんだ。俺もおまえくらいの年の子にこういういかにもなお受験的覚え方はさせたくないが仕方がない。とにかく、こういうケアレスミスをなくすためにも、時間が余ったらもう一回必ず計算はし直せ。わかったな!?」
「う、うん……」
またしても兄が怒りだすであろう気配を感じたその瞬間――イーサンがプラスチック定規でピシャリと背中を叩くに合わせ、ランディはごきゅりと喉を鳴らした。なんだか、喉が変だった。というより、それが何故なのか、ランディにも原因自体はよくわかっている。ラムネが喉に詰まったのだ。
最初、ランディはどうということなく、次の問題を解こうとした。ところが、喉のあたりが急におかしくなり、座っていた椅子から転げ落ちてしまう。
「う……ううっ。ご、ごほっ。ごほ、グハッ、げほっ、カハッ……!!」
ふざけているわけではなく、ランディの様子が明らかにおかしいと気づき、マリーは床に膝をついているランディの背中をさすった。そんなはずはないのだが、このことの責任のすべてが自分にあるような気がして、イーサンにしても不安になる。
「どうした、ランディ?何か喉に詰まったのか!?」
そう言ってから、ダイニングテーブルの上のグレープ味のラムネにイーサンは気づいた。ランディがそれを飲んで死んだ振りをしていたという白い錠剤とは別の、それより一回りくらい大きいラムネだった。プラスチックケースから出し、イーサンも自分で齧ってみて――これを子供が喉に詰まらせればどうなるかがよくわかる。
「マリー、救急車呼ぶぞっ!!」
「ま、待って……に、兄ちゃん……」
大量によだれを垂らして、苦しみもがいたあと、口許をぬぐってランディは言った。額からは脂汗が流れている。
「だ、大分よくなったよ。こんなことで救急車なんか呼んだりしたら恥かしいや。たぶん、もう少しすれば、なんとか……ぐっ、ごほっ、ぐほっ……がはっ」
「いや、やっぱり駄目だ。救急車が恥かしいんなら、救急病院へ連れていく。マリー、俺は車出してくるから、新聞で今日の救急病院がどこか、調べておいてくれ」
「は、はいっ……!!」
マリーは水を入れたコップを持ってくると、ランディに手渡した。水を大量に飲めばこのまま飲みこめそうな気もしたが、いくら水を飲んでも喉の異物感だけはどうしても去っていかない。
「イーサン、今日はユトレイシア第一病院が当番病院だそうですっ」
「そうか、わかった。ほら、ランディ、行くぞっ!!」
イーサンに連れられる形で、ランディは急いでエクスワイアの助手席に座った。そしてこの時、マリーにもたされたハンカチで口許を押さえ、ランディが咳きついた時のことだった。そこには本当に微かに、血が少しだけついている。
「に、兄ちゃん。俺、もしかして死ぬの……!?」
「アホ!ラムネが喉に詰まったくらいで死ぬわけがあるか。何か食いもんが喉に詰まって死ぬって時は、喉に詰まったもんが気道を塞いで窒息死するってことだろう。なんにしても俺は段階的な窒息死なんてのは聞いたことがないな。だから、おそらくは大丈夫だ」
もちろん、イーサンにも確信はない。だから彼はユトレイシア第一病院まで急いで飛ばしたのだが――白塗りの中型規模の病院内へ足を踏み入れた瞬間、彼はうんざりした。そこの待合室には種々雑多な症状を抱えた人々が鮨詰めになっており、イーサンとランディはどこかに席が空くまで、廊下の外れに突っ立っていなくてはならなかったからだ。
「おい、ランディ。大丈夫か!?」
「う、うん。一分おきぐらいになんか、うえってなるんだけど、それ以外は特になんともないよ。それより、これ一体何時間待ち?こんなの待ってたら、喉のラムネのことじゃなくて、なんか他の病気うつそれて死にそうだよ」
「そうだな……」
イーサンは待合室にいる五十人ばかりもの病人の一団を見回して、溜息を着いた。救急病院へ来るだけあって、みな事情が切迫しているのだろう。多くの人々が下を向き、あるいはお腹や頭のあたりを抱えるような仕種で、ただ黙って座ったままでいる。
(確かにランディの言うとおりだ。そういやサイモンの奴が言ってたことがあったっけ……総合病院の眼科にいっただけなのに、何故か質の悪いインフルエンザをうつされてひでえ目にあったみたいなこと。ランディはもう二日後には試験だからな。なるべくあの病人どもからは離しておくのが理想だが……)
とりあえずイーサンは、病院の廊下のところにあった消毒液をプッシュすると、それでランディに手を消毒させた。また、自分も同じようにしてから、受付の忙しそうな女性に声をかけることにする。
「こっちはもう三時間も待たされてるんですよっ。可哀想に、うちの娘はお腹が痛いって言って、床に這いつくばってるんですからっ。もちろん、順番があるっていうのはわかってますよ。けどね……」
――この問題はすぐに解決した。何故といって、「ルーシー・サーズガードさん」と、ちょうど彼女の娘の名前が呼ばれたところだったからだ。ノーメイクの上、髪の毛をくしゃくしゃにした母親は、娘の体を抱え起こすようにして、第三診察室と書かれた部屋の中へと消えていく。
「大変申し訳ないんですが、マスクなんてないでしょうか?その分のお金はもちろん支払いますから」
「え、ええっ。マスクでございますねっ!!」
それまで、ムスッとした顔でパソコンのキィボードを打っていた受付の女性は、実に快くイーサンの求めに応じてくれた。口許のすべてをぴったり覆うといったタイプのマスクではなく、簡易の紙マスクではあったが、それでもないよりはずっといいと思い、イーサンはそれを二枚もらって礼を言った。
(うわー、兄ちゃんはやっぱりすげえや。口さえ開かなければなあ、イーサン兄ちゃんは女の人にとってシンソウの王子とかいうやつなんだろうな。あの女の人なんか、耳まで真っ赤になってら)
「ほら、大事な試験前だからな。患者からインフルエンザでもうつされでもしたら大変だ。せめてマスクだけでもしとけ」
「う、うん……」
兄の言うとおりマスクをしながらも――ランディはこの時むしろ、誰かから風邪でもうつされたい気分だった。そうすればセブンゲート・クリスチャン・スクール行きはお流れとなり、普通の公立学校へ家から通うことが出来る。もちろん、こんなことを自分が考えていると知れば、兄が「今までしてきた自分の努力を惜しいとは思わないのか!?」とでも怒りだすことだろう。けれど、病気で仕方なかったとなれば……。
「おまえ、なんか時々白いラムネを飲みながら死んだ振りをしてるんだってな」
車椅子や移動用の点滴棒などの並ぶ一角で、イーサンは弟にそう聞いていた。先ほどルーシー・サースガードという女の子が三時間待ちしてようやく呼ばれたところを見たばかりである。ということは、ここから自分たちも三時間くらい待たされることになるのかもしれない。そう思い、イーサンはついでだからと思い、弟に本音を吐き出させようとした。
「もしかして、おねえさんに聞いたの?でもそれ、兄ちゃんに毎日勉強を詰め込まれることとはあんまり関係ないよ。昔から、ずっとたまーにそうしてたし、特に深い意味なんかないんだ。第一、小学校の卒業式も終わったばっかでさ、この私立校の受験に失敗してもどうでも、そのあとは九月までなが~い夏休みだもん。俺が何か自分を不幸に哀れむ理由なんて、何ひとつとしてないよ」
「そうか。だったらいいんだがな……」
イーサン自身、子供の頃にやはりランディと似たようなことをしたことがあったので――そしてその時自分も、特に世を儚んでいるというわけでもないのに、死んだ振りをしていたと思い、それ以上追求しようとは思わなかった。けれど、本人がそうと自覚していないというだけで、受験勉強のストレスというのは間違いなくあるだろうと兄として思ってはいたのである。
「それで、おまえはやっぱりセブンゲート・クリスチャン・スクールへ行ったりするより、公立校のほうへ行きたいといったわけなのか?」
「うん、まあね。っていうか、それももう大分関係なくなった気もする。ほら、ネイサンなんかは特別勉強が出来るからクラスのみんなも別格みたいな感じで扱うじゃん。でも俺は違うからね。ケビンもブラッドもノアも、まったく呑気なもんだよ。で、三人は俺もずっと自分たちの仲間だみたいに思ってたから……俺が兄貴に勉強させられるから遊べないとかっていうとさ、なんかちょっと態度が冷たくなって。俺、『ああ、そっか。今自分が友達だと思ってる子も、一度離れちゃうとそんなものなんだな』って初めて思った。もちろん、ネイサンは違う意見だけどね。セント・オーディアに合格できたら、そこには自分と友人になるのを運命づけられたような素晴らしい友達ができるだろうとか、そういう考えみたい。あ、そういえばネイサンもセブンゲート・クリスチャン・スクールを滑り止めに受験するって言ってたっけ。俺、その部分だけちょっとほっとしてる。試験のほうが、午前から午後にかけてあるから――お昼休みとかさ、一緒にお弁当食べたりできるでしょ」
「そうか。ケビンもブラッドもノアも、三人ともとてもいい子だが……小学校時代の友達っていうのは、一度離れたらそれまでというところは、もしかしたらあるかもしれないな」
この時イーサンは、自分がロイヤルウッド校に受かった頃の記憶を頭の中に甦らせていた。それでももし、実父のケネス・マクフィールドが息子として認知してくれなかったとしたら……おそらく自分もあの下町で今ごろ高卒という学歴でバーテンダーか何かをしていたかもしれない。
つまり、イーサンの場合は下町の小学校から名門私立校へ進学することになって――そこで急激に環境が変わったのだ。ロイヤルウッド校に通っているのは、金持ちの両親を持つお坊ちゃまばかりで、喧嘩の仕方も知らないような子ばかりが多かった。だが、続く六年間、またそのあとユトレイシア大学へ進学してからも、イーサンはとてもいい学生時代を過ごしたし、むしろ公立校へ行っていたらどうなっていたかと、今も少し恐ろしいくらいである。
「だが、子供時代ってのはそんなもんだ。これはな、おまえやあの子たちの友情が「そんなもの」だっていうのとは違う。ケビンもブラッドもノアもみんな……夏休みなんかにランディやネイサンが帰ってきてると知ったら喜んで遊びに来るだろう。そのほうがな、もしかしたら友情が長く続くという場合もある。おまえはクラスが離れてもケビンやブラッドと同じ学校がいいと思ってるかもしれない。だがな、違うクラスでおまえがデブだってことでいじめられたりしてても――もうネイサンがいるわけじゃないからな。ブラッドやノアが怒り狂っておまえのことを守ってくれるとは限らないんだぞ」
この言葉をランディがどのような響きを持って受け止めたかはわからない。だが、イーサンが暫く黙ったままでいると、ランディは突然声もなく泣きだしていた。
座席のひとつが空いたのを見て、イーサンはそちらに弟のことを連れていって座らせた。他の長椅子タイプの座席はすべて埋まっているため、イーサンは立ったままでいたが、とりあえず自販機のある場所を見つけると、そこからジュースを二本買った。一本はメロウイエロー、もうひとつは自分用の缶コーヒーだった。
「ほら、洟をかんだらこれでも飲め」
イーサンがそう言ってランディの好きなメロウイエローを渡していると、名前を呼ばれた小さな子供の母親が、自分の座っていたパイプ椅子を彼に勧めてくれる。そんなわけで、淡いグリーンのソファの端っこに座る弟の横に、イーサンはパイプ椅子を置いていた。
「兄ちゃんはさ、イケメンでいいよね」
洟をかみ、目の涙も拭うと、ランディはやぶからぼうにそんなことを言った。
「なんで俺、兄ちゃんの格好いい遺伝子を受け継がなかったんだろ。あの受付の女の人もさ、兄ちゃんが話しかけたってだけであんなに真っ赤になったり、さっき椅子を譲ってくれたお母さんもさ、他にも立ってる人なんかいっぱいいるのに、わざわざ兄ちゃんに椅子なんか譲ったりして……」
「それはおまえ、ただの善意だろう。俺だって、嫌な目にならこれまでの人生で色々合ったことがある。たとえば、アメフト部で先輩に特に目をつけられてしごかれたりとか、そんなことだがな。だがまあ、人は見た目に騙されるってのは事実だ。俺が優男っぽそうに見えてそこそこ骨があるってことがわかると、向こうでも今度は逆に可愛がってくれるようになったりな……なんにせよ、ロイヤルウッド校はひとつのクラスが三十名で構成されていたが、三十人もの思春期のガキがあんな広いとはいえない教室に押し込められるんだ。人間関係的に色んなことが起きるのは、まあどこも一緒といったところか。俺がおまえに言ってるのは、セブンゲート・クリスチャン・スクールとか、あるいはセント・オーディアでもどこでもいいがな、ああいうところには喧嘩の仕方も知らないような道徳観の高い奴らが集まってくる可能性が高いってことなんだ。もしおまえのことをデブと呼んだりしたら、その日の放課後、生徒会の裁判にかけられるといったような、そんな連中がロイヤルウッドあたりにはわんさといた」
「えっ!?そんなことすんの?」
洟をかんだティッシュをゴミ箱に捨て、メロウイエローをごくごく飲みながらランディは驚く。
「ああ。で、当該生徒は呼びだされて、聖書の上に手を置いて誓わされたあと――大体のところ悪かったほうが謝罪するよう求められ、最後は嫌々ながらでも握手させられるといった具合だな。そんな面倒になりたくないから、みんな大して問題なんて起こさない。なんでかっていうとな、明らかないじめに当たるような行為をして、証人らによってそれが立証されたとしたら……ロビーのあたりにでかでかとそのことが張り出されるし、その時の裁判記録なんてのが生徒会のほうにも残る。ついでに、大学へ進学する時、そのことがまったく影響しないとも言いかねないわけだ。もっとも、そんな中でもやっぱり喧嘩とかいじめとか、そんな小競り合いも多少は起こる。それでもそれは、便所に呼びだして煙草で制服に穴を開けるだの、そういう陰湿な類のものじゃないのさ」
「へえ……」
ランディは喉のあたりをしきりと触りながら、メロウイエローを飲んだ。ジュースを一口飲むごとにはっきり異物感はあるものの、それでも先ほどよりは少し楽になったようだと感じていた。
「ま、セブンゲート・クリスチャン・スクールではどうかは知らんぞ。だが、両親が敬虔なクリスチャンであった場合、仮に多少成績が悪くても入れてくれるだなんて――もしかしたら、開校したばかりの今だけかもしれん。何しろ、どんなに成績や試験の結果だけ良くても、無神論の両親を持つ子よりはそうした子のほうを優先的に取るだなんて言うんだからな」
「そっか。でもじゃあ、ネイサンどうするのかな。お母さんはキリスト教って言っても、正統なプロテスタントの教団っていうのとはちょっと違う宗派に属してるんだって。で、お父さんはイーサン兄ちゃんと同じく無神論なんだよ」
この時、泣いてすっきりしたせいかどうか、ランディの顔色が突然良くなった気がして、弟に「ちょっと喉を開けてみろ」とイーサンは言った。そして喉の奥のほうを見てみるが、肉眼で見る限り、そう異常もないようではある。けれど、イーサンは虫歯があるのを発見すると、夏休み中にランディを歯医者に通わせようと決意する。
「なんかさっき、ハンカチに血がついたとか言ったよな、おまえ」
「う、うん。べつにそう大して出血したってこともなく、ちびっとね。ほんとにちびっと」
このあと、イーサンはランディにハンカチを見せてもらうと、弟の頭をはたいた。
「なんだ、これっぽっち!この程度の出血で死ぬなんてこと、あるわけないだろうが」
「だからさあ、あの時はちょっとビビッたんだってば。こんなふうに喉になんか詰まったことなんて、俺の人生史上これがはじめてなんだもん」
イーサンは壁の時計の針が九時十分前を指しているのを見て、この時心底うんざりした。とりあえず弟は元気そうだし、もう少し様子を見てから救急病院へは連れてくるべきだったのだ。
とはいえ、それから三時間もたたずして、十時四十分頃に名前を呼ばれると、イーサンは弟と一緒に第一診察室と書かれた部屋へ入っていった。医師は五十台初めくらいのベテランといった雰囲気の医師で、細面の顔に眼鏡をかけている。
ランディのかわりにイーサンが症状と何故そうなったのかを説明すると、医師とその後ろにいた看護師とは微かに笑った。何人か重い症状の患者が続いたため、男の子が丸々として健康そうなのを見て、彼らは思わず微笑を洩らしたというわけである。
「それで、今はどう?喉がやっぱりおかしいのかな?」
ランディがあーんと大口をあけると、舌圧子で舌を押さえ、ライトで奥のほうを見ながら医師がそう聞いた。膿盆の上に舌圧子が渇いた音をして置かれる。
「あー、そのですね……非常に言いにくいのですが……」
数秒ランディが言いよどんでいると、「先生方も忙しいんだぞ。早くはっきり言え」と、イーサンが弟の背中をバシッと叩いてよこす。
「あ~、あのう、そのう……最初はほんと、苦しかったんです。でも、待合室で待ってる間に、ジュースを飲んだりとかして、そしたらなんだかだんだんに喉がすっきりと……」
「なんだって!?」
もちろんこう言ったのはイーサンである。
「そういやおまえ、ほんのちょびっとではあったが、血がハンカチについたんだろ」と独り言のように言ってから、イーサンは今度は先生に向けて丁寧な口調になる。「喉かどこか、ほんのちょっとだけ傷ついてたりとか、そういうことがないもんでしょうか」
医師のほうでは、「患者がこれだけ詰まってるんだから、なんともないんならとっとと帰ってくれ」と言うでもなく、実に寛大だった。そこで、滅菌包装のフィルムを剥がすと、新しい舌圧子でまたランディの喉の奥のほうを覗く。
「ま、見たところ異常はないようですが……血がついたのはたぶん、これのせいでしょう」
そう言って、胸のプレートのところにジョナサン・プライスと名札のある医師は、鑷子で綿球を取ると、それをランディの上唇の裏あたりに当てた。すると、綿球には微かに血がついている。
「ちょっと上唇の裏のほうから血が出ているようですが、このくらいなら大丈夫でしょう。まあ、喉に異物感がなくなったというのであれば、特に問題ないでしょうな。おそらく、ラムネのほうでジュースを飲んだりなんだりしてるうちに小さくなったということではないかと思われますが」
「そうですか。どうも、くだらない症状のためにお手間を取らせて、申し訳ありませんでした」
「プライス先生、どうもありがとう!!」
ランディが元気よくそう挨拶し、兄に小突かれながら出ていくと、プライス医師も彼に付いていた若い看護師も笑った。何故といって、忙しいことには忙しいのだが、重症の患者の合間に、たまにこんなことがあることで――再び重症患者の話をうんざりするでもなく聴くことが出来るという、そうしたところがあったからである。
「まったく、いい恥かいたぞ、兄ちゃんは」
「ははは。なんかさあ、十時過ぎた頃くらいからだったかな。ハッと気づいたら、『あれ?なんか喉がよくなったような……』とは思ったんだけど、今さらこんだけ待ったのに『なんともなくなった』とも言いずらくって……」
「まあいいさ」再びすべての座席に人が埋まっており、ランディとイーサンは立ったまま、名前が呼ばれるのを待った。「俺も、ここまで待ちに待ったのに、今さら家に帰ろうとは言わなかったろうからな。念のためにやっぱり見てもらおうとは言ってたろうから、これはこれでいい」
先ほど、マスクを無償でくれた女性から診察券を受けとり、料金を支払う時にイーサンはいささか驚いた。たったあれだけの、治療とも呼べないようなものを受けただけなのに、請求された医療費がびっくりするような金額だったからだ。
「やれやれ。これで本当にユトランドの医療保険財政は赤字なんだろうな。この上救急車まで呼んだ日には、たったあれっぽっちの診療で百ドル越えてたぞ。まあ、緊急病院で診療を受けた場合は、普段より三割増し以上になると聞いてはいたがな」
「ごめんね、兄ちゃん。俺、なんでだろう……いつもこんなことばっかしで」
助手席のランディががっかり肩を落としているのを見て、イーサンは車のエンジンをかけると、弟の頭を乱暴に撫でた。
「むしろ、おまえがラムネを詰まらせたのが明日じゃなくて良かったさ。それに、喉に傷がついてるから手術しましょう……なんていう深刻なことでもなくて良かったな。あのお医者さんもいい人そうだった。医者によっては、あからさまに『こんなこと程度で緊急病院になんて来るな』って対応をされることもあるだろうからな。ランディ、これでおまえ、家に電話してマリーを安心させてやれ」
イーサンから携帯を受けとると、ランディは自宅の番号を押して電話した。マリーが出ると、病院での顛末を話して聞かせ、彼女はただ「良かったわね」と明るく言っていた。「たぶん大丈夫とは思ったけど、ずっと心配してたのよ」と……。
「ねえ、おねえさん。もしかしてそこにココがいたりする?」
『ううん。もう寝ちゃったわ。ただ、ドタバタしてイーサンと一緒に出ていったでしょ?だから、何があったかくらいのことは話しておいたけど……』
「うん、わかった。それじゃあね。心配してくれてありがとう』
携帯を切ると、ランディは溜息を着いた。これでまた明日、妹からは自分のドジっぷりを笑われることになるだろう。もしココがこのことを知らないのなら、妹には何も言わないようおねえさんに頼もうと思っていたのに。
「気にするな、ランディ。何もCTを撮って脳腫瘍のあることがわかったってわけじゃないんだ。おまえがセブンゲート・クリスチャン・スクールに合格した頃には、きっと笑い話になってるさ」
「うん。そうだね!」
――実際、この日にあったことはランディにとっていいことだった。そして彼自身そのことをこの夜のうちに認めていた。何より、兄のイーサンと待合室で暇潰しがてら色々話せたことがランディには嬉しいことだった。今までは「お兄ちゃんがそう言うから」というのが一番の動機だったが、明後日の試験日には「自分のために」試験を一生懸命がんばろうといったように、ランディの中で考え方が変わっていたからである。
そして、ランディは試験と面接の両方をパスして、無事セブンゲート・クリスチャン・スクールに合格した。実をいうと試験の得点のほうはランディよりも上の者はいくらもいた。けれど、ユトレイシア大学で神学の教鞭を執っていたこともある学長は、彼の内申点と面接の時のことを考慮したのである(それと、ランディに洗礼を授けたグレイヴス牧師と学長が知己だったということも、いくらか功を奏する遠因だったに違いない)。
もちろん、ランディの小学一年から六年までの成績はどう贔屓目に見てもひどいものである。けれど、どの先生もランディ・マクフィールドという生徒のことをとても良く評価していた。特に、五年と六年の時の担任の推薦の言葉――ただそこにいるだけで、他の生徒に良い感化力を及ぼすことのできる子です、との――に学長のライアン・フィールズは感心していたといえる。それと、面接の席でのランディの、物怖じせずはっきり正直にものを言う態度や、義理の母の彼を擁護する態度も立派なものだったといえる。
「この子はとても紳士的で優しい子なんです」と、マリーは学長や副校長、他に三名の教師がいる中で、そう答えていた。「ほら、算数の問題に、Aは徒歩で出発して、Bはそのあと五分後に自転車で、Cは十分後に電車で目的地に向けて出発しましたが……なんていう問題があるでしょう?ランディはAはいつでもBに負けて、BはCに負ける運命にあるから、Bはいつでも自分が負けるCが嫌いで、いつでも勝たせてくれるAのことが好きなんじゃないか、なんて言うんです。面白いでしょう?でも、自分はAにもBにもCにも仲良くしてもらいたいんだなんて、そんなことを言うんですよ。ようするに、この子はそういう心の優しい子なんです」
そもそもこのことを言い出したのはネイサンだったため、ランディは耳まで真っ赤になったが、それでもそうした彼のどこか謙遜な態度は教師たちに好意的に受け止められたようである。
他に、信仰のほうがどの程度しっかりしているかについても質問されたが、その点もマリーが先に「最近洗礼を受けたばかりなんです」と答えることでどうにかなった。「その日はわたしにとって、人生最良の日のひとつでした」といったように。
また、マリー自身もそうした種類の質問をいくつも受けたが、彼女があまりに如才なくそれらの質問に答えていったため、ランディは自分ではなくおねえさんがこの学校に入学するのではないかと錯覚しそうになったほどである。たとえば、聖餐論についての質問や、三位一体についての質問、カトリックのマリア崇拝についてどう思うかなど、ランディは(この人たちはそんな質問をおねえさんにしてどうしようというのだろう)と実に訝ったものである。
ただし、イーサンが心配していた事態のようなものは確かに起きていた。というのも、「マリア崇拝」のことに関して、マリーがこんなふうに答えていたからだ。
「何か誤解があるようですけれど、マリア崇拝とマリア崇敬とは別のものです。カトリックでマリアさまにとりなしをお願いしてお祈りするというのは、キリスト教で禁じられている偶像礼拝というのとは違いますから。マザー・テレサもマリアさまにとりなしをお願いして何度もその祈りが聞かれていることはご存じでしょう?つまりはそういうことなんです」
このあと、眼鏡をかけた若い男の教師が机の前で手を組みながらこう言った。微笑みつつ、なんらの敵意も感じさせないような顔つきのまま。
「マリア崇拝……いえ、マリア崇敬でしたね?というのは、そもそも教皇のピオ9世が定義した教義によることなんですよ。イエス・キリストは処女マリアから誕生した、では、その母マリアに罪があるのはおかしいではないかと思い、聖母マリアの無原罪なんていうことを考えだしたんです。ですが、この概念についてはその後教皇庁で否定しようとも、すでにあまりにも一般に浸透しすぎてしまったんですよ。そのことを教皇庁のほうで今からあまりに強調しだした場合、特に南米などでは大変な混乱に陥るでしょうな。我々はマザー・テレサの祈りが聞かれたか否かについては、その結果から神がお聞き届けになったのだろうと信じることにいささかのためらいも覚えません。まあ、そう難しくお考えにならなくても大丈夫ですよ」
何故このような質問がマリーに対してなされたかといえば、彼女が「子供たちをきちんと育てていけるように毎日聖母マリアの像にお祈りしている」とつい言ってしまったからだった。ちなみにその前になされた質問というのは、「その若さで四人のお子さんを育てるというのは、並大抵のことではないでしょうが、いかがですか?」というものだった。
マリー自身は毎週教会へ通っているし、彼女自身の受け答えにも面接官たちは概ね満足したようである。彼らが見るのは基本的に、「当校へ入りたいがために信仰を偽っていないかどうか」、「正統的なキリスト教の教えに反した宗派と関わりあっていないかどうか」、「聖霊を受けているかどうか」、「どのくらいキリストに対する信仰心を持っているか」……といったところで、あとは生徒やその母や父の受け答えによって、不審に感じるところがあればさらに質問を重ね、また何か興味深い発言があれば、こちらについてもさらに議論を重ねるといったところである。
なんにしても、面接時間は二十分ほどで終わり、ランディよりもマリーの話した時間のほうが長いという、何やら奇妙な入学面接ではあった。面接室から出てくると、「大丈夫だったかしら……」とマリーが不安を滲ませるのを見て、「大丈夫だよ!」とランディは頼もしく応じていた。
「あんねえ、おねえさん。もし俺がここの学校に落ちるとしたら、面接が理由なんかじゃないの。内申点が悪いとか、あるいは試験の点数が悪いか、その両方かのどっちかだよ。だからおねえさんが気にすることないって!」
このあと同じように面接を終えたネイサンの父親と合流し、ネイサンの父ジェームズ・スタンフィールドの車に同乗させてもらい、マリーとランディは自宅まで帰ってきた。なんでも、ネイサンの父親は無神論であることはあえて語らず、これまでの人生で学校などで詰め込まれたキリスト教に関しての知識を披露することにしたという。
「なに、おまえに良心はないのかと神に聞かれてもわたしは平気ですよ。だってそうでしょう?そんなこと、神さまはとっくにお見通しに決まってるんですから」
そして、「第一」と、ネイサンの父親は続けた。「ネイサンの第一志望はセント・オーディアなんですし、そちらもネイサンの成績であれば間違いなくパスするといって過言じゃないですからね」……もちろんマリーは信仰心を偽ったネイサンの父のことを責めたりすることはなかった。何故といってその時彼女は、不正な管理人が抜け目なくやったことを褒めたというイエス・キリストの説話を思いだしていたからである。
だが、ネイサンの父もネイサン自身も思ってもみないことであったが、彼はセブンゲートにもセント・オーディアにも両方ともに合格したにも関わらず、セント・オーディアのあるオルセア市に住む母方の祖父が亡くなったことから――結局のところセブンゲート・クリスチャン・スクールへ通うということになったのである。母方の祖母はまだ元気だったが、それでも祖父が亡くなったことで意気消沈しており、長男夫婦のいるノースルイスのほうへ行くということだったからである。
「最終的にね、僕はユトレイシア大の医学部に入りたいわけだから、その水準を保てる学校でさえあればどこでもいいっていうのはあるんだけど」
ネイサンはそう言いながらも、やはり故郷に留まることが出来て嬉しかったようだった。何分、彼の場合はランディとは違い、セブンゲート・クリスチャン・スクールが全寮制であることが何より嬉しいのだった。
「そりゃあね、僕だってランディみたいに毎日家に帰ったらマリーおねえさんみたいな人がいるっていうんなら、喜んで飛び帰るよ。だけど僕の場合は土日もそのまま学校の寮にいたほうがいいって感じの墓場の家庭に帰るわけだから、ランディはもっと自分が恵まれてるって思ったほうがいい。なんでって、土日だけでも家族が待ってる優しい家庭っていうのがあるんだからさ」
「そんなら、ネイサンも土日はうちに来ればいいよ。べつに遠慮はいらないし、おねえさんもネイサンがセブンゲート・クリスチャン・スクールへ入ることになって喜んでたからね。何より、デブの俺にひとりでも友達がいて良かったみたいな」
「マリーおねえさんはそういう言い方しないだろ」
何故かネイサンがムッとしていたので、ランディもその事実を認めた。
「うん。でも、もし俺に何かあった時にはきっともってネイサンが助けてくれると思うと力強いみたいには確かに言ってたと思うよ」
「そっか」
ここでもランディは、ネイサンが何故そう嬉し気なのかよくわからなかったが、なんにしても、ふたりは寮は別室だったし、その上クラスも別れ別れではあっても――毎日食堂では一緒に食べたりして、その後、セブンゲート・クリスチャン・スクールを卒業するまで、ふたりの友情には皹が入ったり影が差したりするということはなかった。
そして、この六年の間常に、まわりの生徒からは誰も「なんで万年ビリッケツの成績のおまえが、学年一位の成績優秀なネイサンと仲がいいんだよ」とからかわれながら過ごすということになるのであった。
>>続く。