【ヘンリー五世】
ええと、今回はですね……前回「ヘンリー五世」(「THE KING」)の映画のことを書いたので、何度か引用させていただいている石井美樹子先生の「中世の食卓から」より、ビールとエールの違いについて、抜粋させていただこうかな~なんて思いましたm(_ _)m
>>ビールもエールも「作り方に対するさまざまな規則の上では、両方の飲物を『エール』というひとつの統一した項目として考えてもよい(マドレーヌ・P・ゴスマン『中世の饗宴~ヨーロッパ文化と食文化~』)。とはいうものの、両者の社会的地位には歴然とした格差があり、文学作品に登場している場合でも、その格差ゆえに、作品にぴりりとした趣を与えている場合が少なくない。エール(ale)にでくわしたら、なにもかにもビールに翻訳する傾向は嘆かわしいかぎりだ。
ビールをこよなく愛する人が、シェイクスピアの戯曲『ヘンリー四世第二部』の次のようなくだりを読んだらどう思うだろう。
王子:「ああ、疲れた。へとへとだ」
ポインズ:「へえ。高貴な生まれの人はお疲れあそばすことなんてないと思ってたけど」
王子:「あるさ。おれの場合は。それを認めると面目がつぶれることになるかもしれないが。弱いビールをきゅーと一杯飲みたいといったら、卑しい根性がバレちまうかな」
ポインズ:「まったく、しもじものことに通じているといっても、王子様ともあろうお方があんな飲みものを覚えるほど、だらしなくなってはなりませんや」
王子:「どうも、おれの喉は王子向きではないらしい。ほんとうのところ、今では、あの卑しい飲みもの、弱いビールが忘れられなくなってしまった……」
(『ヘンリー四世、第二部』第二幕第二場より)
王子とは、のちにイギリス史きっての英邁な王となるヘンリー五世、ハル王子のこと。王子は若き日、ポインズやフォールスタッフといったいかがわしい居酒屋仲間をまわりにはべらせ、放蕩三昧の自堕落な生活をおくった。このときに、追剥ぎなどと一緒に覚えたのがビールの味だった。ちなみに、「弱いビール」の原文は、<small beer>。二日酔いの朝などに好まれたビールのことらしい。
王位継承者ハル王子の好物がビールなら、いっぽうの悪漢フォールスタッフの好物はワイン。フォールスタッフいわく、「もし砂糖入りの白ワインを飲むのが悪ならば、神が悪人を救ってくださるように」。「うなぎの皮」のようにやせた王子とビール、ワイン樽のように太ったフォールスタッフとワイン。飲み物のイメージを使って、王子とフォールスタッフの社会的地位を転倒させていることにご注意。悪態をつきあうビールとワインのコンビは、まるでレントとカーニバルのよう。そして、二人がうろつくチープサイドは、いわば祝祭の広場だ。
ハル王子は若いときに覚えたビールの味がよほど忘れられなかったとみえる。ヘンリー五世として即位したのちの、1418年、英仏百年戦争のなかでもっとも血なまぐさい戦闘として歴史に名を残したアザンクールの戦いの三年後、ふたたびフランスへ進撃を開始し、ルーアンを包囲した。このとき、軍隊の士気を高めるために、ロンドンから大量のビールを取り寄せている。その理由は、値段がエールの半分だったというだけではあるまい。シェイクスピアの『ヘンリー五世』のなかの、ヘンリー王の陣営(ここでは、アザンクールの戦い)も「ビール瓶が林立」している(三幕六場)。
ハル王子がこよなく愛した「弱いビール」は下賤の飲み物だったらしい。『ヘンリー六世第二部』では、暴徒の首領のジャック・ケードが、自分が天下を取ったら、「弱いビールを飲むやつなんか縛り首にしてやる」(四幕二場)と目の敵にしている。なぜ、これほどまでに蔑まれたのか。
1542年に、『健康を保つための食事の習慣』なる書物を書いた医師のアンドリュー・ボードは、ビールは体に悪いと考えていた。「エールは麦芽と水から作られる。酵母をのぞいて、麦芽と水以外のものを混ぜると、せっかくのエールを不純にしてしまう。エールはイギリス人にとっての、天与の美酒(natural drink)なのだ。よいエールとは、新鮮で純粋でなければならない。ねばっこかったり、焦げくさかったりしてはならない。おりやかすがあってはならない。……ビールは麦芽とホップと水から作られ、オランダ人の天与の美酒である。最近はイギリスでも好まれているようだが、多くのイギリス人がこれで健康を害している」。
日本で大流行したドライビールの「ドライ」の意味は、あるビールの会社の宣伝文句によれば、「淡麗・辛口。アルコール度高め。さらりとした飲み口、さっぱりとした後味」。この秘密は芳香苦味剤として使われるホップにある。イギリスで、ホップ入りのビールが盛んに出回るようになるのは、十五世紀初め頃のようだ。ホップはオランダ南西部を含むフランドル地方から輸入された。それまでは、王侯貴族から庶民まで、みなホップぬきのビール、麦芽酒のエールを飲んでいた。
イギリス産のエールには、コムギ、オオムギ、オートムギが使われたが、フランスでは、ライムギやホソムギのみならず、ヒラマメやソラマメ属のヤハズエンドウなどのマメ類も使われていたらしい。ヘンリー三世の御世(1216年即位)にすでに、醸造所がロンドンに出現していたとはいうものの、ホップが入りこんできて醸造法が複雑になる十五世紀まで、エールは家庭で醸造されるのが普通だった。エールの醸造は、パンを焼くことと同じく主婦の大事な役目だった。「よいエールとは、新鮮で純粋でなければならない。ねばっこかったり、焦げくさかったりしてはならない。おりやかすがあってはならない」とはいうものの、家庭はもちろんのこと、王侯貴族の食卓にも「あんまりどろどろしているので、歯で濾さないと喉を通過しない代物がしばしばあらわれた」という。
1424年に、エールにホップを加えて販売した業者は、「混ぜ物」を作っているという咎で告訴されることになった。それからほぼ百年たっても事情はたいして変わらない。カトリックを禁止したヘンリー八世は、ついでというわけではないだろうが、ホップの使用を禁止しようとしている。アンドリュー・ボードがエール擁護論を書いたのはこのような時期である。
ようするに、中世からエリザベス朝を通じて、ホップの入ったビールはまるで毒物のように見なされていたのだ。エールにくらべて値段は格段に安く、ハル王子が出入りしていたイーストチープの猪首亭のような、淫売宿まがいの居酒屋や安宿で売られていた。「上等のビール」でないかぎり、王侯貴族や、ワイン好きの修道僧(葡萄の栽培や、ワイン醸造法は修道士の独占だった)がビールに手を出すことなどめったになかった。『カンタベリ物語』のなかの、快楽をきわめることこそ人生の目的と信じる金持ちの地主がたくわえているのも「ビール」ではなくて、「エール」なのだし、ギルドの連中が連れてきている料理人が識別するのは、ロンドンの「ビール」ではなくして「エール」なのだ。
シェイクスピアは、ハル王子に敵対し反乱を企てるホットスパーという暴れん坊に「できれば、から威張り王子をエールに毒を盛って殺してやりたい」(『ヘンリー四世第一部』一幕三場)といわせている。これが王子の大好きなビールなら、もともと安くて毒物みたいに見なされていたのだから、わざわざ毒を盛る必要などなかったのだろう。
ビールとくらべて、ホップなしのビール、つまりエールは、華麗な生涯をまっとうした。まず、値段からいってみよう。シェイクスピアの『冬物語』の行商人オートリカスは客集めに歌を歌う。その一節(四幕三場)を信じれば、白布(シーツ)一枚で一クォート(一リットル余り)のエールが買え、王様のごちそうを食べる気分になれたという。割り引いて考えたとしても、相当な高級品ということになる。
祭りのときは、どんな貧乏人でもビールなどという卑しい物を飲みはしなかった。イギリス人はいわずと知れたヴァイキングの子孫。北欧神話では、エールは神に捧げる聖なる液体だ。そのためか、イギリス人はクリスマスのみならず、収穫祭、聖霊降臨祭、それに結婚式もエールで祝した。祝祭日に教会に行くと、信者はエールをふるまわれた。
(「中世の食卓から」石井美樹子先生著/ちくま文庫より)
そうだったんですねえわたしの持ってる松岡和子先生訳の「ヘンリー四世第二部」の二幕二場の同じ場面では、<small beer>は「水割りビール」と訳してあり、>>「水で薄めたビール。子供に飲ませた」と、注釈があります
わたし、エールっててっきり、ビールが出てくる前に中世の人々が飲んでいたビールより薄い(アルコール度の低い)お酒なのかなって漠然と思ってました
でものちにヘンリー五世となるハル王子は、エールよりも弱いビールのほうが好きだったっていうことですよね(笑)。「エールビール」で軽くググってみると、現代ではエールもビールも「ホップ+麦芽+水」から作られるのは同じでも、使っているのが「エール酵母」(上面発酵酵母)か「ラガー酵母」(下面発酵酵母)で発酵するかの違い――によって味わいが違ってくるという、簡単に説明するとそういうことなのかなって思います(※参考=「日本ビール株式会社」様m(_ _)m)。
そして、>>「聖なる液体として愛されたエールも、毒物のごときビールに座を譲る日がくる。ホップ入りのビールなら確実に「五日以上」は持つし、それに、ホップの苦みを一度知った喉には、エールの何とものたりないことか。かくして、シェイクスピアが世を去る頃には、とうとうビールがイギリス人の天与の美酒になる」という言葉により、ビールとエールの違いについての章は締め括られているのですが、やっぱり日持ちするっていうのは大きいですよね(^^;)
また、『アーサー王物語』についても言及があり、
>>カンタベリの修道僧には嫌われたビールであったが、アーサー王の宮廷における新年のひときわ豪華な食卓のうえには、ワインと並んで置かれていた。「全くすばらしいご馳走の数々、沢山な皿に盛られた夥しい新鮮なたべ物が現われ、人びとの眼前のテイブルのうえには、色々なスープで満たされた銀皿を置くべき余地を見出すことが困難なくらいであった。各人めいめい、気前よく供せられるがままに、存分に食事を摂ったが、常に二人ずつに十二の皿と上等のビール、鮮やかな葡萄酒が饗された」(宮田武志先生訳)。「上等のビール」の原文は『good beer』。文字どおり、上等の逸品だったのだろう。
(「中世の食卓から」石井美樹子先生著/ちくま文庫より)
つまり、簡単にまとめて言うと、ファンタジーを題材にしたもので、食卓にビールがあってもエールがあっても、結局はどちらでもいいのではないか……と、個人的には思ったというか
それが貴族の食卓にあるものであれば、ただ「ビール」とあるだけでも、上等な味のものなのだろうと多くの方が想像すると思うし、わたし個人の「なんとなくなファンタジー作品のイメージ☆」としては、エール=庶民の飲み物、貴族たちは濃い味のビールを贅沢に飲んでいた――的イメージがあって、リアルな重厚歴史物である場合は別として、架空世界のファンタジー作品の場合は「どっちでもいいんじゃないかな」って思ったんですよね(^^;)
でも、前からエールとビールって具体的にどう違うんだろうとか、中世でエールと呼ばれていたものと現代の醸造法によるものとはどう違うんだろう……的には漠然と思ってたので、読んでいて「なるほど~!!」と、本当にためになったという、そんなお話でした♪
それではまた~!!
P.S.ウィキの「エール(ビール)」のところを見たりすると、「エール=ビール」で別にええやんか!という気持ちに傾きますが、中世世界においてエールとビールはやっぱり違う……というのは、石井美樹子先生説のほうが間違いなく正しいと思うんですよね。ただ、架空のファンタジー世界においては、「エール」と書かれていたほうが雰囲気が出るように感じるし、でも登場人物たちが冒険クリア後に居酒屋で飲んでるものが「ビール」でも、わたし的には「どっちでもいいんじゃないかなあ」と思ったということなのです(^^;)
(※参考=「イギリスのビール」(ウィキペディア様)。
「イギリスといえばビール!その歴史や有名銘柄などについて解説」(たのしいお酒.jp様)。
「パブとエールの素敵な関係~イギリスとビールの関係~」(BRITISH MADE様)。
「ビールといえばイギリスのエールだった」(KIRIN様)。
「中世ヨーロッパには、地域ごとにさまざまなビールがあった」(KIRIN様))。
惑星シェイクスピア-第三部【10】-
その後、ギべルネスはディオルグとキャシアスとともに、東王朝へと至る国境を越えた。もっとも、東王朝と西王朝の国境はそれほど明確なものではなく、雨季に現れるアル=ワディ川を境に、そこから東側が東王朝の土地、西側が西王朝の土地――といったように伝統的に見なされてはいるものの、そのあたりの感覚についてはどちらの国にとっても曖昧なところがあったようである。
ギべルネスとキャシアスが驚いたことには、ディオルグは砂漠の警備の手薄なところから東王朝側へ入るのではなく、正攻法的に監視塔のあるティーヴァス城塞から入国したほうが良い……などと言うのであった。
「そんなことをして、大丈夫なんでしょうか?」と、キャシアスは暑い陽射しを受けつつも、顔だけ青ざめさせていたものである。「リア人たちには語順や発音の違いによって、我々が同国人でないことなどすぐにわかってしまうでしょうし……」
「まあな」と、騎乗したルパルカから振り返ってディオルグ。「だが、わしも随分長いことリア語についてはしゃべっちゃいないが、西王朝側のスパイとまでは思われまいよ。まずはな、こうしたシナリオをでっちあげる……わしはリッカルド・リア=リヴェリオン王の密命を受け、ずっとペンドラゴン王朝を探ってきた。が、その先王が崩御した今、次代の王となったリッカルロさまの御心を仰ぐため、遅ればせながら帰国したのだと。本来であればリッカルドさまにお聞かせすべき西王朝の重要な情報があるが、それはリッカルロさまにお伝えすべきと考え帰国したということにする……で、ギべルネは有能な医師で、西王朝側の医術のみならず、東王朝の医術も学びたくて同行したと。あとキャシアス、おまえは僧院ででもギべルネ先生の手業の見事さを見て感心し、その弟子となった――といったようなところでどうだ?」
「そんなに上手くいきますかね……」と、不安げにキャシアス。「ティーヴァス城塞が国境の関所の役目を果たしているということくらいは、僕も人の話で聞いて知っています。ですが、リア王の名前まで出すというのは流石に危険ですよ。もっと詳しく話を聞かせろなんていうことにでもなったとしたら……」
「まあ、そう心配するな。わしがばっちりそのあたりの演技についてはうまいことやってやるから。それにな、わしが今言ったことは案外嘘でもない。それに、もし仮にリッカルロ王の元に引き出されたとて、わしはその昔、確かにあの方の命をお救いしたのだからな……その証拠もある。とはいえ、何分あの方はまだ三歳ほどであられたから、わしのことなど覚えてはおるまい。が、しかし、オールバニー公爵から、そのような人間がいたということくらいは伝え聞いているのではないかと思うからな」
(ほんとに大丈夫かな)と、首を傾げるキャシアスとは違い、ギべルネスは、(案外そのほうが上手くいくかもしれない)と感じていた。何より、ティーヴァス城塞という関所を通らなかったとすれば、警備の目を逃れるため、砂漠の道なき道を相当遠回りしなくてはならないのである。そしてそれは、ティーヴァス城砦を無事くぐり抜けられるかどうかという問題と同じくらい、困難な道でもあったからだ。
「ディオルグ、今あなたのおっしゃった証拠とは?」
彼のことを信じていないわけではなく、ギべルネスはある種の興味に駆られてそう聞いた。確かに、最悪牢屋に入れられ、リッカルロ王の元へ引き出される前にその証拠とやらを見せろと迫られないとも限らない。
「まあ、まだ三歳であったあの方を追っ手から庇った時に出来た背中の刀傷やら矢傷やらがわしの体には残っておるのよ。オールバニー公爵は、わしがそのせいで危うく命を落とすところであったことも知っておられたからな……とはいえ、わしは何も恩着せがましくそんな話をリッカルロ王の前でしたいってわけじゃねえんだ。だが、いざとなればそうも出来ると思えば――事態が何やら悪い方向へ流れたとしても、最悪の事態だけは避けられるかもしれんだろ?」
「なるほど」と、ギべルネスは頷いた。
「他にな、ティーヴァス城塞の北と南にはそれぞれ<らい者の塔>って呼ばれる塔があって……文字通り、らいを患った人々や、その他よくわからない皮膚病を持つ患者がいっしょくたにされてるんだ。で、まあ、一度西王朝と戦争するとなったら、彼らのうちの何人もの首を斬って兵士に運ばせ、トレビュシェット(発射体射撃兵器)によってバロン城塞へ投げ込むってのが、宣戦布告の合図とされていたりな。つまりだな、ギべルネ先生、その患者の診察でもしてるところを見せりゃあ、ティーヴァスの守備隊のほうでも、あんたが医者だってことくらいは信じてくれるだろうって寸法なわけだ」
「なるほど」と、二度目に頷き、ギべルネスは思わず笑った。いや、本当は笑いごとではなかったから、それは失笑にも近い何かだったに違いない。というのも、実際のところギべルネスにはらい病その他の皮膚疾患について、疥癬ですら治せる手段の持ち合わせが今はなかったのだから。
(らい病患者を癒すために、<死の谷>(ギメル渓谷の別名)へ行けとは言われたが、あれからまた精霊型人類である彼らから接触があったということもなく、喀血病を癒すための薬をもらったようには皮膚疾患を治すための軟膏ひとつもらったわけではないからな……)
今の時点でギべルネスが持っているものといえば、カレンデュラの花を摘んで作ったカレンデュラクリーム、それに蚊といった害虫に刺された時の痒み止めくらいなものである。無論、らい病になど効くはずはなく、羽アリとしてギべルネスのフードの裏に隠れていたユペールに調べてもらってもいたが――ギべルネスの思っていたとおり、現段階、彼がこの惑星で手に出来るいかような植物の組み合わせによっても、乳鉢とすり棒のような原始的なものしかない以上、特効薬のようなものは作り出せないとわかっていた。
(さて、と。よく考えてみたら、これはピンチではないのか?)と、その日の夜、野営をしながらギべルネスは考えた。この時季、流石に朝晩は冷え込みが厳しくなってくるため、荷物を枕にし、着替えのほうを上にかける必要があったものである。
ディオルグの話では、明日にはティーヴァス城砦へ辿り着く予定であり、自分たちが野営している姿というのも、見回りの警護兵に発見される可能性があるということであったが、ディオルグ自身はまったく何も恐れていない様子であった。彼は「何かあったらすぐに起こせ」と言い、キャシアスに火の番をさせると、自分はすぐに高いびきをかいて眠り込んでいたものである。
(まあ、確かにここで捕まってティーヴァス城塞へ連れていかれたにせよ、主張することはまったく同じということになるものな。キャシアスはどうやら、城塞にいるだろう守備隊長のような人物が、人の話をよく聞かぬ疑り深いコチコチの石頭で、その上屈強な荒くれ者に違いないと、すっかり決めてかかっているようだが……)
ギべルネスはこの時、寝返りを打つと同時、火の番をしているキャシアスがこっくりこっくりやり出すのを見て――むっくりと体を起こしていた。ふたりの眠る姿を視界の隅に置くような形で、このくらい距離があれば、小声ならば聞こえまいというくらい、一度離れることにする。『どこへ行っていたか?』と聞かれたとすれば、小用を足していたとでも答えればいい。
『へへっ。ようやっとこの俺さまの出番ってわけだな、ギべルネ先生?』
羽アリはギべルネスの茶色いフードの中から飛び上がると、彼の顔の正面、斜め上あたりでそんなことを言った。実際のところ、宇宙船においてAIクレオパトラしか話相手がいないという今の状況は、彼にとって退屈極まりないものだったのである。
「いや、そういうわけでもないよ」と、ギべルネスは苦笑した。「ただ、やっぱり機会あるごとに、ユベール、君と話したいということがあってね……こちらには精霊型人類からの接触はないが、君の宇宙船にいる透明なお友達はどうなんだろうと思ったものだから」
『こっちは相変わらずさ』と、ユベールは器用にも、羽アリの足で肩を竦めるのにも似たポーズを取っている。『あいつらは俺のようなオープンスケベってんじゃなく、ムッツリスケベタイプなんだろうよ。ずっとだんまりを決め込んで、ただじーっとこっちを観察してやがるんだ。まったく薄気味悪ィ連中だぜ……そもそも何人いるのかも知らないけどさ。で、ギべルネス、あんた、明日あたりティーヴァス城塞入りすんだろ?一応、ディオルグの親父の話のほうはこっちでも聞いてたが、らい者の塔だって?ギべルネス、あんたさ、そんならい病人なんか具体的に治療も出来ねえのにどうすんの?』
正確には、宇宙船カエサルにある製薬プリンターによって、<プロミン>というらい病に効くという薬などは創ること自体可能ではあった。だが、そのためにはギベルネスがどちらにせよ一度、基地のどこかへ向かう必要があるわけである。
「そうなんだよな……とはいえ、皮膚病っていうのは、頭痛や腹痛なんかと違って、三日しても症状にまったく変わりがなかったら、あいつはヤブ医者だといったように騒がれることまではないからね。まずはとにかく、徹底的に清潔にするっていうことが治療の第一歩と思うわけだけど、社会的弱者として打ち捨てられているような人々に、そんなに手厚い介護をしてもいいという人がどの程度見つかるかっていうのが問題だと思ってる。あとは、とりあえず無害な皮膚炎のクリームでも塗って、神の名において『あなたは癒されている』とでも大法螺を吹くことくらいしか、今の私に出来ることはないからね」
『そっか……ギべルネス、あんたもつらい立場だよな。けどまあ、せめてもあともう少しだと思って、どうにか耐えてくれ。ロドリアーナのハムレット王子たちは、どうもあんたがいなくなって以降、元気がないようだぜ。あれから調べてみたんだがな、やっぱりこの宇宙船カエサルには、万一に備えて、惑星シェイクスピアに対して地上攻撃の出来る兵器類が搭載されてるし、それは地上基地にしても同様だ。ただ、こんなど田舎惑星でそんなもんを使用することになるとはまったく考えてみたこともなかったもんでな、ちょいとマニュアルのほうを確認してみたらばだ……クレオパトラに頼めば、相当ピンポイントでミサイル攻撃するのなんかは朝飯前だってことがわかったよ。最悪、バロン城塞のほうは、それでどうにかなるんじゃねえか?まあ、神の鉄槌だとかなんとかいう話を攻撃前にちょいとしておきゃあいい。ただ、ギべルネ先生、あんたぁ神のお人なんだから、俺としちゃあもうちょいと趣向を凝らすってはどうかって気がするんだよ』
「趣向って?」
ギべルネスはなんとなく嫌な予感がした。彼としては、自分の<神の人>としての威光のことなどはどうでもよく、ハムレット王子の軍が出来る限り損害を受けることなく――いや、敵味方の軍双方とも被害が出来るだけ少なく、戦争の決することが一番重要なことだと考えていた。つまり、ミサイルをぶち込むことの有益性について言えば、それでバロン城塞が崩れることのみならず、そこに住む人々に恐れが走り、早々にハムレット王子軍側に降伏してくれたらと、そう考えてのことに過ぎないのだ。
『だからさ、ちょいと俺のほうに合図してくれりゃあ、ギべルネ先生、「さあ、とくと見よ!!これこそ神の怒りだ」とあんたが叫んだほんの数秒後にミサイルが着弾してどっかーん!!とか、超格好いいと思わね?』
「そういうことはべつにいいんですよ。とにかく、ミサイルについては最後の手段ということにでもしておきましょう。では、そろそろ私は寝るのに戻りますが、これからも、また話の出来そうな時を窺って連絡しますのでよろしく」
『わーった、わーった!!そいだば、おやすみねんねんころり』
「…………………」
(やれやれ)と思い、ギべルネスが戻ってみると、キャシアスはこの間にハッと目を覚ましていたらしく、「僕は居眠りなんかしてませんよ」などと、可愛い自白を口にしていたものである。
この翌日、ギべルネスはディオルグやキャシアスとともに、ティーヴァス城砦の門を叩いていたわけだが、キャシアスの杞憂をよそに、物事は驚くほど何もかもがスムーズに運んだ。ギべルネスにしてみれば、人格者であるように見受けられるアストリア=アストランス守備隊長に、実は精霊型人類が憑依しており、彼は操られているのではないかと感じたほどである。
「<らい者の塔>がなくなっただって!?」
アストリアは、ギべルネスやキャシアスといった他国人とディオルグが一緒でも、特に怪しんだ風でもなかった。というより、ディオルグの父であるショイグ・オイゲンハーディン将軍の名前が出た時点で――アストリアのみならず、周囲の警備兵の顔には一様に敬意の色が走ったほどだったのである。
また、その後のアストリアの話を聞いていて思うに、その息子のディオルグが長く行方不明になっているという話も、軍籍に身を置く者にとっては有名な話であったらしい。
「ええ。リッカルロ王子……いえ、リッカルロ王がまだ王子であられた時分、西王朝へ戦争に出向く際、当然こちらへお立ち寄りになりまして、戦争終結後、傷病兵とともに、らい者たちも別の住みよい場所のほうへお移しになられたのですよ」
「そうであったか……」
隣にいたギべルネスとキャシアスにも、ディオルグが胸を熱くしているらしいのがはっきり見て取れたほどである。やはり、彼の父のショイグ将軍というのが、リッカルド王のお気に入りであったこともあり、ディオルグの言葉というのは説得力のあるものだったのだろう。リッカルド王から密命を受けていた――などと聞かされても、アストリアには、なんの疑いも不審の念も思い浮かばぬ様子であった。
とりあえず、今<らい者の塔>には守備兵以外いないということだったため、ギべルネスとしてはこの上もなくほっとした。ただ、この時他に別の問題が浮上したというのも事実である。ギべルネスはこの時、自分ではそれと気づかず、東王朝側の言語で話していたのだから!
そのことに真っ先に気づいたのは、キャシアスである。ディオルグも驚いたようではあるが、キャシアスほどではない。また、ギべルネスにしても困ったことには――脳内にダウンロードした言語変換ソフトによって翻訳された言葉をしゃべる形となるため、「一度そこで立ち止まり、東王朝の言葉でしゃべるとまずいので、西王朝の言葉に置き換えてからしゃべろう」ということが、彼自身にはコントロール不可能ということであった。
この件に関して、そこに長く籠もっているだけで、病気になりそうなほど小汚いトイレにて、ギべルネスはユベールに説明を求めた。すると、『衛星から見て、そこの住民たちがどんなことをしゃべってるかとか、あるいは調査のために惑星へ降下した際、万一何かあったらってことでダウンロードしたって程度のものだからな。もともとそんなに精巧ってこともないんだろう……つまりさ、ついさっき調べたところによると、西王朝の言葉でしゃべってる人間のほうが多ければそのように選択がされ、東王朝の言葉をしゃべってる人間のほうが多ければそんなふうに勝手に切り換えられてしまうってことらしい。まあ、あのキャシアスって坊主ともディオルグって親父とも、今じゃもうすっかり仲よしこよしな関係ってやつなんだろ?まあ、どうにかうまくごまかせよ』――と、こういった事情のようであった。
「いかなる文明の利器にも、欠点はあるということか」
ひどい臭気のみならず、その便器を見ているだけで「おえっ」と吐き気のこみあげて来る場所から、ギべルネスは早々に退散することにした。ディオルグには「まったく、あんた本当に一体何者なんだ?」といったように驚かれはしたものの、彼はそう頓着するような様子でもなかった。むしろ、キャシアスのほうが、突然自国語(であるはず)の言語で自分と話さなくなったギべルネスに対し、何か深い不信の念を覚えたように見えたことが――ギべルネスにとっては何か、より深い不安を呼び覚ますものがあったのである。
(やはり、そろそろこれが限界なんだ……というより、今の今まで<神の人>なぞと呼ばれて、ボロの出なかったことのほうがよほど奇跡的だったと言うべきなんだろう)
とはいえ、ティーヴァス城砦を出、今度はリノヒサル城砦へ向かうということになった四日後、再び三人きりになってみると、ギべルネスにとっての第一選択翻訳言語は西王朝のそれに戻った。その時、キャシアスが、「やっぱり先生は<神の人>なのですね。最近ではそんなこともすっかり忘れてしまい、随分失礼な態度を取ってしまったと思います。すみませんでした」などとあやまってきたため、ギべルネスとしては恐縮する彼に、寂しいものを覚えたくらいである。どうやら不審げに見えたのは、彼の信仰する神に対し強い畏れが復活してのことだったらしい。
この件に関しては、ディオルグにしても「で、結局あんたはどのあたりの出身なんだ?」と聞くことさえなかったものである。もっとも彼の場合は「そんなことを<神の人>に聞くのは無礼である」などと考えてのことではなく、もしギべルネスがふと気づいたら神木の樹の股から生まれていた……というのでも、理由はどうでも良かったらしい。つまり、ディオルグにとっては、ギべルネスが<神の人>であれそうでなかったにせよ、自分にとってどうにも気に入らない人間であったとすれば、こうして用心棒の護衛など申し出ることすらなかっただろうということである。
ティーヴァス城砦の気のいい守備兵らは、リノヒサル城砦のある 州の入口まで送ってくれ、砂漠を出る四日までの道のりの間、旅の安全を完全に守ってくれた。東王朝と西王朝とはこれまでに何度となく戦争してきた経緯から、キャシアスなどは憎しみの目で見られるのではと恐れていたわけだが――実際にはそんなこともまるでなく、むしろこの三名いた若い守備兵らは、西王朝の土地のことや風習のことをよく知りたがったほどである。そこで、「へえ。そういうところはお互い、同じようなもんだなあ」としきりに頷いたり、「なるほど~。こっちじゃあ、暦のほうは何かの神さまや守護聖人で埋め尽くされてるってな具合だものな。それでも新年やら祝祭日やらなんやら、お互い守る期間その他に違いはあっても、何かしら共通点があるってことかあ」などと、妙に納得していたものである。
何より、キャシアスが小さい頃より僧院で育ったことがわかると、彼らは西王朝の神や神々についてよく知りたがった。というのも、東王朝においては、毎日が何がしかの神か聖人、あるいは守護天使の日などに割り当てられていたが、錠前の神や陶器の守護聖人など、彼ら自身があまり信じてもいなければ、さほど御利益のない神々や聖人の数というのが多すぎたからなのである。
「ふう~ん。なるほどねえ。星の神々が人の運命を統べるかあ。なんか、そっちのほうが本当の神さまっぽい感じがするなあ」
守備兵のひとり、皮なめし職人の三男であるエウギニア・パンフリアは、キャシアスの話を聞き、焚火を囲いつつ、繰り返し頷いていたものである。そしてそれは、石工職人の四男、ヨーゼル・クインクスにしても、肉屋の五男、マルクス・フォーゼンにしても同様であった。また、彼らは三人とも、それぞれ長男が家業のほうを継いでしまい、仕事らしい仕事も見つからず、それで兵士という職業を選ばざるを得なかったという共通点があった。
このあと、ヨーゼルが西王朝に伝わる有名な歌でも歌ってくれないかと所望したため、キャシアスが歌ってみせると、彼ら一同はその神を讃える讃美歌に、随分感じ入った様子を見せたものだった。とはいえ、その返礼にというわけでもなかったろうが、彼らが気晴らしに酒場などでよく歌う大衆歌を歌ってみせると、その賑やかさにその場にいた誰もが和んだ。もっとも、歌詞の一部には随分卑猥な単語も含まれていたが、マルクスもヨーゼルもエウギニアも、そうはっきりわからないのではないかと思い込んでいたようである。
「人間、国は違えど、物の考え方や感じ方などは、まったく違いなどないものなのですね……」
三人の気のいい守備兵らと大手を振って別れると、キャシアスは強いカルチャーショックでも受けた風にそう呟いていた。
「そうだな。剣で斬れば同じように赤い血が流れ、同じように女を母として生まれてくるという点でも、まったく同じだ。それなのに何故わざわざ戦争などするのかという話でもあるが、ありていに言えば、それが人間というものなんだろうな」
ディオルグも、小さな頃から「西王朝の人々は東王朝の人間よりあらゆる点で劣っている」とか、「西王朝の人間は東王朝の人間よりも邪悪で悪辣だ」など、色々と悪く聞かされて育ったものである。だが、そもそもの歴史を紐解いてみれば、同じ祖先を持つ王朝がふたつに分かれただけのことに過ぎないのだ。そのことを彼自身、ヴィンゲン寺院へ至るまでの旅において痛感していたものだった。
「三人とも、気のいい若者でしたね」
「そうだな。砂漠にある、あんな孤立した城塞でずっと過ごさざるを得ないとなれば、こんなたった一週間程度の旅路でも、あいつらにとってはちょうどいい気晴らしといったところだったんじゃないか?」
ディオルグ自身、リノヒサル城砦へ行ったことまではなかったから、実際のところ、アストリア・アストランス守備隊長が地図を書き記してくれたので助かっていた。また、多少の糧食を与えてもらったことの返礼として、なんの銘もない金貨を渡していたから、この取引は彼らにとっても決して悪くないものだったに違いない。
その後の旅においても、小さな村や町などで「おかしな余所者がやって来た」と邪険に扱われたり、警戒されることさえなく、彼らは大抵の場合どこででも歓待された。というのも、ここ東王朝の風習として、旅籠の神リンデルであるとか、旅人の守護聖人ユースリヒトなどがおり、旅行者の困難を助けたり、宿を提供することは徳を積むことに繋がると考えられているからなのであった。
キャシアスなどは「これもまた、星神・星母さまのお恵み」といったようにいたく感激している様子であったが(というのも、どこででも彼は人気者で、宿を貸してくれたその家の母親から息子同様に可愛がられていたからである)、ギべルネスなどはあまりに色々なことが上手く運びすぎることに、リノヒサル城砦へ到着しようかという頃にはすっかり用心し、ある種の警戒心すら抱きはじめていたほどである。
無論、ギべルネスにしても流石に、行く先々で精霊型人類に憑依された人々が自分たちに優しくしてくれているのだろう……とまでは考えなかった。だが、自分にここまでのことをさせるからには、彼らにとって何か「得になること」、「期待し希望すること」などがあることだけは絶対間違いないはずなのである。
そしてそれは、決して悪い意味としてではなく、良い意味で完全に的中した。ティーヴァス城塞の守備隊の若者らと別れ、さらに旅を続けること十日あまり――巨大な奇岩で出来た、彼ら三人ともが今まで見たこともない奇妙な光景が眼前に迫ってきた。キャシアスにとって、これにもっとも似たものは砂漠の蟻塚だったろうが、そのように無数にも思える茶の岩盤の穴の中に人が住んでいるのだろうと……そう予想されたわけである。
>>続く。