詩とは何でしょう?だれか知っていますか?
バラではなく、バラのかおり、
空ではなく、空のかがやき、
虫ではなく、飛ぶ虫のきらめき、
海ではなく、海のたかなり、
わたし自身ではなく、何かをわたしに見せ、聞かせ、感じさせてくれるもの、
散文ができないことをするもの、
それはなんでしょう?だれか知っていますか?
(「エリナー・ファージョン~その人と作品~」、アイリーン・コルウェル著・むろの会訳/新読書社より)
エリナー・ファージョンは、「ムギと王さま」や「リンゴ畑のマーティン・ピピン」などで知られるイギリスの童話作家です♪(^^)
<詩>というものを定義するのは難しく、詩人が自身の詩の中で「これこそ詩である」ということを書いていたとしても――詩人でもそうでない人にも共通して、「うんうん、そのとおり!」みたいに説明するのってすごく難しいと思うんですよね。
詩人によっては<詩論>みたいなものを書いていたり、詩の中で「詩とはこういうもの」ということを表現したりしてると思うんですけど、わたし自身はファージョンが書いていることが<詩>というものにもっとも近い、と感じています。
つまり、疑問形で問いかけていつつ、いくつか彼女が例をあげているように――「バラではなく、バラのかおり、空ではなく、空のかがやき……」っていう、そういうことなんじゃないかな~という(^^)
あ、ちなみにわたし、自分のことは<詩人>とかなんとか、そんなふうにはあまり思ってません
というより、風のそよぎとか海のさざめきとか、そうしたものの中に<何か>を感じられるという人は、みんな詩人といってもいいんじゃないかな、みたいに思っているというか(^^;)
そしてその<何か>をうまく言語表現できる人が詩人と呼ばれる人なのかな~と。
絵を描こうとは思わない
それより私が一枚の絵になろう
その輝く不可能の上に
心地よく住み
そしてその感触を自分の指で味わうのだ
その類いまれな天上のそよぎは
この上なく快い拷問を
華麗な絶望を 私に思い起こさせるのだ
コルネットのように話そうとは思わない
それより私がコルネットになろう
天空に向かいゆるやかに舞い上り
さらにエーテルの村を通り抜け
軽々と上りつづけるのだ――
私は思いのままに力を与えられた気球と同じだ
ただ一枚の金属の唇弁によって
私の浮橋への橋脚を得たことによって――
詩人になろうとは思わない
耳を持つことの方がすばらしい
魅惑され 力を奪われ 満ち足りる
それは尊ぶべき許可証だ――
なんて恐ろしい特権なのだろう
その技術を身につけ
もし私が自分自身の気を失わせるとしたら
旋律の稲妻でもって!
(「エミリ・ディキンスン詩集~続自然と愛と孤独と~」、中島完さん訳/国文社刊)
旋律の稲妻によって、自分自身が気絶するほどのインスピレーション……それが「わかる」人というのは間違いなく天才だろうと思います。
詩人にはふたつのタイプがあって、ひとつは「言葉を自分で見つけるタイプの詩人」、またもうひとつは「言葉から見つけてもらうタイプの詩人」だそうです。
そして、ディキンスンなどは詩のミューズが来ていたタイプの天才型の詩人だったわけですが――彼女は詩というものについて、こんなふうに表現しています。
「もし私がある本を読んで、身体全体がどんな火でも暖めることが出来ないくらい冷たくなったら、私にはそれが<詩>だとわかります。まるで私の頭の先が取り去られるように体で感じたら、それが<詩>だとわかるのです。これだけが、私が詩を知る方法です。他に方法があるでしょうか」……おそらく、優れた詩作、あるいは文学活動というものは、ただ頭だけでなく、身体にも感覚的に何かが起きるくらいでないと――他の人の心を打つ、ということは出来ないものなのかもしれません(^^;)
ではでは、次回はエリナー・ファージョンの「りんご畑のマーティンピピン」について、何か書いてみたいと思っていますm(_ _)m
それではまた~!!
灰色おじさん-【15】-
(あの子のことを引き取ったばかりの最初の頃は、ある程度金があって、わしさえしっかりしておったら、きっとなんとかグレイスのことを育てていける……なんぞと思っていたが、もし両親がちゃんと揃っていても、それだけではもしかしたら足りんのかもしれんな。その地域とか近所とか、学校の保護者同士のつきあいとか……そうした力がどうしても必要になってくる。それはもしかしたら、ワズワース夫妻だって同じなのかもしれない)
けれどもおじさんは、そう思って自分をあらためて納得させようとしましたが、それでも何か良心の棘のようなものに刺される感触が胸に残っていました。何より、アディントン夫人が言っていた「一組の夫婦を救うと思って」との言葉が気にかかっていたのです。
(じゃが、ワズワース夫妻に誘拐されたという娘さんのかわりが必要なように、わしにだってあの子が必要なんじゃ……)
そして、おじさんがこうした物思いでいたところに、グレイスがアリスに薔薇園で意地悪なことを言われたと、そう言ったのです。きっとアリスは、お母さんが電話か何かでワズワース夫妻と話したり、何かそうしたことを聞いたに違いありません。となれば、もしかしたら今後、アリスは『あんたのことを養子に欲しい人たちがいるんですって?』などと、言ってくるかもしれない……そう思うとおじさんはなんだか、とても不安になってきました。
「そのな、グレイス」
夕食の仕度が整うと、食卓テーブルについてのち、おじさんはグレイスと一緒に<食前の祈り>をしました。そして、そのあとパンをちぎり、ビーフシチューを一口二口ほどすすってから――その話を切り出したのです。
「おまえのことを引きとりたいというご夫婦がおるんじゃが、グレイスはどう思う?」
「ええっ!?」
おじさんはこの際、ズバリそのままグレイスに伝えたほうがいいかもしれないと思ったわけですが……この時のグレイスのショックを受けた様子を見て、言葉を選ぶべきだったと後悔しました。それか、もっと遠まわしに順に話していくべきだったのです。
「どうして!?おじさん、あたしのことがもういらなくなったの?」
驚きのあまり、グレイスはガチャリ、とスプーンを皿の外に飛び出させてしまいました。ビーフシチューの茶色い液体が、ランチョンマットの上に染みを作ります。
「まさか、そんなことがあるもんかね。実はおじさんはこの話、もうアディントン夫人にほとんど断ってしまったんじゃ。じゃがさっきの、アリスから意地悪を言われたというおまえの話を聞いてな……こう思ったんじゃよ。たぶんアリスは、ワズワースご夫妻が家にやって来てお母さんとそんな話をしているのを聞いたとか、そうしたことがあったに違いないとな。となれば今後、『何故そんないい話をあんたのおじさんはあんたに黙っているのかしら』だの言われても困ると思ってな」
「じゃあ、じゃあ、おじさんはその話、あたしにも言わずに断るつもりでいなさったってこと?」
グレイスのほうではもう、泣きださんばかりの勢いでした。
「まあ、そうじゃな。わしも自分のこの判断が正しいのかどうか、ようわからなくてな。自分の心の内にだけしまっとこうと思いながらも、つい隣のジュディおばさんに相談してしまったわい。そしたらジュディも、グレイスには何も言わないで断ったほうがいいってそう言ってくれてな……わしとしてはほとんどそんなつもりじゃった。じゃが、わしはおまえには嘘はつかん。一応一通り、おまえのことを欲しいと言っとるご夫妻がいるということだけは、おまえに話しておこうと思う」
このあとおじさんは、すっかり食事も喉を通らない様子のグレイスに、順に話して聞かせました。ワズワースご夫妻という、とてもお金持ちのご夫妻がグレイスのことを欲しがっていること、またその理由についてなど……また、おじさんも年が年だし、グレイスにしてあげられることには限りがあるし、そうしたことを天秤にかけて考えた場合、どちらがグレイスにとっていいことなのか――グレイスのことを自分の手許に置いておきたいと思うのは、自分の我が儘なのかもしれないとも思うとる、ということも、全部素直に話して聞かせたのでした。
「そう……そうなの。でもあたし、おじさんがほんとはあたしを手許に置いておきたいと聞いて嬉しいわ。だけど、確かにお気の毒なご夫婦なのね、ワズワースさんって。でも、あたしがもしその人たちの娘になっても、おふたりにとってはやっぱり不幸かもしれないわ。だって、そのいなくなった子の代わりにはあたしはなれないし……あとから、やっぱりこんな子、もらわなきゃ良かったなんて言われても、あたしにはどうしようもないもの」
「まあ、その場合は遠慮なくおじさんの元に帰ってきたらええ。じゃがまあ、最初はまず何度か会ったりなんだりして、お互いの相性を確かめるということにはなると思うがの。が、まあ、グレイスがこんな年寄りの元にこれからもいたいと言うなら……わしのほうでもやっぱり、そのことのほうが嬉しいよ」
このあとグレイスは、うっすらと浮かんだ涙をティッシュで拭うと、おじさんがあっため直してくれたビーフシチューを食べることにしました。グレイスにとっては何より、「おじさんだっておまえを手放したくはないよ。じゃが、相手のワズワースご夫妻はおじさんが中金持ちだとしたら、本物の大金持ちだということじゃったからの。それで迷うとったんじゃ」と言ってくれたことが嬉しかったのです。
こうしてお互いの愛情を確認しあったふたりでしたが、それでもグレイスは自分の部屋にひとりきりになってみると、色々と考えずにはいられませんでした。つまり、おじさんは自分を手許に置いておきたいと言ったけれども、実は本当は姪の存在が重荷になってきているのではないかということや、最近時々腰が痛いと言って伏せていたり、たまに頭痛がすると言って寝込むことがあることや……おじさんが自分の年齢を随分気にしているらしいということなど、グレイスはいっそ自分がいなくなったほうが、おじさんにとっては楽なのかもしれないということも、少しだけ考えてみたりしたのです。
けれどもグレイスとしては、このままおじさんの家にいたかったですし、将来的におじさんに何かあったら自分が面倒を見るのだと心に決めてもいました。グレイスは夕食の席で「だけど、あたしがその人たちの子供になったりしたら、グレイス・ワズワースってことになるのね。それはちょっと素敵だわ」と言っていましたが、これからも学年がかわるごとに男子たちが「グレイス・グレイだって!変な名前」と言ってこようとも、そんな馬鹿な子のことはけちょんけちょんにしてやればいいだけの話でしたから。
(でも……おじさんもワズワースご夫妻のことは気にしていたっけ。あたしも、とてもお気の毒とは思うけど……それならやっぱり、孤児院とかであたしと同じ年くらいの子を引き取るとかするしかないんじゃないかしら。少なくともあたしには、あたしのことを必要としてくれるおじさんがいるんですもの)
この翌日の月曜日も、グレイスはいつも通り――あるいはいつも以上に嬉しいような気持ちで家を出て学校へ行きました。夏休みが近いせいもあって、学校の雰囲気は緩みきっていたかもしれません。グレイスは休み時間になるたびにべスやメアリー、それにアーロンたちとふざけあっては駆けまわっていました。そして、グレイスは心の中で思ったのです。
(自分には愛するおじさんがいて、学校も毎日楽しい。そりゃ、来期またクラス替えがあったらそのあとどうなるかはわかんないけど……)
けれども、グレイスはべスとメアリーとは、学年が変わってもずっと友達でいられるような気がしていましたし、最悪、アリスやエリザベスのどちらか一方と同じクラスになったとしても、あのふたりと同じクラスでさえなければ、たぶんなんかとかなるだろうと思っていたのです。
ですからこの日、グレイスは下校途中でみんなと別れてからも、スキップをしながら家のほうへ向かっていきました。まさか、自分のことを後ろから尾けてきている人物がいるなどとは、想像も出来ませんでしたから。
それは本当に、あっという間の出来事でした。グレイスがリュックのバンドのところに手をかけて、スキップしながら歩道を進んでいくと――最初にマクグレイディ家のレンガ調の家に、その前庭のよく整えられた芝生の庭が見えてきます。次に、おじさんとふたりでグレイスが整備した綺麗なお庭、それにペパーミントの壁の可愛いおうちがありました。そしてグレイスが家まで歩いてもう二百メートルもないところで、何者かが……彼女の背中のリュックを掴み、それから布に薬品をしみこませた何かを口許にかがせたのです。
あとのことはグレイスにはもう何もわかりませんでした。ただ、次に目を覚ました時、あんまり気分が悪くてグレイスは吐き気がしました。それで、「うっ、うえっ」と声を洩らして、トイレかどこか……吐いても大丈夫な場所を探そうとしたのですが、そもそも自分のいる場所が一体どこなのかがわかりません。
「ここ、どこ……?」
そこはとても広い寝室でした。天井と壁は青い空に雲が浮かんでいる壁紙で覆われ、今グレイスは子供用のベッドに寝ていましたが、そのすぐ横に揺りかごや子供用のおもちゃの入った箱などがあります。それに新品の学習机や、びっくりするくらい大きなぬいぐるみや絵本のいっぱい詰まった本棚や……グレイスはすっかりわけがわかりませんでした。
もう一度、「うえっ」と喉の奥、胃のあたりから何かがせりあがってくるのをグレイスは感じましたが、どうにかこらえました。ベッドから下りると、ただひとつだけあるドアの前まで歩いていきます。体に悪寒が走り、グレイスは一度足が震えて転びましたが、(おじさん。助けて、おじさん……!!)ひたすらその一念で、どうにかドアまで這っていきました。
けれども、グレイスがドアノブに手をかけるためにどうにかして立ち上がろうとした時のことでした。ずっと監視カメラで部屋の様子を見ていたセシリア・ワズワースは、おやつをトレイに乗せるとグレイスのいる子供部屋までやって来たのです。
「まあ、どうしたの、オードリー。もしかして具合が悪いのかしら?」
セシリアは、学習机の上にココアとお菓子ののったトレイを置くと、グレイスの額に手をあてました。そして立ち上がろうとするグレイスに手を貸すと、彼女のことをベッドまで運んだのでした。
「おばさん、誰なの……?」
グレイスは自分が家まであともう二百メートルくらいのところで、誰かに後ろから薬品のようなものをかがされたこと、それとおそらくはそのせいで今気分が悪いのだろうことは理解していました。ですから、この一見優しそうに見える上品なおばさんも、決して油断のならない人間ではないかと思っていたのです。
「オードリー。わたしはあなたのおばさんじゃないわ。あなたのママよ。ねえ、そうでしょ?」
ワズワース夫妻のファーストネームをグレイスは聞いていませんでしたから、その女性がワズワース夫人なのだとはまったく想像もできなかったのです。
「ママ……?あたしのママはもう死んだわ。交通事故でね。おばさんはどうしてそんな変なことを言うの?」
けれどもこの時、セシリアがあまりに悲しそうな顔をしましたので、グレイスは一旦黙ることにしました。今は具合が悪いせいで、うまく頭の中が働きませんでしたし、とりあえず突然殺されたりといったひどい目に遭うということはないという、そのことだけはわかっていましたから。
「あなたはわたしの可愛いオードリーよ。あの日……あなたが学校の学芸会のミュージカルでお歌を歌っているのを見て――ママにはわかったの。あなたが三歳の時に誘拐された、わたしの可愛いオードリーなんだっていうことがね」
去年の学芸会で、グレイスは『サウンド・オブ・ミュージック』の三女、ヨハンナ役でした。そしておじさんがワズワース夫妻が自分を養子にしたい理由については聞いていましたから、それで初めてこの綺麗な人がワズワース夫人なのだろうとわかったのです。
「違うわ、おばさん。あたしの名前はグレイスっていうのよ。グレイス・グレイ。それで、あたしのパパはジャック・グレイ。ママの名前はレイチェル・グレイっていうの。でも、ふたりとも交通事故で死んじゃったの。あたしね、ずっと思ってたわ。どうしてあたし……あの日、パパやママと同じ車に乗ってなかったんだろうって。そしたらパパやママと一緒に今ごろ天国にいたに違いないわ。ねえ、そうじゃないこと?」
「まあ……グレイスちゃん。ずっとその小さな胸にそんな悲しみを抱えて生きてきたのね。可哀想に……」
セシリアはグレイスの体をぎゅっと抱きしめると、涙を流しました。グレイスは、もしワズワース夫人が自分をグレイスとは呼ばず、オードリーと呼び続けるようなら――(このおばさんはきっと少し頭がおかしいに違いない)と確信していたことでしょう。けれども、セシリアは自分のことを『グレイスちゃん』と優しく呼び、あたたかくぎゅっと抱きしめてくれました。その瞬間、グレイスにはわかった気がしました。この人はとてもいい人で、本当に心から自分に同情してくれているのだと……。
「そうだわ。少しでもいいからおやつを食べない?そしたらきっと具合が悪いのもよくなるわ」
グレイスのことをワズワース邸にまでさらってきたのは、セシリアに雇われた探偵会社の人間でした。彼らは色々な事情をすでに知っており、自分たちのしたことが犯罪とは思っていなかったのです。
「うん……でもおばさん、それよりあたし、おうちに帰らなくちゃ。おじさんがきっと心配してるもの」
「グレイスちゃん。悪いけど、それは出来ないのよ。今、うちの弁護士がおじさんのうちのほうへ向かってるはずだわ。そのね……グレイスちゃん。あなたとおじさんとは……」
セシリアはそこまで言いかけて、学習机の上のトレイをベッドの隣のテーブルに置きました。そこにはココアのマグカップの他に、高級菓子メーカーのチョコレートやクッキーがいくつものっています。
「ほら、ちょっとでもいいから食べてみてちょうだい。そしたらきっと気分もよくなるわ。そのあとはもう一度少し寝てちょうだいね。次に目が覚めた時には、大分具合のほうもよくなってるはずだから」
「そんなことより、おばさん。おじさんがどうしたの?おじさんとあたしは一体なんなの?……」
ここまで言うと、グレイスは意識が再び何かにのみこまれるように、枕に頭をつけて寝入ってしまいました。セシリアは、グレイスの寝顔を愛しそうに眺め、手でその顔の輪郭を何度も撫でました。そして、(ああ、神さま……!)と思いながら、グレイスの額に口接けたのです。
実をいうと、このことをワズワース氏は何も知りませんでしたから、子供部屋に女の子が眠っているのを見ると、顔を青ざめさせていました。そして、「おまえ、なんということを……」と、妻に向かってそう言いました。
「もう少し待って、ちゃんと法的な手続きさえとれば、この子はきっとうちの子になったはずだぞ。セシリア、そりゃもちろんおまえの気持ちはわかる。だが、おまえがやったことは……」
(犯罪だぞ)と声に出して言う勇気がなく、オリバー・ワズワースはそのまま口を噤みました。セシリアはといえば、四十三歳とは思えないくらいしわの少ない顔に少しばかり意地の悪い微笑みを浮かべていたかもしれません。
「そんな悠長なことやってられないわ。だって、そうでしょう?わたしたち、あの子が無事に戻ってくるのを待ったわ。それも、何年も何年も……そしてとうとう神さまがわたしたちの祈りに応えてくださったのよ。それなのに、法律だのなんだの言ってたら、いつまでもオードリーはあの血の繋がらないおじさんの元にいることになったでしょうよ。そんなこと、もうわたしには我慢できない……!」
この時、一度眠ったはずのグレイスが「ん……」と微かに身じろぎしたため、オリバーとセシリアは、ハッとして一度娘のオードリーの部屋から出ることにしました。そして、今度は別室でこの件について夫婦で話しあうということにしたのです。
一方、グレイスが学校へ帰ってくるのを待っていたおじさんの元へは、セシリアがグレイスに言っていたとおり、ワズワース家の顧問でもあるウォルター・ハリスという名の五十代の弁護士が訪ねていました。呼び鈴が鳴り、おじさんがドアを開けると、この感じのいい禿げ頭の弁護士は、帽子を頭からとって一礼していました。
「どなた様でしたかな……?」
「私、ワズワース家の顧問をしております弁護士のウォルター・ハリスと申します。このたびは、折り入って申し上げたきことがございまして……」
このあと、おじさんがハリス弁護士から聞かされたことは、おじさんが六十八年生きてきた今までの人生の中で仰天するような驚きの事実でした。ウォルター・ハリスはすでにワズワース夫人がグレイスのことをさらってきたということについては隠しておき(それは一番最後に話すべきことでしたから)、まず、詳細な資料――おじさんの姪のグレイス・グレイとおじさんの間にはなんの血の繋がりもなく、ワズワース夫妻とグレイスとが血の繋がった親子である動かぬ証拠、DNAによる鑑定結果を示しました。
「そ、そんな……」
ワズワース夫妻がグレイス欲しさのために、このような虚偽の資料を揃えたとも思われず、そうした資料一式をおじさんは震える指で握りしめていました。
「もっとも、ミスター・グレイの弟のジャックさんと義理の妹であられるレイチェルさんが、どういった経緯によってワズワースご夫妻の愛娘であるオードリーお嬢さまをご自身の娘として育てることになったのか……そのことはまだ調査中でして、不明です」
(グレイさんのほうで、何かご存じのことはありませんかな?)といったように顔を覗きこまれた気がして、おじさんは鋭いハリスの眼差しを見つめ返しました。
「わしは、本当に何も知らんのです。弟とは、かなり昔に喧嘩をして以来、ずっと会っていませんでしたから……」
ハリスの話によると、ワズワース夫妻は仕事の用でサウスルイスへは月に二度ほど出かけていっていたとのことで、その時に乗っていたタクシーが襲われたということでした。その強盗たちは、タクシーの料金を狙っていたらしく、ワズワース夫妻の娘のオードリーを人質にとると、オリバーとセシリアが差しだしたお金を握りしめてその場を立ち去っていったというのです。
その強盗たちとジャックとレイチェルのグレイ夫妻とが何か関係があったとは思われず、このあと何故オードリー・ワズワースがふたりの娘として育てられることになったのか……その点はまったくわからないと言います。
「実は、ですな。去年、学芸会でグレイスお嬢さんのことを見て、彼女が間違いなく自分の娘だと直感したのは、奥さまのほうだったのですよ。旦那さんのオリバーさんのほうでは、もし娘のオードリーが今も生きていたとすれば、このくらいの年になっているはずだと思いながら舞台を見ていたというそれだけだったそうです。それでも、家へ帰るなり突然奥さまのほうが『あれは絶対にオードリーよ。あなた、どうしてわからないの?』とそれはもう物凄い剣幕だったそうで……以来、奥さまのほうでは探偵を雇ってグレイスお嬢さんの身辺のことを調べていたのですな。そこで、やり方は少々乱暴かもしれませんが、グレイスお嬢さんの髪の毛を学校のほうでこっそり入手すると、民間のラボに依頼して、DNA鑑定をなさったのです。それでもし一致しないという結果が出たなら諦められる……ところが、その結果がこれというわけだったということなんですよ」
そこには、グレイスが99.9%の確率でワズワース夫妻の娘であるという証拠が少々難解な図表とともに示されていました。おじさんは、見方もわからないその図表を一体何度繰り返し見つめたことでしょう。
「この証拠を突きつけられると、オリバーさんのほうでは、とにかく神さまに感謝するのみだったと言います。そこでまずは、グレイさん、あなたに姪御さんを手放すつもりはないかどうかと打診されたと思うのですが……そんなつもりはないとの返事をいただいて、それで、ですな……」
ここからは法律の専門家として、ハリス氏にしても、言葉に気をつけなければいけないところでした。
「今、グレイスお嬢さんは、ワズワースご夫妻のお屋敷のほうにおられます。今ごろはおそらく、奥さまあたりから真実を聞かされているのではないかと思われますが……」
「そんな……っ!!グレイスはまだほんの子供じゃのに、そんな話を突然聞かされたら……」
おじさんはついきのう、グレイスが垣間見せた心細いような子供らしい表情をよく覚えていました。しっかりしているように見えても、一度両親を失って大きなショックを受けたことから――おじである自分にまでも見捨てられたくないというのでしょうか。何かそうした複雑な心情をおじさんはグレイスから感じていました。
それなのに、今度は交通事故で死んだと思い、あれほど悲しんだ両親とは実は血の繋がりがなくて、本当の血の繋がった両親が生きていると知るだなんて……それがまだ十歳の女の子にどれほどの暴力的な事実であるか、おじさんには想像も出来ませんでした。
「いえ、そのあたりのことは奥さまのほうでも考慮されることでしょうが――それでも、長く行方不明になっていた娘が生きていたのですよ。これが奇跡でなくて何が奇跡かと、私がワズワース夫妻でもそう思うでしょうな。そう考えた場合、おふたりの御心情についてもどうか、お察しいただけないでしょうか?」
「…………………」
おじさんはこの時になって初めて、神にあって正しいのはワズワース夫妻のほうなのだろうかと思いました。確かに、この場合どう考えてもグレイス……いえ、オードリーでしょうか。彼女はワズワース夫妻の元へ戻るべきなのでしょう。今となってはもう、血が繋がっているかいないかというのは、おじさんにとってそう大きなことではなくなっていました。もちろん、ショックにはショックですし、それはグレイスのほうがより大きなショックを受けることではあるでしょう。それでもこの三年、一緒に暮らしてきて――おじさんにはもうグレイスのいない暮らしなどは、まったく考えられなくなっていました。そのくらい、この姪のことを今では愛していたのです。
「それで、グレイスは今後……どういうことになるのでしょうか?今、おそらく法律上の親権といったものはわしの元にあると思うのですが、これから先、ワズワース夫妻はグレイスが自分たちの血の繋がった娘である以上、親権を取り戻したいという、そういうことなんでしょうな、おそらくは」
おじさんは、自分でも自分が何をしゃべっているのか実はよくわかっていませんでした。頭の中では、(グレイスはこのことをどう思うじゃろうか)と、そんなことでいっぱいでしたから。
「もし、グレイさんのほうで姪御さんを手放したくないということであれば、ワズワース夫妻は裁判を起こすでしょう。こうした特殊な件というのは、何分過去に判例がないとはいえ……それでもおそらくはかなりの高い確率で判事はワズワース夫妻の元にグレイスお嬢さんを戻すよう判決を下すのではないかと思います。つまり、そうなると費用もかなりのところかかりますし、にも関わらず結局は……」
「その、もしグレイスがわしとこのまま暮らしたいのだと言い張ったとしたらどうなります?」
どうしてもおじさんはその点についてだけは聞かずにはいられませんでした。
「そうですな……ですがまあ、グレイスお嬢さんはまだほんの十歳でしょう?何分、ワズワース夫妻は資産的にも人格的にも、申し分のない方たちですからな。こう申してはなんですが、グレイさん。あなたは年金暮らしの子育ての経験のない定年退職者ですから……やっぱりどう考えても不利ですよ。あくまで法律的な観点から見た場合は、ということですが」
ハリス氏にしても、こうした言い方をするのは心苦しい限りでした。何故なら、おじさんの口ぶりから言って、姪としてとても可愛がってきたのでしょうし、姪のほうでも懐いているのが窺い知れましたから。それに、今まで血が繋がっていると疑ってもみなかったというのに、実はそうでなかったなどとは――ハリスは今さらながら、自分が随分ひどいことを突然グレイ氏に告げてしまったのではないかと後悔しました。
「そうですか。まあ、確かに、長い目で見た場合……そのほうが、あの子のためということなんでしょうな」
このあとおじさんは、「すみませんが、帰っていただけませんか」と、ハリス氏にお願いしました。おじさんは、このままグレイスがワズワース氏のお宅にいて戻ってこないなどとは考えていませんでしたから、姪が帰ってくる前にひとりで部屋で泣きたかったのです。
「この件に関しては、私がワズワース夫妻の代理人ということで、何かあれば私の事務所のほうにお電話いただければと思います」
ハリス氏は実に丁重な態度で「突然失礼なことを申し上げ、誠に申し訳ありませんでした」と、頭を下げてからおじさんの家を辞去していました。
そして、おじさんがワズワース夫人からでも真実を聞かされ、今どんな気持ちでいるだろうと思いながら、堪らない気持ちで顔を覆っていると――電話が鳴りました。おじさんが目尻に滲んだ涙を拭きつつ電話に出てみると、相手はワズワース夫人でした。
『今、うちの弁護士のほうから電話があったものですから……すべて、お聞きになったのでしょうね?』
「ええ、まあ……」
おじさんはそう言うのがやっとでした。まだ胸には熱いものがつかえており、思考のほうも千々に乱れたままでしたから。けれど、実のひとり娘を失って、今の自分以上にワズワース夫妻はつらい思いをしてきたであろうこともわかっていたのです。
『それで、どうお考えになりまして?』
「どうと言われましても……グレイスの気持ちのほうも聞いてみませんことにはなんとも……」
『あの子は今、うちにいます。それで、ですね。オードリー……いえ、あなたの弟夫妻がつけた名前はグレイスでしたわね。グレイスはこのままうちにいて帰りたくないと申しておりますの。グレイさんのほうではそれでよろしかったでしょうか?』
おじさんはもちろん(変だな)とは思いました。けれど、この時初めてはっきりわかったのです。ワズワース夫妻は<最初からそのつもりだった>のだということが。
「そのですな、電話口にちょっとグレイスのことを出してもらえませんか?べつにわしはあの子がお宅におりたいというのであれば、それで構わんと思っておるので……ただ、あんまりいっぺんに色んなことを聞かされて、びっくりして傷ついとるんじゃないかと、そんなことが心配なもんで……」
『いえ、あの子は昔あった微かな記憶なんかを思いだして、もうすっかりうちの子みたいなものなんです。それなのに、今あなたと話したりしたら……色んなことが台無しになってしまいますもの。今後のことにつきましては、また弁護士のほうから連絡させますので、そういうことでどうぞよろしく』
このあと、セシリアはガッチャリ電話を切っていました。何故かとてもイライラしました。実の親の自分よりも、血の繋がらないおじさんのほうが、なんとも親らしい口ぶりだったような気がして……。
実をいうとワズワース夫人はこの時、おじさんに嘘をついていました。というより、彼女自身の希望的観測について口にしていたと言ったほうがいいかもしれません。グレイスはまだ自分の部屋だった場所で眠っていましたが、セシリアはもうそれだけで、他には何もいらないような気がするくらい、胸がいっぱいでした。
何分、グレイスはこの屋敷で三歳まで暮らしているのです。そのうち、家の中や庭などを歩きまわっているうちに、何か思いだすかもしれません。そしてオードリーことグレイスが、『ああ、そうだわ!思いだしたわ。あたし、確かにここのうちの子よ』といったように言ってくれたらどんなにいいかと、セシリアがかなり強引な手法を取ったのも、そのことがあったためでした。
けれども残念ながら、こうしたワズワース夫人の思いはこのあと裏切られることになります。グレイスにとっては、セシリアとオリバーが交互に自分を抱きしめてきても、知らないおじさんとおばさんが何故か感無量といった様子をしているといったようにしか思えませんでしたし、けれどもそこには、普通の涙以上の深い何かがあることだけはわかっていました。それで、言いたいことは色々あったにも関わらず、グレイスはとりあえず一旦ぐっと黙りこむということにしたのです。
こう言ってはなんですが、ワズワース夫妻は気持ち悪いくらいグレイスに親切でした。でも、それも仕方のないことだったでしょう。ワズワース夫妻にとっては、娘のオードリーの年齢は今も三歳で止まっているのです。ですから、実際の十歳の子に対するよりも、ずっと幼い子に対するような態度で接していたのでした。
それに、ごはんを食べたりおやつを食べたりするたびに、じっと見つめられるので、グレイスは「そんなに見つめられたら、物が食べづらいわ」とその時にはとうとうはっきり言ってしまいました。一度グレイスが「おじさんに連絡しなくちゃ。きっと心配してるわ」と言うと、ワズワース夫人は「もう連絡してあるわ。おじさんもここにあなたがいるってこと、ちゃんと知ってるから大丈夫よ」と答えていました。
グレイスは(なんかほんとに変だわ、この人たち)と思いましたが、でもワズワース夫妻がとても気の毒な人たちだということを思いだし、もう少しだけ彼らにつきあって、あとはもう本当に自分の家へ帰るつもりでいたのです。
けれど、夕食後、グレイスが(流石にそろそろ帰らなくちゃ)と思い、その旨をご夫妻に伝えますと、オリバーは非常なショックに見舞われたような顔をし、セシリアのほうではとうとう泣きだしてしまいました。そして、我慢しきれずに言ってしまったのです。
「あなたはわたしたちの本当の娘なのよ、グレイス……!!ねえ、本当に何も思いださない?三歳の時まで、あなたはここにいて、この食堂の椅子に座ってママやパパとお食事してたのよ。ああ、そうだわ。食後のデザートにメロンを食べましょう。あなた、大好きだったでしょう?今もメロンは好き、グレイス?」
「…………………」
(今はもうそんなにメロンは好きでも嫌いでもないわ)というのがグレイスの本音でしたし、今フルーツの中で特に好きなのはイチゴでした。それと、メロンと聞いてグレイスが真っ先に思いだすのは、おじさんの作ってくれるメロンパンのことでしたが、もちろんそんなことも言ったりすることは出来ません。
そして、高級メロンがエインズレイの食器にのせられて出てくると、ようやくのことでグレイスはワズワース夫妻にこう聞いていました。
「あのう……きっと誰かと人間違いをされていると思うんです。あたしのパパとママはもう交通事故で死んじゃっていなくて、今はパパの兄のおじさんと暮らしてるんです。もちろん、三歳の時にさらわれたっていう娘さんのことはお聞きしました。でも、きっとあたしじゃ代わりになれないと思うんです。ごめんなさい」
グレイスのこの言葉の聞いた時の、ワズワース夫妻の悲劇的な顔の表情に、グレイスはとても深く傷つきました。そしてこのあと、泣き崩れてしまった妻のことをオリバーは慰め、そのあと彼は<DNA鑑定>のことを引き合いに出し、グレイスに「間違いなく君はわたしたちの子供なんだよ」と教え諭しました。
「どういうこと?まさかそのこと、パパもママもおじさんも知ってて、それなのに黙ってたってことなの?」
この時オリバーもセシリアも初めてハッとしました。ワズワース夫妻は、グレイスが自分たちの娘であると告白しさえすれば、お互いに感動の親子の対面になると、そう思っていました。けれども、グレイスにしてみれば、もっと事情のほうが複雑であり、もしかしたら今、自分たちは実の娘に対し、とても残酷なことをしているのかもしれない……ということに、初めて気づいたのでした。
「ち、違うのよ、グレイス。グレイスが今一緒に暮らしているおじさんはね、グレイスのこと、ずっと血の繋がってる姪だと思っていたのよ。グレイスのパパもママも、きっと何か善意によってグレイスのことを引き取ることにしたんだわ。きっとそうよ。だけど、去年、学校の学芸会でグレイスが歌を歌っているのを見た時……おばさんにはわかったの。グレイスがずっといなくなってたわたしの娘のオードリーなんだっていうことに」
「どうしてなの?DNA検査って、もちろん意味はわたしもわかるけど……じゃあ、パパとママはどうしてあたしのこと、警察に届けなかったのかしら。あたし、今も三歳くらいの頃より前の記憶ってないわ。記憶としてあるのは、四歳の頃くらいから……死んじゃったパパとママとレストランの厨房に一緒にいておしゃべりしたり、ママがじゃがいもやにんじんの皮を剥いてて、『あたしもやりたい!!』って言ったり。ねえ、それは間違いということは本当にないの?」
オリバーとセシリアは顔を見合わせると、互いに途方に暮れたような表情をしていました。三歳の時に別れ別れになってから、早七年……もはやその間にあった時の隔たりは、埋めようがないのかもしれませんでした。ちょうど、鳥類が最初に見たものを、それが鳥ではなく他の動物でも、最初に見たものを母親と思いこむように――グレイスのこの<刷り込み>にも近い状態はもはや解除が不能なのかもしれませんでした。
けれど、時間をかけさえすれば親子の時間は取り戻せるとワズワース夫妻は思っていました。ただ、それはふたりが最初期待していた親子関係とは違うものにはなってしまうかもしれません。それでも、行方不明、あるいは死んだかもしれないと思っていた娘が今こうして生きていたのです!ワズワース夫妻にはそれだけでもう十分でした。
「まあ、細かい説明は端折るにしても、グレイス……君は本当に我々の娘なのだよ。なんだったら、警察へ行ってそのことをおまわりさんから説明してもらったっていい。もちろん、交通事故で亡くなったというグレイさんたちの娘としてグレイスは育ったのだから、おふたりのことを慕うのは当然のことだ。だが、わたしたちはこれから、裁判所に申し立てをして、正式に君を引き取りたいと思ってるんだ。そのこと、どう思うかね?」
「どうって……あたし、ジョンおじさんのことが好きなの。それに、おばさんにはおじさんがいて、おじさんにはおばさんがいるかもしれないけど、おじさんにはあたししかいないのよ。でももし……血が繋がっていないって、おじさんが知ったら……」
グレイスは俯くと、とても悲しくなってきました。血の繋がった姪と思えばこそ、おじさんは自分のことを引き取ってくれたのです。それを今さら、血の繋がりはなかっただなんて……グレイスはおじさんがこのことを知ったらどう思うのか、そのことがとても心配でした。
「グレイス、おじさんはもう、このこと知ってるのよ。それで、グレイスがここで暮らしてもいいって、そうおっしゃってくださってるの」
「ええっ!?どうして……なんでおじさんもうこのこと知ってるの?だって、おじさんきのう言ってたわ。ワズワース夫妻から引き取りたいって言われたけど、あたしに言う以前に断ったって。でも、結局あたしに全部話してくださったの。もしそうなら変だわ。グレイスがここにいたいならいていいって、きのうそう言ったばかりなのに……」
グレイスは頭が混乱してきました。何がおじさんの本心なのでしょう。もしかしたらおじさんは優しいから、それで自分は本当はこうしたいのだと言えなかったのでしょうか。血が繋がっていないのなら、自分のうちには置いておけないとか、もしそういうことなのだとしたら……。
(あたし……あたしは、おじさんの本心が知りたい。それで、もしおじさんが自分の家にもうあたしを置いときたくないなら、それはしょうがないことだけど、あたしが「おじさんの家にいたい」って言ったら、おじさんは本当はどう思ってるのか……そのことが知りたい)
「あたし、おじさんと一度話さなくちゃ。なんにしてもあたし、一度自分の家へ帰るわ」
グレイスは不安ではありましたが、それでも今も「おじさんと一緒にいたい」と思う気持ちに変わりはありませんでした。ただ、おじさんのほうで血が繋がっていないと聞いて、今までと気持ちが変わってしまったのかどうか……そのことを知りたいと思ったのです。
「まあ、ダメよ、グレイスちゃん。あなたはわたしたちの娘なんですもの。もうここがあなたにとっての家なのよ。ほら、もうすぐ夏休みでしょ?おじさんとおばさん……いいえ、パパとママとグレイスの三人で、旅行にでも行きましょう。場所はロンドンでもパリでも、グレイスの好きなところでいいわ。きっとわたしたち、これからいい親子になれると思うの。ねえ、そうでしょう?」
セシリアはグレイスにそう聞いたのですが、グレイスが戸惑った顔の表情をしていましたので、代わりにオリバーが「そうだとも」と答えていました。
「私たちはきっと、これからいい関係を築いていけるさ。もし仮に思い出せなくても、グレイス、ここは君が三歳まで過ごした家なんだ。それに、もしかしたら……ここで長く過ごすうちに、昔のことを何か思い出すかもしれない。グレイス、今はまだ私たちが君のことを心から愛していると言っても、こんな知らないおじさんとおばさんが何を言っているのかという感じかもしれない。君とジョンおじさんだって、前は全然知らない同士だったんだろう?きっと私たちだって、グレイスの望むとおりに色々よくしてあげられると思う。だから、お願いだ。一度でいいから私たちにチャンスをくれないか?」
「あなた……!!」
セシリアは夫に抗議するように彼のことを睨みつけました。確かに、今のグレイスにしてみれば自分たちは「知らないおじさんとおばさん」なのかもしれません。でも、口に出してそう言われたことでセシリアは傷ついたのです。それに、「チャンスをくれ」も何も、わたしたちが親子であることは、誰にも覆すことの出来ない事実なのだから、そんなおかしな言い方はやめて欲しいとも思っていました。
「わかっている。わかってるよ、セシリア。でも、考えてごらん。それが今のグレイスの現実なんだ。ごめんよ、グレイス。わたしたちはどうやら考え違いをしていたようだ。私たちはね、君のことを育ててくれたグレイ夫妻が交通事故で亡くなったと聞いていたから……血の繋がっている私たちが名乗りでれば、きっと君が喜ぶものと勘違いしていたんだよ。だが、よく考えたら……君の身になって考えてみれば、今まで本当のパパとママだと信じていた人たちが実は違ったんだものな。私たちの一方的な思いばかり押しつけて申し訳ないとも思う。だけどお願いだ。三歳の時におまえを失ってから……セシリアと私が今までどんな気持ちで生きてきたかということも、少しでいいから考えてみて欲しい」
「…………………」
最初、グレイスは何がどうでもおじさんと自分の家に帰るつもりでした。けれど、瞳に涙を滲ませた、悲愴な雰囲気のワズワース夫妻に、それ以上何か感情を揺さぶるようなことは言えない気がしたのです。最終的におじさんの家に戻るとしても、暫くここへいないことには、ワズワース夫妻に対して申し訳ないような気持ちもありました。
「おじさん、本当にあたしがここにいるって知ってて、少しの間ならここにいてもいいって思ってるのよね?」
「ええ、そうよ」
セシリアは自分の都合のいいように記憶のほうを改竄しておりましたので、おじさんはグレイスと話したがっていたのですが、その件については抹消して、彼は快く許可してくれた……というようにグレイスには伝えたのです。
「でも、もうすぐ夏休みって言っても、明日も学校があるし、家にも教科書なんかがあるもの。それを取りに戻るためにも、家には一度帰らなきゃ」
「学校なんて、もう何日もないじゃないの。それに次は五年生になるんでしょ?じゃあ、このままお休みしちゃってもいいんじゃない?それでもグレイスが学校へ行くっていうんなら、ママがジョンおじさんの家まで色々取りに行ってあげるわ」
「…………………」
セシリアがグレイスに家のほうへ帰って欲しくないらしいのは明らかでした。そこを強硬に押して『ううん、あたしは絶対おじさんの家のほうへ戻るのよ!』と言う気にもなれず、グレイスは黙りこみました。これが三年生の頃だったら、グレイスは「絶対学校へは行くわ!」と言って聞かなかったことでしょう。何故なら、自分が登校しないとメアリーがクラスでひとりぼっちになってしまうからです。けれど今、メアリーにはアーロンというボーイフレンドもいますし、女友だちということであれば、ベアトリスもいます。それでグレイスは、明日一日くらいなら休んでもいいかもしれないと思うことにしました。今日一日、色々なことがありすぎて、グレイスにしても疲れていたのです。
(でもこういう時……やっぱり頼りになるのはあたしにとっておじさんだわ。おじさんはいつもただ黙ってあたしの話を聞いてくれて、そのあと二言三言、いつも何かためになるようなことを言ってくださるのよ。おじさんに会いたいな……でも、もしそうしたらこの人たちはもう二度とあたしがここへは戻ってこないと思ってるんじゃないかしら)
「あのう……このこと、おじさんに電話で聞いてみてもいいですか?学校を休むとしたら、おじさんが連絡しなくちゃいけないことですし……」
「あら。学校へはママが電話するわよ。それに、グレイスはこれからここにずっといることになるんですもの。そしたら、学校にも色々と事情を説明しなくちゃいけなくなるでしょうしね。グレイスは何も心配することないわ。すべてパパとママに任せてくれさえしたら、何も不自由することなく、自分の好きなものに囲まれてこの屋敷で過ごすことが出来るのよ」
何故、ワズワース夫人がこの屋敷にいるのが物凄い特権であるかのような言い方をしたかといえば、当然理由があったでしょう。オリバー・ワズワースは大手広告会社のCEOであり、他に友人の会社の重役としても名を連ねていました。一年の収入は十億ドルを下りませんでしたから、夫妻の邸宅はそれは贅沢で豪華なものでした。こう言ってはなんですが、おじさん所有のペパーミント色の壁の家など、この豪壮なワズワース夫妻の屋敷に比べたら、掘っ立て小屋か犬小屋といったところだったに違いありません。
「でも、おじさん……」
そこまで言いかけて、グレイスはそれ以上何も言えなくなりました。(この人が、あたしの血の繋がった本当のお母さん……)そう思うと、グレイスはなんだか不思議でした。今でもグレイスにとってのママは交通事故で死んだレイチェル・グレイだけでした。けれど、女優かモデルのような綺麗なこの人がもし自分のお母さんなのだとしたら、この人の意見をよく聞かなくてはいけないのではないか――グレイスは突然そんな気がしてきて、何故かもじもじしたのです。
「おじさんがどうしたんだね?なんだったら、パパがおじさんをここへ連れてきてあげるから、その時に話したいことがあったら話したらどうだね?」
「あなた!!」
オリバーのほうでは、奥さまから鋭い視線と声を浴びせられても平気でした。何故なら、彼には目的があったからです。ジョンおじさんがここへやって来て、この六百万ドルかけた豪華な屋敷を見たとしたらば、ここへ姪を置いておくことこそ、グレイスにとって一番の幸福となるに違いないと確信するに違いなかったからです。
「本当に!?おじさん、本当にそうしてくださるの?」
グレイスの顔がパッと輝くのを見ると、セシリアは不満そうな顔をしました。『まったく、ずるい人ね、あなたって』と、あとで二人きりになったら言ってやらなくちゃと、セシリアはそう思ったほどです。
「ああ。だから、今日はもう安心してこの家で過ごしなさい。欲しいものがあったらなんでもパパか――」セシリアからの痛い視線を感じて、オリバーはくるりと奥さんのほうを振り返りました。「ママに言うといい。アマゾンに注文すれば、大抵のものが明日には届くからね」
「そうね!ほら、グレイス。まずはお洋服を新調しましょう。明日、デコラデパートあたりの子供服専門店にでもいきましょうよ。フィスやべべやプチバトーやセンスオブワンダーや……前からね、ママはそうした子供服のお店を見るたびに、グレイスのことを考えていたのよ。可愛いワンピースやスカートなんかを見るたびに、グレイスちゃんに似合いそうって、そんなふうに思ってね」
(あたし、スカートは着ない主義なの)とは、グレイスにはやっぱりいつものようには言えませんでした。そして、(この人はあたしのことを見てるんじゃないわ。七年も前に失った娘のオードリーのことを思って……生きていたら今こうだったとか、自分がママとしてこうしてあげてたのにとか、きっとそんなことでいっぱいなんだわ)と、そう思ったのです。
グレイスは暫くの間は、ワズワース夫妻のこうした要望につきあう必要があるのではないかと、漠然と直感しました。そして、夫妻が『オードリーにしてあげたかったあんなことやこんなこと』がある程度過ぎたら――オードリーではなく、娘としての今目の前にいるグレイスのことが見えはじめて、もしかしたらがっかりするかもしれない、とも……。
(でも、もしそうなったら、あたしは本当のあたしのことだけを見てくれるおじさんの元に戻ればいいっていうことだものね)
こうして、グレイスは短い親孝行と思って、ワズワース夫妻に少しの間つきあうことにしました。ですから、この翌日、学校を休んでデパートにいることに罪悪感を最初は覚えましたが、セシリアがあんまり生き生きとして幸せそうにしている顔を見ているうちに……そんな気持ちはすぐどっかへいってしまったかもしれません。
セシリアは服の値札も見ずに、着せ替え人形よろしくグレイスに色々な子供のブランド服を着せては、「あれがいいわ!」、「ううん、やっぱりこっちの色ね!」と、店の従業員と一緒にはしゃいでいたものです。グレイスはアリスやエリザベス、それにベアトリスもそうですが、彼女たちのようにファッションといったことにはあまり興味がありません。どちらかというと、デザインよりも動きやすさや機能性重視といった感じで、一番着ていてほっとするのは、実はすぐ破れてもいいような安い服だったのです。
グレイスは自分でそれと望んで、安い子供服ばかりの並ぶ店のほうで喜んで買い物をしました。おじさんはよく「そんな男の子みたいな格好で、ええもんかのう」と疑問を呈していましたが、グレイスはスポーティな格好をするのが好きな子でしたので、スカートを強要したりすることはそのうちやめました。最初のうちこそ、「ほれ、こういうヒラヒラしたものも一枚くらい買ったらいいんじゃないかね?」などと、勧めていたのですが。
けれどもこの時、グレイスはセシリアの意を汲んで、それこそ意のままになっていたかもしれません。時々値札を見てはびっくりしていたものの、屋敷の内装から察して、ワズワース夫妻にとってこのくらいははした金なのだろうということはわかっていましたから。
そのようなわけで、グレイスはほんの時々、「グレイスはどっちがいいの?」などと意見を求められた時だけ、「ううん。あたしはそっちの服よりこっちの色のほうが好きだわ」と軽く意見を述べるに留めておいたのです。
また、セシリアがこの日買ってくれたのは、服だけではありませんでした。靴やバッグやアクセサリーなど……屋敷まで帰ってきた時、グレイスは気を遣い通しでぐったりしましたが、夕食の手伝いもしなくていいですし、その上夏休みが近いため、宿題のようなものもありません。
(あーあ。なんか学校へ行くより疲れちゃったな……)
グレイスは、『疲れたなら、少しお昼寝なさい。ママもそうするから』とセシリアに言われ、自分の部屋に戻っていたのですが――新しい服や靴やバッグに囲まれていても、何故か心がまるで満たされませんでした。もちろん、ワズワース夫人はとても良い人です。お昼ごはんも美味しい高級レストランへ連れていってくれましたし、グレイスにはパパにもママにも不満な点など今のところ何ひとつとしてありませんでした。
けれども、なんと言うのでしょう。突然「血が繋がっている」と言われても、グレイスにはまず最初に実感が湧いてきませんでした。ただ、一目見て、ワズワース夫妻が自分に対し、並々ならぬ愛情を感じているということだけはわかっていました。けれど、彼らの気に入らないことや傷つけるようなことはしたくないと思ってはいるものの……おかしな話、グレイスにとっては今も、死んでしまったパパとママへの愛情のほうがよほど生き生きしていました。そしてそうした肉親に対する愛といったものはおじさんにそっくり受け継がれ、両親に対するものに関しては、他のパパとママにあげられるものはまったく残ってなく、そのままお墓の中で永遠に生き続けているような、グレイスとしてはそんなふうにしか感じられないことだったのです。
(おじさんに会いたいな。おじさんは、一体いつ来てくれるのかしら……)
グレイスは、おじさんが月に一度、年金が出た日かその翌日くらいにレストランへ連れていってくれるのがとても楽しみでした。それまで一度も食べたことのない日本食や中華料理やタイ料理など……そしてそうした日の夜には、日記でパパやママに話しかけるように、その日何を食べて美味しかったかということを書いたり、パパやママ、それにおじさんと自分で食卓を囲み、ごはんを食べる絵を描いたりしたものでした。
ワズワース家には通いのお手伝いさんが何人かいて、毎日美味しいおやつや食事を作ってくれるのですが、グレイスには何か物足りませんでした。これはセシリアの手料理が食べたいとか、そういうことではなく――おじさんが作ってくれるパンや、ラタトゥイユやパエリアやリゾット、グラタンなど……そうしたものは、世界中のレストランを探しても見出だせない、グレイスにとって特別な家庭の味だったのです。
アリスやエリザベスならば、こうした服を着て早速とばかり携帯で自撮りを開始したことでしょうが、グレイスはそうと自覚していないながらも、この時すでにこうしたワズワース夫妻の愛情を「重い」と感じはじめていたかもしれません。
唯一、広い家の中を探検したり、庭を散策するのは楽しかったのですが――グレイスの姿がちょっといなくなっただけでセシリアが病的な様子で心配するので、彼女のそうした気持ちがわかりながらもグレイスは……そうした血の繋がった母の態度を多少鬱陶しいと感じずにはいられなかったかもしれません。
もっとも、夫のオリバーのほうでそうした妻の神経症的な態度には素早く気づいていましたから、彼は娘にこう説明していました。「ママはね、グレイスを失ったあと、ショックで長い間半病人のようになっていたんだ。そして今、こうしてグレイスが戻ってきてくれて……嬉しい反面不安なんだよ。以前、突然子供のいる幸福を取り上げられたように、いつまたそんなふうにならないとも限らないと思って。だから、暫くの間はママのこと、我慢してあげておくれ」と……。
実際、セシリアは今も心療内科でカウンセリングを受けていましたので、オリバーはそのうち担当の精神科医に電話するつもりでいました。セシリアが慢性的な半鬱病になったのは娘を失ったそのせいでしたが、その娘が戻ってきて鬱病になった原因が解消された今……セシリアの態度にはどこか、躁うつ病的なものを思わせるところがありましたから。
つまり、グレイスが目の前にいる間は躁病的な態度でうきうきと喜んでいるのですが、夫の彼と二人きりになった途端、「でも、もしまたこんなことになったらどうしよう」とか「もう一度あの子を失ったりしたらわたしは死んでしまう」といったことばかり、夫がうんざりするまでぺらぺらしゃべり続けるのです。
正直、こうした状態の家庭に十歳の健康な子供を引き取るということが果たしていいことなのかどうか、オリバーは少し迷わぬでもありませんでした。けれども、同時に妻同様もう二度とグレイスのことを手放したくないという気持ちも強く……オリバーはいずれ、グレイスの慕うジョンおじさんに、こうしたすべてについて包み隠さず話す心積もりでいたのです。
実をいうとセシリアは以前は、料理も掃除も裁縫も好きという、主婦の鑑のような女性でした。ところが、娘のオードリーを失って以来、生きる力の衰えと同時に、料理や掃除どころか、自分の身のまわりのことについても一時期は一切構いつけなくなっていたほどでした。その後、心療内科へ通ううちに、少しずつですが社交性を取り戻すのと同時に、化粧をしたり新しく服を買ったり……というように、その部分は元に戻りましたが、料理や掃除、洗濯といったことは一切しなくなっていたのです。それは、『あの子がいないのに、美味しいものを作ったり部屋を綺麗にしたりして何になるだろう』という、心の鬱がそうさせたのですが、心の均衡がある程度回復しても、何かの後遺症のように家事をする<虚しさ>からは逃れられなかったのです。
(でも、グレイスが戻ってきたことで……セシリアはあの子に自分の手料理を食べさせてあげたいと、いずれ思うようになるだろう。そんなふうに少しずつ、あの子のいなかった時間を埋めていけたら――その頃には私たちも、きっと本物の家族になれているんじゃないだろうか)
ですが、オリバーはこうしたことを話すためにジョンおじさんのことを夕食に招いたはずなのに……実際におじさんが屋敷へやって来てみると、グレイスのはしゃぎようといったらどうだったでしょう!それまではただ、お人形のように行儀よくしていた子供が、まるで水を得た魚のように、よくしゃべること、しゃべること!言ってみればこの時、オリバーはジョンおじさんのそうしたある種の<パパ力>に嫉妬せずにいられませんでしたし、その力に圧倒されたのは何もオリバーばかりでなく、セシリアにしてもそうだったのでした。
>>続く。
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