【美しいお姫さまと一緒に巨人を倒す末っ子王子】カイ・ニールセン
今回は、↓のお話とはまったく関係ないものの……ノルウェーの民話「心臓を持たない巨人」のことでも、となんとなく思いました
~心臓を持たない巨人(花嫁を探しにいく6人の王子)~
リンクを貼らせていただいたのでm(_ _)m、物語はこちらのほうが当然詳しいのですが、このノルウェーの民話、自分的にオオカミが「知恵のあるいいやつ」であるところが、実はものすごくお気に入りだったりします
いえ、オオカミって童話世界において「悪いやなやつ」であるパターンが多いような気がするんですよね(^^;)。でも、「心臓を持たない巨人」においては、六人の上の兄王子たちと、彼らと結ばれるお姫さま六人を救うため、末の七男(なななん?笑)王子と、心臓のない巨人に囚われているお姫さまが活躍し、オオカミは王子さまにどうすればいいかと知恵を授けてくれる。
「心臓を持たない」せいで、決して倒すことの出来ない巨人。囚われの身のお姫さまは、巨人に何度も「心臓のありか」を聞き出そうとしますが、玄関の敷居の下、食器棚の中……などと嘘をつかれてはぐらかされますが、最終的に巨人の心臓が「湖の島の教会の中の池にある」と、お姫さまは聞き出すことに成功します。「教会の中の池にアヒルがいて、そのアヒルが持つ卵の中に自分の心臓は隠してある」と(なんてややこしく、手がこんでいるやら!笑)。
このことを聞いた七男王子アシェラッドは、オオカミの背に乗ると早速その教会へ向かいました。アシェラッドは旅の最初に、お腹をすかせたカラス→大鮭→オオカミ……といった順に食料をあげて助けていますが、巨人の心臓のある教会には鍵がかかっていた上、その鍵は高い塔の上にありました。途方に暮れるアシェラッドに、オオカミは「カラスに取らせればいい」と教えてくれます。ところがこの時、教会の池を泳ぐアヒルは、池の真ん中へ逃げていってしまい……それでもなんとかアヒルを捕まえたものの、今度は引き上げる時にアヒルの卵を池の中へ落としてしまいました。けれど、今度は大鮭を呼んで、水の中から卵を拾い上げてもらうことにしたわけです。
こうして七男王子アシェラッドは、巨人の心臓をギュッ☆として脅し、上の六人の兄王子たちと、その結婚相手の六人のお姫さまたちの石化を解かせることに成功し――言うまでもなく、このアシェラッドもまた巨人に囚われていたお姫さまと結ばれ、国へ帰って結婚すると、ずっとずっと幸せに暮らしたということです。。。
めでたし、めでたし♪
こういうお話、大好きです&挿絵画家のカイ・ニールセンも大好きです……といったところなのですが、この↓の小説に関していえば、第二部と第三部の最初のほうに、「蜘蛛のランペルシュツキィンと少女ウルスラ」と同じような、民話風というか、童話風のお話が出てきます
それではまた~!!
惑星シェイクスピア。-【51】-
ギベルネスは道がわからなくなるごと、行き交う人々の中で、誰か話しかけやすそうな人物を見つけては説明を求め――そうして、ようやくのことでメルガレス城砦の中で二番目に大きい通りまで戻って来ると、少しばかりほっとしていた。
仕立て屋街のあたりまで来た時にも、(ここまで来ればもう安心だ……)とそのように感じていたが、この時には通りすぎる人の群れの中、スリにあったりしないよう用心しつつ、心の中では鼻歌まで歌っていたほどだったかもしれない。
そしてこの時、ギベルネスは昨日昼食を食べた<ルキア食堂>の前で一度立ち止まった。というのも、今日お邪魔したモーステッセン家にて、最終的に会わなかったのは五女のルースと六女のフランシスのふたりきりだったからである。無論、だからとて何もわざわざ食堂でルースに話しかけ、『今、君んちに行って来た帰りなんだよ』などと報告する必要まではなかったに違いない。けれどギベルネスとしては、たまたま通りかかったのだし、ついでに少しばかり話してみてはどうかと、食堂の前でしばし迷っていたわけである。
「この泥棒ネコ!うちの店のメニューをまた偵察に来たんだね。そうは問屋がおろさないよ!!出ていきな。そして今後もう二度と絶対うちの食堂に顔を見せるんじゃないよっ」
中年女の金切り声が聞こえてきたのは、通りを挟んで斜め向かいにある<コリオレイナス食堂>からだった。店の前からは一時的に人垣が割れ、その部分だけ誰もいなかった――否、次の瞬間、ふたりの少女が突き飛ばされるような形でそこへ出てくる。
(おや……もしやあれは………)
ギベルネスはそう思い、通りの馬車や牛車やらが通りすぎる裂け目を縫い、さらには人の頭だらけの歩道部分に到着してからも、流れに逆らうようにして<コリオレイナス食堂>のほうへ向かった。その前に<ルキア食堂>のほうをちらと覗いて見ると、隅のステージのほうでは半裸とまでは言わないにせよ、それに近い格好の女性が妖艶なダンスを踊りはじめており――店のほうは酒飲み客ががやがや騒いでいる様子なのを彼は見て取っていた。
(良かった。いくら家計のためとはいえ、そこまでのことはしてないらしい……)
「まったくもう、何よ、あのババアっ!融通が利かないったら!!」
「でも、よく考えたらほんとにそうよ、ルース。道を挟んだライバル店なんだから、あの店のおかみさんが怒るのも無理ないわよ。あんた、<ルキア食堂>の昼間の看板娘みたいなものですものね」
「それとこれとは別じゃないのよお。仕事が終わってお外へ出たら、あたしだってただの一個客とかいうやつよ。それに、<コリオレイナス食堂>の従姉妹だか遠い親戚だかだのが、時々うちにやって来ることだってあるんだから。あれこそまさに偵察ってやつなんじゃないの?あのおかみさん、自分にそういう後ろ暗いところがあるからこそ、あたしの顔見ただけで鬼みたいな形相になったのよ。そうに決まってるわ!!……あら!?」
ヒステリー女の怒鳴り声によって一度出来た人波の隙間は、すぐにまた立錐の余地もないほど埋まっていった。今はちょうど、近くにある織工街から織人が帰宅する時刻でもあるため――尚のこと、昼間以上に混雑しているものと思われた。
「今、あなたのお宅に伺ってきた帰り道なんです」
「へえ……あたしたちのほうはね、これからちょっとだけ何かこっそり食べてその家のほうへ帰るとこなの!」
一度しか会ってないにも関わらず、ルースはギベルネスのことをよく覚えていた。というより、彼女には一度見た人物の顔を忘れないという特技があったのである。
「うちへ来たっていうことは……ウルスラ姉さんのお客さんってこと?」
絹の茶色、ということであれば別だが、ギベルネスがどう見ても最低ランクの布地――それも染める必要のない、修道僧が着ている質素な茶のローブを纏っているのを見、フランシスは疑問に感じたようだった。一方、彼女は宮廷で伯爵夫人の衣装係をしているだけあって、整った髪形をしており、なかなかに上等な絹地のドレスを着ていたのでる。
「いえ、お客はお客でも、何か服の注文といったことじゃありません。ただ、九女のダニエラちゃんだったかな……次に行く時、おやつやちょっとした食べ物を持っていく約束をしたものですから、どんなものなら子供は喜ぶのかと思いまして」
(あら!?)というように、フランシスは口許を押えていた。もっとも、その顔の表情と仕種に、どういった意味が隠されているのか、ギベルネスはまったく理解してなかったが。
「姉さん、またなのね」と、ルースが不満顔をして口を尖らせる。「なんでなのかしら。男物のズボンなんかはいたりして、全っ然女らしいとこなんかありゃしないのに、ウルスラ姉さんったらやたらモテるのよ。あたし、あの姉さんの『あんたたちがいるから、わたしはオチオチ結婚も出来やしない』って態度、大っ嫌い!!」
「いえ、私は何もそんな理由でおうちのほうをお訪ねしたわけでは……」
ギベルネスがこのふたりの姉妹間に横たわる誤解を解こうとした時のことだった。
「あんたたち、うちの店の前でそう長話されたんじゃ、こっちは商売上がったりだっ!イチャイチャ話したいことがあるんなら、どっか別のとこでやっとくんなっ!!」
コリオレイナス食堂から三軒ほど先にある雑貨店の主人は、そんなふうに怒鳴ると、「しっしっ!!」と犬を追い払うような仕種まで見せている。そこで三人は人波に押されるようにさらに先へ進むと、店先にいくつもカンテラの下がる、こみあった軽食屋のほうへ入ることになった。
<軽食屋エイヴォン>は、異邦人というのか、異星人であるギベルネスの目には、狭い空間を最大限に活かしたワインバーのような場所に見えた。人々はみな、長方形のカウンターやL字型のカウンターなどの前に座り、ほんのちょっと酒とともに、パンやチーズやマリネのようなもの、塩漬けニシン、ナッツ類、イチジクやザクロといったドライフルーツを立ったまま食べ、知りあいや友人らと世間話しては去ってゆく――何かそうした場所のようだった。
「ここ、安くてすみそうで、ちょうどいいわ」
一番隅の席がちょうど空いたのを見て、フランシスはすかさずそこへ突進するように走っていく。
「ああ、お金のほうは私が出しますよ」
「ええ~っ!?だったらもっと早くにそう言ってよお。そしたらもっと高級そうなお店に入ったのにィ」
ルースは、接客係の派手な女性にワインを頼むと、がっかりしたように溜息を着いている。
「ま、いいけどさ。っていうか、あなたみたいにお金なさそうな人にたかっちゃ可哀想だものね。で、どう?うち来てびっくりしたでしょ?大抵の男はウルスラ姉さんに気があっても、どこにも嫁に行く予定のない娘が後ろに九人もずらっと並んでるの見てビビッて逃げちゃうのよね。それに、そうじゃない男だっていたのに、そういう男のことは姉さん自身が『あなたの人生を犠牲に出来ない』だの言って追い返しちゃうしさ」
「そうよねえ。あたしもフランツと別れたばかりだし……そのこと言ったら姉さんたち、どんなにがっかりするかと思うと、来月にある聖ウルスラ祭まで黙ってようかと思うくらいよ」
フランシスもまた溜息を着いた。彼女が着いた溜息のほうは、恋に悩む乙女の、重いそれという違いがあったが。
「そんなのダメよ、フランシス。いずれどうせバレちゃうんだから……今年は馬上試合のトーナメントで、フランツはあなたのために戦ったりしないのよ。もしかしたら、他の乙女の何がしかを身に着けて戦って、その勝利の栄誉はその子のものになるかもしれないんだから。そのこと、もし前もって言ってなかったら、より自分を惨めに感じること請け合いよ」
「言わないでよ、それを!!」
どん!とフランシスがカウンターを叩くと、先客が残していったビールのコップや木皿が揺れた。近くにいた他の客たちも、一瞬だけこちらを見る。
「フランツはそんな人じゃないんだったら!きっと何かわけがあるんだわ。ほら、騎士団内には何かと問題があるってことは、あんたにも話したでしょ。急に……もう君とは結婚できなくなっただなんて、本当にひどい仕打ちだわ。それに、わたしがフランツと結婚したら、多少の援助は期待できるって、姉さんたちもほっとしてたはずよ。こんなこと、とても言えやしないわ!!」
「それでも言うのよ。なんだったら今日、帰ったら言っちまいなさいな。今、エール酒でもワインでもなんでも飲んで、軽く酔った勢いでそのまま言ってしまうのよ。そしたら姉さんたちも今日に限ってはガミガミ『お酒飲むようなお金がどこにあるの!』なんて言わないに違いないわ。ついこの間も、あんたが『フランツと別れたなんて姉さんに言えない』って言って、お酒だけガバガバ飲むから……あたしたち、叱られたばかりでしょ」
「そのフランツさんという方は、どのような方なのですか?」
(十人姉妹の中で、六女のフランシスが一番の有望株なのよ)とウルスラが言っていたのを、ギベルネスはもちろん覚えていた。これはどうやら、末の娘たちが喜びそうなお菓子のことを聞いているような場合ではないらしい。
「まあ、いい人っちゃいい人だけど、騎士って聞いてなかったら、あたしだったら目の前を素通りしちゃうような感じの人ね。どっかの誰かさんは恋で盲目になってるから、十人並みの容姿がより凛々しく格好良く見えるのかもしれないけど」
「そんなことないわ!フランツほど騎士としても、ひとりの男性としても素晴らしい人はいないんだから……ああ、わたしもう恋なんか絶対しないわ。だって、フランツ以上の人なんて、どう考えてもわたしの人生には現れっこないんですものね」
(ほーらね)と、呆れたような顔をして、ルースは肩を竦めている。彼女たちは注文した酒とナッツの乗った皿などが届くと、ルースはそれをボリボリ食べ、フランシスのほうではおいおい泣きながら酒だけを合間合間にごくごく飲んでいる。
このあと、ギベルネスは変にフランシスに慰めの言葉をかけるでもなく、どちらかというと彼女のことは放っておいて、ルースとだけ話をした。「毎日何時間くらい<ルキア食堂>で働いてるのか」ということや、「仕事のどんなところが大変か」といったような、そんな一般的世間話である。
「べつに、仕事のほうは大して苦じゃないのよ。ただ、今はまだ若いからいいけど、ずっといたらそのうち、『まだこんなショボい店で働いてんのか。俺がもらってやろうか』だの、変なからかい客をあしらうのが面倒くさくなってくるでしょ。かといってわたし、大して結婚願望なんかもないの。もしウルスラ姉さんの店が軌道に乗ったら……あたしもお針子として一生懸命働くつもりよ。でも、これから先どうなるかなんてわからないでしょ?そしたら、誰か適当な男とそれなりの結婚をして片付くしかなくなるかもしれないって思うと……なんか堪らないわよ、あたしの人生」
「あんたはウルスラ姉さんと一緒で、変に現実ばかり見すぎるのよ」
ポケットから取りだしたハンカチで涙をぬぐうと、軽く鼻も拭いて、フランシスはバッグの中へそれをしまいこむ。
「あら、そうかしら?」
「そうよ。恋は素晴らしいものよ。仮に失恋したとしても、経験しないよりはしたほうが絶対いいわ。フランツはね、きっとおうちでご家族の反対にあうか何かしたのよ。結局のところ別れるしかないなら、後腐れなくバッサリ切ったほうが……わたしのためになると思ったに違いないわ。ここのところ、何か深い悩みがあったらしいということは、わたしにしても感じてたことですものね。でも、本当に素晴らしい時間だったわ。こんなこと、あんたに言ってもわからないかもしれないけど、時間には二種類あるのよ。永遠に属するものと、それ以外の、生活に追われるだけの時間と二種類ね。そんなことも、フランツと恋人同士になって素晴らしい時を過ごさなかったら、この愚かなわたしは気づくこともない人生だったことでしょう」
「わかります」と、スパイス入り果実酒を飲みながら、ギベルネスが頷く。彼は、フランシスの失恋話を聞いた最初から、ずっと自分にとっての結婚するはずだった相手――クローディア・リメスのことだけを考えていたのだから。「もし愛する人と結ばれなくても、結婚できなかったとしても……かけがえなのない時間を共に過ごせただけで、それは本当に永遠に等しい価値を持つものですから」
もしこの場にギベルネスがいなくて、すぐ下の妹とだけ話していたのだったら――ルースはきっとこう言ったことだろう。「そうかしら?男との恋愛なんてやっぱりくだらないわよ」とか、「そんな暇があったら働いてお金を稼いだほうが、よっぽど時間の使い方としちゃ上等よ」とか、そんなふうに。
けれど、この時は違った。ルースにしても、彼の口振りから本当にそうなのだろうと、素直に頷くことが出来たのである。また、こうも思った。(なんだかこの人は、今までウルスラ姉さんがおつきあいしてきたどの人とも違うみたい)と。
「あら、じゃあギベルネさんも過去に何か悲しい恋を乗り越えた経験があるっていうことなの?」
「そうですね。あまり詳しくはお話できませんが、長く婚約していた女性と、ようやく来年あたり結婚しようかという頃……そう出来なくなってしまったんです。結局彼女はその後、家の経済的事情ということもあって、他の男性と結婚したと、そのように人づてに聞きました」
「かっ、可哀想、ギベルネさんっ……!!」
フランシスはポケットから二枚目のハンカチを取りだすと、溢れだす涙をレースの縁取りのあるそれで一生懸命ぬぐった。
「あなたがもしウルスラ姉さんのことを好きなら、わたし、全力で応援してよっ!ルース、あんたも今度ばかりは『あいつの顎の形が気に入らない』だの、『もみあげが長すぎる』だの、ケチをつけたりしないであたたかい目で見守ってあげるのよ。貧乏だとか、両親がもう死んでいないとか、身分違いだとか……そんなことで愛する恋人同士が結ばれないだなんて、本当に悲しいことね。うっうっ……ほんとに悲しい。こんなにひどい悲しいことが、人生にあるものかしら……」
このあと、結局ギベルネは酒代を自分の分しか支払わなかった。どうやら身なりその他からすっかり『貧乏人』であると姉妹に決めつけられてしまったらしく、「いいのよ。そのお金は姉さんとのデート代にでも使ってちょうだい」などと言われ、彼女たちは自分の食事代はそれぞれ自分で払っていた。
「あっ、それからギベルネさんっ!!」と、別れの挨拶のあと、フランシスは最後にくるりと振り返ってこう言った。「うちの末の娘たちはね、紐つきの練り菓子とか、砂糖漬けのさくらんぼなんかが大好きよ。べつに、我が家へ来るのにそんな口実なんかいらないし、お金を使う必要もないんだけれど、ダニエラもハンナもいやしんぼうさんだから、あなたが約束したことを決して忘れないでしょう。次に来る時一回だけ、そんな甘いお菓子を持ってきてくださいな」
「ありがとう。そうします」
フランシスとルースに向かって手を振ると、人波の中へ紛れていきながら、(ふたりとも、本当にいい娘さんだな)と、ギベルネスはあらためてそう思っていた。(彼女を振ったフランツというのがどれほどの男か知らないが、きっとのちにはあんなに良い女性を袖にしたことを後悔することになるだろう)とも。
ギベルネスはさらにこのあと、再び一度だけ道の方角がわからなくなったが、『怒れる牝牛亭』の場所を聞くと、「あ~あ!!」と、妙に訳知り顔で、その男は何度となく頷いていたものである。
「あのおっかねえ名物おかみのいるところだろ?ハハハッ。あんたもしかしてここメルガレスへ来て間もないのかい?そこの角のパン屋を曲がった通りへ出れば、左手に看板が見えてくるよ。旅籠屋のしるしの看板と、その上にのっかった、でかい牝牛の看板がね」
「ありがとうございます。助かりました」
確かに、その若い織工見習いの言ったとおりだった。というより、近くまでやって来てみると、(何故最初から自分はわからなかったのかな)とギベルネスは思ったくらいだった。角のパン屋はとっくに閉まっていたが、夜明け前からすでに準備にかかるらしいと、宿の二階の窓から見て、ギベルネスは知っていた。そして、ここのパン屋が人気店ということもあって、いかに美味しいかということも……。
(こちらでは、パンを売るにもギルドでの承認が必要だという話だったな。誰でも彼でも家で焼いたパンを売れるというわけではないのだ。それだけに、パン職人の作ったパンが一般家庭のそれよりも味が落ちるようでは看板に傷がつくという、そうした話らしい……)
ギベルネスにしても、パンを焼くのがいかに難しいかをこれまでの間、色々な家庭の食卓を覗き見て知っているつもりだった。ギベルネスの出身惑星ロッシーニでは、それはベーキングパウダーでも代用が可能となるが、ここシェイクスピアではパン種の問題なのである。このふくらし粉とも呼ばれる酵母(イースト)菌は、今の時代では「何故かわからないがそれを入れると膨らむ」というくらいにしか理解されていない。ゆえに、パン屋ごとにそれぞれ親方から引き継いだ秘伝の方法があり、これをもし盗まれたとすれば――パン屋の誇りを汚されたとして、大喧嘩になるどころか、殺し合いに発展するくらいであったろうことは想像に難くない。
だが、ギベルネスはのちに、東王朝においては非常に優れた天然酵母が存在し、それを使うと安定してパンが膨らむだけでなく大変美味しく、さらに保存の日持ちまでするという素晴らしいイースト菌が存在するということを……のちに知るということになるのであった。
>>続く。